早春の矢――綾寧448年
囁石の報せから二日後、『門』は閉じたという報告が本家へ上がった。
その朝、屋敷から見える空はよく晴れていた。
春の光はやわらかく、庭の木々は青葉を濃くしはじめている。
雨の気配も、雪の名残もない。風が渡れば葉の裏が白く返り、池の面へ光が細かく散った。
廊を行き来する女房たちの足取りも軽く、下働きの者は冬のあいだ閉ざしがちだった戸を開け、湿りの抜けた空気を屋敷の奥へ入れていた。
けれど、詰所の方から来た取次役の顔を見たとき、愛護は胸の内側がひやりとした。
『門』は閉じた。
禍滲は討たれた。
そう聞けば、本来なら安堵するべきなのだろう。
実際、廊の端でそれを聞いた若い侍女は小さく息をつき、近くにいた女房も、よかった、と口の中だけで呟いた。
屋敷から兵を出す規模ではなかったと最初から聞かされていたし、『門』が広がることもなかった。
風斎本家そのものに危難は及ばなかった。
だから、終わったのだと、大人たちは思う。
愛護も、終わったのだと思おうとした。
だが、小堂から戻る道で聞いた囁石の響きが耳の奥にまだ残っていた。
遠方。風斎領の端。妻鳥領との境。
その言葉を聞いたとき、木立の向こうには何も見えなかった。
春の山は静かで、鳥が鳴いていて、土は少しぬかるんでいるだけだった。
その静けさの向こうで、誰かが走っていた。
誰かが戦っていた。
愛護は、朝凪を探した。
朝凪は奥向きへ上がる前、控えの間にいた。
いつも通りの顔で女房からその日の予定を受け取り、供回りの時刻を確かめている。
報せを聞いていないはずはない。けれどその横顔に動揺はなかった。
愛護は近づき、声を落とした。
「朝凪、『門』は閉じたの?」
「はい。今朝ほど、確報が上がりました」
「どこだったの。どのくらいの『門』だったの」
朝凪はそこで少しだけ目を伏せた。
「風斎領の北東、妻鳥領との境に近い山裾にございます。規模は、中ほどと聞いております」
「けがをした人は」
朝凪はすぐに答えなかった。
その沈黙で、愛護は、踏み込んではならないところへ足をかけたのだと分かった。
だが、もう引けなかった。『門』が閉じたという一語で終わらせるには、あの日の山道で考えたものが多すぎた。
「死んだ人は、いるの」
「姫様」
朝凪の声は、叱るものではなかった。だが、柔らかくもなかった。
「そのことを私の口から申し上げるわけにはまいりません」
「どうして」
責めた声になった。
朝凪は表情を変えなかった。ただ、言葉を選ぶ間だけ目を伏せた。
「姫様がお知りになるべきか、いつ、どこまでお伝えするべきか。それは私の分を越えております」
それは拒絶ではなかった。隠すための答えでもない。
朝凪は線を引いている。その線の内側でなら、愛護の足元も、衣の乱れも、供えの皿の向きも、山道での呼吸の浅さも見てくれる。
けれど、風斎の『門』の被害を姫にどこまで見せるかは、側付きが決めてよいことではない。
愛護は少し唇を引き結んだ。
「じゃあ、父様に訊く」
「それがよろしいかと存じます」
その返事があまりに静かだったので、愛護は少しだけ心細くなった。
だが訊かずにいれば、また遠いという言葉だけが残る。
遠いから大丈夫。ここには来ないから大丈夫。
そのままにしておく方が、もう落ち着かなかった。
当主の座敷には、すでに報告が広げられていた。
父は文机の前に座している。脇には右筆が控え、少し離れたところに詰方の者が膝をついていた。畳の上には地図が置かれ、その上に小さな重しがいくつか据えられている。
愛護が入ると、右筆が顔を伏せ、詰方の者も姿勢を正した。
「愛護」
父の声は、いつもより低かった。
愛護は膝をつき、手を揃えた。
「父様。この前の『門』のことを、教えてください」
座敷の空気が、わずかに止まった。
父は愛護を見た。叱る顔ではなかった。だが、すぐに頷く顔でもない。
子どもが怖いもの見たさで覗き込もうとしているのか、それとも風斎の姫として知ろうとしているのか、それを見極めようとしている目だった。
愛護は逃げなかった。
「朝凪に訊いたら、父様がお決めになることだと言われました。だから、父様に訊きに来ました」
父は長く息を置いた。
「もうじき、十三になるな」
愛護は頷いた。誕生日だけではない。裳着も近い。屋敷ではすでに祝いの支度が始まっている。女房たちは衣を改め、母は儀礼の段取りを確かめ、父もまた、時折愛護を見る目を、愛娘への目から次代を見るものへとと変えるようになった。
「好奇で死者の数を知りたいと言うなら、退ける。けれど、お前が風斎の姫として守られた土地の痛みを知りたいと言うなら、止めることではない」
父は控えていた者へ目をやった。
「地図を」
ほどなくして、広げられた地図が畳の上に置かれた。
愛護は、それまで地図を美しいものだと思っていた。
川の線、山の重なり、道の細い筋、領の境を示す色。父の仕事場で見る地図は、国や家がどう広がっているかを示すものだった。
その日、地図の上には、死が置かれた。
父はまず場所を示した。風斎領の北東。妻鳥領へ抜ける山道の手前。番屋と小さな集落が近くにあり、荷の通りもある。
『門』が開いたのは、道から少し外れた斜面だった。
最初に見たのは、囁石の鳴動とほぼ時を同じくして山から戻る途中だった荷方だったという。荷方は馬を捨て、番屋へ走った。
「『門』は中規模。開いた時刻は申の下り。風斎側の詰所が先に動き、妻鳥側からも兵が合流した」
父の指が、地図の上を動く。
「禍滲は道へ下りかけた。集落へ入る前に押し返したが、畑は荒れた。家屋の損壊は三。火は上がらなかった。民の死者はない」
愛護はそこで小さく息を吐いた。
父は続けた。
「負傷者は、民が六。兵が十一。うち重い者が四」
「重い、というのは」
「腕を落とした者が一人。足を潰された者が一人。目を傷めた者が一人。腹を裂かれ、まだ予断を許さぬ者が一人」
愛護の指先が冷えた。
腕。
足。
目。
腹。
言葉だけなのに、体のどこかがそこだけ暗くなるようだった。
「死者は」
父は、愛護の顔を見てから言った。
「風斎が三。妻鳥が二」
畳の上に、数字が落ちた。
五。
愛護はその数を知っている。五つの菓子。五枚の札。五人の女房。何度も数えたことのある、ありふれた数だった。
けれどその日、父の口から出た五は、愛護の知っている五ではなかった。
「風斎の一人は番屋の古参だ。民を道から退かせるため、最後まで残った。もう一人は若い兵で、『門』の前で禍滲の足を止めた。三人目は、報せを持って戻る途中で襲われた荷方を庇った」
父は声を荒げなかった。淡々としていた。淡々としているからこそ、そこに置かれたものは動かなかった。
「妻鳥の二人は、合流した前衛だ。『門』を閉じるまで押し返した。片方はその場で、もう片方は夜半に息を引き取った」
愛護は地図を見た。
そこには山の線があるだけだった。道があり、番屋があり、集落を示す小さな印がある。
人の顔はない。声もない。だがその印のそばで、誰かが最後まで残った。誰かが『門』の前に立った。誰かが報せを守った。
あの日、戦うために走った人たち。
今日、もう、いない人たち。
胃の奥が冷えて、喉がきゅっと狭くなった。
けれど愛護は顔を上げた。父はまだ見ている。
これ以上はよい、と言われるかもしれない。その方が楽だとも思った。
でもここで終われば、愛護はただ怖がっただけになる。
「続けてください」
声は少し掠れた。
「愛護は、聞きたいです」
父はしばらく黙っていた。
やがて、地図の端へ置いていた紙束を取った。
「では、ここからは報告を見る。分からぬ言葉があれば訊け」
それからしばらく、愛護は父のそばについた。
毎日ではない。だが、『門』の後始末に関わる報告が上がる時には呼ばれるようになった。
父の座敷には右筆が控え、詰方の者が兵の入れ替えを告げ、勘定方が米や薬、白布の数を読み上げた。
取次役は戦死者の家へ人を遣る日取りを確かめ、負傷者の戻り先を伝えた。
愛護は、黙って聞いていた。
父は判断した。誰をどこへ回すか。どの家へ誰を遣るか。妻鳥側へ礼をどう返すか。番屋の修繕をどの順に行うか。戦死者の家へは誰が赴くか。
右筆の筆が紙を走る音を、愛護は何度も聞いた。
筆は静かだった。
人が死んだことも、腕を落としたことも、米を運ぶことも、炭を足すことも、すべて同じように紙の上へ置かれていく。
けれど同じではない。紙の向こうには、それぞれ別の人がいる。
『門』が閉じても、仕事は終わらない。むしろ、閉じてからの方が人の名は増える。
負傷者の名。家族の名。足りない物の名。帰らない者の名。誰かが一度読み上げ、右筆が控え、父が短く問い、また次の紙が出る。
紙の上で物事が進んでいくことに、愛護は少し息苦しくなった。
死んだ人のことを、こんなふうに淡々と進めていいのだろうかと思った。
だが、淡々と進めなければ、残った人へ米も薬も届かない。
香も白布も用意されない。番屋の兵も替わらない。次の『門』が開いた時、別の誰かが困る。
ある夕方、父は右筆が下がったあと、愛護へ言った。
「悲しむことと、手を動かすことは同じだ」
愛護は、畳の目を見ていた。
「悲しいまま、動くのですか」
「そうだ」
父は短く答えた。
「止まることだけが弔いではない」
その言葉は、愛護の胸の底へ沈んだ。
すぐに分かるものではなかった。けれど、分からないままでも忘れてはいけない言葉だと思った。
■■
綾の稽古は、その日々の中でも続いた。
訓練場の土はまだ朝の湿りを残している。
庭の梅は散りはじめ、早咲きの桜の蕾がふくらむ頃だった。
愛護は手にした弓の重さを確かめる。弦はまだ硬い。指に残る痛みも消えない。
綾の訓練を始めた頃、愛護は短刀を持つだけで腰が引けていた。
刃の重みも、手元に集める綾の感触も、自分が何か危ないものを持っているという事実も怖かった。
あの頃から、稽古役たちは少しずつ現物の武具にも触れさせた。
短刀だけでなく、刀、長刀、槍、弓。武家の子として、何が自分の体に合うかを知らねばならないからだ。
刀は手元の乱れがすぐ刃先へ出た。長刀は扱いきれず、槍は間合いを掴む前に体が遅れる。
弓だけは、少し違った。
弦を引く時、力だけではないものが要る。肩を落とし、息を整え、的の中心を見る。
けれど、中心だけを見すぎると手が固くなる。風の流れ、足の置き方、自分と的との距離。
そういうものが、一本の線へ少しずつ集まっていく。
風斎の綾は、距離や認識を揺らすことに長けている。
弓を扱う時には、その揺らぎを自分の内側で整えなければならなかった。
逸らすために知る。迷わせるために測る。見失わせるために、まず自分が見失わない。
矢は、まだよく外れた。
的の手前で落ちることもある。届いても、紙の外へ逸れることもある。
稽古役は叱らないが、褒めもしない。
愛護は悔しくて、何度も弦を引いた。指が痛くなり、腕が震え、肩が重くなる。
朝凪は稽古場の端に控え、必要な時だけ水を差し出した。
その日、愛護は初めて、綾で矢を織った。
掌ではなく、弦に寄せる。空気の中を流れるものを掬い、細くまとめ、矢の形へ寄せる。
刀のように手元へ固めるより難しい。
少しでも乱れれば、矢羽の形が曖昧になり、先がぼける。
愛護は息を止めかけ、朝凪に低く注意された。
「呼吸を止めすぎておいでです」
「……ん」
「内が滞れば綾の流れも止まります」
愛護は少しだけ息を吐いた。
弦を引く。綾の矢は、まだ細い。頼りない。けれど、そこに矢としての形がある。
指を離した瞬間、矢は飛ぶ。まっすぐではない。少し右へ流れ、的の端へ刺さった。
中心ではない。
けれど、刺さった。
稽古場の空気が、ほんの少し動いた。稽古役が頷く。朝凪も、視線を的へ置いたまま静かに言った。
「矢として通っております」
「端っこだよ」
「端でも、届いております」
愛護は、的の端に刺さった細い矢を見た。
もし、この矢がもっと遠くまで届いたら。
もし、北の沢筋まで届いたら。
もし、誰かが民を逃がすまでの間、禍滲の足を少しでも止められたら。
助けられる人がいるのだろうか。
そう思った瞬間、的はただの的ではなくなった。
白い紙の向こうに、地図の沢筋が重なる。
番屋。橋。荷を引く者。戻らなかった若い兵。道を塞いだ古参の兵。『門』前で倒れた妻鳥の者。
「姫様」
朝凪の声で、愛護は我に返った。
「弓手が下がっております。続けるなら、まず姿勢をお戻しください」
愛護は慌てて頷いた。
「うん。続ける」
その日、愛護の矢は的の真中には一度も刺さらなかった。
それでも、端には三度届いた。
■■
十三の祝いの日、屋敷には朝から祝いの気配が満ちた。
女房たちはいつもより少し華やいだ声で動き、母の部屋には新しい衣が整えられた。
裳着の支度も近く、すべてが誕生日だけのものではない。
子どもから少しずつ別の場所へ移る節目として、家中が愛護を見ている。
父からは、短い言葉をもらった。
健やかに育ったこと。風斎の姫として、これから学ぶべきものが増えること。守られるだけではなく、いずれ守る側へ立つこと。
愛護はいつもより深く頭を下げた。
祝いの膳は華やかだった。菓子も用意された。花の形に整えられたもの、青葉を模したもの、白くやわらかな餅菓子。
女房たちは嬉しそうに笑い、侍女たちは愛護の髪飾りを褒めた。母も穏やかに笑っていた。
生きて育つことを、家中が祝っている。
そのあたたかさは、確かに嬉しかった。
嬉しいのに、ふとした拍子に『門』の死者の名が書かれた紙を思い出す。
帰らない人たち。残された家。弔慰の日取り。父の低い声。
その同じ屋敷で、今日は愛護の成長を祝っている。
それは悪いことではないのだろう。むしろ、きっと大事なことなのだろう。
人が死んでも、生きている者は祝い、食べ、眠り、また次の朝を迎える。
分かるけれど、胸の中でその二つがうまく並ばなかった。
けれど、その気持ちを表へ出すことはしなかった。
祝いは祝いだ。自分が十三になったことを喜んでくれる人々の前で、悲しげな顔をし続けるのは違う。
愛護はそう思い、できるだけきちんと笑った。
■■
翌日、山の家へ持っていく分の祝い菓子は例年通り朝凪が整えた。
小堂へ供える分と、下げて持つ分。包みの形は自然で、誰が見ても姫が小堂へ祝い事の供えを持っていく支度に見える。
愛護はそれを見て、少しだけ胸が軽くなった。
出発の時、玄冬はいなかった。
それだけで、愛護はほんの少し息をついた。
来れば来たで、玄冬はいつものように短い言葉だけを置いただろう。足もとを。戻りの刻を。山道にお気をつけて。
どれもおかしくない言葉なのに、今の愛護にはその下に別の気配があるようで落ち着かなかった。
小堂では、きちんと供えをした。
皿を拭き、古い花を下げ、祝い菓子を置き、手を合わせる。
自分の祝いの名残を戦で死んだ風斎の者たちの堂へ供えることが、今年は少し違って感じられた。
名前を知らない人たち。けれど、誰かを守って死んだ人たち。
愛護は、いつもより長く手を合わせた。
そこから先、朝凪はいつものように道を選んだ。
春先の山は、冬の硬さをまだ残していた。
枝はところどころ裸で、足元の草だけが先に青みを帯びている。
道の湿りは浅いが、日陰の土はまだ冷えを持つ。
愛護は祝いの翌日で少し浮き立っていたが、足は慎重だった。
以前なら喜びに押されて先へ出たところである。今は、裾の動きや草履の沈みに気を配っている。
朝凪はその半歩後ろを歩いた。
玄冬との交渉から、山の道は織り替え続けている。小堂の周囲に残す形も変えた。
だが、これで足りると思ったことは一度もない。守るとは、足りないものを数え続けることだった。
山の家へ着くと、美菊は座敷の側にいた。
火鉢の前ではなく、庭の見える障子の近くだった。
小さな机に本を伏せ、湯呑を脇へ避けている。以前のように戸口まで出ることはない。だが、隠れきっているわけでもない。
その位置をどう見るかは、見る者の側の事情による。朝凪はそれを一瞥し、余計な感慨を捨てた。
愛護はそれを見ても、何も言わなかった。
十三になったからといって、顔が急に巧くなるわけではない。だが、何を口にすべきでないかは少しずつ覚えている。
美菊は目を細めて微かに微笑んだ。
「ひめさま。お誕生日、おめでとうございます」
愛護の顔がほころんだ。
「ありがとう、あにさま。今年もね、祝い菓子持ってきたよ」
祝い菓子は、淡い紅と白を重ねたものだった。
早春の花を写したのだと、奥の菓子職人が言っていた。
屋敷の皿で見れば華やかだが、山の家の小皿へ移すと少しだけ静かな色になる。
愛護はそれを嬉しそうに眺めた。
はじめは、明るい話をした。
十三の祝いのこと。母が選んでくれた衣のこと。女房たちが髪を褒めたこと。父が少し難しい顔で祝いの言葉をくれたこと。綾の弓が、的の端へ刺さったこと。
美菊は、どれも静かに聞いた。
朝凪は、台所の近くで湯を用意しながら二人の声を聞いていた。
愛護の声は屋敷にいる時より柔らかい。山の家では、姫として整えた声が少しほどける。けれど、以前ほどただ浮き立ってはいなかった。言葉の間にときどき別のものが沈む。
美菊も気づいたのだろう。
「ひめさま」
やわらかく呼んだ。
「今日は、少しお疲れですか」
愛護は黙った。
朝凪は愛護の視線の落ち方を見ていた。菓子を見る。美菊を見る。自分の手を見る。言葉がそこで沈む。
何かを言おうとしながら言葉が見つからず、胸の中の重さだけを出そうとしている顔だった。
「少し前、『門』が開いたの」
愛護は小さく言った。
「たくさん、けがをした人がいた。死んだ人もいた」
美菊は、すぐに言葉を返さなかった。
愛護は膝の上で手を握った。
「愛護が知らないところで、みんなを守って、消えちゃう人がいるの。父様のところで、そういう報せを見た。名前があって、家があって、でも、もう帰ってこないの」
愛護の横顔は、泣きそうではなかった。もっと悪い。泣くところまで気持ちが追いついていない顔だった。
悲しい。やるせない。けれど、それをどう扱えばいいのか分からない。そんな顔だった。
美菊が、そっと手を伸ばした。
愛護の頭に触れる。慣れた手つきではない。侍女が愛護の髪の乱れを直す時のような迷いのない動きとは違う。少し考えて、こわごわと置くような手だった。
それでも、愛護はその手が触れた瞬間、堪えていたものを少しだけ緩めた。
「かなしい」
小さな声だった。
「はい」
「こわいの」
「はい」
「父様は、悲しいまま動くって言った。でも、愛護はまだ、うまくできない」
愛護は顔を伏せた。そのまま、美菊の袖を掴む。美菊は止めなかった。むしろ、掴みやすいようにほんの少し腕を下げた。
朝凪は、何も言わずに見ていた。
美菊は人に触れるのが上手いわけではない。慰め方を多く知っているわけでもない。けれど、膝を寄せられ、肩に額を預けられ、それを全て受け止める。
愛護は、そこでようやく子どもの声になった。
「あにさま」
愛護の声は、布に少し吸われていた。
「いなくならないでね」
朝凪の胸の奥が、冷えた。
美菊の手も、一瞬だけ止まった。
愛護は気づかない。
「ずっと元気でいてね。愛護をおいていかないでね」
美菊は、すぐには答えなかった。
答えられるはずがない。
朝凪はその横顔を見た。美菊の顔は静かだった。愛護の頭に置いた手も、止まらない。ぎこちないまま、ゆっくり撫で続けている。
だが、その手の内側にどれほどの痛みがあるかを、朝凪は知っていた。
美菊は愛護を置いて死ぬ。終わりはもう足元まで来ている。
愛護はそれを知らない。知らずに、いなくならないでと願う。
置いていかないでと、妹の声で願う。
「山の家なら、大丈夫だよね」
愛護は、少しだけ顔を上げた。
朝凪は息を止めた。
「朝凪が守ってくれるから。あにさまは、ここにいたら大丈夫だよね」
その言葉は、朝凪へ向けられた信頼だった。
愛護は、守った者たちが死んだことを知った。民を逃がすために戻った兵が帰らなかったことも、道を塞いだ者が倒れたことも、父の口から聞いた。
それでも、朝凪については別なのだ。
朝凪は守る人で、強くて、山の家を隠して、愛護を滑らせずに掴み、道を選び、何でもどうにかしてくれる。
その幼いまっすぐな信頼が、朝凪には今、ひどく重かった。
最後の日、朝凪は守る者ではない。
美菊を選ぶ。
美菊を連れていく。
死の待つ場所へ。
美菊は朝凪を見なかった。愛護の髪に指を置いたまま、静かに答えた。
「朝凪は、そばにいてくれます」
「……うん」
愛護は、それで少し落ち着いた。
菓子をひとつ食べ、甘いと言った。祝いの日の菓子だからいつものより少し丁寧に作られているのだと説明した。けれど、話の途中でまた黙る。美菊は急かさない。
朝凪は何も言わなかった。それが逃げだとわかっていた。
帰る刻が近づいた。
愛護は名残惜しそうに美菊から離れ、袖で目元を押さえた。泣いていないと言いたげな顔だったが、目は少し赤い。朝凪はそれを見て、屋敷へ戻るまでに赤みが退くよう歩く速さを考えた。
「姫様、お戻りの支度を」
「うん」
立ち上がった愛護は、ふと袖口を見た。
「あ、紐が」
山の家へ来る途中、青葉の枝に触れたのだろう。袖を留めていた細い括り紐が片方ゆるみ、長く垂れていた。
歩くには支障はない。けれどこのまま戻れば女房の目に留まる。痕跡としては小さすぎるが、余計なものは残さない方がよい。
「直します」
朝凪が言うと、愛護は首を振った。
「これくらい自分でできるよ。奥、借りてもいい?」
美菊が頷いた。
「はい。そちらを」
愛護は小さな包みを置き、奥の部屋へ入った。戸は閉めきらない。衣擦れと、紐を解いて整える小さな音が聞こえる。
そのわずかな間、座敷には朝凪と美菊だけが残った。
美菊は愛護が座っていた場所を見ていた。祝い菓子の小さな欠片が皿に残っている。愛護が最後に小さく切り、あにさまもっと食べて、と寄せたものだ。
「ひめさまは」
美菊が静かに言った。
「よい姫になりますね」
朝凪はすぐには答えなかった。
愛護はよく育っている。父の座敷で死者の報告を聞き、弓を取り、山の家では兄に縋る。弱く、幼く、それでも逃げない。
いずれ風斎を継ぐ者として立つだけのものが、少しずつ形になっている。
だが、いずれは来ない。
「なるだろうな」
ようやく答えた声は、思ったより低かった。
美菊は朝凪を見た。
「朝凪」
「何だ」
美菊の手が、少しだけ伸びた。朝凪の袖を掴む。強くはない。
愛護が先ほど美菊にしたのと、どこか似た動きだった。力はずっと弱い。けれど離す気がない指だった。
白い指。細く、血色が薄い。愛護を撫でていた手。予言を告げる時に冷える手。最後の日、自分が取ると決めている手。
朝凪はその手を掬った。
「お前は、俺が連れていく」
美菊は瞬きをしたあと、静かに頷いた。
「はい」
「最後まで」
「はい」
それ以上は言わなかった。
約束ではない。願いでもない。二人の中では、もう決まっていることだった。
愛護に置いていかないでと言われた直後に、それでも美菊だけは連れてゆくと確かめる。
その残酷さを、朝凪は分かっていた。
奥から愛護の声がした。
「朝凪、できた!」
奥で衣擦れの音が戻ってくる。
朝凪は美菊の手を離した。美菊も何事もなかったように袖を整える。
すぐに愛護が衝立の向こうから顔を出した。紐はきちんと結び直され、袖口も整っている。顔も少し落ち着いていた。
「変じゃない?」
「乱れておりません」
朝凪が答えると、愛護はほっとしたように笑った。
「じゃあ、帰る」
愛護は美菊の前でもう一度膝をつき、名残惜しそうに手を伸ばした。
美菊はその手に自分の指をそっと重ねる。
「また来るね」
「はい。お待ちしております」
「元気でいてね」
美菊は一拍だけ置いて、微笑んだ。
「はい」
戸を開けると、外の空気はまだ春のはじめの冷たさを残していた。
山道は、来た時より少し乾いている。風が葉を揺らし、木漏れ日が土の上で動いた。
愛護は一度だけ家を振り返った。それから前を向く。
朝凪は、その半歩後ろについた。袖の紐はもう乱れていない。裾も汚れていない。小堂へ戻り、供えの前を通り、東屋の者たちと合流し、屋敷へ帰る。いつもの段取りへ戻るだけだ。
愛護の足取りは、来た時より少し重かった。
それでも、歩いていた。
十三になった小さな姫は、死を少しだけ近くに知った。けれど、それが美菊の足元にもあることは知らない。風斎全体の上へ、すでに同じ影がかかっていることも知らない。
知らないまま、春浅い山道を下っていく。
朝凪は、その背を守る位置で歩いた。
いつか裏切るとわかっていながら。




