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愛及屋烏花軍  作者: 司馬示朗
◾️花晨月夕──風斎の章
34/45

春泥――綾寧448年

玄冬は、冬のあいだ山へ入らなかった。


入れなかったのではない。

小堂の脇から奥へ折れる道は、もう知っている。見えているはずの家が、家として定まらなくなる境も知っている。

足は進んでいるのに、近づいている感じだけが抜け落ちる場所も覚えていた。

風斎の綾を扱う者なら、一度踏んだ迷いの筋をまったく読めないということはない。

だが、同じ道がそのまま残っているとは思わなかった。

朝凪は必ず織り替えている。

あの男は、そうする。


玄冬は文机の上に置いた古い記録へ目を落とした。

一冬かけ、調べられるものは調べた。天宿りの控え。能力と代償についての古い書付。禍滲と混同された出生譚。

人の胎から生まれながら人でないものとされた赤子の話。

災いを口にする子、長く生きない子、名を与えられぬまま処分された子。


――件。


紙の上に残されたその名は、多くの場合禍滲の一種として扱われていた。

奇妙な色を持って生まれ、赤子の声で災いを告げる。告げた災いは必ず起こる。長く生きず、すぐに死ぬ。そう書かれていた。

玄冬は、その行を何度も読んだ。


長く生きないのではない。

長く生きることを、誰も許さなかったのだ。


民なら、仕方がなかったかもしれない。理を知らぬ者が恐れるのは当然だった。

産声の代わりに災いを告げ、あるべき色を持たぬ赤子を見れば、禍滲の仔だと思う者もいただろう。

怖れ、忌み、遠ざける。

正しいとは言わない。だが、その恐怖の出どころは分かる。


けれど武家は違う。

風斎は、調べるべきだった。


あの夜、玄冬たちは調べなかった。

調べる前に、死産とした。


あの時の判断に理はあった。主を責めきることもできない。

生まれたばかりで風斎の滅びを告げ、風斎の色を持たない赤子を前に、家を守るために切られた判断だった。

玄冬もまた、正しいと思った。

だが、理があったことと、罪でないことは違う。


玄冬は記録を閉じた。


当主へ上げるべきだという考えは、この冬のあいだ幾度も浮かんだ。

死産とされた長子が生きている。

しかも、風斎の滅びを告げたのは天宿りの力である。

臣下ひとりが抱えてよいものではない。


だが、上げればどうなる。

当主は、すぐに信じるか。信じたとして、十七年前の己の命と向き合わねばならない。

奥方へどう告げる。愛護へどう届く。

嫡子の死を前提に積み上げられた家の形は、どこから裂ける。


――そして、朝凪がどう動く。


玄冬は、山の家の綾を思い出した。


あれは防壁ではなかった。誰かを弾き返すものではなく、人を直接害するものでもない。

綾は識島の人間を傷つけない。たとえ刃の形に織っても、人の肉を裂くことはできない。

あの家を守る綾も、当然誰かを殺すようには織られていなかった。


その代わり、異常なほど細かかった。

一つ一つは些細である。足の向きがわずかに逸れる。戻る理由が生まれる。目に入った屋根を、家だと確かめる気が薄れる。

誰かへ報せるために言葉にしようとすると、小堂までの道だけが鮮明になり、その奥が少し曇る。

強く進めば突破できる。だが突破するには、いくつもの薄い層を、意識して踏み破らねばならない。

それが執拗に重ねられていた。

偏執的と言ってよかった。


なぜ、あそこまで入れ込むのか。

玄冬には分からなかった。

朝凪と美菊の間に、何があったのか。

どういう日々が積み重なれば、あれほど緻密で息苦しいほどの綾を、ひとりのために織り続けるのか。

親代わりというだけでは片づかない。忠義ではない。憐憫でも足りない。

分からない。

分からないから不気味だった。


ただ一つだけ確かなことがある。

あれは、朝凪の逆鱗だ。

美菊を害せば、朝凪は敵に回る。


家内にあの刃を潜ませるのは厄介すぎる。

身分は高くない。年も若い。

だが、屋敷の中で目立たず、誰にも警戒されず、必要な時だけ位置をずらせる。

風斎の綾であの精度を出せる者が、本気で内側を乱せばどうなる。

識島は戦時下だ。内輪で刃を向け合う余裕などない。


玄冬は、呼びに出した者が膝をつく気配を聞いた。


「入れ」


襖が開く。

朝凪は、いつも通りだった。

膝をつき、深く頭を下げる。

若い武家として隙がなく、姫付きとして過不足のない礼である。

その静かな様が玄冬にはかえって不穏に見えた。


「朝凪にございます」

「面を上げよ」


朝凪が顔を上げる。

その目には怯えがなかった。怒りも、表にはない。

あるのは、相手の札を一枚ずつ読む者の静けさだけだった。

玄冬は前置きを省いた。


「今すぐ当主へは上げぬ」


朝凪は瞬きもしなかった。


「山へも人は遣らぬ。私自身も、お前を通さずには入らぬ。あの者にも手は出さぬ」


そこで、朝凪の睫毛がわずかに伏せられた。

大きな安堵ではない。礼を崩すほどのものでもない。だが、言葉が届いたことは分かった。

美菊に手を出さない。当主へすぐには上げない。山へ入らない。

その三つは、今の朝凪にとって命綱に近い。

それでも、朝凪は礼を言わなかった。


「条件を伺います」


玄冬は、その返答で十分だった。

この男は、差し出されたものに飛びつかない。

玄冬が何かを置くなら、その下に必ず刃があると見ている。


「予言について、知る限りを渡せ」


朝凪の目が、わずかに細くなる。


「頻度。兆し。語られる条件の有無。回避の可否。風斎に関わるものの有無。お前が聞いたもの、お前が確かめたことを、解釈の前に事実として出せ」


朝凪は少しだけ沈黙した。

それは拒むための間ではなかった。どこから順に置けば、もっとも少なく、もっとも正確に伝わるかを測る間だった。


「予言の頻度は、定まっておりません」


朝凪は答えた。


「続く時は、ひと月に二度。何もない時は、季節ひとつ空くこともあります。規則性は、少なくとも私には読めません」

「語らせることは」

「できません」

「止めることは」

「できません」


玄冬は朝凪の言葉の間を聞いた。

即答だった。試した者の返答である。思い込みではない。願望でもない。すでに何度も同じ壁へ当たった者の声だった。


「前触れはあるのか」

「ある時もございます。目が遠くなる。息の間が変わる。手が冷える。こちらの呼びかけに戻らない。ですが、いつもではありません。会話の途中に落ちることも、眠っている時に起き上がることもあります」

「本人の意思は」

「関わりません」


朝凪の声が、そこだけ少し低くなった。


「見ようとして見るものではなく、語ろうとして語るものでもありません。あれの口を使って、何かが言葉を置いていく。そういうものです」


玄冬は、その言い方を咎めなかった。

事実としては粗い。だが、朝凪にとってはそれ以上に正確な言い方がないのだろう。

能力ではなく、降ってくる災い。与えられた力ではなく、押しつけられた言葉。

美菊を天宿りとして扱いながら、朝凪はその力を美菊のものとは呼ばない。


「内容は」

「必ず、人死の出る禍です」


朝凪は言い切った。


「門、禍滲、崩れ、火、病。形は違いますが、必ず死者が出ます。荷が遅れる、雨が降る、誰かが道に迷う。その程度のものはありません」


玄冬は、そこで指先だけをわずかに動かした。

紙の上の件は、災いを告げるとあった。だが災いという言葉は広い。豊凶、天候、事故、些細な不幸まで含めることができる。朝凪は、そこを切った。


必ず、人が死ぬ。

その口が開くたび、死が置かれる。


「数がわかる時もあるのか」

「ございます」

「名が出る時は」

「ございます」

「名が出た者は」

「死にます」


朝凪は、その一語を動かさなかった。


「他の者が代わりになることはございません。名が出たなら、その者が死にます。数だけなら、誰が死ぬのかは分かりません。ただ最後に、あの数はこの者たちだったのだと分かるだけです」


部屋の空気は静かだった。

火鉢の炭が小さく鳴る。廊の向こうを誰かが通る気配もある。屋敷はいつも通りに動いている。

けれど玄冬の前には、声だけで人の死を確定させるものが置かれていた。


「避けられるのか」


玄冬は訊いた。

朝凪は、すぐには答えなかった。

その沈黙で、玄冬は答えの形を知った。だが、知るだけでは足りない。朝凪の口から聞かなければならなかった。

玄冬は、風斎を滅びから遠ざけるためにここへ座っている。

避けられないという結論を恐れて、問いを緩めることはできなかった。


「私が知る限りでは、一度も」


朝凪は言った。


「抗うことは自由です。道を変えることも、家から出さないことも、逃げることもできます。手を尽くすこと自体を禁じられるわけではありません。ですが、最後には必ず、予言された結末へ収束します」


玄冬の目が、朝凪から外れなかった。


「確かめたのか」

「確かめました」

「どれほど」

「子どもの浅知恵から始めて、今の私にできる範囲まで」


朝凪はそこだけ、少しだけ苦く言った。


「止めたこともあります。遠ざけたこともあります。人を別の道へ回したことも、火の始末を重ねたことも、門の兆しに先んじて人を動かそうとしたこともあります。細部は変わります。誰がどこを通るか、どこで足を止めるか、何を持っているか、その程度は変わる。ですが、告げられた死は変わりません」


玄冬は黙った。

朝凪は、そこで言葉を足さない。

互いに、無駄な慰めを必要としていなかった。

玄冬が欲しいのは、希望ではない。使える情報である。

朝凪が渡すのも、慰めではない。美菊を守るために渡すべきだと判断した事実だけだった。


「風斎の滅びについて、最初のもの以外に予言はあるか」

「私が聞いた限りでは、ございません」

「聞いていないだけではなく」

「聞いておりません」


朝凪は少し間を置いた。


「隠してもおりません」


その一言は、玄冬の問いを先に塞いだ。

玄冬はそれを受けた。朝凪は嘘をつく時もあるだろう。必要なら隠す。

だが今ここで、この一点を偽る利は薄い。

むしろ、偽れば美菊を危うくする。


「では、最初の予言を言え」


朝凪の顔から、ほんの少し血の気が引いた。


「……玄冬様は、お聞きになったはずです」

「聞いた」


玄冬は認めた。


「だがあの夜の私は、滅びの一語に引きずられた。すべてを同じ重さでは覚えておらぬ」


言いながら、その言葉の薄さを玄冬自身が知っていた。

覚えていない。

それで済む話ではない。

産声の代わりに災いを告げた赤子。その赤子を布に包み雪へ置いた者が、何を聞き落としたかを今さら確かめている。

その事実が、この場の畳の上に冷たく伏せていた。


「――美菊はその予言を、」

「その名を呼ばないでいただきたい」


声は、低かった。


低いだけではない。畳の目の奥を這い、火鉢の灰を冷やし、襖の向こうへ音を漏らさぬまま部屋の底へ沈むような声だった。

荒げてはいない。膝も崩していない。手も、畳の上で正しく揃えられたままだった。

朝凪は臣下の礼を保っている。保ったまま、玄冬の言葉の中へ刃を入れた。


玄冬は、朝凪を見た。

名の重さは、分かる。分からぬはずがなかった。

美菊は言った。朝凪がつけてくれた、と。

名もないまま死産とされ雪へ置かれた赤子に、ようやく与えられた存在の証。

それがこの名だという重みは、玄冬にも理解できる。

理解できないのは、その先だった。


この場で、言うのか。

今、当主へ上げるか否かを握っているのは玄冬である。

山へ人を遣るか否かも、愛護の小堂参りを止めるか否かも、玄冬の裁量の内にある。

朝凪はそれを理解している。

理解したうえで、交渉の利を損ねかねない一点へ踏み込んだ。


その名だけは許せない。


その異様な執心の形を、玄冬は測り損ねた。

殺したお前が呼ぶな、と言われたのだと思った。

だがそれだけでは足りない。たぶん、もっと深い。

朝凪にとってその名は、守る対象の呼称ではなく、年月そのものなのだろう。

隠した歳月、織り替えた道、戻り続けた家、誰にも渡さず呼び続けた声。

そのすべてが、その四音に結ばれている。


玄冬は、そこで初めて、朝凪という男の危うさを別の形で見た。

忠義に背いているのではない。

忠義の置き場は、元より血の上になかったのだ。


「……承知した」


玄冬の了承に、朝凪はわずかに顔を伏せた。

礼ではない。

線を踏まなかったことへの確認だった。

玄冬は、言葉を選び直した。


「あの者が、お前に語ったのか」

「はい」

「言え」


朝凪は、深く息を置いた。

その息は長くなかった。けれど、言葉の前に置かれたそれだけで、玄冬には分かった。

朝凪にとっても、この予言はただの情報ではない。

幼いころから何度も反芻し、何度も逃げ道を探し、そのたびに閉じられてきたものだ。


朝凪の唇が動く。


「静かな日々がつづく」


玄冬は、その冒頭を覚えていなかった。

いや、聞いていたのかもしれない。聞いていたはずだった。だが、記憶の中では、その穏やかな文言は抜け落ちていた。

雪の夜、産室の外、女房の息を呑む音、布の擦れる音。

そこへ赤子の声が落ちた瞬間、玄冬の耳はすでに次の異様へ引きずられていたのだろう。


「陽はめぐり、草は伸び、子は育つ」


静かな言葉だった。

だからこそ、玄冬の胸に沈んだ。

風斎の屋敷には、今日も人がいる。

奥方は朝の支度を終え、愛護は父の座敷にいるだろう。

若い兵は詰所で槍を磨き、女房は火鉢の炭を見て、下働きは庭の端を掃く。

何もかもが、静かな日々の中にある。


陽はめぐる。

草は伸びる。

子は育つ。


それは呪いの前置きではなく、まぎれもなく今の風斎そのものだった。


「そして無数の門がひらく。禍滲があふれ、地を埋め尽くす。火があがる。叫びは届かぬ。首は鈴生り。折られた名が、積み上がる」


玄冬は、そこから先を断片的に覚えていた。

火。叫び。首。名。滅び。

だが、覚えていたものは、今聞くほど整った形ではなかった。

恐怖に削られ、主の命に押され、自分の手で雪へ運んだ赤子の軽さに塗りつぶされていた。


「逃げることは叶わない」


先ほど聞いた朝凪の答えが、そこへ重なった。

抗うことは自由。

道を変えることも、逃げ出すこともできる。

だが、最後には結末へ収束する。

その説明を聞いたあとでこの一文を受けると、意味が変わる。

逃げることは叶わない、とは、足を動かせないという意味ではない。

逃げた先もまた、予言の内側であるという意味になる。


「ひとり、のこる」


その一語だけが、奇妙に沈んだ。

玄冬は、その言葉を聞いた瞬間、袖の内で指を握った。

ひとり。

誰が、とは言われていない。

生き残るのか、取り残されるのか、見届けるのか、背負わされるのかも分からない。

ひとりという数だけがある。

予言が具体名を出していない以上、玄冬に分かることは何もなかった。


だが、残った。

あの夜は流した言葉だった。滅びという大きすぎる結末に押し流され、記憶の端へ沈んだ文言だった。

今は違う。

不可避の結末と、逃げることは叶わないという文言の後に置かれたその一語は、鋲のように玄冬の脳裏へ打ち込まれた。


「――風斎は滅びる」


部屋の中に、音が戻らなかった。

火鉢の炭も、廊の気配も、遠い。玄冬は自分が座っている屋敷の重さを感じていた。

この梁、この畳、この庭、この家名。

この静かな日々のすべてが、今聞いた言葉の先に焼け落ちる。


避けられるかどうかを知りたくて呼んだ。

その答えは、ほとんど閉じていた。

それでも玄冬は、完全に膝を折るわけにはいかない。風斎の重臣として、避けられないと聞いた瞬間に考えることを止めるなど、許されない。


「その予言について、あの者は解釈を加えたか」

「いいえ」

「お前は」


朝凪は一瞬だけ黙った。


「しております」

「風斎のために使えるものか」

「いいえ」


返答に迷いはなかった。

玄冬は、その私情の中身を追わなかった。追えば、名の時と同じ場所へ踏み込むことになる。

今必要なのは、朝凪の執着を暴くことではない。

その執着が何をし得るか、どこまで風斎に害を及ぼすかを測ることだった。


「以後、予言を聞いた時は全て報告せよ」


朝凪はわずかに目を伏せた。


「時、場所、人数、名。聞いたままを先に置け。解釈は後でよい。曖昧なものは曖昧なままでよい」

「承知いたしました」

「伏せたと見れば、私は当主へ上げる」

「心得ます」


返答は、従順だった。

従順に聞こえるよう、整えられていた。

玄冬はそこを見た。朝凪は従っている。だが、従うことと服することは違う。

この男は条件を呑んだ形を取りながら、どこを残すかをすでに数えている。


「姫様へは、こちらから形を足すな」


玄冬は言った。

朝凪の表情は変わらない。


「十七年前の産室も、滅びの予言も。お前の方から置くな。問われたなら、問われたことだけに答えよ」

「姫様はいずれ、つなげられます」

「そうだ」


玄冬は否定しなかった。


「だからこそ、こちらから道を敷くな。あの方は聡い。情も深い。知れば進む。進めば、今ある形が保たぬ」


朝凪は、すぐには答えなかった。

玄冬の言葉が愛護を侮っていないことは分かっているはずだった。

むしろ、玄冬は愛護が進む子だと知っている。

朝凪もそれを知っている。

だからこそ沈黙が落ちた。

互いに、愛護の性質を違う方向から守ろうとしている。

その拮抗が、部屋の中央に細く張った。


「小堂参りは」


玄冬は、最後に置いた。


「これまで通りでよい」


朝凪の呼吸が、わずかに変わった。

本当にわずかだった。だが玄冬は見た。

安堵だった。


山の家へ通う道が閉じられないこと。愛護が美菊に会う手段が残されること。

それは朝凪にとって、美菊を山に置き続けるための支えでもある。

小堂参りを止められれば、愛護だけでなく美菊の暮らしの中の灯りも削られる。


「ただし、戻りの刻を違えるな。供回りの目に残る乱れを持ち帰るな。姫様に不審な疲れを残すな。これまでお前が作ってきた形を、これまで以上に崩すな」

「承知いたしました」

「ひとつでも崩れれば、山道の危険を理由に止める」

「承知いたしました」


二度目の返答も、礼を外れなかった。


交渉は、そこで形を得た。

玄冬は当主への報告を保留する。山へ人を出さない。美菊には手を出さない。小堂参りも閉じない。

その代わり、朝凪は予言を玄冬へ渡す。愛護へ余計な道を敷かない。屋敷の中の形を崩さない。

表面だけを見れば、玄冬が押した形だった。


当主へ上げる札を玄冬が握っている。小堂参りを止める口実も玄冬の側にある。朝凪は、守るために条件を呑むしかなかった。


だが玄冬は、勝ったとは思わなかった。

朝凪の膝は、最後まで揺れなかった。名をめぐる一点を除けば、感情はほとんど表へ出なかった。

その一点だけが、異様に深い。

玄冬が握る札の多さを知りながら、なお譲らなかった。

その深さを、まだ測りきれない。

測りきれないものを、勝ったとは呼べない。


「下がれ」

「は」


朝凪は深く一礼した。

立ち上がる動作にも乱れはない。襖へ向かい、膝をつき直し、もう一度頭を下げる。


「失礼いたします」


襖が閉まる。

玄冬は、しばらくそのまま座っていた。

男の後ろ姿は、屋敷の廊に出ればいくらでも普通に紛れる。

姫付きの側仕え。寡黙な兵。役目に忠実な青年。

だが、玄冬はもうその見え方を信じない。


あれは、刃だ。


綾で織った、人を斬れぬ刃ではない。

人が人へ向ける刃になる。


玄冬は、それを見誤ってはならなかった。




■■




玄冬の部屋を辞したあと、朝凪は一度も振り返らなかった。


廊へ出て、襖を閉める。

敷居の向こうで、玄冬の気配はまだ動かない。

文机の前に座したまま今のやり取りをどこからほどくか考えているのだろう。

朝凪はそれを背で測りながら、いつもの歩幅で廊を進んだ。


玄冬は、まだ気づいていない。

少なくとも、全容には届いていない。


冬のあいだ、朝凪もただ山の家を織り替えていたわけではなかった。

山の道、家の見え方、戸口の意味。それらを直すのは当然である。だが、それだけでは足りない。


玄冬の強さは、山の家への道を知ったことではない。

屋敷の中で人を動かせることだ。

当主へ紙を上げる。奥方へ言葉を置く。愛護の山行きを止める。詰所から兵を出す。小堂筋へ見張りを増やす。朝凪が気づく前に、山へ向かう足を作る。


だから朝凪は、屋敷に綾を潜ませた。


人を傷つけるものではない。綾は識島の人間を傷つけない。禍滲を伐つためのそれは人へ向ける刃にならない。だから屋敷の中へ置いたものも、玄冬や兵を害するためのものではなかった。

しかし、必要なのは殺傷の手段ではない。

時間だった。


玄冬が美菊へ手を出すために動く。山へ人を遣ると決める。当主へ上げる。小堂筋を押さえる。あの家を囲む。

そうした命令が玄冬の口から離れ、誰かの耳に入り、詰所の札となり、兵の足となって実際に動き始めるまでのほんの短いあいだ。

朝凪は、そのあいだだけを奪うために、屋敷の中へ綾を置いていた。


廊の角では、急ぐ者の足音が自分の耳へわずかに返りすぎる。

奥向きの近くで足音を荒げたと気づけば、人は一度歩を整える。

詰所へ下りる階では、手すりに触れた指先が一瞬だけ伝える順を迷う。

当主へか、玄冬の命か、山道か、兵数か。

兵札の棚では、小堂筋の札を取ろうとする目が、別の札へ滑る。

見落とすほどではない。ただ、もう一度見るだけの間が生まれる。


どれも、切れば消える。

玄冬が強く命じれば終わる。兵が考えずに走れば破れる。

だが、命令が形になる前には、人は一度だけ礼や手順に触れる。

屋敷とはそういう場所だった。

本家の中では、走るにも、告げるにも、動かすにも、形がある。

朝凪はその形へ、ひと呼吸ぶんの遅れを重ねていた。


そのわずかな時間を稼いだなら、朝凪は山へ戻る。

屋敷の綾が作る遅れは、全てが機能したとして長くて四半刻にも満たないだろう。だがそれで十分だった。

朝凪は先に駆け出し、踏む端から短縮の綾をすべてほどく。

玄冬が既に見つけていたとしてももう使えない。山の家への道は本来の長さに戻る。

そして新たな迷いの綾を重ねて置く。

普段の迷いは、薄くなければならない。

見えているのに辿り着けない。足が自然に逸れる。気づけば戻っている。そのくらいでよかった。

違和を持たせず、理由を残さず、誰にも「何かに阻まれた」と思わせない。それが長く美菊を守ってきた。

だが、追われる時は違う。

その時に必要なのは、静かな秘匿ではない。破られることを前提にした、粗く、強く、派手な迷いだった。

兵たちはそこに綾があると気づく。気づけば破る。破るために足を止め、目を凝らし、綾の筋を探る。突破できる。風斎の兵なら突破する。

だが綾を破りながら、彼らは一刻の道を一刻の長さで走らねばならない。


朝凪だけが、先に着く。

短縮を踏み、ほどき、迷いを重ねながら兵たちより前に山の家へ戻り、美菊を連れ出す。

家の中のものは、捨てる。茶碗も、本も、衣も、花も、守れない。美菊だけを連れていく。

玄冬の手が届く前に、兵の足が道を食い荒らす前に。


向かう先は、小堂だ。

雪解けまでにひとつ新しい綾の道を作った。普段は決して使わない。使えば壊れる。

細く美しく畳むのではなく、距離そのものを力任せに折るような強引な短縮だった。

一度通れば綾の筋は裂け、二度目はない。

だが、一度で足りる。


兵たちが山の家を目指して通り過ぎた後、朝凪は美菊を連れて小堂へ戻る。

小堂は、愛護が大事に参る場所だ。

季節ごとに供えを置き、古い花を下げ、皿の向きを整える。

本家の姫がその手で大切にしてきた場所であり、風斎の戦死者を弔う場所でもある。

そこを強引に荒らすには、余程の確信が要る。

山の家へ向かった兵が何の確証もなしに小堂の中を剥ぎ、供えを崩し、死者を弔う場を踏み荒らすことは考えにくい。


朝凪は、そこへ美菊を隠すための綾を織った。

山の家にかけたものとは違う。小さく、細く、目立たない。

古い柱の影、供えの器の下、木札の沈黙、姫が何度も整えた場所の清潔さ。

その中に紛れるようにした秘匿だった。


だが、それだけでは足りない。

目の利く者がいれば、気づくかもしれない。

だから朝凪は、往路に粗くて強い綾を残す。

派手な綾を見せるために。

兵たちの目を眩ませるために。


山の家へ向かう道には、破るべき綾がある。強い。荒い。朝凪が余裕もなく遁走したように見える。そこへ兵の意識が向く。踏み破ることへ集中する。追うことへ集中する。

荒いものを見た目は、繊細なものを取り落とす。

破るべきものを破ってきた兵ほど、破る形を持たない綾へ気づきにくくなる。

美菊を、そこに残す。


そして朝凪は、単身で屋敷へ戻る。

その時に抜くのは、綾ではない。

鉄の刃だ。

禍滲を伐つための武具ではない。綾で織った刃でもない。人の肉を傷つけられる、ただの鉄。

風斎の屋敷で、それを本家の方へ向けて抜けば、騒ぎは必ず起こる。


謀反。


その言葉が立つ。


そうなれば知らせは必ず玄冬へ届く。

玄冬は、それが美菊を逃すための罠だと分かるだろう。分からないはずがない。

朝凪が自分を屋敷へ引き戻すために刃を抜いたのだと、即座に読む。

兵を山から引かせるための手だと分かる。


それでも、戻らざるをえない。


当主や奥方に、その刃は届かないかもしれない。届く前に止められるかもしれない。だが、愛護は。

愛護は、朝凪を信じている。

朝凪が苦しげに見えれば近づく。呼ばれれば足を止める。周囲が制するより一歩早く、その手の届くところへ来る。

朝凪が本当にその信を刃に変えるなら、愛護は簡単に落ちる。

玄冬は、それを知っている。


そして玄冬には、美菊を傷つけることができない。

色を持たなくとも、美菊は正統な本家の子である。死産とされた長子。天宿りとして代償を負わされ、風斎が一度雪へ捨てた子である。

忠臣である玄冬が二度目にその身へ手をかけるには、十七年前とは違う重さがある。


朝凪は違う。

朝凪は忠臣ではない。

少なくとも、美菊より本家を上に置く忠はない。

朝凪は、本家の人間を傷つけられる。

当主であれ、奥方であれ、愛護であれ、美菊を守るために必要なら、その刃を向けることができる。

届くかどうかではない。望むかどうかではない。できるかどうかの話である。

玄冬はそれを読まなければならない。

だから、兵を引くしかない。

美菊を追わせる足を戻し、朝凪を鎮圧するために屋敷へ向かわせるしかない。


その時、誰もが思うだろう。

朝凪が思い詰めた末、短慮に出たのだと。

追い詰められ、逃げ場を失い、守るものを奪われる恐怖に耐えられず、本家で刃を抜いたのだと。

そう見える。そう見せてよい。むしろ、そう見えなければならない。


だが、違う。


朝凪は、その謀反で首を落とされることはない。

手足を潰されることもない。

二度と美菊のもとへ戻れない形で牢へ沈められることもない。


なぜなら朝凪は、滅びの日に、美菊と共に死ぬ。

不可避の予言により確約された死。

覆らない、その時。

死期を担保に成功が確定した謀反。


玄冬がわかるはずもない。


朝凪が後生大事に抱えてきた、滅びの予言の底にあるものを。

その死に生の意味を見ていることを。


これが、朝凪があの交渉の場で伏せ続けた最も重い札だった。


朝凪が捕縛されれば、間違いなく美菊も捕らわれる。

朝凪が身動きできない状態で、予言の日に美菊と共にあることなど到底叶わない。

風斎は甘くもなく緩んでもいない。

謀反人を五体満足で泳がせ、隠された長子をその手元へ戻すような家ではない。

万一美菊が単身で逃げおおせたとしても、朝凪の手なしにあれが俗世であと二年も生きられるはずがない。


ならば、予言が選べる道はほとんど二つに絞られる。


一、朝凪が美菊を迎えに行ける形での謀反の成功。

二、玄冬が動かぬまま終わる。


――予言は必ず成就する。しかし、みちゆきはいくらでも選べる。


単身本家を相手取り、謀反を起こし、なお身ひとつ損なわず美菊を迎えに行くなど、常ならば望むべくもない。

ありえない。だが、予言が成るためにそれが必要なら、成る。

朝凪は、その不可避性を利用した。

ありえない道を、成らざるをえない道にした。


一方で、玄冬がなんらかの思惑のうちに動かない。この方が、余程ありえる。自然に成る。

玄冬が当主へ上げず、兵を出さず、山へ踏み込まず、愛護の小堂参りを閉じない。

そのまま二年が過ぎ、予言の日へ向かう。

そちらの方が、ずっと無理がない。


であれば。

予言は、どちらを選ぶか。


玄冬が一冬動かなかったことで得た猶予で、朝凪はそれを仕込んだ。


謀反の手ではない。

美菊を連れて逃げるためだけの手でもない。

予言が成就へ辿る道を、絞る手を。



廊の向こうで、若い兵が朝凪へ頭を下げた。


「朝凪殿」

「ご苦労」


朝凪は短く返した。

声も、歩幅も、袖の揺れも、いつも通りだった。

重臣の部屋を辞し、姫付きの務めへ戻る若い武家が、そこにいるだけだった。


玄冬が動かなければ、この仕込みは何も起こさない。屋敷の隅に薄い綾として残り、やがてほどけて消える。

それでいい。

その方がいい。

朝凪は心底そう思っていた。


けれど、玄冬が動くなら。

その時はこの屋敷そのものが、美菊を逃がすための道になる。




■■




春の山へ行くことが許されたのは、愛護が十三になる少し前だった。


雪はもう、ほとんど残っていない。庭石の陰や築山の北側にだけ薄く汚れた白が貼りついている。

朝のうちは霜が降りるが、日が高くなれば板廊の冷えもほどけ、土の匂いが少しずつ戻ってきた。


冬のあいだ、小堂参りは控えられていた。

山道が危ないから、と母は言った。女房たちも当然のこととして支度をしなかった。

玄冬の件があろうとなかろうと、冬の山はそういうものだった。

愛護も、それを分かっていた。

分かっていても、会いたいものは会いたかった。


だから、今日の支度のあいだ、愛護はじっとしているのが難しかった。

奥向きの女房たちは春の上掛けを出し、歩きやすい裾を選び、泥が跳ねても目立ちにくい色を合わせた。

供えの菓子と花は小堂の分と、帰りに下げる名目の分に分けられている。


愛護はできるだけ姫らしく座っていた。

けれど、膝の上の指は何度も動いた。

帯を直されている間も、髪の紐を結ばれている間も、菓子の包みが視界に入るたびに胸が跳ねる。

女房に笑われないよう、愛護は唇をきゅっと結んだ。

母の前で一礼し小堂へ参ることを告げる時も、声を弾ませすぎないようにした。


奥方は愛護の袖口を整え、雪解けの山道に気をつけるよう言った。

愛護は頷く。小堂へ行くのは本当だ。供えをするのも本当だ。

だから、その本当を粗末にしてはいけない。


部屋を出ると、廊にはまだ朝の冷えが残っていた。

朝凪が控えている。供えを持つ老僕と、付き添いの侍女もいる。いつも通りの形だった。いつも通りだからこそ、愛護は少し安心しかけた。


その先に、玄冬がいた。


愛護は足を止めた。

玄冬はいつものように一礼した。偶然行き合ったようにも見える。

けれど違う。玄冬はここで待っていた。


背中に、冷たいものが落ちる。


玄冬は知っている。

山の家を。兄を。愛護がそこへ行くことも、朝凪がそれを隠していたことも。


冬のあいだ何も言わなかったからといって、忘れたわけではない。


「姫様」

「玄冬」


愛護は、どうにか声を返した。

玄冬の目は、愛護の衣と供えの包みと足元を一度ずつ見た。探るというほどではない。けれど、見落としもしない目だった。


「雪解けの山道は、見た目より緩むものです。お戻りの刻をお違えになりませんよう」

「うん。気をつける」


喉が少し乾いた。

玄冬は朝凪へ目を移した。


「朝凪」

「は」

「姫様を頼む」

「承知しております」


朝凪の声は少しも変わらなかった。

愛護は、その横顔を見た。

朝凪は平静だった。玄冬がここにいる意味を聞き落としていないはずなのに、揺れていない。

なら、大丈夫なのだ。

少なくとも、今日ここで止められることはないと、朝凪はもう知っている。

愛護だけが知らなかった。

少しだけ腹が立つ。

同時に、ひどく安心した。


玄冬はそれ以上何も言わず、道を譲った。

重臣が姫の山行きを見送り、側付きへ注意を与えた。ただそれだけに見える。

けれど愛護は、玄冬の横を通る時、袖の内で指を握った。


行ってよいと言われているのではない。

見逃されているのだ。


その違いを、愛護はもう知っていた。





山裾の東屋まで来ると、供回りはそこで待つ。そこから先は、朝凪だけが付き添う。

何年も繰り返した段取りだったが、今日は少しだけ硬く感じられた。

冬を挟んだせいかもしれない。玄冬の目が背に残っているせいかもしれない。


小堂へ着くと、愛護はすぐに山の家の方を見そうになり、堪えた。

先に小堂だ。

冬のあいだ人の手が遠のいた小堂には、季節の置いていったものが溜まっていた。

扉の下には湿った葉が挟まり、石段の端には土が流れている。

供え皿は曇り、花立てには古い水の跡が白く残っていた。


愛護は袖を上げた。

本当は、すぐに行きたかった。

山の家へ。兄のところへ。


冬のあいだ、何度も思った。朝凪が何も言わないなら無事。そう決めていた。

決めていたけれど、決めたから会いたくなくなるわけではない。

山の家の名を出さずに日を送ることも、小堂筋のことを聞かずに済ませることも、もうできる。

けれど胸の奥に置いたものは、消えたのではなく、きちんと畳まれていただけだった。

その畳んだものが、今にもほどけそうになる。


愛護は皿を拭いた。

小堂参りは、口実でもある。けれど、口実だからと粗末にしてよいものではない。

ここに供えるものを、ここに眠る名を、形だけにしてしまえば、自分は山の家へ行くために死者を使っているだけになる。

それは嫌だった。


湿った葉を拾い、石段の端へ流れた土を払い、古い花の茎を包む。

朝凪は横で手を貸したが、急かさなかった。

愛護が春の菓子を置き、花を整え、手を合わせるまで、ただ待っていた。


手を合わせている間、愛護は何も願わなかった。

ただ、来たことを告げるように目を伏せた。

冬のあいだ来られなかったこと。今日は春の供えを持ってきたこと。このあと、少しだけ奥へ行くこと。

それらを言葉にしないまま、胸の中で静かに置いた。


立ち上がると、膝が少し冷えていた。

朝凪が、小堂へ供えたものとは別に分けてある小さな包みを手に取った。


「崩れてない?」

「崩れておりません」

「見たの?」

「先ほど確認いたしました」


いつもの返事だった。

そのいつも通りが、愛護には急に嬉しかった。




山の家への道は、冬の前より少し変わっていた。

木が倒れたわけでも、道が消えたわけでもない。

けれど、朝凪が踏ませる筋が違う。

以前より回り込むところが多く、足を止める場所も少しずつずれている。

玄冬に一度踏まれた道を、そのままにはしていないのだろう。

愛護は訊かなかった。

朝凪も、説明しなかった。


山の家が見えた時、愛護はもう堪えきれなかった。

足が勝手に速くなる。裾に泥が跳ねるかもしれない。戻った時に女房が気づくかもしれない。そう思う理性はあった。

けれど、戸口が見えた瞬間に、その理性は音を立ててほどけた。


朝凪が小さく息を吐いた気がした。

叱られなかった。


戸の前で、朝凪が一拍置く。中に火の気がある。人の気配もある。乱れはない。その確認のあと、戸が開いた。


美菊は、奥にいた。

以前なら火鉢のそばか、窓に近いところにいることが多かった。

今は、柱と衝立の陰になる場所に座っている。

そこにも小机があり、本が置かれ、火鉢の熱も届くように整えられていた。

暮らせない場所ではない。けれど、家の中のさらに内側だった。


愛護は、それを見た。

胸が痛んだ。

でも、次の瞬間にはもう、美菊が顔を上げていた。


「ひめさま」


声は、冬の前と同じだった。

その同じ声を聞いた途端、愛護の中で畳んでいたものが全部ほどけた。


「あにさま!」


声が跳ねた。

愛護は駆けた。戸口の泥も、上掛けの乱れも、姫らしい歩き方も、全部どこかへ行った。

ここは屋敷ではない。母の部屋でも、父の座敷でもない。女房の目も玄冬の沈黙もない。

山の家の中でだけは、愛護は風斎の姫である前に、美菊の小さな妹だった。

膝をつき、美菊の袖を掴んだ。

掴んで、そのまま胸元へ額を寄せる。


「来たよ、来た、やっと来たの。雪、ずっと、ずっとで、来られなくて」


言葉が少し混ざった。

愛護自身も、何を言っているのか分からなくなった。

冬のあいだ我慢していたこと。玄冬が怖かったこと。朝凪が何も言わないから大丈夫だと信じたこと。

小堂参りが解ける日を待っていたこと。全部が一度に喉へ来て、順番を失った。


美菊は少し驚いたように瞬いた。

それから、手を伸ばした。


「はい」


美菊の手が、愛護の背に置かれる。


「待っておりました」


その一言で、愛護はますます顔を上げられなくなった。


「ほんとに?」

「はい」

「ずっと?」

「はい」

「愛護も、ずっと会いたかった」


美菊は、答える前に少し息を置いた。


「わたしも、ひめさまに会えると、うれしいです」


愛護はようやく顔を上げた。

目元が少し赤くなっていた。けれど泣いてはいない、と本人は思っている顔だった。


「じゃあ、今日はたくさん話す」


朝凪が戸を閉めながら、静かに言った。


「お戻りの刻は決まっております」

「分かってる!」


分かっていると言いながら、愛護は美菊の袖を離さなかった。

朝凪はそれ以上言わなかった。

美菊は、愛護に掴まれた袖をそのままにしていた。


春の菓子は、三つに切り分けられた。愛護の分、美菊の分、朝凪の分である。朝凪は自分の皿を見て、少しだけ眉を動かした。


「私は結構にございます」

「だめ。三人で食べるの」


愛護は即座に言った。

朝凪は、それ以上辞退しなかった。ただ、自分の分をさらに半分に割り、片方を愛護の皿へ、もう片方を美菊の皿へ置いた。


「あ」


美菊は、自分の皿へ置かれた小さな菓子を見て、それから朝凪を見た。


「朝凪も、食べてください」


朝凪は、美菊の皿に置いた分から端を楊枝で取った。

ほんのひと口にも満たない大きさだったので愛護は不満そうに目を細めたが、美菊が少し笑ったように見えたので、それ以上は言わなかった。



山の家の中は、春になっても静かだった。

けれど、冬のあいだの静けさとは違う。

戸の外で土が柔らかくなり、木の枝の先がほどけ、鳥の声が少し戻っている。

家の中へ入ってくる風にも、冷たさだけではないものが混じっていた。


愛護は小堂の話をした。

葉を拾ったこと。皿を拭いたこと。花立ての水を替えたこと。冬のあいだ手が届かなかった場所に、春の菓子を置いてきたこと。

美菊はそれを静かに聞いた。


「お堂にも、春を置いてこられたのですね」


その言い方が美菊らしくて、愛護は嬉しくなった。


「うん。早く来たかったけど、ちゃんとしないといけないと思ったの」

「はい」


美菊は頷いた。


「きっと、よろこばれました」

「そうかな」

「はい」


美菊がそう言うなら、そうかもしれないと思えた。



帰る刻は早かった。

小堂で時間を使った分、山の家で過ごせる時間は短い。

愛護はそれを分かっていた。分かっていても、立ち上がる時には唇が尖った。


「もう?」

「はい」


朝凪の返事は揺れなかった。


「ほんとに、もう?」

「はい」


愛護は美菊を見た。

美菊は困ったように少しだけ目を伏せ、それから言った。


「また、来てください」

「来る」


愛護はすぐに言った。


「絶対来る。今度はもっと長くいる」


朝凪が何か言いかけたので、愛護は先に振り向いた。


「できるだけ!」


それで、朝凪は口を閉じた。

戸口で、美菊は小さく頭を下げた。


「お気をつけて」

「うん。またね、あにさま」


戸が閉まる。


山の空気が、愛護の頬に触れた。春の匂いがする。さきほどよりも日が傾き、木々の影は少し長くなっていた。

愛護は一度だけ戸を振り返った。

今度は、朝凪も止めなかった。



■■




――小堂へ戻る道の半ばで、囁石が鳴った。


音というより、骨の内側を軽く叩かれるような響きである。

朝凪の耳に嵌めた囁石が、かすかに震える。

耳飾りのようにも見えるそれが、衣擦れや山の音とは違う響きを体の奥へ直接落とした。


朝凪の足が止まったことで、愛護もすぐに異変を知った。


「朝凪」


朝凪は片手で囁石を押さえ、顔をわずかに伏せた。

声は、愛護にははっきり聞こえない。遠くから水の底を通ってくるような気配だけがある。

けれど、朝凪の目が変わった。屋敷で報告を受ける時の目だった。


木立。湿った土。小堂へ戻る細道。


どこにも何もいない。

風が枝を揺らし、鳥が一羽、少し離れたところで鳴いた。それだけなのに、急に足元の土が頼りなくなる。

朝凪は囁石から手を離した。


「遠方にございます」

「『門』なの?」

「はい。ただし、風斎領の端に近い場所です。ほとんど妻鳥領との境にございます。屋敷の詰めから兵を出す場所ではありません」

「ここには来ない?」

「こちらへ及ぶものではございません」


朝凪の声は乱れなかった。

愛護は、それを聞いて息を吐いた。

けれど、ほっとしただけでは終わらなかった。


以前なら、ここへ来ないと聞けば、それで胸を撫で下ろしたかもしれない。

屋敷に火が届かない。山の家にも届かない。母も、兄も、今すぐ危なくない。それは確かに安堵だった。

けれど、もうそれだけではなかった。


風斎領の端。

妻鳥領との境。

そこには人がいる。

番屋がある。見張り小屋がある。荷を運ぶ道がある。夜番に立つ者がいる。

炭を待つ家がある。膝を悪くした元兵がいて、幼い子を抱く家があり、夫を亡くした女の家もあるかもしれない。

冬の務めで、愛護はそれを知った。


帳面の札は、ただの札ではなかった。そこに書かれた名と場所の向こうに、人の暮らしがあった。

炭が遅れれば寒い夜になる。膏薬が届かなければ痛む膝がある。夜着が薄ければ、子どもが熱を出すかもしれない。


『門』の報せも、同じなのだ。

遠方という言葉は、安全のしるしではない。

遠くで、誰かが危ういということだった。


「……誰が行くの」


愛護は訊いた。

朝凪は、少しだけ間を置いた。


「近い詰所の者がまず立ちます。領境であれば、妻鳥側からも動くでしょう」

「本家から出さないなら、大丈夫なの?」

「大丈夫にするために、近い者が立ちます」


その答えは、優しくはなかった。

けれど、嘘でもなかった。

愛護は頷いた。


「……そう」


木々の間からは、何も見えない。

火も煙もない。悲鳴も聞こえない。春の山は静かだった。

湿った土の匂いがして、葉の先から水が落ち、鳥がまた鳴いた。


その静けさの向こうで、誰かが走っている。

誰かが綾を織っている。

誰かが、禍滲の前に立っている。

誰かが、戻らないかもしれない。


朝凪は愛護の顔を見た。


「姫様は、このままお戻りください。東屋の者にも、遠方の報せとして伝えます。お急ぎになる必要はございません」

「うん」

「足もとを」

「分かってる」


愛護は頷いた。

歩き出す。朝凪はいつもより半歩近い位置についた。

守るためというより、愛護の不安が足に出ないようにするためだった。


小堂の前を通る時、愛護は一度だけ振り向いた。

供えた菓子は、そのままそこにあった。春の光の中で、白い皿が静かに置かれている。


山の家には、兄がいる。

屋敷には、母が待っている。

領境では、誰かが戦っている。


それらは別々の場所にあるのに、もう愛護の中では別々ではなかった。


帰り道の土は、来た時よりも少しぬかるんでいた。草履の底が沈む。愛護は裾を持ち上げ、慎重に足を置いた。


春の山は、冬よりも足を取る。

それでも、歩かなければ戻れない。


愛護は朝凪の少し前を見て、ゆっくりと山を下りた。




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