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愛及屋烏花軍  作者: 司馬示朗
◾️花晨月夕──風斎の章
33/45

冬芽――綾寧448年


冬の荷は、予定どおりには動かない。

そのことを愛護が知ったのは、奥方の部屋で炭の札を揃えている最中だった。

朝から空は低く、庭石の北側に残った雪が昼近くになっても消えずにいる。

池の薄氷は日差しにほどけかけていたが、水面の端にはまだ白い縁が残っていた。

廊を渡る女房たちの声もどこか低く、火鉢へ炭を足す音だけが部屋の中でいつもより近く聞こえた。


畳の上には、札がいくつも並べられている。

南詰めの番屋。北の見張り小屋。膝を悪くした元兵の家。夫を亡くした女の家。奥向きで長く勤めた年寄りの下女。

札の表には名と場所が書かれ、裏には品の内訳が細かく控えられていた。

炭何籠、綿入れ一枚、薬包二つ、干し柿の包み。

女房が読み上げ、愛護が札の紐を揃え、奥方が帳面と照らす。


ただの冬支度ではない。

それは愛護にも、もう分かっていた。

ただ寒いから配るのではない。風斎本家が、仕える者や退いた者の冬を忘れていないと示すためのものだった。

ひとつ間違えれば、ただの物ではなく、気持ちの向きまで間違える。

だから愛護は、退屈でも背を丸めなかった。


そこへ、詰所から使いの者が来た。

襖の外で声がかかり、女房頭がいったん席を外す。

戻ってきた時その顔は大きく乱れてはいなかったが、手にした紙を奥方へ渡す動きが少しだけ早かった。

奥方は紙を開き、目を落とす。愛護は筆を持ったままその指先を見ていた。


母の顔は、穏やかなままだった。

けれど部屋の中の者たちはみな、何かが変わったことを知った。


「南の炭荷が、明日昼まで遅れるそうです」


奥方は紙を畳みながら言った。


「沢筋の道が凍って、馬を替えねばならないとか。詰所の分も、余裕はありませんね」


女房頭が静かに頭を下げる。


「火持ちのよい堅炭は、本日中にお渡しする予定の分をすべてそのままには難しゅうございます。細炭と薪ならば、少しは融通できますが」


愛護は、膝の前の札を見た。

どれも、さきほどまでただの札だった。けれど今は違う。

炭の数が足りないとなった瞬間、それぞれの向こうに人がいる。

夜番に立つ者。膝をさすって火鉢のそばに座る者。幼い子を抱いている者。

どの札も、そこに寒さを抱えていた。

奥方は愛護を見た。


「愛護」

「はい」

「あなたなら、どこへ先に回しますか」


部屋の空気が、ほんの少しだけ愛護へ寄った。

女房たちは何も言わない。朝凪は敷居際に控えたまま、顔を伏せている。

母は答えを急がせる顔ではなかった。

けれどこれは、遊びでも手習いでもない。愛護が何かを言えば、その通りに物が動くかもしれない場だった。


みんなへ、と言いかけた。

喉のところまで出かけた言葉を、愛護は飲み込んだ。

みんな寒い。みんな必要だ。それは本当だ。けれど、炭が足りないから今こうしている。足りないものを、みんなへ同じに渡すことはできない。

同じに少なくすればよいという話でもない。

番屋の火が弱ければ、夜番の足が鈍る。見張りが鈍れば、見落とすものが出るかもしれない。

膝の悪い元兵の家へ回らなければ、その人は痛む。

幼い子のいる家が冷えれば、その子が熱を出すかもしれない。


愛護は帳面を引き寄せた。

字を追う。南詰め。北の見張り。老いた元兵。戦で夫を亡くした女。奥の下働き。どこを見ても、減らしていい場所などない。


「南詰めの番屋は、今日の夜番があるから、先に」


自分の声が思ったより低く出て、愛護は少し驚いた。


「北の見張り小屋も、半分は今日。残りは明日の朝。……元兵の家は、堅炭は明日でも、細炭を少しと、膝掛けを今日届けるのはどうですか。膝が痛いなら、火鉢だけじゃなくて、膝そのものを冷やさない方がいいと思う」


奥方は黙って聞いていた。

愛護は次の札を見る。


「幼い子のいる家には、薪を。それから、夜着と厚い敷布を先に。奥の古い綿で、まだ入れ直せるものがあるなら……」


そこまで言って、愛護は女房頭を見た。勝手に言い過ぎただろうかと思った。

けれど女房頭は少し目を細め、奥方の方へ控えめに顔を向ける。

奥方が頷いた。


「古綿を足した膝掛けと、子ども用の夜着を用意できますね」

「はい。膝掛けはすぐに。夜着は、半刻ほどいただければ綿を足せます」

「膏薬も、元兵の家へ添えましょう」


愛護は息をついた。けれど、安堵するにはまだ早い気がした。

何かを決めたのに、誰も喜んでいない。

部屋の中の空気は動いたが、軽くはならなかった。

母は愛護の前の札を二枚取った。


「では、この家へは、愛護が届けましょう」

「愛護が?」

「あなたが明日に回すと決めた相手です。顔を見て、言葉で伝えなさい」


愛護は、手元の筆を強く握りそうになった。

嫌だとは思わなかった。けれど、怖かった。

帳面の上なら、順は考えられる。けれどその向こうにいる人へ、あなたの炭は明日になります、と言わなければならない。

代わりの品はある。理由もある。それでも、寒い夜を一晩待たせることに変わりはない。

愛護は膝の上で手を揃え直した。


「はい」


奥方は頷き、女房たちへ静かに指示を出し始めた。

炭の札は組み替えられ、細炭と薪の包み、古綿を足した膝掛け、厚い足袋、膏薬がそれぞれ別に整えられていく。

愛護が決めたことは、すぐに人の手を動かした。

そのことが、愛護には重かった。


昼を少し過ぎて、愛護は奥方に伴われ表に近い小座敷へ出た。

直接その家へ行くわけではない。相手の方が座敷へ呼ばれていた。

元兵はもう本式の務めからは退いているが、今も詰所の雑務を手伝っているのだ。

膝が悪く、冬は動きが鈍ると帳面にあった。


小座敷には火鉢が置かれていた。障子は閉じられ、外の冷えは遮られている。けれど畳の底には冬が残っていた。

愛護は母の少し下へ座り、朝凪は敷居際へ控えた。


元兵は、年の割に背のまっすぐな男だった。

ただ、膝を折る時に、わずかに顔が歪んだ。すぐに消したが、愛護には見えた。

手は節くれ立っていて、爪の端に土が入り込んでいる。

退いた者といっても、何もせず火のそばにいるわけではないのだろう。


奥方が声をかけた。


「冷える日が続きますね。膝はいかがですか」

「どうにか、使えております」


男は深く頭を下げた。

愛護は包みを前へ出した。細炭を少しと、古綿を足した膝掛け、厚い足袋、膏薬。

堅炭の札はない。言わなければならないことは分かっていた。

母が代わりに言うこともできる。けれど、それでは自分が決めた意味がない。


「堅炭は、明日の昼になります」


声は、思ったよりも硬かった。


「今日、南詰めの番屋を先にしました。夜番があるからです。でも、膝が冷えるといけないので、こちらを先に持ってきました。細炭は少しだけですけど、膝掛けと足袋もあります。膏薬も、母様にお願いしました」


言ってから、愛護は自分の言葉が足りない気がして、唇を結んだ。

謝るべきなのか。謝ればよいのか。申し訳ないと思っている。

でも、番屋を先にしたことを間違いとは言えない。

間違いでないことを謝ると、きっとおかしくなる。


男は両手で包みを受け取った。


「番屋が先でよろしゅうございます」


愛護は男を見た。


「……寒くないですか」

「寒うございます」


男は正直に言った。


「ですが、番屋の火が落ちれば、立つ者が困ります。立つ者が困れば、奥も表も困りましょう。明日いただけるなら、ありがたいことにございます。それまで、こちらで十分しのげます」


その言葉には、愛護を慰めようとする響きも少しあった。けれど、それだけではなかった。

この人は、本当にそう思っている。自分の膝よりも、番屋の火が先でいいと。

愛護は胸が軽くならなかった。

むしろ、重くなった。

分かってくれたから、よかった。そう思えれば楽だった。

けれど相手が分かってくれたからこそ、自分が選んだ順が人の暮らしへ届くことを知った。

帳面の上で動かした札は、火鉢の火になり、膝の痛みになり、夜番の手の温度になる。


「明日、必ず届くようにします」


愛護は言った。

男はもう一度、深く頭を下げた。


「姫様のお心、ありがたく」


心。


愛護はその言葉を聞いて、膝の上の手をきつく揃えた。

心だけでは炭にならない。けれど、心のない配り方をしてよいわけでもない。

そのあいだに座ることが、こんなに落ち着かないものだとは思わなかった。


元兵が下がったあと、奥方は愛護をすぐには褒めなかった。

かわりに、包みのなくなった盆を見てから言った。


「人は、正しい順なら何も感じずに受け取るわけではありません」


愛護は頷いた。


「はい」

「けれど、それを恐れて順を決めなければ、もっと多くのものが冷えます」


愛護は、その言葉をすぐには飲み込めなかった。

けれど、忘れてはいけないのだろうと思った。

母がこういうことを言う時は、いつも今すぐ分かり切るためではなく、あとで何度も思い返すためだからだ。


朝凪は、敷居際でその場を見ていた。

愛護は泣かなかった。謝りすぎもしなかった。自分の決めた順を、自分の口で相手へ渡した。

まだ幼い。声は硬く、手は緊張していた。

けれど、逃げなかった。

朝凪はそのことを、誇らしいと思った。

そう思った自分に、少し遅れて苦さが来た。


愛護は育っている。家を継ぐ者として、少しずつ前へ出ている。父や母の手元にあったものを、ほんの端から受け取り始めている。

今日の炭の札など小さなものだ。けれど、小さなものからしか人は始められない。

火をどこへ先に渡すかを考えた子は、いずれ兵をどこへ置くか、誰を先に逃がすか、何を捨てて何を残すかを考えるようになる。


だがその行き先は、ない。


朝凪は顔を伏せたまま、呼吸だけを整えた。


ないと知っている。

知っていてなお、愛護が正しく育つことを、喜ばずにはいられない。

喜びは裏側から痛むものだと、朝凪はこのごろよく思うようになった。






屋敷を下がる前、朝凪は詰所へ寄った。

小堂筋に新たな動きはない。古道側へ寄せられた者もない。玄冬から山に関わる命が下った様子もない。

玄冬自身も、朝から表と奥の用をいつも通りにこなし、山へ人を向けるような動きは見せていない。


何もない。


朝凪は、その何もなさを帳面の余白を読むように確かめた。

何もないことは、安心そのものではない。

だが少なくとも今日、美菊へ向けて新しい手は伸びていない。

それだけを持って、朝凪は屋敷を下がった。


山の家へ向かう道は、夕方の冷えを含み始めていた。

昼の陽で緩んだ雪の表面がまた薄く固まろうとしている。踏むと小さく割れる。

人目から滑り落ちる綾をまといながら朝凪はいつもより少しだけ早く歩いた。


戸の前で、一拍置く。

中に火の気がある。人の気配もある。乱れはない。

戸を開けると、美菊は衝立の奥にいた。

窓は遠く、戸口も見えにくい。それでも美菊は、そこへ小机を寄せ、本を二冊置き、火鉢の熱が届く角度を少しずつ覚えている。

朝凪の足音を聞き分けたのだろう。戸が開く前から、手元を止めていた。


「ただいま」

「おかえりなさい」


美菊の声はいつも通りだった。

けれど、顔を上げた時の目には、朝凪の背後を見る癖がまだ残っている。

誰もいないことを確かめるほんのわずかな動き。

朝凪はそれに触れず、雪を払って戸を閉めた。


火鉢の炭は落ちかけていた。

朝凪が炭を足すと、美菊は少しだけ身を寄せた。

寒いのではない。話がある時、朝凪が火を整えてから座ることを、美菊は知っている。


「姫が、炭の配分を決めた」


美菊は瞬きをした。


「炭を、ですか」

「ああ。予定の荷が遅れた。番屋を先にし、後に回す家へは綿入れと細炭を出すことにした」


美菊はすぐには返さなかった。

炭。番屋。綿入れ。ひとつずつ、朝凪の言葉の向こうにあるものを探した。

美菊にとって炭は、この家の火鉢へ朝凪が足すものだった。

冷えた指を近づけ、湯を沸かし、冬を越すために数えるものだった。

けれど屋敷では、それが札になり、帳面になり、誰かの夜へ渡される順になる。


「ひめさまが、決められたのですか」

「奥方が尋ね、姫が自分で考え、寒さを先に防ぐ場所を選んだ」


美菊は、その言葉をゆっくり受け取った。

あんなに小さいのに、と思った。


この家に来はじめた頃の愛護は、山道で息を弾ませ、知らないことをまっすぐ尋ねる子どもだった。

嬉しいことがあれば頬を明るくし、腹を立てればすぐに眉を寄せる。朝凪の袖を引いて俯いていたこともある。美菊が兄だと知った時には、震えながら、それでも自分の方から手を伸ばした。


その子が、もう人の寒さを考えている。

誰を先にあたため、誰に一晩待ってもらうかを、帳面の前で決めている。

どれほど大変なことだろう、と美菊は思った。

火の足りない家がある。膝の痛む人がいる。夜に立たねばならない人がいる。

その中で順をつけることは、優しいだけではできない。

愛護はもう、誰かの痛みを自分の手で動かす場所へ座り始めている。

美菊は、膝の上で指を重ねた。


そんな子が、自分を兄と呼んでくれる。

何もできない自分を。

風斎の家に生まれたはずなのに、家のために札を読むことも、炭を配ることも、寒さに震える人の前へ出ることもできない。

知っているのは終わりだけだ。告げられるのは、変えられないことだけだ。

愛護が背負い始めたものを軽くしてやる力など、美菊にはない。

それでも愛護は、美菊を兄と呼ぶ。

その呼び名に値する人間でありたいと思った。


たとえ今だけでもよい。

雪が解け、またあの子がこの家へ来られるようになった時、屋敷で札を読み人の寒さを背負う小さな姫が、ここでは幼い顔のまま笑えるようにしてやりたい。

何も持たない美菊の前でだけは、菓子を分けることに真剣になり、朝凪に少し拗ね、火鉢のそばで膝を寄せていられるように。


兄というものが何であるのか、美菊はよく知らない。

けれど、愛護がそう呼ぶなら、その呼び名を汚したくなかった。


「ひめさまは」


美菊はゆっくり言った。


「とても、えらいですね」


朝凪は火鉢の縁に炭挟みを置いた。


「もう十二だ」

「はい」


美菊は頷いた。


「まだ、十二です」


朝凪は返事をしなかった。


その沈黙の中に、愛護への誇らしさがあることを美菊は感じた。

言葉にはしない。けれど、朝凪は愛護のことをきちんと見ている。

任された姫としてだけではなく、あの山道を自分で歩き、秘密を抱え、今日、小さな身で炭の順を選んだ子として見ている。


それも、美菊には嬉しかった。

朝凪の目は、ずっと美菊だけを追っていた。

美菊を守るために、他のものを遠ざけ、切り捨て、疑っていた。

愛護がこの家へ来ることも、最初は危うい乱れだったはずだ。

けれど今の朝凪は、愛護を信じている。案じてもいる。成長を見て、痛んでいる。


朝凪の中に、自分以外の大切なものが増えた。

それは、よいことのはずだった。

よいことなのに、胸が苦しい。


――朝凪は、それでも自分と死ぬ。


愛護を大切に思うようになっても、最後には美菊のところへ来る。そう決めている。美菊はそれを知っている。知っていて、朝凪が愛護へ親愛を向けることを喜んでいる。


ひどい、と思った。

誰がひどいのかは分からなかった。予言か。禍滲か。天宿りというものか。

何も変えられないくせに、愛護の成長も、朝凪の変化も、宝物のように受け取ってしまう自分自身か。

美菊は、膝の上の布を握りかけ、すぐに指をほどいた。

朝凪に見せたくなかった。


「朝凪」

「何だ」

「ひめさまのこと、また教えてください」


朝凪は美菊を見た。


「ああ」


短い返事だった。


火鉢の炭が小さく鳴った。美菊は火へ指先を近づける。

火は、そこにある間だけあたたかい。消えれば冷える。

だから人は炭を数え、札を作り、誰かへ届ける。


それを覚え始めた妹を、美菊は救えない。

たったひとり置き去りにして、風斎もろとも死ぬ。

その事実だけが、火のそばでもほどけなかった。




■■




花宮の冬は、識島の中央らしい穏やかさをまだ残していた。


朝夕には冷えが立つ。庭の端に霜が降り、池の浅いところへ薄い氷が張る日もある。

けれど、風斎の山のように雪が道を閉ざすことは少なく、まして妻鳥の北のように雪が暮らしの前提になることもない。

この年も、数日前に一度だけ白いものが降った。

庭木の枝と瓦の上へ薄く積もり、子どもらが喜ぶ間だけ残って、昼の光でほとんど消えた。


『天眼』――雪簇梵ゆきむらそよぎは、花宮の詰めの一室で娘を抱いていた。


七月に生まれた子である。

首はもうすわっているが、眠くなると体の支え方が急に頼りなくなる。

抱いた腕の中で背を反らせ、またすぐ梵の胸へ頬を押しつける。

機嫌のよい時には、梵の襟や髪へ手を伸ばし、掴めるものを見つけると小さな指で力いっぱい握った。


顔立ちは妻に似ている、と皆言う。梵はそれが嬉しい。

眉と、猫のような目元が特によく似ていた。髪と目の色は雪簇のものだ。日にあたると金色がよく目立つ。


梵は、その顔を自分の目では見たことがない。

生まれた瞬間も、妻が笑っている顔も、娘が初めて声を上げた時の表情も、この両の目は一度も拾わなかった。

梵の目は、産まれた時から光を持たない。

目蓋を上げても下ろしても、そこにある闇の厚さは変わらない。


その代わり、肩にはいつも小鳥がいた。

小さな白い鳥だった。羽毛の一枚一枚まで本物のように見えるが、命ではない。

綾で織られ、梵のために置いている目である。

鳥は肩の上でわずかに首を傾げ、部屋の灯、畳の縁、娘の頬、梵の指先を見ている。

梵はその目を通して、日常を知る。

娘が今、どんな顔をしているかも。


「ほら、父上ですよ」


梵は、娘の頬へ指の背をそっと寄せた。


「母上は巡回。忙しいねえ。父上と待ってようね」


娘は声の方へ顔を向けた。

小さな口が開き、「あう」とも「うう」ともつかない声がこぼれる。

肩の鳥がそれを見て、梵へ返す。


「うんうん、そうだねえ。いいねえ」


何がいいのか、自分でも分からない。

それでも娘が何かを言った気になっているのなら、すべてよいということにしたいのだ。


朝、妻は巡回へ出る前に、娘の額へ口づけてから梵の肩にいる鳥を指先で軽く撫でた。


「本日は東筋まで見てまいります。戻りは日暮れを少し過ぎるやもしれませぬ」

「……本当に行くの?」

「はい」

「七月に産んだばかりだよ」

「もう冬でございます」

「いや、そうなんだけど。そうなんだけどさ。まだ半年も経ってないし」

「この身は妻鳥にございますぞ! 子を産んだくらいで鈍る鍛え方はしておりませぬ」

「妻鳥のほかのひとに怒られない? それ」


梵が困ったように笑うと、妻は娘の頬をそっとつついた。


「ご心配くださるのは嬉しゅうございます。ですが、異状は待ってはくれませぬ。花宮の東筋は、近ごろ鳥の報せにも引っかかりがございましょう」


「それはあるけど、何もおまえが行かなくても」

「わたくしが見たいのです」

「現場主義だなあ」

「梵殿は、しょうとお待ちくださいませ。戻りましたら、東筋の様子をお伝えいたします」

「……無茶はしないでね」

「はい。無茶と無理の区別はつけております」

「ほとんど同じだし、どっちもしないで」


妻はそこで、声をあげて笑った。


「妻鳥の女を娶ったのですから、そのあたりは諦めていただかねば」


情けない声で唸る梵に妻は喉の奥で笑い、娘の額へもう一度だけ口づけた。


「よい子にしておいで」


その笑みも、娘の小さな頬も、梵は鳥の目で見た。

悔しくないと言えば、嘘になる。妻の顔も、娘の顔も、自分の目で見たいと思わない日はない。

けれど、それを口にすれば、妻はきっと静かに眉を寄せる。

泣く人ではない。ただ、梵の肩の鳥へ手を添えて、「梵殿は、見ておいでです」と言うだろう。


確かに、見てはいる。

けれど、自分自身の目ではない。


その違いを言葉にすれば、妻の背へ余計な荷を載せることになる。

だから梵は、見える目で見る。

借りものの目で、妻の笑みも、娘の寝顔も、今日の光も受け取る。


その目は、花宮のこの一室だけにない。

識島のすべての空に、梵の目は散っている。

綾で作った鳥たちが山の上を渡り、川沿いを旋回し、港の柱に止まり、街道の脇の木に紛れている。

何万という数は、もう数として意味を持たない。

数えるものではなく、広げておくものだった。

必要な時に見るためには、普段からそこに置いておかなければならない。


鳥の目は、今も梵の中へ流れ込んでいる。

妻鳥領の北の山肌。風斎領の小堂筋。雪簇の結界線の白い揺れ。花宮の回廊を歩く文官の袖。月渓の海に近い道を走る馬。野鼠を追う梟の視界。夜の田の上を低く飛ぶ小鳥の目。

いくつもの高さ、いくつもの色、いくつもの速さ。

それらが同時に脳の裏を叩き続ける。


ひとつひとつを見ているわけではない。

見ていたら、人はすぐ壊れる。

梵は流れを流れのまま受け、引っかかりだけを拾う。

水に手を入れて、石に触れた時だけ指を止めるようなものだ。

だが、その水量があまりに多い。

いつでも頭蓋の内側を押されている感覚があり、眠っていても完全には休まらない。


それでも、見ている。

見落としてはいない。


今この時も、識島のどこかで『門』が育っているなら、梵は拾う。

裂け目が厚みを持ち、綾の流れを押し、境が薄くなるなら、その変化は必ずどこかの目にかかる。

巨大な『門』ほど、開き切るまでには時間がかかる。

数刻、時にそれ以上。

異変から『門』へと育つ間に戦力を置ければ、開いた瞬間に討つことができる。

だから、早く見ることには意味がある。


『門』は毎日開くものでもない。

小さいものが続く時でも数日ごと。大きなものになると、年単位で見ないこともある。

開く側にとっても、容易ではないのだろう。

そうでなければ、この国はとうに数で潰されている。


娘が梵の襟を握り、強く引いた。


「いたた、強いねえ」


娘は面白がったのか、また短く声を出した。

言葉ではない。けれど、呼びかけのような声だった。

梵は肩の鳥でその顔を見ながら、掴まれた襟をそのままにしておく。


「はいはい。ごめんね、目が多くて」


娘に分かるはずもない。けれど梵は娘へ話しかける時、だいたい余計なことまで言う。

妻に聞かれると、赤子に言うことではございませぬ、と呆れられる。

呆れながら笑うので、梵は直す気がなかった。


卓の上には、各地から戻った控えが置かれていた。

妻鳥領での綾の不審。風斎での薄い滞り。月渓の海沿いで一瞬だけ鳥が散った記録。

どれも『門』ではない。裂け目でもない。傷というほど形を持たない。

けれど、何もないと言い切るには、同じ感触が多すぎる。


なぞられている。

測られている。


綾の流れの上を、見えない指が細く沿っているような感覚だった。

掴まれるのではない。動かされるのでもない。

ただ、深さや向きや、どこまで触れればこちらが気づくかを確かめられているような。


「変なんだよね」


梵は、娘の背を軽く叩きながら呟いた。


「『門』にならない。裂け目にもならない。傷というほどでもない。でも、触られてる。あっちにもこっちにもある」


娘は返事の代わりに、梵の襟を離し、今度は肩の小鳥へ手を伸ばした。


「あ、それはだめ。父上の目だからね」


梵が慌てて小鳥を少し逃がすと、娘は不満そうに口を尖らせた。鳥の目がそれを拾い、梵はたまらず笑う。


「だよねえ。チッチ触りたいよねえ」


笑いながらも意識は国中に広がっていた。


妻鳥領でなぞられた筋。風斎領でずれた兵。雪簇の結界に沿って一瞬だけ走った違和。月渓の海風の中に紛れた、ほんのわずかな濁り。

花宮の道の下にも、昨日、似たものがあった。

大きくならない。『門』にならない。ならないまま、識島の裏にうすく残る。


大規模な『門』の前兆なら、もっと育つはずだった。

小規模な多発なら、もうどこかで開いているはずだった。

だが開かない。開かないまま、何かが少しずつ確かめている。


梵は、両の目を閉じた。

閉じても、鳥の目はそこにある。

この目に、安寧の暗闇は訪れない。


娘がむずかる。梵はすぐに目を開けた。

肩の小鳥が娘を見る。丸い頬。小さな拳。妻に似た眦。

すべて、小鳥の目を通して梵へ届く。


「大丈夫、大丈夫。父上、いるよ」


娘は梵の声に少し落ち着いたのか、伸ばしていた手を下ろした。

梵は、娘のやわらかな頬に唇を寄せる。


「大丈夫、ねんねしな。父上がちゃんと見てるからね」


言ったあとで、梵は少しだけ笑った。

識島全土へ向けても、似たようなことをしているのだと思ったからだ。


眠れる者は眠ればいい。火に当たる者は火に当たればいい。

自分が見る。

『門』になるものは拾う。

そうしている限り、この国はまだ、開く前に構えられる。


『天眼』は識島を空から見下ろし、娘の背をゆっくり撫でた。




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