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愛及屋烏花軍  作者: 司馬示朗
◾️花晨月夕──風斎の章
32/32

瑞垣


雪は、翌朝には屋敷の庭にも薄く残っていた。


前夜から降り始めたそれは夜半に一度やみ、明け方近くにまた細かく落ちたらしく、築山の草の上や庭石の北側にだけ粉を払ったような白が乗っている。

池の端には薄氷が張り、そこへ赤く沈んだ山茶花の花弁が一枚、動かぬまま閉じ込められていた。

下働きの者は水桶の縁を叩いて氷を割り、女房たちは廊を渡るたびに肩をすぼめる。

屋敷の冬は、山に比べればまだ人の手が行き届く。

けれど、それでも空気の底にはこれから深くなる季節の重みがあった。


朝凪は、いつも通りに務めへ出た。

奥向きへ上がる前に詰所へ寄り、夜番からの報告を受ける。小堂筋に新たな異状はない。山道の雪は深まり始めたが、巡回の道はまだ塞がっていない。古道側へ入る者もない。

帳面へ目を通し、必要なところだけ問い、返答の遅い若い兵には不足を補わせた。手順はひとつも乱さなかった。乱せなかった、という方が正しい。


屋敷の中には、すでに別の空気が走っていた。

誰かが朝凪に直接何かを言うわけではない。だが、廊の角で若い武家が目を逸らす。女房の声が、朝凪の足音を聞いたところで不自然に細く切れる。下働きの者が火鉢を持ったまま、ほんの少し長くこちらを見る。

そうしたものは、どれもひとつひとつなら取るに足りない。だが重なれば、昨日玄冬が人前へ置いた言葉が、屋敷の中にすでに形を持ち始めていることくらい分かった。

朝凪は、それを訂正しなかった。

否定すれば、愛護の言葉が崩れる。崩れれば、美菊の存在は別の名を探される。

玄冬が何を考えているか分からない今、玄冬自身が置いた形を朝凪の側から壊す理由はない。

たとえそれが自分にとって不快で、余計な視線を招くものであっても、使えるうちは使うしかなかった。


ただ、それに頼るつもりはなかった。

朝凪は奥向きの控えの間で、愛護の支度を待つ間、頭の中で何度も道を開け閉めしていた。


もしもの時の策は、以前からあった。

山奥には、一晩か二晩なら身を置ける場所を作ってある。

廃された木地師小屋の壁を内側から直し、濡れぬよう油紙を挟み乾いた薪と火打ちを別の場所に埋めている。

春から秋なら美菊を連れ、どうにかそこまで入ることはできる。人目は少ない。水場もある。

食い繋ぐだけなら、隠した干飯と山のものを合わせれば足りる。


だが、冬は違う。

雪は隠すものではあるが、同時に暴くものでもある。

踏めば跡が残り、火を焚けば煙が立つ。沢は凍り、濡れた足袋は命取りになる。

朝凪ひとりなら綾で歩幅も道筋も散らせるが、美菊を伴い、荷を持ち、暮らせる形で移るとなれば話は変わる。

美菊は冬山を歩き慣れていない。足を取られれば遅れる。遅れれば痕跡が増える。


町へ移す手もあった。

それも、ずっと前から考えていた。黒髪黒目は民の色であり、色だけなら町の中で珍しくない。

だが、色だけで済むなら、美菊ははじめからここまで閉じ込められていない。

顔立ち、ものを受け取る時の静けさ、言葉を返すまでのわずかな間。

そのどれもが、人目のある場所では余計に目立つ。

まして今の美菊は、女と偽るには背があり、男として置けば別の疑いを招く。

町には民だけがいるわけではない。本家へ出入りする者も、奥向きの噂を知る者もいる。


領外へ出すなど、さらに悪い。

関所、宿、道中の荷、馬、人足。外へ出るほど、人に触れる場所が増える。

朝凪が屋敷を長く空ける理由も要る。

更に冬の移動は道筋がある程度固定される。追う側が圧倒的に有利だ。


――玄冬はもう山の家を知っている。

知られる前へは戻れない。

家を空にすれば、朝凪が美菊を動かしたと示すことになる。

玄冬が敵なら、それは追跡を始める合図になる。

敵でないとしても、その判断をこちらから確かめる術はない。

ならば、動かすのは玄冬が次に何をするか、少なくとも一手見てからでよい。


今は、置く。

山の家に。これまでの綾と、暮らしと、雪と、昨日の嘘と、玄冬の沈黙がかろうじて重なるその内側に。


そう決めるたび、朝凪の腹の底へ苦いものが沈んだ。

置く、という言葉は便利だった。守る、とも言える。隠す、とも言える。けれど実際には、美菊の生きられる場所をまた狭めることだ。

かつて、朝凪は母に、美菊を外に出してやってもよいのではないかと言ったことがある。

黒髪黒目は民の色だと、町へ紛れれば分からないのではないかと、子どもの浅さで本気で思った。

母は退けた。その容貌。風斎の者が見れば気づく者がいると、そして玄冬の名を短く出した。


その玄冬に、見つかった。


朝凪は、膝の上で指を一度だけ握った。

廊の向こうで女房が近づいてくる気配があり、すぐに手をほどく。

顔には何も出さない。出せば、それだけで役目に傷がつく。


「朝凪」


襖の向こうから、愛護の声がした。

いつもより少し低く整えられた声だった。幼いころのように呼びつける響きはない。

奥向きで女房たちの目がある時、愛護はもう、きちんと姫の顔を選べる。

朝凪は敷居際へ進み、頭を下げた。


「お呼びでしょうか」


愛護は母の座の少し下に座っていた。膝の前には布と小さな帳面が広げられている。

冬に入る前、兵の家々へ届ける綿入れや薬包、年のいった者へ回す炭の数を、奥方が女房たちと確認しているところだった。

愛護はその脇で、渡す先の名を読み上げたり、札の紐を揃えたりしている。

以前なら、こういう場に長く座ると足を崩したがった。

今はしない。もちろん、退屈でないはずはない。

けれど、その退屈を顔へ出してよい場とそうでない場を、愛護はもう知っていた。


奥方が、帳面から目を上げる。


「南詰めの番屋へ回す炭を、ひと籠増やせるかしら。去年、あそこは暮れに冷え込みが厳しかったでしょう」


朝凪は頭を下げる。


「詰所へ確認いたします。余剰があれば、明日にも回せましょう」


「お願いしますね」


愛護はそのやり取りを聞いて、札を一枚取った。

小さな筆で、女房が書いた名の下へ印を添える。

線はまだ大人のものほど安定していないが、以前よりずっと落ち着いている。

朝凪は、それを見た。

ついこの間、山の家で泣きそうな顔をしていた子と同じ人間が、今日は風斎の姫として冬の支度を手伝っている。

兄に会えない冬を、愛護は分かっている。

小堂へ参るには雪が深くなる。玄冬の件があろうとなかろうと、冬のあいだ山へ入る名目は立たない。


それでも、愛護は何も言わない。

朝凪が何も言わないなら、美菊は無事に在る。美菊が本当に危うければ、朝凪は必ず動く。

そう信じている目だった。幼い信頼ではない。自分で不安を抱えたまま、相手の沈黙を選び取る目だった。


用件が済み、朝凪が下がろうとした時、愛護はほんの一瞬だけこちらを見た。

問いはない。

ただ、目だけが訊いていた。

朝凪は深く頭を下げる形の中で、ごくわずかに頷いた。

愛護にはそれで届いたらしい。すぐに帳面へ視線を戻し、次の札を取った。




その昼過ぎ、朝凪は書庫の前を通った。


玄冬に与えられている部屋へ向かう廊で、書役が古い綴じ物を三冊、両手に抱えて運んでいた。

さらに後ろから若い者が、箱に入った巻物を持って続く。

いずれも普段、人の目に触れる場所へ出るものではない。

革紐は古く、表紙の角は擦れている。家譜や婚姻の控えとは違う。

もっと古く、扱いを選ぶ書物の類だった。


「玄冬様のところか」


朝凪が短く問うと、書役は足を止めて頭を下げた。


「はい。近ごろ、古い記録を多くお求めで」


「何の記録だ」


「天宿りに関わるものや、災害の記録の写しなどと伺っております。ほかにも、雪簇から届いた控えをお読みになるとか」


朝凪は表情を変えなかった。


「そうか。引き留めて悪かった」


「いえ」


書役はまた頭を下げ、廊の先へ消えた。

朝凪はその背を見送った。

美菊のことかもしれない。そうでないかもしれない。各地の綾の異状について、玄冬が調べているだけかもしれない。

天宿りの記録を読む理由など、今の識島にはいくらでもある。

だが、いくらでもあるからこそ、ひとつに絞れない。


玄冬は何も言ってこない。

朝凪にも、愛護にも、当主にも、少なくとも表向きには何も出していない。

山の家へ再び来た気配もない。黙っている。

だが、黙っていることがそのまま無害の証にはならない。


朝凪は足を止めず、そのまま奥向きへ戻った。






屋敷を下がるころには、雪がまた細かく降り始めていた。


門を出て町筋を離れると、空気は一段冷える。

朝凪は人目から滑り落ちる綾を薄くまとい、山へ向かった。

冬の道は、いつもより音が少ない。落ち葉を踏む乾いた音もなく、草のこすれる音も雪に吸われる。

ただ、自分の足が白の上へ沈む感触だけが、一定の重さで返ってくる。


山の家へ着く前に、朝凪は一度、背後を確かめた。

追う気配はない。それでも、完全には息を抜かなかった。

玄冬は朝凪が姫を伴って去ったあと、山中に残っていた。今の玄冬がまたしないとは言えない。

むしろ、どう動くか分からないから、朝凪はここまで考えている。

家の戸の前で、朝凪はいつものように一拍置いた。

中に火の気がある。人の気配もある。荒らされた感じはない。


戸を開けると、美菊は座敷の奥にいた。

昨日まで火鉢のそばにあった座布団は、少し後ろへ下げてある。朝凪が朝のうちに動かしたものだ。

戸口から見れば、柱と衝立が重なり、座っている者の顔はすぐには見えない。

窓際に置いていた小机も、火鉢の近くへ寄せた。そこに水差し、濡らした布、小さな薬湯の器がある。

冬の時期に必要なそれらは、置き方ひとつで家の気配を変える。


朝凪は戸を閉め、雪を払った。

美菊は顔を上げた。朝凪だと分かった時、膝の上で重ねていた指が少しだけ緩む。

ほんのわずかな変化だった。


「ただいま」


「おかえりなさい」


声はいつも通りだった。けれど、美菊の目は朝凪の後ろへ一度だけ行った。

戸の外。雪の庭。そこに誰もいないことを確かめるような動きだった。

朝凪はそれには触れず、持ってきた包みを下ろした。

炭と乾物、古布、針糸。どれも正当な用として処理できる範囲のもの。

朝凪は包みを開けながら尋ねた。


「どうだった」


室内の、変えた配置についてだ。

美菊は衝立の方を見た。古い二枚折りのものだ。祖父の代から家にあったらしいそれは、これまでほとんど使っていなかった。

色は褪せ、縁の漆もところどころ曇っている。だが置けば視線を切るには十分だった。


「不自由はありませんでした」


朝凪は頷く。


「戸口から顔が見えない場所だ」


朝凪は、衝立の陰を示した。


「入らせない方は勿論固める。外の綾を組み直す。巡回の足が寄る筋は潰す。煙を出す刻も変える。これは、戸口まで来た者の目を一度鈍らせるための支度だ。間に合えば、教えた手順で綾の裏に隠れろ」


美菊は、少しだけ目を上げた。

病んでいる者がいる。顔を見せられない者がいる。そう見えれば、好奇心や浅い疑いなら足は止まる。

だが、命じられて来た者や、確かめるつもりで来た者には通らない。

朝凪は、それを分かっていた。


屋敷にいる時にここの異常を拾っても、すぐには戻れない。

綾で道を削っても、山と屋敷の距離が消えるわけではない。

美菊が一人で顔を隠し続けることなどできない。手を伸ばされれば仕舞だ。


それでも、そこで終わるわけではない。


――予言は、必ず成就する。

美菊は、風斎の最後の日に、朝凪と共に死ぬ。

ならば、今見つかっても、殺されることだけはない。


朝凪は、その一点に手を掛けようとしていた。


本気で踏み込まれた時、美菊をその場で守りきる術はない。

ならば殺されないという一点に賭け、連れ出される前に、あるいは連れ出されたあとに、手を打つ。取り返す。

そのために外側を張り替え、道を読み、屋敷の動きに目を置き、玄冬の沈黙を測る。


予言に頼る自分に、腹が煮えくり返る。

だが、残された手を数え尽くした先でそこだけが折れずに残るなら、朝凪はそれを使う。

そうしなければ美菊を守れないところまで、もう追い込まれている。


予言の日までは死なないから大丈夫。

かつて、愛護と関わる危うさを前にそう言った幼い美菊へ、朝凪はきつく返した。


死なないだけで、何をされるか分からない。


あの時の自分は間違っていなかった。生きているだけでは守ったことにならない。

傷つけられ、連れ去られ、損なわれても、死ななければ予言には反しない。

その言葉を、今の朝凪は自分で踏み越えようとしている。


「もし玄冬以外の風斎の人間に見つかったら、隠し通そうとするな。抵抗するな」


「でも」


「抵抗すれば怪我をする。お前がそこで何かをする必要はない」


朝凪は、美菊を見た。


「俺が取り返す。それまで生きていてくれれば、いい」


言ってから、胸の底が冷えた。

だが、そこに縋るしかない。

美菊を守るために積んできた手が、いまは美菊を苦しめてきた予言の残酷な確かさへ寄りかかっている。


美菊は責めなかった。

朝凪が示した衝立の陰を見て、少しだけ座所の近さを確かめた。

窓は遠い。戸口も見えにくい。

火鉢のそばにいることはできるが、これまでのように、家の中の好きな場所へゆるく身を置くことは難しくなるだろう。


美菊の暮らしは、もともと狭かった。

家の外へは出られない。庭より先へも行けない。山の匂いも、町の音も、窓や戸口から入るものを受け取るしかない。

それでも家の中だけは、美菊のものだった。

窓際で風を聞くことも、火鉢のそばで本を読むことも、台所の近くで朝凪の手元を眺めることも、誰に許しを乞う必要もなかった。


それを、さらに奥へ下げる。

守るためだ。そう言えば、理由は立つ。実際、そうするしかない。

だが朝凪がしているのは、美菊の安全を積むことと同じだけ、美菊の暮らしを削ることでもあった。


十のころ、外へ出してやりたいと母に食い下がった自分が、いまは家の中でさえ美菊を見えない場所へ追いやっている。

その事実が、火鉢の灰の下へ落ちた炭のように、胸の底でじりじりと残った。


美菊は、衝立の陰に置かれた座布団へ視線を落とした。


「ここでも、本は読めます」


朝凪は顔を上げた。


「火も近いです。朝凪の帰る音も、聞こえます」


「窓は遠い」


「音は、聞こえます」


美菊はそう言って、少しだけ考えた。


「朝凪が、そうした方がよいと思ってしてくれたことなら、つらいことはありません」


朝凪は、すぐには返せなかった。

つらくないはずがない。

そう思う。けれど美菊の声には、慰めのための飾りがなかった。

朝凪の判断で狭められるなら、それは美菊にとって理不尽ではないのだと、本当にそう受け取っている声だった。

だからこそ、苦かった。


「なら、そうしてくれ」


朝凪はようやくそれだけ言った。

美菊は頷いた。


「はい」




夜に近づくにつれ、雪は少し強くなった。


朝凪は戸の合わせを確かめ、裏手の小さな戸にも手をかけた。外からはただ古い平屋に見える。

中に人が暮らしていることは、綾のむこうに薄くある火の気と手入れの気配でわかる。だが、誰の家かまでは見えない。

これまで何年もそうしてきた。玄冬に破られたからといって、すべてが無意味になるわけではない。

術も、手順も、暮らしも、重ねたものはまだ残っている。


美菊は、新しい座所で針を持っていた。

古布の端を折り、肩掛けの内側へ縫い足している。外から見えない場所へ少しだけ厚みを加えるためだ。

手つきは丁寧だが、速くはない。針が布を抜けるたび、灯の下で細い影が動く。

古布は、朝景の衣だったものだ。色は薄く、ところどころに擦れがある。だが肌触りは柔らかい。


「姫は今日、奥方の手伝いをしていた」


朝凪が言うと、美菊の手が止まった。


「ひめさまが」


「冬の見舞い品の札を揃えていた。間違えずに読んでいた」


美菊は少し目を伏せた。嬉しい時の顔だった。

大きく笑うわけではない。けれど、まぶたの伏せ方と指先の緩みで、朝凪には分かる。


「ひめさまは、きちんと姫様を頑張られているのですね」


「そうだな」


「雪が解けたら、どんな風に過ごしたか、聞かせてもらえるでしょうか」


「口が止まらなくなるぞ。一日では足りないだろうな」


美菊は静かに笑った。


朝凪は、美菊を動かさないと決めた。美菊は家の奥へ下がる。玄冬は何も言わず、本を集めている。屋敷では冬の支度が進み、愛護は姫として少しずつ前へ出ている。

雪の下で、すべてが少しずつ変わっていた。


朝凪は棚の帳面を取り、炭と乾物の数を書きつけた。雪解けまでに足りるか。足りなければ、どの名目で買い足すか。

屋敷を通せるものと、町で調達するものを分ける。

火を使う時間も変える。煙の出方は、雪の日ほど目立つ。

戸を開ける刻も、山の鳥が動くころに合わせる。


美菊はその横で、布を縫い続けていた。

逃げる支度ではない。

ここに残るための支度だった。


山の家は、もう誰にも知られていない家ではなかった。

けれどこの冬、朝凪はそこを捨てない。

捨てれば、美菊を守ってきたものまで自分の手で壊すことになる。


外では雪が降っている。


雪は道を塞ぐ。足跡を残す。人を遠ざけもすれば、近づいた者の跡を消しにくくもする。厄介で、冷たく、少しも優しくはない。

それでも今だけは、朝凪はその冬を盾にした。


雪解けまで。


その短い猶予の中で、次の手を読むしかなかった。





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