回雪
その日町の家の離れには、朝から薄い雪明かりが差していた。
雪は庭へ積もるほどではなかったが、空が低く白んでいるせいで障子の向こうの景色は昼だというのに輪郭が鈍い。
火鉢の炭は赤く起きている。けれど離れは母屋より冷えやすく、畳へ手をつけば指の腹からじわりと冷たさがしみた。
美菊は、窓に近いところに座っていた。
膝の前には小さな木箱がある。中には貝殻や、古くなった木の駒や、簪の飾り玉が入っていた。
外へ出られない美菊のために朝凪が町で見つけたり、汀が貰ってきたりしたものだ。
美菊はそれらを一つずつ取り出し、畳へ並べ、少し眺めてからまた箱へ戻している。
楽しいのかどうか、顔だけでは分からない。
ただ、指の動きは丁寧で、飽きている様子もなかった。
黒い髪が、頬の横へ落ちている。
六つになった美菊は、もう赤子ではない。歩く。喋る。粥だけでなく、魚や芋も食べる。
けれど朝凪の目には、まだ危ういものに見えた。
細い手首も、すぐに冷える指先も、疲れると黙ってしまうところも、離れの空気の中に長く置かれすぎたもののようだった。
朝凪は、その横顔を見てから、炭を足している汀へ向き直った。
「母さん」
汀は顔を上げない。
「何だ」
「こいつ、外に出してやってもいいんじゃないか」
炭挟みの先が止まった。
火鉢の中で、小さく炭が鳴る。
「駄目だ」
返事は早かった。考えるための間はなかった。
朝凪は唇を引き結んだ。そう言われるのは分かっていた。
分かっていても、黙っていられなかった。
「黒髪黒目は民の色なんだから、変に思われることはないだろ。町にいる子供は、みんなこんな色だ」
汀は、ようやく朝凪を見た。
「朝凪」
「こいつを捨てた本家の奴らだって、六年前の赤ん坊の顔なんか覚えてない」
木箱の前で、美菊が顔を上げた。
自分の話をされていることは分かっている。だが、何が問題なのかまでは分からないのだろう。
黒い目が、朝凪と汀をゆっくり見比べる。
朝凪はその目を見て余計に腹が立った。
何も知らない。知らされていない。知らされないまま、ずっとここに置かれている。
汀は炭挟みを火鉢の横へ置いた。
「赤ん坊のうちのほうが、まだましだった」
「なんで」
「顔が育つからだ」
汀の目が、美菊へ向いた。
美菊はまた木箱の中へ視線を落としていた。淡い貝殻を指でつまみ、光に透かすように持ち上げている。その仕草は幼い。
けれど横顔の線だけが、妙に整っていた。子供の柔らかさの中に、すでに別のものが混じり始めている。
「若様は、奥方様にどんどん似てきている」
朝凪は、すぐには言い返せなかった。
本家の奥方など、朝凪は見たことがない。
奥向きのさらに奥にいる人で、十の子どもが気軽に顔を知っている相手ではなかった。
だから、美菊のどこが似ているのか、朝凪自身には分からない。
それでも、汀がその名を出した重さだけは分かった。
似ているから危ない。
そう母が言うなら、たぶん本当に危ないのだ。
「町の者は分からないだろう」
汀は声を低くした。
「でも、やたらと綺麗な子供は、それだけで目立つ」
「……目立つだけなら」
「町にいるのは民だけじゃない。風斎の人間だっている。あの家に目立つ顔の子供がいると耳に入れば、記憶に残るかもしれない。覚えていればその子供に目が向く。そして、見たら。奥向きに近しい奴なら──奥方様を見たことがある奴なら、気づく可能性がある」
朝凪の手が膝の上で握られた。
美菊は悪くない。美菊がきれいなのも、顔が誰かに似ているらしいことも、色が違うのも、何一つ美菊が選んだことではない。それなのに、全部が美菊を閉じ込める理由になる。
「じゃあ、ずっとここに閉じ込めるのかよ」
汀は答えなかった。
その沈黙が、離れの中へ深く落ちた。
「本家の奴らなんか」
「朝凪」
汀の声が鋭くなった。
朝凪は息を止める。
汀は少しの間、朝凪を見ていた。怒っている顔ではない。むしろ、怒りを通り越した先にある顔だった。
失ったものと、守らなければならないものを両方知っている大人の顔。
やがて汀は、ひどく短く言った。
「玄冬」
その名だけで、離れの空気が変わった。
美菊の指から、貝殻が畳へ落ちる。小さな音だった。けれど、朝凪にはやけに大きく聞こえた。
「玄冬は、絶対に気づく」
朝凪は何も言えなかった。
汀は、朝凪の前へ膝をつく。真正面から目を合わせる。その目には、母の情も、武家の厳しさも、どちらもあった。
「いいか朝凪。玄冬にだけは絶対に見つかるな」
■■
山の家の外では、雪が降っていた。
朝から落ち始めた雪は、昼を過ぎても弱まらない。
強い雪ではない。風もない。ただ、空の低いところから細かな白が絶えず落ちて、庭の土を少しずつ隠している。
軒下の石の端にはまだ濡れた色が残っているが、木の根元や踏まれていない草の上は、もう薄く白い。
朝凪は戸口に近いところへ座り、戻りの刻を計っていた。
家の中は火鉢の熱であたたかい。だが、戸の合わせ目から入る冷えは消えない。山の冬は、部屋の中へも少しずつ入り込む。
美菊は火鉢のそばに座っており、愛護はその向かいに膝を寄せていた。
藤鼠の羽織は、愛護の脇へ畳まれている。
山道では重く見えたそれも、室内では上等な布の厚みを静かに保っていた。
小皿には、白い菓子がある。
小堂で供えを済ませたあとに、いつも通り分けて下げたものだ。
雪を模したような白い練り菓子に、端だけ薄く紅が差してある。
愛護はそれを、美菊の皿へ寄せたがる。美菊は逆に愛護の皿へ戻そうとする。
二人の間で、菓子は小さく切られ、半分ずつに分けられていく。
朝凪はそれを見ながら、外の雪を考えていた。
東屋には供回りがいる。小堂へは確かに参った。供えも残した。石段についた雪の乱れも、愛護が来た痕として不自然ではない。
だが、長く留まりすぎれば話は別だった。帰る道で雪が強くなれば、裾の濡れ方が変わる。足跡の残り方も変わる。
屋敷へ戻った時、女房たちはまず愛護の顔色を見る。次に衣を見る。奥方は何も言わずとも、裾の重さや髪の湿りに気づく。
「姫様」
朝凪は、火鉢の炭が崩れる音に合わせるように声をかけた。
愛護は顔を上げた。帰る刻だと分かっている顔だった。分かっていて、まだ皿の上の菓子を見ている。
「……あと、ひと口」
朝凪は短く息を置いた。
「はい」
愛護が少しだけ明るい顔をする。
美菊はその顔を見てから、自分の皿に残っていた菓子をさらに小さく切った。
「多いよ」
愛護が言う。
「ひめさまが、持ってきてくださったので」
「だから、美菊が食べるの」
「では、半分」
「それ、さっきも言った」
美菊が瞬きをする。言われてから、少し考える。朝凪は、それを見ていた。
美菊の返答は、ときどきこうして少し遅れる。
人と話すことに慣れた者なら笑って流すようなところで、美菊は言葉そのものを確かめる。
その遅さを、愛護は急かさない。
山の家では、時間の流れが屋敷と違う。愛護は屋敷では姫として座り、姫として話し、姫として見られる。
ここでは、美菊の返事を待つ。菓子を分ける。火に手をかざす。名を呼ぶ声も、屋敷のそれとは少し違う。
朝凪は、それを許してきた。
許してきたからこそ、今日がある。そして、今年も今日でしばらく途切れる。
雪が深くなれば、小堂参りは控えさせられる。
無理に通えば、隠してきたものの方が壊れる。
愛護もそれを知っている。美菊も知っている。誰も口にはしない。
その沈黙が、火鉢のまわりに落ちていた。
そのとき、山の外側で綾が沈んだ。
音はしない。
枝が折れたわけでも、戸が叩かれたわけでもない。ただ、家の周りに薄く敷いていたものの一つが、踏まれたあとに戻らなかった。
普通の足なら、そこへ触れた時点で進む理由が鈍る。
寒い、道が悪い、今日は引き返した方がいい。
そういう当たり前の考えが自然に立ち上がり、足は外へ向く。
だが、その足は止まらなかった。
朝凪は息を詰めた。
美菊が顔を上げる。
愛護は、菓子を手にしたまま朝凪を見た。
何かあったのだと察している。だが、何が起きたのかまでは分かっていない。
二度目の手応えが来た。
今度は近かった。外側の迷いではない。家そのものへ触れる前の最後の薄い層へ、まっすぐ意志が当たっている。
偶然ではない。迷い込んだ者でもない。
そこに何かがあると知り、そこへ来る者の歩き方だった。
朝凪は立った。
「奥へ」
声は低くした。強く言えば愛護が怯える。弱く言えば美菊が遅れる。
美菊は動こうとした。けれど、外の足はもう近い。戸口までの距離を、今さら安全に稼げるとは思えなかった。
朝凪はそれ以上待たず、戸へ向かう。
背後で衣擦れがした。愛護が息を吸う音も聞こえた。
振り返るわけにはいかない。
戸を開けた瞬間、雪の冷えが胸に入った。
白くなりかけた庭の向こうに、玄冬が立っていた。
その姿を見た時、朝凪の中で、いくつかの判断が同時に消えた。
ただの巡回ではない。異状の確認でもない。道を誤ったのでもない。玄冬は、ここへ来るつもりで来ていた。
朝凪は敷居を越え、戸を背にして立った。
背後には家がある。美菊がいる。愛護もいる。
玄冬の視線から戸口の内側を少しでも遠ざけるには、自分がそこに立つしかなかった。
「玄冬様」
一礼する。深すぎず、浅すぎず、屋敷でいつも向けるものと同じ礼にした。ここで乱れれば、玄冬に余分なものを渡す。
玄冬は朝凪を見ていた。
雪が肩に積もっている。ここまで歩いてきた時間の分だけ、白が黒い衣の上に残っていた。息は乱れていない。
けれど、朝凪が戸口に立った瞬間、玄冬の目の奥で何かが一度止まった。
ほんの一拍だった。
その一拍で十分だった。
玄冬は、朝凪がここにいるとは思っていなかった。
朝凪はそこまで読んだ。読んだところで、状況がよくなるわけではない。むしろ悪い。
玄冬がここへ来た理由は、朝凪の不在を見込んだものだったということになる。
「姫様の供についているのではないのか」
玄冬が言った。
「御参詣は、すでに済ませてございます」
「では、なぜここにいる」
朝凪は、足元の雪へ視線を落とした。
玄冬の足跡はまっすぐではない。迷いの層を抜けてきた痕がある。
足の向きがところどころずれ、けれど戻っていない。
進めない理由を与えられながら、その理由を退けて来た歩き方だった。
この男は、家を見に来た。
誰かを探しに来た。
「雪が強くなる前に、山の様子を少しご覧に入れておりました」
「供回りは」
「東屋に」
「姫様を、供から離したのか」
朝凪は答える前に、背後の気配を聞いた。
美菊が奥へ下がりきれていない。愛護も動いている。何かを拾ったような布の擦れる音がした。
朝凪は振り返らない。振り返れば、玄冬の目もそちらへ流れる。
「小堂より先は足場が悪うございます。いつものように、私のみが付き添っております」
「いつものように」
玄冬は、その言葉を静かに繰り返した。
朝凪の背筋に冷えが落ちた。
玄冬は小堂参りそのものを、今初めて疑ったのではない。前から、ある程度は見ていた。
小堂より先へ愛護が入っていることも、朝凪がその形を整えていたことも、知っていた。
だが、それでもこの家までは届いていなかったはずだ。
それが届いた。
今、届いた。
玄冬が一歩進んだ。
朝凪は動かなかった。下がれば戸口が開く。進めば、玄冬へ敵意を向けたことになる。
どちらも選べない。礼を保ったまま、退かない。それしかなかった。
「中を改める」
玄冬は言った。
「私の家にございます」
「だからだ」
その声には怒りがなかった。
怒りではないから、余計に厄介だった。玄冬は感情で来ていない。確かめるために来ている。
朝凪がどれほど礼を尽くしても、どれほど私事だと言っても、このままでは押し切られる。
「玄冬様」
朝凪は声を低くした。
「それは、私への猜疑でございましょうか」
「疑われぬ理由を、お前は今ここに持っていない」
その言葉は正しかった。
玄冬の目に映っているのは、姫の供をしているはずの朝凪があり得ないほど短い時間で山中の家に戻り、その戸口を背に立っている姿だった。
それだけで十分すぎた。
朝凪は一瞬で数えた。
ここで玄冬を力で止める。無理だった。玄冬相手に刃を向ければ、その時点で終わる。
美菊を逃がす。遅い。玄冬の目の前で戸を閉め、家の奥を動かせば、隠していると認めるのと同じだ。
愛護を戻す。玄冬が退かない限り、背後を開けられない。
玄冬が、もう半歩進む。
朝凪は足裏へ綾を寄せた。形にはしない。まだ。ただ、必要になれば戸口ごと距離をずらす。
その一手を取った瞬間、玄冬にはすべて知られる。
それでも、美菊の顔を見られるよりはましだった。
その時、背後で愛護の声がした。
「玄冬」
朝凪は、振り返らなかった。
振り返らなかったが、胸の内で血が引くのが分かった。
来るな。
そう思った。けれど、もう遅かった。
愛護は敷居の内側に立っていた。朝凪の肩越しに、玄冬の視線がそこへ移る。
今度こそ玄冬の目が止まった。
朝凪がここにいることは、玄冬の計算を外した。
だが愛護が家の中から出てくることは、計算そのものの外にあったはずだった。
玄冬の表情は動かない。
けれど、その沈黙は先ほどより深かった。
「愛護が、朝凪の家にいる女の人を見たいって言ったの」
朝凪は、愛護の言葉をすぐには理解できなかった。
女。
誰のことを言っているのか。美菊のことか。なぜその言い方になる。愛護は何を始めた。どこへ話を運ぶつもりだ。分からない。分からないが、愛護は玄冬へ向かって立っている。声は少し高いが、泣いてはいない。
玄冬は愛護を見ていた。
「女、でございますか」
「うん。だって朝凪、縁談をぜんぶ断るんだよ。雪簇の方とかすっごく綺麗だったのに。なんでって聞いたら、家に人がいるって言うから」
朝凪は、そこでようやく愛護の意図を掴んだ。
家にいる者を、美菊ではなく、朝凪が隠している女として置く。縁談を断る理由に結びつける。愛護がその相手を見たいと言ったことにする。
粗い。危うい。少し考えれば綻びはいくらでもある。
だが今この場で、玄冬に戸口を踏み越えさせない名目としては、ほかに何もなかった。
「この朝凪がだよ? 気になっちゃうでしょ? だから、見せてくれたら、縁談断るの手伝ってあげるって言ったの」
玄冬の目が朝凪へ戻る。
朝凪は一拍だけ息を止めた。
ここで否定すれば、愛護の作った名目は崩れる。
かといって、認め方を誤れば、姫を私事へ巻き込んだ不始末だけが残る。
朝凪は頭を下げた。
「姫様の御望みを、お止めしきれませんでした。軽率でございました」
それは謝罪であり、愛護の話に乗る返答でもあった。
玄冬は黙っている。
愛護は、さらに顎を上げた。
「だってほんとにそんな人がいるなら、配慮してあげるのも主のツトメでしょう?」
愛護の声は、わざと少し賢しらな色を持たせていた。
朝凪は、その声を聞いて胸の奥が軋んだ。
愛護は、場に別の名を与えようとしている。
十二の子供が、恐怖で泣きそうになりながら、それでも主の顔を作っている。
雪が降っている。戸口の外と内の温度が、朝凪の背を境に分かれていた。
家の奥では、美菊が息を潜めている。背後で布の擦れる音がかすかにした。
愛護がさっき何かを被せたのだろう。
朝凪には、それが何かを確かめることはできない。
玄冬はやがて言った。
「朝凪」
「は」
「姫様を、このような場所へお連れするものではない」
「申し開きもございません」
「私事を持つなとは言わぬ。だが、姫様を巻き込むな」
「心得ます」
玄冬は、愛護へ向いた。
「姫様も、戯れが過ぎます」
「はあい。でも玄冬、朝凪を怒らないで。愛護が見たいって言ったんだもん」
愛護の声は、少しだけ普段のわがままに似せてあった。
朝凪はそれに気づき、喉の奥が詰まるような感覚を覚えた。
玄冬は一歩下がった。
その瞬間、家の中で布がわずかに擦れた。
朝凪は振り返れなかった。だが玄冬の目が、朝凪の肩越しに家の奥へ落ちたのが分かった。
ほんの一瞬だった。けれど、その一瞬で玄冬の呼吸が変わった。
朝凪は、背中に氷を差し込まれたように感じた。
見えた。
どこまでかは分からない。だが、何かは見えた。
玄冬は何も言わなかった。顔色も変えなかった。ただ、朝凪をもう一度見た。
その目に、さきほどまでの確認とは違うものがあった。
確信か。動揺か。あるいは、そのどちらもか。
「姫様を、疾く屋敷にお連れしろ」
玄冬はそう言って、雪の中へ背を向けた。
朝凪は、その背が木立の向こうへ消えるまで戸口から動かなかった。
玄冬の気配が薄れても、すぐに戸を閉めなかった。
玄冬は退いた。だが、退いたことと去ったことは違う。
雪の中へ消えた足取りが、本当に下りへ向かったのか。どこかで止まったのか。
綾の層へ触れる気配を、朝凪は耳ではなく皮膚の裏で探っていた。
手応えは遠ざかっている。少なくとも、この家からは離れた。
それを確かめて、朝凪はようやく戸を閉めた。
家の中の空気は、さきほどまでとはまるで違っていた。
火鉢の熱は残っている。菓子の皿もそのままだ。
だが、部屋の中にあった静かな冬の時間は、もう戻らない。
愛護は、美菊にしがみついていた。
美菊の肩には愛護の羽織が半ばずれてかかっていた。愛護はさきほどこれを美菊の上に被せたのだろう。さらに足元には汀の小袖を潰したひざ掛け。遠目にちらとだけ見れば、女の装いに見える。
美菊は膝をついたまま、愛護の背へ手を回していた。
愛護は声を殺そうとしているが、肩が震えている。泣いているのだと分かった。
「ごめんなさい」
愛護の声は、布に吸われてくぐもっていた。
「ごめんなさい、愛護が来たから。愛護が、ここにいたから」
美菊は背を撫でている。
「ひめさま」
それ以上、言わなかった。
大丈夫だとは言えない。美菊にも、大丈夫かどうか分からない。愛護もその沈黙を分かっているから、なおさら泣く。
朝凪は、二人から目を逸らした。
今、泣かせておく時間はない。だが、引き剥がすには愛護の限界が近すぎる。
ここで無理に戻せば、屋敷で崩れる。屋敷で崩れれば、終わる。
戸口へ意識を置いたまま、玄冬の動きを考えた。
玄冬が愛護の嘘を信じたのなら、このまま屋敷へ戻る。姫が朝凪の私事に首を突っ込んだこととして、一度本家へ持ち帰るはずだ。
だが、あの一瞬で何かを見たなら戻らない。愛護がいる場で押し切ることは避けたとしても、朝凪が姫を連れてここを離れるのを待つ。
朝凪に策を打つ時間を与えぬためには、それが最良だ。
問題は、玄冬にも長い猶予はないことだった。
玄冬は今日初めてここを探してきたはずだ。少なくとも、この道に短縮の綾を仕込んでいるはずがない。
即興で簡易的な綾を織ったとしても、山の家から屋敷へ戻るには相応の時間がかかる。
玄冬ほどの者が何の断りもなく本家を長く空け続けることはできない。雪の日であればなおさらだ。
詰所も奥向きも、必ずどこかでその不在を数え始める。
半刻。
玄冬が山中で待てる猶予は、そのあたりが限りだと朝凪は見た。
ならば、美菊を動かさない方がいい。
今ここで連れ出せば、雪に足跡が残る。愛護を連れていては速度も落ちる。
隠しきれない移動の痕を作るくらいなら、家の内へ沈めて半刻をしのぐ。
玄冬が見ていない場所へだけ手を打ち、玄冬が屋敷へ戻らざるを得ない刻まで耐える。
朝凪は納戸の方へ歩いた。
大きく覆い直すことはできない。一度破られたものを同じように重ねても、玄冬には意味が薄い。
ならば、まだ玄冬が目を通していない場所へだけ、応急の手を打つ。
納戸の柱、床の縁、戸の合わせ目。
美菊が身を入れられるだけの狭い場所へ、視線が滑るよう綾を置いていく。
広げすぎれば粗くなる。狭すぎれば逃げ込む前に見つかる。
朝凪は指先で柱をなぞりながら、そのぎりぎりを取った。
「美菊」
呼ぶと、美菊が顔を上げた。
愛護はまだ美菊の袖を握っている。
「玄冬が戻ってきたら、納戸へ入れ。戸は強く閉めるな。俺が呼ぶまで出るな」
美菊は頷いた。
「はい」
「迷うな」
「はい」
返事はいつも通りだった。
それがかえって、朝凪の胸を締めた。
美菊は、言われたことを守る。守ろうとする。
だが、相手は玄冬だ。
ここまで来た相手に、この程度の綾がどこまで通じるかなど分からない。
愛護が顔を上げた。
目が赤い。けれど、泣き続ける時間はもうないと、自分でも分かっている顔だった。
「朝凪」
「戻ります」
「でも」
「戻らなければ、余計に悪くなります」
愛護は唇を噛んだ。
その顔は、十二の子供だった。けれど、さきほど戸口で大立ち回りをこなした者でもあった。
朝凪は、その両方を見た。見た上で、藤鼠の羽織を拾い、愛護の肩へかける。
「姫様」
朝凪は低く言った。
「もし顔色を訊かれても、屋敷では、ただ冷えたことにしてください。言葉が多くなればその分綻ぶ場所も多くなります」
愛護は頷いた。
「うん」
「玄冬様のことは、こちらから口にしない」
「うん」
美菊は、そのやりとりを黙って聞いていた。
愛護は美菊へ向き直る。何か言おうとして、声が出なかったのか、口を閉じた。
代わりに、美菊の手を両手で包むように握った。
「また来る。ぜったい、来るから」
小さな声だった。
美菊は、その手を見てから、愛護を見る。
「はい。お待ちしています」
愛護はまた泣きそうになった。だが、今度は泣かなかった。
屋敷へ戻ると、何も起きていなかった。
東屋に残っていた供回りは、雪が強くなる前に戻れたことを安堵しただけだった。
小堂の供えは済んでいる。愛護の裾は少し濡れていたが、冬の山道なら不自然ではない。
顔色が悪いことも、火に当てれば戻る程度に見えた。
玄冬は戻っていない。
屋敷の気配を一巡させただけで、朝凪にはそれが分かった。
玄冬がいる時の、廊の角や詰所の端に生じる重みがない。
誰かが口にしたわけではない。
だが、あの男が屋敷へ戻っていれば、空気はこうはならない。
奥方の前で、愛護はよく堪えた。
寒くて疲れたこと、小堂へ供えたこと、雪が思ったより降っていたこと。それだけを話す。
声は少し細いが、山から戻った子供の疲れとして通る。
奥方は愛護の頬へ触れ、冷えていますね、と言って女房へ火鉢を寄せさせた。
朝凪は敷居際に控えながら、愛護の呼吸を聞いていた。
乱れていない。泣き出さない。玄冬の名も出さない。
やがて女房が火鉢を寄せ、奥方の目が一瞬そちらへ向いた。
その隙に、愛護が朝凪を見た。
早く帰って。
声はなかった。だが、はっきり伝わった。
朝凪はそれに甘えるつもりだった。体調不良でも、山道の冷えでも、理由は作れる。普段より少し早く下がること自体は、不自然ではない。
「姫様が雪に冷えられましたので、私も一度下がり、衣を改め――」
そこまで言いかけた時、廊の奥で人の足が止まったのがわかった。
一人ではない。二人、三人。同じ場所で、同じように動きが鈍る。
奥向きの穏やかな気配の底に、ざらついたものが走った。
――異状だ。あの、気味の悪い、測るような乱れ。
朝凪は、言葉を止めた。
あまりに、間が悪かった。
間が悪いどろこではない。
今この時、この場所で、朝凪が下がろうとしたその一呼吸に合わせるように、奥向きの綾が乱れた。
偶然として処理するには、気味が悪いほど急所を突いている。
朝凪が動くより先に、若い兵が控えの間の外へ膝をつく。
「朝凪殿」
声は抑えられていたが、急いでいた。
「奥廊下の綾に異状が。玄冬様が不在につき、見ていただきたいと」
朝凪は一拍だけ黙った。
断れない。
ここで断れば、不自然になる。
玄冬がいない今、妻鳥家からの報告の場にも同席した朝凪が呼ばれることは何もおかしくない。むしろ、応じない理由の方が目立つ。
愛護が、火鉢のそばで手を握っているのが見えた。
朝凪はそちらを見なかった。見れば、余計なものが顔に出る。
「ただちに」
深く頭を下げ、立った。
廊へ出ると、冷えが足元から上がってきた。
兵の後につきながら、朝凪は山の家の戸口を思った。
納戸へ向かう美菊の足。閉めすぎるなと言った戸。火鉢のそばで頷いた顔。
玄冬が戻れば、あの応急の綾では長くは持たない。
けれど今の美菊にできることは、言いつけ通り隠れることだけだった。
急ぎたい。
今すぐ踵を返し、山へ戻りたい。
だが、廊の異状は目の前にある。兵の視線もある。奥向きの気配もある。
ここで乱れれば、山の家へ続く別の疑いを増やすだけだ。
朝凪は歩く速さを変えず、指先だけを袖の内で握った。
半刻。
そう数えた時間が、頭の中で削れていく。
玄冬が山に残っているなら、もう動いている頃だろう。
美菊は納戸へ入れたか。すぐに反応できたか。足音に怯えて、かえって物音を立てていないか。
祈るという行為を、朝凪はあまり信用していない。
だがその時だけは、祈る以外にできることがなかった。
玄冬は、山中にいた。
屋敷へ戻る道は分かっている。戻ろうと思えば戻れた。だが足はそちらへ向かなかった。
木立の陰で雪を避け、息を潜める。細かな雪が肩に積もり、袖の端に白く残る。
寒さは感じていたが、今は寒さの方がまだ扱いやすかった。
朝凪が戻れば、手を打つ。
それだけは分かっていた。
家も、道も、人も、すべてまた別の形に沈めるだろう。あの男はそうする。
姫の前で退かなかった姿を、玄冬はもう見ている。
そう、――姫がいた。
あの家に。あの者のそばに。何も知らぬ顔で、いや、何かを知っている顔で、玄冬の前に立った。
玄冬は、閉じかけた目を開けた。
閉じれば、羽織の隙間から見えた顔が浮かんでしまう。
伏せた目。頬の線。黒い髪。
風斎の色はどこにもない。
それなのに、雪の中に灯るように見えた。
十七年前は、黒い髪だけを見た。
在り得ない色を見た。
在ってはならないものだと見た。
今は違う。色ではないものが、玄冬の喉元へ刃のように来ている。
雪が少し強くなった。
玄冬は木立の陰から出た。
動くなら、今しかない。朝凪が戻る前に。姫のいないところで。あの者と、向き合わなければならない。
雪を踏む音は、低く沈んだ。
美菊は、戸口の音で顔を上げた。
朝凪ではない。
それはすぐ分かった。戸の前に立つ気配が違う。
朝凪は帰る時、どれほど急いでいても、戸の前で一度息を置く。そのわずかな癖がない。
外にいる者は、静かに、けれど迷いなくそこまで来ていた。
納戸へ。
朝凪の言葉が浮かぶ。
美菊は立とうとした。
足が動かなかった。
膝に力は入る。手も動く。息もできる。なのに、足首から下だけが、床へ縫い止められたようだった。
痛みはない。痺れもない。ただ、立つという動きだけが、どこかで途切れる。
なぜ。
美菊はもう一度、力を入れた。膝の布が滑りかける。
指先で押さえようとして、その手も少し震えた。
戸が開く。
雪の匂いが入った。
玄冬が、室内に立っていた。
美菊は火鉢のそばに座ったまま、玄冬を見た。
立たなければならない。そう思うのに、足が動かない。体が従わない。
玄冬は、しばらく何も言わなかった。
美菊を見る目は、鋭いというより、深かった。
髪を見る。目を見る。顔を見る。
見られているのは分かる。けれど、その視線の奥に何があるのか、美菊にはうまく読み取れない。
玄冬の中では、最初に黒が来た。
黒い髪。黒い目。風斎の赤も青もない。
十七年前、布の隙間から見えた色と同じだった。
だが、そこから先が違った。
目元。頬の線。唇を閉じた時の静けさ。性別も色も違う。
なのに、その顔の内側に、奥方の面差しが確かにある。
似ているという言葉では足りなかった。
血が、色ではなく形として残っている。
玄冬は、自分の呼吸が浅くなるのを感じた。
雪の夜に引き戻される。
黒い髪を見た。風斎の理から外れた色を見た。不吉の言葉を聞いた。家のために、主のために、そうするしかないと受け取った。
何一つ、間違ってはいないはずだった。
美菊は、ぎこちなく頭を下げた。
「……失礼、いたします」
崩れたままの姿勢のことだと、玄冬は理解した。
声は細く、言葉の置き方も少し遅い。
敬語は知っている。だが、人と渡り合うための話し方ではない。
限られた者にだけ向けられ、限られた家の中でだけ育った言葉だった。
玄冬は、ようやく口を開いた。
「そのままでよい」
美菊は小さく瞬いた。
それから、もう一度頭を下げる。素直すぎる所作だった。
警戒もある。怯えもある。けれど、それを隠す術も、押し返す言葉も、ほとんど持っていないように見えた。
玄冬は一歩、室内へ入った。
火鉢の熱が、膝のあたりへ届く。
山の家は整えられていた。贅沢はない。だが荒れてもいない。
炭は足され、水もある。座敷には使い込まれた布があり、隅には読みかけの本が伏せてあった。
この者は、捨てられたあと、生きていた。
ただ生き延びただけではない。誰かの手で火を入れられ、食べさせられ、呼ばれ、整えられてきた。
玄冬は美菊へ視線を戻した。
「名は」
美菊は背を正した。
「美菊と、申します」
名があった。
玄冬が雪へ置いた時、その赤子に名はなかった。
死んだことにされた子だった。祝いも、記録も、呼び名もない。何も与えられず、雪の上へ置かれた。
だが今、目の前の者は、自分の名を持っている。
「誰がつけた」
「朝凪です」
美菊は少し間を置いた。
「汀様と朝景様は、若様、と呼んでくださいました」
若様。
その言葉は、玄冬の胸の奥で鈍く沈んだ。
汀は知っていた。朝景も知っていた。拾ったものが何かを知り、その呼び名を崩さなかった。
赤子をただの子として扱うには、あまりに重かったのかもしれない。
だが本家へ返すことも、雪へ戻すこともしなかった。
そして朝凪だけが、美菊と呼んだ。
玄冬はその事実を、しばらく飲み込めなかった。
汀が拾い、朝景が支え、朝凪が名を与えた。
自分が名のないまま終わらせたはずのものへ、三人がそれぞれ違う形で手を伸ばしていた。
「姫様は、何を知っている」
美菊の指が、膝の布を少し握った。
答えを探している。何を言えば愛護を守れるのかを、ゆっくり考えている顔だった。
玄冬はそれを見て、また一つ刺されたような気がした。
美菊は自分を守る前に、姫のことを考えている。
「わたしが兄だと、知っておられます」
玄冬のまぶたが、わずかに伏せられた。
「それだけか」
「わたしが天宿りだと。風斎の色が代償であることも」
玄冬は、すぐに次を問えなかった。
火鉢の炭が、小さく崩れる。音はそれだけだった。
天宿り。
その言葉は、玄冬の内側で、十七年前の夜へ落ちた。
あの時、誰もその可能性を口にしなかった。
黒髪黒目であることは、風斎の理から外れた証だった。
産声の代わりに不吉を告げたことは、家を脅かす兆しだった。
その二つが重なったから、主は死産とした。
玄冬も、その判断を受け取った。
理はあった。
道理はあった。
そう思ってきた。
だが、色が奪われたものだったなら。
風斎の子でない証ではなく、風斎の子であったはずの色を、何かに持っていかれた痕だったなら。
玄冬は、美菊の黒い髪を見た。黒い目を見た。その奥に残る奥方の面差しを見た。
風斎の色がないことは、在ってはならぬ証ではなかった。
ただ、在るべきものを失った証だった。
それは、当時の判断をすべて消すものではない。
産室で告げられた言葉は本物だった。滅びの予言はあまりにも重かった。
生まれたばかりの赤子が、風斎の血の理に背く色で、不吉を口にした。
その時点で、主が恐れたことも、奥方には隠したことも、玄冬が命を受けたことも、まるきり無根の狂気ではなかった。
けれど、根があったことと、罪でないことは違う。
天宿り。
その一語が入っただけで、玄冬が雪の中へ置いた赤子は不吉の忌子ではなくなる。
力と代償を背負わされた子になる。
守るべきものを、風斎が自ら捨てた形になる。
玄冬は息を吸った。
肺へ入った空気が冷たかった。室内にいるのに、雪の中へ膝をついた時の冷えが、骨の奥へ戻ってくる。
布越しの軽さ。泣かなかった赤子。雪のくぼみ。振り返らなかった自分の足。
美菊は、玄冬の沈黙を不思議そうに見ていた。
何を崩したのか分かっていない顔だった。
それがまた、玄冬には堪えた。
「……お前は、いつ、そうと知った」
問いが、低く落ちる。
その問いは、天宿りであるという言が虚偽であれば躓くはずのものだった。
美菊は少し考えた。言葉を拾ってくるような、二呼吸の沈黙だった。
「ずっと、です」
「ずっと」
「いつのまにか、知っていました。わたしは災禍を告げる天宿りだと。色は奪われたのだと」
もう疑いようがなかった。
天宿りは最初から、あるいは代償を支払った瞬間に、それがわかる。力と代償を自然に理解する。
その理を知っている者は少ない。
家に関係なく産まれ落ち、一つの時代に一人いるかどうか。その数少ない天宿りがそういった知識を記録や口伝に残すことは、もっと少ないからだ。
しかし美菊の言葉は、まさにそれだった。
嘘であれば、聞きかじった知識であれば、もっと説明の順が出る。
誰かから言い含められて覚えた言葉なら、もう少し形が違う。
だが美菊の声は、体の内に最初から置かれていたものをそのまま取り出しているようだった。
その感覚は、玄冬自身に覚えのあるものと同じだった。
玄冬は拳を握った。すぐに解くことはできなかった。
美菊が怯えるかもしれないと分かっていても、指の力が抜けない。
抜けば、別のものまで崩れそうだった。
「災禍、とは。あの予言も」
「はい」
美菊は短く答え、小さく付け加えた。
「……ひめさまには、話しておりません」
玄冬は、その返事を聞いて、肩の奥に入っていた力がわずかに落ちるのを感じた。
姫は、まだ知らない。
あの言葉を。
風斎が滅びるという、産室に落ちた最初の災いを。
愛護がそこまで知らずにいるなら、その目はまだ当主の上には届いていない。
姫の中で、父も母も、玄冬も、あの夜の形には結びついていない。
少なくとも、いまこの場で崩れ出すものはない。
玄冬は息を整え、もう一度、美菊を見た。
「では、お前は」
美菊の黒い目が、玄冬へ向く。
「お前は、産まれた夜のことをどこまで知っている」
問いは静かだった。
けれど玄冬の内側では、その言葉だけが雪の上に落ちていた。
当主の決断。死産とされた赤子。奥から抱き出した自分の腕。汀は、朝凪は、どこまで辿ったかのか。
美菊は、少しだけ考えた。
「朝凪は、あまり話しません」
知らない。
その答えは、そういう意味だった。
玄冬が自分を見つめている理由も、雪の日に置かれた赤子を誰が抱いていたのかも、目の前の男がその手で何をしたのかも、この者は知らない。
玄冬という名すら、今日以前は知らなかったのかもしれない。
朝凪が対峙していた本家の者。ただそれだけの認識。
玄冬は、その無知に安堵した。
愛護が知らないことに。
美菊が知らないことに。
当主の決断も、玄冬の手も、まだ二人の間で名を持っていないことに。
そう思った瞬間、玄冬は自分がひどく思い上がっていたことに気づいた。
何を知っているのか、何を話したのか。そう問うている間、玄冬は自分がこの場を取り調べているつもりでいた。
山中に隠された者を見つけ、朝凪の罪を測り、本家へ及ぶ害を確かめる。
そのために来たのだと、どこかで考えていた。
だが、違った。
美菊は玄冬を告発しない。雪に置いたのはお前かと問わない。なぜ殺そうとしたのかと泣きもしない。
恨みも、責めもない。
ないのではなく、そこへ至るための事実を与えられていない。
ただ、名を持ち、火のそばに座り、玄冬の問いへ静かに答えている。
その静けさの前で、玄冬の問いは一つずつ形を失った。
裁く側に立っていたはずの足場が、いつの間にか消えていた。
いまこの部屋で問われているのは、美菊ではない。
朝凪でもない。
十七年前、雪の中へ赤子を置いた玄冬自身だった。
玄冬は美菊を見た。
青年というには稚く、子供というには整いすぎている。
黒髪黒目の民の色を持ちながら、民の中には置けない。
奥方の面影を持ちながら、本家には戻せない。
そこにいるのに、人の世の外縁へ座らされているようだった。
これを、雪に置いた。
十七年前の玄冬の手は、もう言い逃れる道を失っていた。
「ここを出たいと思ったことはあるか。本家に帰りたいと、思ったことは」
問うたあとで、玄冬は自分の声が少し掠れていることに気づいた。
天宿りであれば――本家へ、戻せる。
根回しも隠蔽も必要になる。
簡単なことではない。家中は混乱するだろう。
それでも、「名もなき死産の赤子」ではなく「風斎の子」として、その名は系譜に残る。
――そして、あの雪の夜は、なかったことになる。
美菊はひとつだけ瞬いて、答えた。
「朝凪が帰ってくる家は、ここなので」
玄冬は、もう何も返せなかった。
その答えは、本家でも、外の世界でも、自由でもなかった。
美菊の中で、家とは朝凪が帰ってくる場所だった。
そこから美菊を引き出すことは、閉じ込められた者を解き放つことではなく、支えにしているものを抜くことになる。
玄冬は踵を返した。
美菊も立とうとした。けれど足が動かないらしく、膝の上の布だけが小さく揺れた。
「よい」
玄冬は言った。
美菊は頭を下げる。
玄冬は戸口へ向かった。雪はさらに濃くなっていた。戸板へ手をかける。
出て行けば、この家にはまた美菊ひとりが残る。
朝凪が戻るまで、火鉢の前で待つのだろう。
そう思うと、胸の奥が奇妙に重くなった。
玄冬は一度だけ振り返った。
黒い髪。黒い目。奥方の面影。膝の淡い布。朝凪のつけた名。
「汀は、よく拾った」
美菊は、膝の布へ目を落とした。
それから、静かに頷いた。
「はい」
玄冬は、それ以上何も言わずに家を出た。
朝凪が戻ったのは、ほとんどいつもの刻だった。
屋敷の異状は薄かった。薄いが、放っておけば奥向きの廊全体へ奇妙な滞りを残しただろう。
朝凪は見た。直した。必要なことだけをした。
手は動いたし、判断も誤らなかった。
だが、その間じゅう、胸の底では山の家の戸口が開き続けていた。
家へ着いた時、雪は小降りになっていた。
いつものように戸の前で一度だけ息を置く。その一拍の間に、朝凪は中の気配を探った。
火はある。人の気配もある。荒らされた気配はない。
だが、それだけでは足りなかった。
戸を開けるまで、美菊がどんな姿でいるのかは分からない。
戸を引いた。
美菊は火のそばにいた。
倒れてはいない。血もない。衣の乱れも、目につくほどのものはない。
膝には淡い布があり、火鉢には炭が残っている。
顔色は少し白いが、呼吸も安定している。
朝凪が入ってきた瞬間、美菊の指が膝の布からほどけた。
強く握っていたらしく、布の端に細い皺が寄っている。
朝凪は、そこでようやく息をした。
「玄冬は」
声が低くなった。
美菊は顔を上げる。目は乱れていない。けれど、答える前に一度だけ朝凪の顔を確かめた。
朝凪が本当に戻ってきたのか、そこにいるのが玄冬ではないのかを、遅れて確かめるような目だった。
「来ました」
朝凪の中で、雪より冷たいものが落ちた。
「何をされた」
「何も」
「何を言われた」
美菊は少し考えた。考える時間がいつもより長い。
言葉を選んでいるというより、さきほどの出来事を順番に取り出そうとしているようだった。
「名を聞かれました。ひめさまが何を知っているかも」
朝凪は黙った。
「天宿りのことも、聞かれました」
朝凪の目が、美菊へ向く。
「話したのか」
「はい」
美菊は静かに頷いた。
「玄冬様は、ご存知ないようでした」
朝凪は息を吐かなかった。吐けば、何か別のものまで漏れる気がした。
玄冬が知らなかった。
その事実は、重い。
玄冬は雪の夜の当事者だ。赤子だった美菊を捨てた男だ。
その玄冬は、美菊を天宿りと知らずにいた。黒髪黒目が代償だと知らずにいた。
ならば、玄冬はあの夜、本当に「不吉な、あり得ない子」を処理したつもりだったのだろう。
それを知った今、玄冬は何を選ぶのか。
朝凪には読めなかった。
「それから」
美菊は膝の布へ視線を落とした。
「汀はよく拾った、と」
朝凪は動けなかった。
玄冬は見た。問い、確かめ、そして手を出さずに去った。
見逃したのか。保留したのか。別の形で握ったのか。
いずれにせよ、玄冬はもう、この家と美菊を知らない者ではない。
「納戸へは入らなかったのか」
美菊は、そこでわずかに目を伏せた。
「入れませんでした」
朝凪の指が、膝の上で強くなる。
「なぜ」
「立てませんでした」
美菊は足首へ目を落とした。
「何かに、つかまれたようで」
朝凪は、その足首を見た。痕はない。赤くもない。腫れてもいない。だが美菊は、嘘をついている顔ではない。
何かが、美菊を留めた。
朝凪は、すぐに答えを出さなかった。出せるはずもない。
ただ、玄冬が来た時、美菊は隠れられなかった。隠れられなかったから、玄冬と向き合った。
その事実だけが、炭の赤い火のように、じりじりと胸の奥へ残った。
美菊は膝の布を握り直していた。
その仕草は小さい。けれど、朝凪には見えた。
玄冬に何もされなかったからといって、美菊の中で何も起きなかったわけではない。
知らない男が家へ入り、自分の顔を見て、名を聞き、愛護のことを問うた。
朝凪のいない家で、答えなければならなかった。
その間、美菊はおそらく泣きもしなかったし、声を荒げもしなかったのだろう。
だが、それは平気だったからではない。
美菊は、そうするしかなかっただけだ。
朝凪が戻るまで、無事かどうかを決める者が誰もいなかった。
玄冬が去っても、そのまま終わったとは思えなかったはずだ。
もう一度戸が開くかもしれない。別の者が来るかもしれない。朝凪が戻らないかもしれない。
そうしたものを、ひとつずつ言葉にすることもできないまま、火鉢のそばで待っていたのだ。
朝凪が戻ってきた時、美菊の指が布からほどけた理由が、いまになって胸へ届いた。
朝凪は、美菊の指先から視線を戻し、膝の上で強張っていた自分の手を見た。
考えなければならないことはいくらでもあった。
玄冬が何を見たのか。どこまで信じ、どこから疑っているのか。
天宿りのことを知った今、誰へ何を告げるのか。
愛護の小堂参りをどう畳むのか。この家をどう守り直すのか。今日破られたものを、同じ形で戻せないことも分かっていた。
だが、いま美菊は損なわれていない。
玄冬はこの家へ踏み込み、美菊と対面し、問いを重ねた。
それでも美菊に手はかかっていない。連れ去られてもいない。血も流れていない。
朝凪が戻ってきたこの家に、美菊はまだ座っている。
火のそばで、膝に布を置き、少し白い顔をして、朝凪の言葉を待っている。
その事実が、遅れて体の奥へ落ちてきた。
取り返しのつかないことにはならなかった。
ならば、まだ打つ手はある。道を変えることも、隠し方を変えることも、玄冬の出方を測ることもできる。
美菊がここにいて、息をしていて、朝凪の声に顔を上げるなら、どれほど危うくとも次の策へ繋げられる。
朝凪はようやく、膝の上の手から力を抜いた。
「……よかった」
声にするつもりはなかった。
けれど、漏れた。
美菊が少しだけ首を傾げる。その目にも、朝凪が戻ってきたことでようやくほどけたものの名残があった。
何がよかったのかを、すぐには分かっていない顔だった。
けれど朝凪の声を聞いて、美菊の肩も、ほんの少し落ちた。
朝凪はその顔を見て、もう一度、今度は胸の内だけで思った。
よかった。
今はただ、それだけでよかった。
■■
屋敷には雪のあとの冷えが残っていた。
庭の端には白いものがまだ残り、廊の下からは湿った寒さが上がってくる。
詰所へ向かう者たちは足元を見て歩き、女房たちは火鉢の炭をいつもより多く足していた。
山の家のことは、屋敷で何も騒ぎになっていない。
愛護の小堂参りも、咎められていない。玄冬から呼び出しもない。朝凪も、いつも通り愛護の側につく。
朝の挨拶の時、愛護はいつもの座敷にいた。
女房が一人、文箱を運んでいる。別の侍女は火鉢の灰を整えている。奥方はまだ来ていない。
人目はある。だが、誰も朝凪と愛護だけに注意を払っているわけではなかった。
「おはよう、朝凪」
愛護は普段の声で言った。
朝凪は頭を下げる。
「おはようございます、姫様」
その礼から顔を上げるわずかな間に、愛護の目が朝凪を見る。問いかける。声には出せない。出さないと約したからだ。
朝凪は、唇だけで短く形を作った。
無事。
それだけだった。
愛護の肩から、力が少し抜けた。
彼女はすぐに何でもない顔へ戻り、女房に髪紐のことを尋ねた。
朝凪もそのまま控えた。
昼過ぎ、詰所に近い廊で玄冬が朝凪を呼び止めた。
「朝凪」
声はいつもと変わらなかった。
だからこそ、朝凪は足を止めるまでの一歩で、余計なものをすべて顔から落とした。
来たか。
丸一日、玄冬は表立って動かなかった。
山の家のことも、愛護の小堂参りのことも、問うてこなかった。
だが、それで済むはずがない。玄冬は見た。美菊と対面した。何かを確かめ、何も言わずに去った。
そこから先の沈黙は、見逃しではなく、次に置く手を選んでいる沈黙だと朝凪は考えていた。
だが、この場所か。
周囲には若い武家がいた。火鉢を運ぶ下働きもいる。廊の先には、奥向きへ戻る女房の姿もあった。
密談には向かない。問い詰めるにも向かない。
ここで口にする言葉は、玄冬と朝凪だけの間に留まらない。
聞かせるための場だった。
朝凪は一礼した。
「は」
頭を下げながら、息を整える。
否定すべき言葉が来るのか。
認めさせる言葉が来るのか。
それとも、愛護の名を出すのか。
どれが来ても、即座に返す必要がある。
けれど先に動いてはいけない。玄冬が何を人前へ置くつもりなのか、それを聞く前に朝凪が形を作れば、かえって逃げ道を狭める。
玄冬は、普段の声で言った。
「お前の囲っている女だが」
若い武家の一人が、明らかに視線を逸らし損ねる。下働きは火鉢を持ったまま固まった。女房は足を止めないふりをして、確かに耳だけこちらを向けている。
朝凪は、返事をしなかった。
人前で、それを置いた。
愛護の嘘を、玄冬が自分の口で補強した。
同時に、朝凪へ逃げ道を一つ塞いだ。
否定はできない。否定すれば、あの日の愛護の言葉が崩れる。
認めるにも、玄冬がどこまでを公の形にするつもりなのか、まだ見えない。
朝凪は頭を下げたまま、次の言葉を待った。
「細いな。きちんと食わせているのか」
朝凪は、その言葉でようやく返答の位置を取った。
「不自由はさせておりません」
「冬の布団は」
「ございます」
「あの家は冷える。羽織が薄い。厚いものを足せ」
朝凪の返答は、今度だけ少し遅れた。
玄冬は見ている。
女だと思っているのではない。
美菊を見た上で、その細さを、その膝にあった布を、その家の冷えを、人前で別の名の下に置いている。
なぜそんなことをするのか。守るためか、追い詰めるためか、朝凪を縛るためか。判断はつかなかった。
「承知いたしました」
玄冬は頷き、そのまま次の用へ向かった。
廊に残った沈黙は、すぐに音へ変わった。
声ではない。視線、衣擦れ、息を吸う気配。
朝凪に女がいる。その話は、言葉になる前から廊を走り出していた。
朝凪は顔を上げた。
玄冬の背は、もう廊の向こうにある。
追うことはできない。問うこともできない。
ここで問いただせば、せっかく玄冬が人前に置いた形を、自分から壊すことになる。
その噂が愛護の耳へ届いたのはすぐだった。
女房たちは、あからさまには言わない。けれど屋敷の中の噂というものは、言葉になる前から形を持つ。
朝凪様に女が。縁談を断っていたのは。玄冬様もご存知らしい。
そういう切れ端が、火鉢の炭を替える手元や廊の端の衣擦れの中に混じって流れた。
愛護は、それを聞いて顔を上げた。
夕刻、人の少ない廊で愛護が朝凪を呼び止めた。
「朝凪」
「はい」
愛護の目には、明るさがあった。
安堵に近い。けれど、完全には笑いきれていない。
喜びたいのに、まだ少しだけ怖い子供の顔だった。
「玄冬、女の人だって思ってくれたんだよね」
朝凪はすぐには答えなかった。
違うと言うのは簡単だった。
玄冬は見ている。知っている。
人前で口にしたのは、信じたからではない。
だが、それを今の愛護に渡して何になるのか。
愛護は、美菊が守られたと思いたがっている。
その安堵を、今ここで奪う必要はなかった。
「姫様のお言葉に、合わせてくださったのでしょう」
朝凪はただそう答えた。
愛護は難しそうな顔をして首を傾げた。
「それは……大丈夫って、こと?」
「はい」
朝凪は、できるだけ静かに言った。
「しばらくは」
愛護はその言葉の端に不安を見つけたかもしれない。けれど、それ以上は聞かなかった。ただ、小さく頷いた。
朝凪は目を伏せた。
玄冬は、架空の女を人前に置いた。愛護にはそれが救いに見える。朝凪にとっては、まだ形の分からない縄だった。
それでも今は、美菊へ手が伸びていない。
その一点だけを、朝凪は見ていた。
■■
山の家では、美菊がひとりで火のそばにいた。
雪はやんでいる。庭にはまだ白いものが残り、木の根元に柔らかく溜まっていた。
朝凪はまだしばらくは屋敷にいる時刻で、家の中には炭の小さな音だけがある。
静かだった。だれも来ない、いつもの静けさだった。
火鉢の赤いところが時折崩れ、灰の奥でかすかに鳴った。
美菊は、足首に触れた。
痕はない。痛みもない。冷えてもいない。
けれど、あの時、確かに動けなかった。
納戸へ行こうとした。朝凪に言われた通りに隠れようとした。それなのに、立てなかった。
足首のあたりを、誰かに掴まれているようだった。
力ではない。痛みでもない。
けれど、そこから先へ進む道だけが、どこかでなくなっていた。
美菊は指を離した。
そして、上を見た。
視線は天井板を見ているのではない。梁でも、屋根の向こうにある雪雲でもない。
もっと遠いのか、近いのかも分からない場所へ、目だけが吸われるように向いた。
――『何か』がこちらを見ている気がした。
けれど、それが何か美菊にはわからなかった。
知るすべも、なかった。




