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愛及屋烏花軍  作者: 司馬示朗
◾️花晨月夕──風斎の章
30/48

雪催――綾寧447年


冬に入ってから、屋敷の朝は目に見えて遅くなった。

夜明けの光はなかなか庭へ届かず、池の面には薄い氷が張る日も増えた。

霜は石の陰だけでなく築山の低い草の上にも白く残り、日が差してもしばらく消えない。

山茶花の赤だけが庭の端に濃く、葉を落とした枝のあいだを風が抜けると乾いた小さな音がした。


初雪こそまだだが山の方角には朝ごとに白い霞がかかり、空は低く、雲の底には湿った重みがある。

女房たちは廊を渡るたびに肩をすぼめ、下働きの者は水桶の縁に張った薄氷を割ってから使う。

屋敷の中では、火鉢の炭が朝からよく減った。


奥向きでは、朝から冬衣を出していた。

桐箱の蓋が開けられ、畳の上に布が広がる。

淡い紅、深い紫、灰を含んだ青、裏にだけ明るい色を忍ばせたもの。

重ねられた衣は、冬の支度でありながら、座敷の中にひととき春の花を散らしたようにも見えた。

女房たちはそれぞれの持ち場に分かれ、袖口を改め、紐を替え、襟の擦れや裾のほつれを確かめていく。

香を移した紙が箱から取り出されるたび、乾いた木と衣の匂いの中へほんのり甘い気配が混じった。


愛護は、その真ん中に座らされていた。

次々と肩へ衣を当てられ、鏡の前で顔を上げたり、袖を広げたりする。

昔なら飽きて身をよじっただろうが、十二にもなれば少しは我慢することを覚えている。

もっとも、心の中ではかなり退屈していた。

女房たちは真剣で、母もひとつひとつをよく見ている。

だから愛護も、できるだけ姫らしい顔で座っている。


山行き用の羽織が出されたのは、その途中だった。

深い藤鼠の布で、外向きの華やかさは抑えられている。

だが布地はよく、内には薄く綿が入っていた。

肩から背にかけてゆとりがあり、頭から被れば耳も首筋も覆えるほど大きい。

小堂へ上がる時に使うものだから、裾は歩きやすく整えられている。

けれど、膝の上に置かれると思ったより重かった。


「これ、ずっしりしてる」


愛護が言うと、年嵩の女房が目を細めた。


「冬の山は、庭とは冷えが違いますから」

「分かってるけど」

「分かっていらっしゃるなら、きちんとお召しくださいませ」


言い返す余地がなくなり、愛護は唇だけ少し尖らせた。母がそれを見て、声を立てずに笑う。

笑われたので、愛護は慌てて背筋を伸ばした。


そのとき、襖の向こうから若い侍女が入ってきた。

普段はよく笑う娘だった。針仕事も早く、年嵩の女房に言われたことを飲み込むのも早い。

けれどその朝は、目元が赤く、袖の合わせを片手で強く押さえていた。

女房頭に何かを伝えに来たのだろう。

だが座敷の中に衣が広がり、人の目が多いのを見て、足を止めた。


彼女の袖口から、折られた文の端が覗いていた。

近くにいた女房が、それに気づく。


「どうしたの。お里からの文?」


若い侍女の顔が、さらに白くなった。

答えれば、その場にいる全員が聞く。答えなければ、なおさら人の目が寄る。

ほんの一瞬のことだったが、座敷の空気は確かに止まった。

衣の色も、香の匂いも、その沈黙の中で急に遠くなる。


奥方が、先に声をかけた。


「ちょうどよかったわ。あなたを呼ぼうと思っていたの」


若い侍女は、はっと顔を上げた。

奥方は何事もなかったように、畳まれかけていた薄紫の羽織を手に取る。


「この袖裏を、明るいところで見たいのです。あなたの目は色の違いに細かいでしょう。向こうの小座敷で手を貸してちょうだい」

「……はい」


侍女の声は小さかった。


「その文は、ついでに私の部屋へ持っておいでなさい。ここでは衣が多くて紛れますから」


そう言われて、侍女はようやく頭を下げた。

女房頭も、それ以上は問わない。

若い侍女は羽織を受け取り、奥方に従って小座敷の方へ下がった。


座敷には、わずかに残った沈黙があった。

けれど誰も続きを尋ねなかった。

女房たちは袖を持ち直し、紐を替え、桐箱から次の衣を出した。

畳の上へ広がった色が、止まりかけた空気を少しずつ動かしていく。


愛護は、それを見ていた。

母は、あの侍女を呼ぼうとしていただろうか。

少なくとも、愛護にはそう見えなかった。

さっきまで母は、愛護の山行き用の羽織を見ていた。

薄紫の羽織の袖裏など、話にも出ていなかったはずだ。

それなのに母は、まるで初めからそのために侍女を待っていたように言った。

そして若い侍女は小座敷へ下がり、女房たちは何も訊かない。

そのことが、愛護には少し不思議だった。


衣合わせが済んだあと、奥方は愛護を隣の小座敷へ呼んだ。

障子の向こうでは女房たちがまだ衣を畳んでいる。布の擦れる音が、波のように低く続いた。

奥方は愛護の袖口を整え、髪飾りの位置を少し直した。

朝から何度もそうされているのに、母の手が触れると、愛護はいつも少しだけ静かになる。


「母さま」

「なあに」

「さっきの、ほんとはあの人を呼ぼうとしてたんじゃないよね」


奥方の手が止まる。

少しの間を置いて、奥方は愛護の隣へ座り直した。


「そうね」

「袖裏も、ほんとは今見なくてよかったんでしょう」

「ええ」


愛護は膝の上の指を見た。


「じゃあ、嘘?」


その言葉を口にすると、思ったより重かった。

奥方はすぐには答えなかった。叱る顔ではない。けれど、笑って流す顔でもなかった。


「嘘と言えば、嘘です」


愛護は顔を上げた。


「……嘘ついて、いいの?」

「嘘をつくことの良し悪しは、簡単に分けられるものではありません」


奥方は静かに言った。


「ただ、あの場で本当のことだけを求めれば、あの子は皆の前で答えなければならなくなりました。里のことか、家のことか、何かつらい報せだったのでしょう。けれど、それを話すかどうかは、あの子が選べることでなければなりません」


愛護は黙って聞いていた。


「誰かを欺いて利を得るための嘘は、いけません。けれど、人前で裂かれそうなものを一度覆うために、別の名目を立てることはあります」

「別の、名目」

「ええ。あの子を下がらせるには、理由が必要でした。泣きそうだから下がりなさい、と言えば、皆がその理由を知りたがります。でも、袖裏を見るから手を貸して、と言えば、それ以上は問われにくい」


愛護は、さっきの座敷を思い出した。

母の声がした瞬間、皆の視線が侍女から羽織へ移った。

文の端ではなく、袖裏の色へ。赤い目ではなく、奥方の用へ。

場が、別の形を与えられたのだ。


「ほんとうのことを言わないのは、ずるいことじゃないの?」

「ずるく使うこともできます」


奥方は言った。


「だから、難しいのです。けれど、上に立つ者の言葉は、場の形を決めてしまいます。誰かを守るために、今は何を見せ、何を隠すべきか。考えなければなりません」


愛護は、膝の上で指を握った。

正しいことを言えばよいのだと、幼いころは思っていた。

間違いは間違いだと言えばよい。隠しごとは明るみに出せばよい。そういう単純なものだと。


けれど今は、そうではないことを知っている。

山の家のことも、美菊のことも、正しい名で呼べば守れるとは限らない。

名を出した瞬間に、壊れるものがある。

愛護は、少しだけ目を伏せた。


「難しい」

「ええ」


奥方は微笑んだ。


「難しいことです」


それ以上は言わなかった。

愛護も、何も言わなかった。



座敷が片付けられ茶と菓子が出ると、小堂参りの予定の話になった。


雪が近い。まだ降ってはいないが、山道は日ごとに冷えている。

小堂へ上がる石段も、霜が残れば滑る。

供えを持って参るにはそろそろ限りだろうと、奥向きでも数日前から話が出ていた。


愛護は、それを聞くたびに胸の奥が落ち着かなくなった。

小堂へ参れないということは、山の家へ行けないということだ。

朝凪から無事だと聞けても、それは会えたことにはならない。

火のそばに座る美菊を見たい。菓子を前にして、少しだけ目をやわらげるところを見たい。寒くないか訊いてあげたい。


その日の菓子は、冬の始まりに合わせたものだった。

白い外郎の上に淡く染めた餡を薄く重ね、雪の下から草の芽がのぞく形にしてある。

まだ雪は降っていないのに、皿の上ではもう白いものが積もっていた。

美菊はいつも、こういう手の込んだかたちの菓子を興味深そうにじっと見る。

その姿を思いながら愛護がそれを見ていると、奥方が言った。


「小堂へ参るなら、次でしばらく控えなさい」


愛護は顔を上げた。


「次は、まだ行ってもいい?」

「朝凪が付き、刻を守ること。供えを済ませたら、長くは留まらないこと」

「はい。守ります」


返事が少し早くなったので、愛護は慌てて背を正した。

奥方は気づいていただろうが、叱らなかった。ただ、控えていた女房へ目を向ける。


「先ほどの羽織を用意しておきなさい。山では必ず着せるように」

「かしこまりました」


女房が頭を下げる。

小堂へ供える菓子は、当日の朝に包まれる。供えたあとに下げる分も、小さく分けて持つ。

その一部を『山で休む時に食べる』ことは、もう誰も不思議に思わない。

愛護は十二になった今でも甘いものが好きで、山へ行けば少し浮き立つ。

屋敷の者たちは、そう見ている。


愛護は菓子をひとつ取った。

白い外郎はやわらかく、淡い甘さが舌に残った。

次の参りが、今冬最後。

菓子とともに飲み込んだそれは、胸の内に落ちて少し寂しかった。



■■




朝凪は詰所で、山裾の巡回報告を受けていた。


火鉢の炭はまだ赤いが、部屋の隅には冷えが溜まっている。

戻った兵たちは手袋を外し、指先をこすりながら膝をついた。

冬に入る前の山道は見るべきところが多い。

霜で崩れる場所、落ち葉で石の見えなくなる場所、獣道と古い道が紛らわしくなる場所。

綾の異状が続いてからは、そこに別の確認も加わっていた。


報告は淡々としていた。

小堂筋に変化なし。古道側の流れに乱れなし。炭焼き道の分かれで一度妙な冷えを覚えた者がいるが、痕は残らず。人を増やすほどではないが、次回も見る。


朝凪は紙面を見ながら、道の位置を頭の中で確かめた。

姫の小堂参りと巡回が重ならなければよい。

供回りの者の目が余計に散ることはない。

雪が来る前に済ませられるなら、その方がいい。


「次の巡回は」

「明後日の朝に小堂筋、昼に古道側でございます。雪が降れば、日を改めます」

「人数は」

「二名ずつ。小堂筋は、姫様のご参詣が済んだ後に」


朝凪は頷いた。無理のない段取りだった。

巡回の目が増えていることは気にかかる。

だが、彼らは異状を見に行くのであって、山中の家を探しているわけではない。

報告に上がるのは、綾の流れ、道の損じ、獣の動き、雪前の危うい箇所である。

朝凪は必要な指示だけを返し、紙を畳んだ。


明日は、姫の小堂参りである。

戻りの刻を遅らせない。供えを済ませる。足もとを見せる。奥方に心配を残さない。

山の家へ寄る時間は短くなるだろうが、それでも行けるだけましだろう。

そう考え、朝凪は詰所を出た。




■■




山の家では、炭の匂いがしていた。


朝凪が運び込んだ俵を納戸の脇へ置き、美菊は膝をついて端についた土を布で払う。

冬支度の道具は、ひとつずつ重い。炭も、薪も、乾かしておく藁も、雪の日に使う履物も、夏のものより場所を取る。

表向き一人分の貯えと消費量に見せるには、仕舞う場所も考えなければならない。


座敷の端には、淡い色の肩掛けが置かれていた。

もとは汀の小袖だった。古くなって袖も裾も傷んでいたが、美菊が手元に残したがったので、使えるところだけを選んで一枚布に直したものである。

色合いは女物の名残をそのまま残していたが、家から出るでも人に会うでもない美菊は衣に頓着が薄い。

毎年冷えが深くなると、火のそばで膝に掛けたり肩に羽織ったりしている。

その日も美菊は炭俵を拭き終えると、それを膝へ引き寄せていた。


「明日、姫様が来られる」


朝凪が言うと、美菊の目元が少しやわらいだ。


「はい」

「恐らく今冬はこれで仕舞だ。雪が降れば、難しくなる」

「……はい」


返事の前に、わずかに間があった。

朝凪は炭を足した。赤く残った火の奥へ新しい炭が触れ、しばらくして細い音を立てる。

障子の外はもう暗く、雪はまだない。

だが夜気の冷たさだけは、ひと足先に山へ下りていた。


「明日も長くは居られない」

「分かっています」

「供えから下げたものも、まあ、さっと食ってくれ」


美菊は小さく頷き、そこで会話は途切れた。


雪が近い夜、美菊はよく黙る。

朝凪はその沈黙をほどこうとはしなかった。言葉にしたところで、何かが軽くなるとは思えない。

美菊自身にも、何が胸にかかっているのか分からないことがある。

だから朝凪は、火を足す。

冷えた手があれば温める。布が足りなければ増やす。夜のうちに水が凍りそうなら、置き場所を変える。

できることは、そのくらいだった。




■■




夜半の書見の間の灯は、二つだけだった。

机の端にひとつ、棚の前にひとつ。紙を傷めぬよう、灯心は短く切られている。

部屋の中には古い墨と乾いた紙の匂いが沈んでいた。


玄冬の前には、数冊の控えが開かれていた。

朝凪の祖父の代に関わる古い家の記録である。

本宅とは別に、山中に小さな平屋を持っていた時期があった。

粗末な小屋ではない。大きくはないが、人が暮らすには足りる家だった。


その家は、祖父の死後も家筋の中に残っていた。

目立つ財ではない。広い田畑でも、商いの元手になる屋敷でもないそれは、普段の帳面に何度も上がるようなものではなかった。だが、消えてはいない。


玄冬は、別の記録へ目を移した。

朝景と汀の死後、町の家が売られている。

売ったのは、朝凪だった。両親を亡くしたあと、家を整理する立場に置かれたのだから不自然ではない。

町の家を手放した後朝凪がどこを生活の根にしたかは、紙の上でははっきりしない。


玄冬は、山中の平屋の位置を示す古い図を見た。

遠い。

普通に歩けば、屋敷からだと一刻を越える。

若い男であろうと、屋敷勤めの者が毎日そこから通うには無理がある。

まして朝凪は姫付きだ。朝が早く、戻りが遅れる日もある。冬になれば道は悪くなる。

町の家を手放したからといって、そこへ移ったと考えるには、距離が合わない。


玄冬はしばらく紙面を見下ろしていた。


それでも、他に残る場所が薄かった。

町の家はない。親類筋に寄っている様子もない。詰所に長く泊まることもない。

屋敷を下がったあとの朝凪は、紙の上からきれいに細る。

若い武家の者なら自然に残るはずの、酒席や町の付き合いや、縁談相手との顔合わせもほとんどない。


通うには遠い。

だが、人目から遠ざけるなら、その遠さが要る。


玄冬は筆を取らなかった。

書けば残る。残れば、別の者の目に触れる。今はまだ、紙に増やす段階ではない。


翌日の勤めの表には、姫の小堂参りが記されていた。

朝凪の名もある。供回りの名もある。戻りの刻も決まっている。

朝凪は昼の間、姫に付く。

小堂へ上がり、供えを済ませ、姫を山で少し遊ばせ、戻る。

その務めから、勝手に長く離れることはできない。

供回りの目もある。奥向きへの報告もある。


――家を見るなら、その間だ。

そこに、誰がいるかを見る。


控えを閉じる。

外は冷えていた。戸の向こうの廊に、夜の気配が重く落ちている。雪はまだ降っていない。だが、近い。


玄冬は灯を落とさず、しばらく座っていた。




■■




翌朝、空は重かった。


雪雲が山の上に低くかかり、庭の木々は音もなく立っていた。

池の端には薄い氷が張り、廊を渡る女房たちは肩をすぼめる。

しかし今日のうちに参れるなら、その方がよい。誰もがそう言った。


愛護は早くから支度を整えられた。

山道用の衣を着せられ、髪も動きやすいように結われる。

最後に藤鼠の羽織を肩へかけられた。やはり重い。

けれど、内側はあたたかかった。襟を合わせると首筋の冷えが遠のく。


女房が羽織の前を整える。


「姫様、途中で暑くなってもお脱ぎになりませんよう」

「山は庭より冷え込むのでしょう」

「はい。よう覚えておいでです」


愛護は頷いた。


供えの包みは、老僕が持つ。供えたあとに下げる分は、別に小さく分けられている。

愛護は、その包みの大きさを目で確かめた。多くはない。

けれど、兄と少し分けるくらいなら足りる。


朝凪は敷居際に控えていた。

愛護の支度を見、供えの包みを見、外の空を見た。いつもの順だった。

顔には何も出さない。けれど、急いでいないわけでもない。

雪が来る前に行き、雪が来る前に戻る。

そのための段取りを、朝凪はもう組んでいるのだろう。


奥方が愛護の前へ座った。


「無理をしてはいけませんよ」

「はい」

「足もとをよく見て。朝凪の言うことを聞くのですよ」

「はい。気を付けます」


奥方は愛護の頬へそっと触れた。指先は少し冷たかった。愛護はその手に頬を預けたい気持ちをこらえ、きちんと頭を下げる。

朝凪も深く一礼した。


「お連れいたします」

「頼みましたよ」


それで出立の支度は終わった。

屋敷を出ると、空気はさらに冷たい。

供回りの者が菓子と花を持ち、老僕が足元に気を配る。

愛護は羽織の前を押さえながら歩いた。

山の方角は、雲の影で少し暗い。


今冬最後。


その言葉を、愛護は誰にも聞かせずに胸の中で繰り返した。




玄冬は、姫の一行が屋敷を出る前に動いていた。


特別な支度はしない。供もつけない。

冬前の山を見に行くこと自体は、玄冬にとって不自然なことではなかった。

足元だけを山道用に替え、普段より少し地味な羽織を選ぶ。

道筋は、昨夜のうちに頭へ入っている。


廊を渡る時、奥向きの方にはさざめくような人の気配があった。

小堂参りの一行が準備を進めている。朝凪もその中にいる。戻りの刻も決められている。


玄冬は表へ回らず、脇の通用から外へ出た。

冷たい風が、衣の合わせ目に触れる。まだ雪は落ちていない。

山の上の雲は重く、白というより鈍い灰色をしていた。

道端の草は霜を残し、踏めばかすかに折れる音がする。

玄冬は足を急がせる。


汀の三日の空白。

町で拾った古い声。

朝凪の祖父が残した山中の平屋。

両親の死後、町の家を手放した朝凪。


それらはまだ、人前に差し出せる形ではない。

だが、確かめに行くには足りていた。


そのまま山裾へ入り、小堂へ向かう表の道から外れた。

古い木立の影へ進むと人の足は少なくなる。

冬前の土は固く、落ち葉の下に石が隠れている。


雪の降る前に。



玄冬は、山の奥へ向かった。




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