白き底より
秋の日は、朝から光が薄い。
まだ青みを残す梢のあいだを、風だけが先にひとつ季節を越えてきたようだった。
夏のあいだ重く垂れていた簾は少しずつ巻き上げられ、廊には乾いた光が戻っていた。
庭の萩は枝をしならせ、池の縁では薄の穂がまだ白く開ききらぬまま揺れている。
昼には暑さの名残がある。だが、朝夕の空気にはもう明らかに別の季節が混じっていた。
妻鳥燈が風斎本家へ入ったのは、そういう朝だった。
先触れは数日前に届いていた。
十万億土に立つ者たちの定期見分と、配置に関わる情報の交換。
そのために妻鳥から人が来ること自体は珍しくない。
だが、今回は次期総領である燈が自ら来る。
しかも、先触れには綾の異状について報告したい旨が添えられていた。
風斎も、それに見合う座を用意した。
表向きの大広間ではない。だが軽い客を通す部屋でもない。庭へ面した座敷には当主と玄冬、数名の重臣が揃い、記録役が控えていた。
朝凪は末席に近い位置へ置かれている。
姫付きの身としては場違いにも見えるが、綾の微細な流れを見る役として呼ばれた以上そこに異を挟む者はいなかった。
二十になった燈は、かつて宵について会談に臨んだあの頃とあまり印象は変わらない。
灰色の髪は顎のあたりで揃い、明るい赤の目がよく動く。
顔立ちだけ見れば、いまだ娘のような線のやわらかさが残っている。
だが腰の据わりと肩の置き方には妻鳥の者らしい力があった。
華やかな作業着めいた装いも、燈が着ると妙に馴染む。
飾り紐や留め金は派手だがどれも実用を外れていない。
「此度は、お時間を賜りありがとうございます」
燈は座敷の中央で、きちんと頭を下げた。
「妻鳥領にて、近ごろ綾の流れに不審な感触が続いています。『門』でも裂け目でもなく、傷ですらない。けれど、見過ごすには明らかすぎる」
当主は燈を見る。
「どのようなものだ」
「なぞられる、という言い方がいちばん近うございます」
燈は少し眉を寄せた。言葉を選んでいる顔だった。
「綾の筋が、薄く触れられる。掴まれるのではなく、動かされるのでもない。ただ、表面を確かめるように沿われる。何かを見られている。何かを試されている。何かを確かめられている。そんな感じがします」
座敷の空気が、わずかに冷えた。
派手な異変であれば扱いようがある。
位置を定め、兵を置き、花宮に上げ、記録に残す。そうして形にすれば、少なくとも対処の手は組める。
だが、今燈が言ったものは違った。
何も起きていない。
起きていないのに、触れられた気がする。
その薄さが、かえって人の胸へ残る。
玄冬が、手元の控えへ視線を落とした。
「風斎でも、近い報告がございます」
当主は短く頷いた。
玄冬は記録役に目配せし、数枚の紙を前へ出させる。
「妻鳥より預かっている十万億土の兵が、時折、配置の地点からわずかにずれております。うろつくというほどではございません。半間にも満たぬ移動が多い。だが、同じ者が同じ方向へずれることが幾度かございました」
燈の赤い目が、紙面に落ちる。
「命は出していません」
「こちらも、そう受けております」
「彼らは勝手に動かない」
その声は先ほどより低かった。
座敷にいる誰も、それを咎めなかった。
十万億土の兵は、命じられたことを遂行する。体に残った戦の癖に従い、禍滲を伐つために動く。
そこに、生きた者の思案はない。気まぐれもない。好奇もない。己の判断で、見たいものの方へ歩くことなどない。
だから、ずれること自体がおかしい。
朝凪は紙面を見た。
配置図には、面の兵の位置が墨で落とされている。
通常の立ち位置。翌朝の確認位置。戻した位置。
その差はいずれも小さい。紙の上では誤差にも見える。
けれど、誤差なら同じ向きに重ならない。
「朝凪」
玄冬の声が落ちた。
「見よ」
朝凪は膝を進め、紙を受けた。線を追う。地形。風の向き。人の通り。綾の流れ。すべてを頭の中で重ねる。
「……人の足が寄る向きではございません」
「どういうことだ」
当主が問う。
「見張りが楽になる高みでも、音を拾いやすい谷側でもございません。戦の記憶に引かれたとも考えにくい。そこへ動く利が薄うございます」
燈が顔を上げた。
「じゃあ、何に引かれた?」
朝凪は一拍置いた。
「分かりかねます。ただ、綾の流れが一度そこで止まるなら、足もそこへ置かれるかと」
その言葉で、場の者の視線が互いに動いた。
燈は懐から小さな筒を取り出し、封を解いた。
中には他領からの写しが入っていた。
花宮。雪簇。月渓。
それぞれ、正式な異変として扱うには弱い報告ばかりだった。
花宮では、何もない回廊の曲がりで、何人もの者が一瞬だけ足を止めた。
雪簇では、結びの綾を張った場所で、流れが一拍遅れることがあった。
月渓では、射手が何もない空を見た。視線を戻したあと、自分がなぜそこを見たのか分からなかった。
どれも、騒ぎにはならない。
だが紙の上で並べると、薄い糸のように気味の悪さだけが繋がった。
「……『門』ではないな」
重臣の一人が言った。
「裂け目でもありません」
朝凪は答えた。
「傷であれば、もっと残ります。これは残るというより、通り過ぎたあとに、こちらの感覚だけが遅れて気づくものかと」
燈は窓の向こうを見た。
秋の庭には風が吹いている。萩の枝が揺れ、砂の上に細い影が動く。
何もおかしなものはない。少なくとも、目に見えるものは。
「気持ち悪ィな」
燈が低く言った。
その言葉だけが、この場で一番正確だった。
実地の確認は、昼過ぎに行われた。
十万億土の兵は本家の外れ、山裾へ通じる道の近くに置かれている。
人目に触れにくく、しかし必要があればすぐ動かせる位置だった。
屋敷から見れば遠くないが、奥向きの者が気軽に足を向ける場所ではない。
燈は風斎当主たちとともにそこへ向かった。
面の兵は、静かに立っていた。
華やかな面は秋の日を受けて白く、装束の紐もよく整えられている。
だが近くに立てば、やはり生者とは違う。
呼吸がない。立ち尽くす体に疲労も退屈もない。そこに人の形はあるのに、人が場へ落とす細かな揺れがなかった。
燈は一体ずつ確認していく。
立ち位置。足の向き。武具の掛け方。面の留め。肩紐。袖口。どれも手慣れていた。扱いに迷いがない。
風斎の者たちは少し距離を置いて見ている。
当然だった。
十万億土の兵を近くで見ることは、誰にとっても楽ではない。
武家であればあるほど、生と死の境を乱される感覚を避けられない。
朝凪は、その中で一歩近くにいた。
見るべきものがあるなら見る。それだけである。
面の下にあるものを想像しないわけではない。痛ましさを覚えないわけでもない。
だが、今ここで扱うべきものは、妻鳥から預かった戦力だった。
預かった以上、置き方も状態も粗く扱ってよいものではない。
「ここの綾は」
燈が問う。
「昨日の夕刻、わずかに滞ったと報告がありました」
朝凪は答えた。
「今は戻っております。ただ、左の兵がその時に半歩、谷側へ寄ったと」
燈は足元を見た。
谷側へ半歩。たしかに、そこへ動いたとしても意味がない。
敵が出たわけでもなく、命が飛んだわけでもないなら、ただ立ち位置が崩れただけである。
その「だけ」が、燈の顔を険しくした。
「総領に戻したら、ここの記録も照らし合わせます。風斎でも、続けて見ていただきたい」
「無論だ」
当主は答えた。
「ただ、『天眼』殿へ上げるには、まだ薄い」
「はい。けれど、薄いからこそまずい」
燈はそこで一度言葉を切った。
「拾い損ねたあとで、取り返しのつかない濃さで戻ってきたら」
それ以上、誰も続けなかった。
秋風が通った。面の兵の袖がわずかに揺れる。体は動かない。ただ布だけが揺れた。
情報交換を終えると、燈はそのまま十万億土の兵の手入れに入った。
肉体そのものは損耗しない。
斬られても裂かれても、宵が生きている限り戻る。
だが装備は違う。紐は擦れる。面の留めは緩む。武具は傷む。
いくら丁寧に扱っても、戦場に出していれば必ず手を入れるところが生じる。
燈は持参した道具箱を開いた。
中には替えの紐、細い金具、布、面の縁を直す小さな道具が整然と収められている。
妻鳥らしく色は鮮やかだが、並びは実務的だった。
朝凪は後ろに控えていた。
玄冬から、必要なら手を貸せと言われている。
燈が求めなければ口を出さない。それだけ決めて、視線だけを動かしていた。
燈は一体の面を外さず、縁と紐だけを手早く見た。
面の奥は見えない。視界の穴もない。
面そのものが、見るためではなく、見せないためにある。
燈の指が肩の留めを直し、胸元の布を整える。
その時、朝凪は一体の腕へ目を留めた。
「そちらの方。腕の内側の紐が落ちております」
燈の手が止まった。
示された方へ回ると、たしかに袖の内側、肘に近い位置の紐が一本留めから外れかけていた。
外側からはほとんど見えない。動きにもまだ支障はない。だが放置すれば、次の戦で絡む。
「ありがと。お前、よく見てるんだね。彼らのこと」
燈は振り返らずに言った。
声は軽い。だが、少しだけ底が違った。
朝凪は頭を下げる。
「はい。妻鳥様からお預かりしている方々ですので」
燈は外れかけた紐を引き、結び直した。
手元は変わらず速い。余計な力は入っていない。結び目は小さく、装束の動きを邪魔しない位置へ収まった。
「……そう」
それだけだった。
けれど、その短い声には、隠しきれなかった温度があった。
次の兵へ移り、面の縁を確かめ、袖口の擦れを見る。
作業は、静かに続いた。
■■
山の家の時間に変化はなかった。
湯気のたつ薄い汁。秋茄子を炊いたもの。少しだけ焼いた茸。
膳は二人分出ているが、食べ終えれば美菊の膳だけをすぐ箱へ収める。
皿は洗い、拭き、棚の奥へ入れる。箸も一膳だけを表へ残す。
この家は、外から見れば朝凪一人の家でなければならない。
箪笥の中もそうだ。美菊の衣は、朝凪のものの間に挟む。
色の薄いもの、形の違うものは奥へ入れる。
本は一部を朝凪のものとして見える場所に置き、残りは文箱へ戻す。
花を生ける器も、使ったあとは棚の奥へ下げる。
人が入った時、暮らしの気配は消せない。
だが、一人で暮らしている者の乱れに見せることはできる。
美菊はその手順をよく知っていた。
自分の茶碗を布で拭き、箱へ入れる。指先は丁寧だった。
毎日していることなのに、その日は少しだけ遅い。
朝凪はそれを見ていた。
未明の予言以降、美菊はいくつかの予言を口にした。
小さな門。遠い領の死者。雨の日に崩れる橋。どれも成就した。
だが、あの言葉に繋がるものはない。
『天眼』が墜つという予言は、今もただこの家の中だけに沈んでいる。
「各領で、綾の動きが不穏だ」
朝凪は火の始末をしながら言った。
「風斎でも、巡回の道や人数が変わる可能性がある。この山の周りにも、調べの目が増えるかもしれない」
美菊は箱の蓋を閉めた。
「ここも、ですか」
「すぐにではない。だが、備えはする」
朝凪は立ち上がり、納戸の方へ目を向けた。
「誰かが入ってきたら、焦らず奥へ引け。戸を強く閉めるな。足音を立てず、納戸へ入る。表で済めば、それでいい。俺が戻るまで出るな」
美菊は頷いた。
頷いたが、目元には薄い不安が残っている。
朝凪は床板の一部を示した。
「奥まで入ってくるようなら、ここを開ける。床下へ降りて、裏へ抜けろ。俺の綾は読めるな?」
「はい」
「裏手の榊に隠してある。幹の右側だ。そこに身を寄せれば、外からはまず見えない」
美菊はもう一度頷いた。
「見つかるかも、しれませんか」
この家が。
朝凪はすぐには答えなかった。
嘘をつけば、この家の静けさには響く。だから、答えは少しだけ遅れた。
「普通の目ならひっかからない」
朝凪はそう言ってから、少しだけ間を置いた。
「ただ、もし最初からこの家自体を探すつもりで来られたら、ないとは言い切れない」
美菊の指が、箱の蓋の上で止まった。
朝凪はそれを見て、息を吐いた。
形のない不安より起こりうることを言った方がましかと思ったが、どうやら違ったらしい。
しかし、美菊が不安げにするのを放っておくのは、朝凪にとって楽ではなかった。
「もう一度、家の綾を見る」
そう言って、朝凪は戸口へ向かった。
美菊も立ち上がる。
「お前は中にいていい」
「見ます」
「見ても分からないだろ」
「はい」
答えながら、美菊はもう朝凪の後ろについていた。
外へ出ると、夜気はひやりとしていた。
秋の虫が草の奥で途切れず鳴いている。月は細く、庭の木々は影の方が濃い。
朝凪は家の外周をゆっくり歩き、柱の近く、石のあたり、木立の手前で綾のかかり具合を確かめた。
美菊は少し後ろを歩いた。
何を見ているのか分からない顔で、それでも一緒に足を止める。
朝凪が木の根元を見ると、美菊も見る。朝凪が軒先へ目を上げると、美菊も目を上げる。
役には立たない。
だが、あまりに素直についてくるので、朝凪は一度だけ振り返った。
「近い」
「はい」
美菊は半歩だけ下がった。
そのあと、また同じだけ近づいた。
朝凪はもうひとこと言いかけてやめた。
榊の陰にかけた綾は乱れていない。納戸の床下へ向かう筋も生きている。
外から家へ向かう意識は、これまで通り薄く逸れる。
見えないのではない。見る理由が生まれない。
それでも、今日の話を聞いたあとでは、その安定すら少し信用しきれなかった。
何かが、綾をなぞる。
目ではないものが、流れの上を触れていく。
もしそれが、この山の綾にも触れたら。
朝凪は家を一周し、最後に戸口へ戻った。
「今のところ、乱れはない」
美菊は小さく息を吐いた。
「よかったです」
明らかに油断しているその声に、朝凪は少しだけ眉を寄せた。
「今のところだ。さっきの手順は覚えたんだろうな」
「はい。納戸へ入って、表で済めばそこで待ちます。奥まで来たら床下から出て、榊の右側です」
「よし」
美菊は朝凪を見上げた。
夜の暗さの中で、黒い目はさらに黒く見える。
「朝凪が戻るまで、ですか」
「俺が戻るまでだ」
その答えで、美菊はようやく少し落ち着いたようだった。
家の中へ戻ると、膳も茶碗も一人分だけが表に残っていた。
火も静かに落ち着いている。
外から見れば、ただ若い男が一人で暮らしている家だった。
そう見えるはずだった。
■■
一方で、玄冬は別の糸を追っていた。
妻鳥燈の来訪も、各領から寄せられる薄い異変も、もちろん軽んじてよいものではない。
風斎の中でも記録は増え、見張りの目は細かくなり、詰所では日ごとに報告が積まれている。
だが玄冬の胸底には、それとは別に、まだ片づかぬものがあった。
十六年前の冬の控え。
汀の名。
持ち場を離れたという短い追記。
その後、数日だけ空いた勤めの欄。
紙の上に残っていたのは、どれも小さな棘のようなものだった。
ひとつひとつは、言い逃れのできる程度の不自然でしかない。
けれど、玄冬はそれを捨てられなかった。
捨てられぬものを抱えたまま、屋敷の中だけを見ていても先へは進まない。
だから玄冬は、町へ下りた。
供は連れていない。
古い家筋のことを確かめに来た年嵩の武家。そう見えれば、それで足りた。
汀が夫と住む家があった町は、本家からそう遠くない。
風斎の傍系の家もあれば、職人の家もある。商いをする者、下働きに出る者、川向こうで竹を割り、籠や笊を編む者もいる。
町の道はよく踏まれ、ところどころに細い水路が走っていた。秋口の水は澄み、石の隙には乾いた草が絡んでいる。
玄冬は、古い地図と記憶を合わせて歩いた。
家は、とうの昔に売りに出されている。
柱や屋根が同じでも、出入りする者が違えばそこに溜まるものは変わる。
かつて汀や朝景が暮らしていたころの痕跡は、もう残ってはいないだろう。
だが。
玄冬はその家の裏手で足を止めた。
中からは子供の声と、何事か叱りつけるが聞こえる。
あの夜の後、ここで何かは起こったのか。
汀は何かを言い、夫は何かを考えたのか。
紙には出なかったものが、かつてここにあったのか。
「お武家様」
――家に残らずとも。人は。町に根を下ろした人間は、残る。
玄冬が顔を向けると、竹を背負った女が立っていた。
袖をまくり、腰紐をきつく締め、片手に籠を下げている。
三十を少し過ぎたころか。顔にはよく日に当たる者の明るさがあり、口元だけが少し遠慮していた。
「そこ、紙問屋ですよ。表から声かけりゃ、誰か出てきます」
「いや」
玄冬は、かつて汀の家だった紙問屋から目を離さずに答えた。
「前にあった家を見ていた」
「ああ」
女は少し目を細めた。
「朝景様んところですか。懐かしいねえ。もう、跡形もないでしょう」
跡形もない。
その言い方にはただの感想があった。
惜しむほど近くはなく、忘れるほど遠くもない。
町の者が、古い家を思い出す時の声だった。
「覚えているのか」
「ええ、まあ。世話になったんでね。昔からいるもんは皆覚えてると思いますよ」
女は、背の竹を少し上げ直した。
かさりと乾いた音がする。
「朝景様も汀様も、町の者にようしてくれました。汀様なんか、怖い顔してるのにさ、子どもが川っぺりで転んだらいちばん先に抱き上げてくれるんです。怒りながら」
女はそこで、少し笑った。
「『足元を見ろ』ってね。子ども相手でも言い方が武家なんだから」
玄冬は相槌だけを打った。
女は、それで十分だったらしい。
話の続きを探すように、紙問屋の軒を見た。
「あたしも、ずいぶん助けてもらいました」
声が、少し低くなった。
「亭主が急に逝っちまって。娘はまだ乳飲み子で。雪の多い冬でしたよ。腹も減るし、乳は出さなきゃならないし、泣きたいのはこっちだってのに、赤子はお構いなしでしょう」
言ってから、女は玄冬を見て、少し慌てたように口をすぼめた。
「すみません、お武家様にこんな話」
「構わぬ」
「そうですか」
女は、ほっとしたのか、籠を持ち替えた。
「あの時、朝景様が米と干し肉を持ってきてくれてね。どっさりですよ。うちじゃ正月でも見ないくらい。これで少し頼めないかって言うんです」
玄冬は、女の顔を見た。
女は玄冬を見ていなかった。
昔の雪を見ているような目だった。
「何をだ」
「乳ですよ」
あっさりと言った。
「赤子にやってくれって。汀様も一緒でした。あの人、赤子を抱くのは上手いんだけど、顔がねえ。あんな顔で黙って立たれたら、断れませんよ。いや、米も肉もいただいてるんだから、断る気なんかなかったけど」
「そうか。そういえば、あそこには息子がいたな」
女は首を振った。
「いえいえ、ご子息のためじゃありませんよ。詳しいことは忘れちまいましたけど、預かった子だとか、遠縁の子だとか、そんなあたりでしたかねえ。黒髪だったんでね、おや、と思ったのだけは覚えてて。風斎様のとこは、皆様赤いでしょ」
黒髪。
町の女にとっては、古い冬の端に残った小さな記憶だったのだろう。
風斎の家で赤子といえば、赤い髪を思う。
だから黒髪だったことだけが、十六年を経ても抜け落ちなかった。
それ以上の事情は知らない。知ろうともしなかった。
食べ物を受け取り、乳を分けた。自分も助かり、赤子も助かった。
女の中ではそれで話は終わっていた。
玄冬は静かに息をした。
「その子は、その後も?」
「さあ……何度か乳をやっただけですから。お武家様のお家のことを、あれこれ聞くもんじゃないですしねえ」
「それもそうだ」
玄冬は穏やかに言った。
女は少し申し訳なさそうに眉を下げた。
「すみませんね、つまんない昔話を。ご子息も、どっかでお元気だといいんですけど」
女は恐縮したように頭を下げ、川向こうへ戻っていった。
竹の擦れる軽い音が、しばらく耳に残った。
玄冬は、すぐに町を離れた。
秋の風は、まだ冷たいというほどではない。けれど夏の湿りはもう薄く、道端の草は乾いた匂いを立てている。
町の先の畑では、刈り残しの葉が風に擦れて小さく鳴った。
十六年前の雪は、どこにもなかった。
屋根にも、石にも、人の足跡にも残っていない。
だが、玄冬の内側には、あの夜の白さが戻っていた。
汀は、見ただけではなかった。
赤子を拾った。
あの三日の家用は、口をつぐむためだけの時間ではない。生かすための形を整える時間だった。
乳を探し、通う者を決め、余計な目が入らぬようにし、黒髪の赤子を家の内側へ沈める。そのための三日。
では、その子はどうなった。
朝景と汀は戦死している。家は別の者の手に渡っている。乳を分けた女は、その後を知らない。どの紙面にも、赤子の痕跡はない。
だが、あの家にはもう一人いた。
赤い髪の子ども。
その後、本家へ上がり、姫のそばに置かれた者。
日ごと屋敷を下がり、どこかへ帰る者。
町の音が遠くなる。
あの夜の雪の向こうに、それだけが残った。
――朝凪。お前が隠しているのか。




