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愛及屋烏花軍  作者: 司馬示朗
◾️花晨月夕──風斎の章
28/29

綴目の黙


十六年前の冬の控え。その帳面の紙は古かった。

けれど、古さの割に傷みは少ない。普段人の手に触れるものではなく、箱の底に沈められ、必要な時にだけ取り出される類の記録である。

表紙の隅には、その年の冬番と奥向き出入りの控えを合わせたものだと分かる小さな印があった。


灯は落としていない。それでも夜半の書見の間は、昼間とは違う沈み方をする。

紙をめくる音が広く聞こえ、墨の匂いがいつもより濃い。

控えの字は書役によっていくらか癖が違うが、いずれも仕事のための字だった。

情を残さず、必要なことだけを残す。

そして、一度書かれたものは容易には消えない。


玄冬は、奥向きへ出入りした者の名を追った。

産室に入った産婆、補佐の女房、湯と布を運んだ侍女。奥の外側で控えた者。知らせを受けて走った者。雪のために裏手へ回された者。

その名の並びは、当時の記憶よりも淡々としていた。


あの夜、屋敷は静かだった。

静かだったはずなのに、人は確かに動いていた。

産室の前で女たちは息を詰め、廊の奥では湯を絶やさぬよう手が動き、外では雪が積もり続けていた。

誰もがそれぞれの役目にいた。

そうでなければ、屋敷というものは動かない。


玄冬の指が、ひとつの名の上で止まった。


汀。


裏手雪除け、外回り補助。

その横に、別の手で小さく追記があった。


半途にて離る。


玄冬は紙面へ目を落としたまま、しばらく動かなかった。


文字は、それだけだった。

なぜ離れたかは書かれていない。どの刻に、どれほどの間、どこへ向かったかもない。

ただ、持ち場を途中で離れたという事実だけが、他の記録より少し硬い筆致で置かれている。


次の行には、翌朝の処分があった。


明けの刻、本人より申し出あり。持ち場離脱につき叱責。


申し出た。

玄冬は、その言葉を読み直した。


見つかって咎めを受けたのではない。翌朝になって、自分から申し出ている。

汀という女は、そういうことをする者ではあった。過ちは隠さず、言って叱られるべきだと考える種類の人間。

腕が立ち、妙に律儀で、損な役目も黙って引き受ける。

だからこそ本家へ出入りできた。

だからこそ、雪の夜の裏手などという人目の少ない場所を任せられた。


そして、だからこそ引っかかった。


身元と働きが確かで、口も堅い。

その女が、理由も告げずに役目を放り出した。


よりによって、あの夜に。


玄冬はさらに記録を追った。

叱責を受けた翌日から三日間、汀の名は勤めの欄から消えていた。

欠勤の理由には、家用、とだけある。


家用。


病とも、怪我とも、忌引とも書かれていない。

家の用。家の都合。広く、いくらでも逃げの利く言葉だ。記録としては十分で、事情としては何も語らない。


四日目から、汀は戻っている。

その後の記録には乱れがなかった。

外回り、見張り補助、詰所の用、奥向きの搬入手伝い。

どれも淡々とこなし、遅れも、咎めも、再びの欠勤もない。

少なくとも紙の上では、汀という女はその後、以前と同じように働いていた。


あの夜だけが、浮いている。


玄冬は、息を細く吐いた。

裏手。

汀のいた場所は、屋敷の裏手だった。

玄冬が産室から下がり、人目の薄い道へ出た場所。

灯の届く範囲から外れ、雪に足を取られながら山へ向かった道筋。


見えた可能性は、ある。


玄冬は目を閉じなかった。

閉じれば、思い出すものが決まっていたからだ。

腕の中の軽さ。布越しの熱。雪の窪み。泣かなかった赤子。


見たか。


問いは紙の上に落ちず、玄冬の内側だけで形になった。


真面目な働きをする女が、周囲に何も告げず持ち場を離れた。

その理由が、玄冬を見たからだったとしたら。

何かを抱えて裏手へ出ていく玄冬を不審に思い、追ったのだとしたら。


見たのか。

見なかったのか。


見たとして、どこまで。


雪の中へ置くところまでか。

置いたあとのものを見たか。

それとも、ただ玄冬が夜の山へ入るのを見ただけか。


玄冬は帳面の端へ手を置いた。


十六年、誰も何も言わなかった。

産室にいた者たちの口からも、奥向きからも、外回りの者からも、あの夜のことは一度たりとも上がっていない。

名のない死産の子は、名のないまま紙の端に置かれ、奥方の目から遠ざけられたままだった。


ならば、何もなかったのか。


そう考えるには、汀の三日の欠勤が残る。


見たとして。

それを家で話した可能性は。


夫。

そして、子。


――朝凪。


汀が何かを見た。

家へ戻った。

家用で三日休んだ。

その家に、朝凪がいた。


玄冬は帳面を見下ろした。


紙は、そこから先を語らなかった。




■■





その日の山の家には、冷茶と、鬼灯をかたどった練り切りが出ていた。


薄い橙に染めた餡の表にほんの少しだけ赤みを差し、上には萼に見立てた淡い緑が添えられている。

丸くふくらんだ形は本物の鬼灯よりずっと小さく、けれど皿の上に並ぶと、夏の終わりの庭先からそのまま摘んできたように見えた。

愛護は包みを開いた時からすっかり機嫌をよくして、ひとつを選ぶのにも妙に時間をかけていた。


夏は深いが、盛りの熱は少しずつ退きはじめている。

山の中の暑さは屋敷ほど刺すようではないが、湿りがある。

戸を開けておいても空気は重く、簾の影が畳に落ちるところだけがいくらか涼しげだった。

盆の端には井戸水で冷やした布が置かれ、鬼灯の練り切りの皿だけが座敷の中で小さく明るい色をしている。


愛護は、山の家へ来るとよく喋る。

屋敷での声とは違う。奥向きで母や女房の前にいる時よりも、父の座敷で帳面を前にしている時よりも、ずっと息がしやすそうだった。

もちろん、昔ほど何も考えずにはしゃぐわけではない。

兄のことを知ってから、愛護は秘密を持つ者の顔を少し覚えた。

けれどそれでも、ここでは肩の力が抜ける。


「愛護ねえ、最近は父様のお仕事も一緒に見るんだよ」


鬼灯の練り切りを黒文字で少し切りながら、愛護が言った。


「帳面とか、婚姻の記録とか。難しいの。でも、愛護は嫡子だから、いろいろ覚えないといけないんだって」


美菊は、茶碗を両手で持ったまま頷いた。


「ひめさまは、たくさん覚えておられるのですね」


「まだちょっとだけだよ。父様と玄冬が話してるの、ぜんぶは分かんないもん」


そう言いながらも、愛護の顔には少し誇らしさがあった。

本家の姫として扱われることを窮屈だと思う日もあるのだろう。

けれど、それをまるごと嫌がってはいない。

自分が風斎を継ぐ者であることを、幼いなりに受け取ろうとしている。


朝凪は少し離れたところで茶の跡を片付けていた。口は挟まない。だが、聞いてはいる。

愛護が父の座敷で何を見聞きしたかは、朝凪にとって軽い話ではない。


愛護は練り切りを口に入れ、なめらかな甘さに目を細めてから、思い出したように続けた。


「それでね、愛護のお婿さんも、今たくさんの人から選んでるんだって」


美菊の目が、静かに瞬いた。


「お婿さん」


「うん。愛護はお嫁に行かないんだよ。迎えるの。風斎を継ぐから」


愛護の言い方は、重い話をするものではなかった。

今日食べた菓子や、父の座敷に置かれていた帳面の数を話すのと同じ調子である。

自分の身に関わる大きなことだと分かっていても、まだその実感の全部は届いていない。

だからこそ、言葉は明るい。


「愛護はねえ、毎日お膝にのせてくれて、可愛い可愛いってしてくれる人がいいんだけどなあ」


美菊は、少し不思議そうに愛護を見た。


「ひめさまは可愛いので、どなたでも、そうしてくださるのでは」


朝凪が、茶筅を置いた。


「それは次期当主の婿を選ぶ基準ではございません」


「あとね、愛護の好きなお菓子が出たら、半分くれる人がいいなあ」


愛護は聞いていない。

美菊は、皿の上の小さな鬼灯を見て、少し考えた。


「それは……いいひとですね」


「でしょぉ」


「姫様」


朝凪の声に、頭痛の気配が混じった。

愛護はにこにこと笑ったまま、今度は朝凪の方を見る。


「縁談と言えば、朝凪もいっぱい話が来てるんだよ。でも、ぜんぶ断っちゃうの。なんで?」


朝凪の手が止まった。


「姫様」


「縁談」


美菊が小さく繰り返した。

黒い目に、珍しく好奇の光が宿っている。


「聞かなくていい」


朝凪は短く言った。

愛護はかまわず続ける。


「重臣の子とか、古い血の人とか、いい話もいっぱいあったんだよ。雪簇の美人で有名な人との話も!」


「……どこでお聞きになるのですか」


「えへぇ」


「姫様」


声は叱っているのに、愛護はまるで堪えていない。


美菊には、朝凪が縁談を断る理由が分かっていた。


自分を隠しながら、家庭など持てるはずがない。

誰かを妻として迎えれば、その人は朝凪の暮らしの中へ入る。

帰る家を問い、留守の理由を問い、いつか山の家へも目を向ける。

朝凪はそれを許さないだろう。

だがそれだけではない。


あと数年で、風斎は滅ぶ。


血をつなぐための婚姻に、もう意味はない。

家のために子を残すことにも、未来へ名を渡すことにも、朝凪はとうに価値を置いていない。

すべては、そこへ辿り着く。

朝凪も、美菊も、ずっと昔からその終わりを見つめてきた。


けれど、今ここでそのことを言う必要はない。

山の家にはつめたい茶があり、愛護の持ってきた菓子があり、朝凪のため息がある。

終わりがすぐそこにあるからこそ、その穏やかさは壊しにくかった。


愛護は、急に得意げな顔になった。


「わかった。朝凪、すっごく理想が高いんだ」


朝凪は無言だった。


「きれいで、かわいくて、かしこくて、やさしくて、『なりません』って言わせなくて、お菓子の食べ過ぎで夕餉を残さない人!」


「ご自覚がおありでしたら、お控え願いたいのですが」


「えっ、朝凪ってば……愛護がきれいでかわいくてかしこくてやさしいなんて」


「後ろ半分にございます」


愛護が笑った。

その笑い方は、奥向きで女房たちに見せるものよりずいぶん幼かった。

美菊も楽しそうに見ていた。声を上げて笑うことはないが、目元がやわらいでいる。

朝凪は深く息を吐き、けれど本気で場を止めようとはしなかった。


簾の向こうで、夏の光がゆっくり揺れる。


山の家の中には、外から隔てられた静けさがある。

誰にも知られてはいけない場所。誰にも見つかってはいけない人。

そこへ、風斎本家の姫が菓子を持って通い、側付きが茶を入れ、隠された兄が穏やかに聞いている。


それは長く続くものではない。


三人とも、同じ重さでそれを知っているわけではなかった。

愛護はまだ、終わりの形を知らない。

朝凪は知っていて、そこへのみちゆきを考えている。

美菊は知っていて、受け入れることしかしてこなかった。


それでも、その時間は惜しむようにそこにあった。




■■




玄冬は朝凪の記録を取り寄せた。


名目は、姫付きの者たちの働きの見直しで足りた。

愛護の婿選びが始まるなら、姫の周囲にいる者の身元や勤めを改めて確かめておくことに不自然はない。

朝凪だけを調べるのではない。女房、侍女、護衛、教育に関わる者。

そうした名の並びの中に朝凪を置けば、紙の上では何も目立たなかった。


朝凪の勤務記録は、よく整っていた。

遅参はない。報告の漏れもない。姫の外出時の段取りも、天候や供回りの人数に合わせて細かく調整されている。

小堂への供えに同行する時も、戻りの刻はおおむね守られていた。

山で多少遊ばせているのだろうと玄冬が見ている範囲を、朝凪は越えない。


よく働く。

それは認めざるを得なかった。

幼い姫をただ甘やかすのでも、縛りつけるのでもない。

危ういところは先に潰し、逃がしてよいところは逃がす。

愛護が本家の姫として息を詰めすぎぬよう、同時に姫として崩れぬよう、若いわりによく測っている。


粗を探すつもりで見ても、粗はない。


縁談をことごとく断っていることだけが、少々目についた。

もっとも、まだ大きな問題とするほどの年齢ではない。家のために婚姻を急ぐ立場でもない。

本人が姫付きとして重用されている以上、今は務めを優先したいと断ることも通る。

周囲は仕事熱心だと見るだろう。

玄冬自身も、少し前ならそれで済ませた。


だが、そつのない朝凪にしては、頑なだった。


縁談の質が悪いわけではない。家格も血筋も悪くない相手が並んでいる。

相手の家も、朝凪の将来性を見て話を持ってきている。

受ける気があるなら、悪い選択ではないものがいくつもあった。

それでも、断る。


玄冬は次の紙をめくった。


日の務めを終えて屋敷を下がったあとの朝凪について、記録に残ることは少なかった。

若い武家の者なら、詰所に残ることもある。

誰かと飯を食うこともあれば、町へ下りることもある。

女房たちの噂に名が上がる者もいる。鍛錬を長く続ける者、酒の席へ連なる者、縁談の相手方と顔を合わせる者。

そうした余分な影が、日々の端にはどうしても残る。


朝凪には、それが薄い。


ただ、それは特筆すべきことでもない。

生真面目な者ならば、務めを終えれば寄り道をせず家へ戻る。

人付き合いを好まぬ者なら、噂にも上らない。

朝凪の性質を思えば、むしろ自然とさえ言えた。


紙の上で追えるのは、そこまでだった。

紙は記録でしかない。感情は載らない。思考も載らない。

母が子に何を話したか、子がそれをどう受け取ったかなど、墨の行には残らない。


汀が見たとして。


その夜、家へ戻った汀が、夫に何かを話したか。

まだ幼かった朝凪に、何かを聞かせたか。

あるいは何も語らず、ただ胸の内へ沈めたまま、翌朝になって持ち場を離れたことだけを申し出たのか。


玄冬は、朝凪の名が並ぶ紙面を見下ろした。


朝凪が何かを知っているようには見えない。

少なくとも、姫の前で見せる顔にも、務めの中の振る舞いにも、あの冬へ繋がる乱れはない。

玄冬に対する態度も、他の重臣に対するものと大きく変わらなかった。

礼を失さず、余計な親しみも見せず、必要なことだけを返す。


だが、知っていてその顔ができる者もいる。

朝凪がそうであるかどうかは、紙には書かれていない。


玄冬は、古い地図を出させた。

かつての朝凪の実家、汀が夫と住んでいた家の場所を確認するためだった。


汀が知っていたとして、口をつぐんだままこの世を去ったのであれば何も問題はない。

ないことを確認するのは難しい。けれど、あったことなら、何かしらの痕跡が残る。

人が動き、言葉が渡り、誰かがそれを覚えていれば、古い家の周囲には小さな引っかかりが残ることがある。


そこに何もないのなら、それで良い。

あの冬の記録は、また箱の底に戻るだけだ。


帳面を閉じた。

座敷の外では、夕方の気配が濃くなっている。

日盛りの熱はまだ柱に残っていたが、庭の青葉の色は少し沈み、どこかで水を撒く音がした。

屋敷は何も知らぬ顔で日々の務めを終えようとしている。




玄冬は立ち上がった。






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