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愛及屋烏花軍  作者: 司馬示朗
◾️花晨月夕──風斎の章
27/28

夏簾の系譜


夏の光は、朝から白かった。


庭の青葉は濃く茂り、池の面には空の明るさが平たく返っている。

簾を下ろしても、日差しの強さは完全には遮れない。

細く割れた光が畳に落ち、風が通るたびに揺れる。廊の端では下働きの者が打ち水をしていた。

柄杓から落ちた水が石へ触れ、すぐに薄い湿りとなって広がる。

その匂いだけが、ほんのしばらく暑さを遠ざけた。


その日、玄冬は表の座敷へ呼ばれていた。

座敷にはまだ、日盛りの熱は届いていない。簾の向こうで庭木が揺れ、遠くの蝉の声がかすかに聞こえる。

文机の上には、家譜と古い婚姻の控えが数冊置かれていた。

いずれも普段は奥へしまわれているものだ。

家の流れを示す紙は、扱う者を選ぶ。


当主は、その前に座っていた。


「愛護の婿について、そろそろ支度を始める」


玄冬は一拍置いて、頭を下げた。


「姫様も、もうそのようなお年頃でいらっしゃいますか」


「……そうだ」


短い返事だった。

声は当主のものだった。低く、乱れがない。

だが、言い終えたあとの口元に、わずかな苦みが残った。


愛護は、風斎本家を継ぐ娘である。嫁に行くのではなく、婿を取る立場だ。

相手は慎重に選ばねばならない。血筋、家格、綾の相性、四家との均衡。

本人の器量だけでは足りない。その背後にある家の欲や思惑まで見なければならない。


それを分かっていながらも、当主の顔には家の理だけでは片づかないものが浮かんでいた。

愛護の隣に男を置かねばならない。家のためには、いずれ必ずしなければならない。

だが、可愛い娘の横にどこの誰とも知れぬ男が――いや、どこの誰と知っている男なのだが――夫として並ぶことを思うと、それだけで顔が渋る。

そういう、当主の理では押し切れない父親の顔だった。


「まずは候補者の選定からだ。まだ暫くは、あれ自身まで話は降りん」


当主は言った。


「その間に、婚姻と血筋の理を教えておく必要がある。歴代の婚姻、四家の血の交じり方、婿入りした者の扱い、傍系と本家から下った筋のこと。愛護に分かる形で資料を整えろ」


「承知いたしました」


当主は家譜を見下ろしたまま、しばらく黙っていた。

職務としては、話は終わっている。だが父としては、終わっていないのだろう。

愛護が生まれた日のこと、初めて歩いた日、母の袖に隠れていた幼い姿、近ごろ姫らしく背を伸ばすようになった姿。

そうしたものが、言葉にならぬまま面に過ぎた。


「よい相手を選ばねばならぬ」


やがて、低くそう言った。


それは、家のための言葉だった。

同時に、娘のための言葉でもあった。


玄冬はもう一度、深く頭を下げた。


「そのように」


その顔から、父親の揺らぎは少しずつ引いた。かわりに、風斎当主の静かな硬さが戻る。

玄冬はそれを見届け、控えていた書役へ目を向けた。

書役は心得たように古い写しをいくつか差し出した。


愛護に見せるなら、直系から始めるべきだろう。

だが直系だけでは足りない。四大武家の血は、交じったとてただ薄まるものではない。

どの家にどれだけ近いか、どの筋を祖に持つか、下った本家筋がどこへ入ったか。

それによって、子に表れる証は変わる。

大人であれば経験で察するが、子どもに教えるには例を選ばねばならなかった。


書見の間に資料を持ち帰った玄冬は、風斎へ婿に入った妻鳥の男の記録、雪簇から迎えた男の記録、月渓の傍系へ入った風斎の女の記録を順に見た。

余分な争いごとや不名誉な離縁の記録は外す。

今の愛護に必要なのは、家の傷ではなく理である。


やがて、ある古い系譜のところで手が止まった。


風斎領の南寄り、花宮に近い土地から分かれた傍系の家だった。

本家との関わりは濃くない。だが古く、長い。

代ごとの勤めも乱れておらず、血筋の扱いに曇りはない。

そこから、かつて風斎本家近くの町に家を構える傍系へ嫁いだ女がいた。


汀。


覚えのある名だった。


直接言葉を交わしたことはほとんどない。

しかし、本家へ出入りするのに十分に身元が確かな女として扱われていた。

古い家の娘で、腕が立ち、口が堅い。

雪の日の外回りでも、面倒な見回りでも、任せれば黙って動く。

人目に立つ才ではないが、使う側からすれば信頼しやすい者だった。


だが、玄冬がその名に覚えがあるのは彼女の働きが理由ではない。


朝凪の母。


かつて朝凪を側付きに選定する際、母方の古い血は一定の評価を得た。

父方は比較的浅い系譜の家だが、母方は長く、濃く、傷もない。

風斎本家の姫の近くに置く若者として足る血の重さ。

それは才覚や器量とは別の、四大武家特有の価値観による評価だった。

そして姫付きとして選ばれた朝凪は、若いながらよく働く。

口数は少ない。余計な愛想もない。だが見落としが少なく、必要なところへ先に手を置く。

なるほど、そういうところは母と同じ気質を感じた。


「その筋も入れますか」


書役が控えめに問うた。

玄冬は、汀の名から目を離した。


「いや。今は四家との婚姻筋で良い」


「承知いたしました」


書役が紙を引く。

汀の名はほかの多くの名と同じように、古い紙の中へ戻った。







昼過ぎ、愛護は父の座敷へ呼ばれた。


十二になってから、父の座敷で帳面を見ることが増えている。

母の部屋で教わる作法や衣の扱いとは違い、ここでは父や玄冬が仕事をしている姿を見ることも多い。

以前ならすぐに飽きてしまった帳面の字も、今は少しだけ追えるようになった。

何が書かれているのかまではまだ分からないものも多い。

けれど、自分が本家の姫として、いずれこういうものに関わるのだということは分かりはじめていた。


十一の春に兄のことを知ってから、季節はひと巡りした。


屋敷では今も父の娘であり、母の子であり、風斎本家の姫だった。

山の家へ行けば、美菊の妹だった。

そう在ることにも、もう胸を震わせすぎずにいられる。

屋敷では決して口にしない。山の外では、呼び名も顔も慎重にしまっておく。

それは、兄を遠ざけることではないのだと、わかっている。

言葉にしないまま胸の内に置いておくことで、かえって損なわずにいられるものがある。

愛護はこの一年でそれを少しずつ覚えた。


奥向きの廊を渡るにつれ香の甘さは薄くなり、かわりに紙と墨の匂いが濃くなる。

女房たちの衣擦れが遠ざかり、低く交わされる男たちの声や紙をめくる乾いた音が先に届く。

愛護はその境を越えるたび、背筋が伸びる思いがする。


付き添いの女房を控えの間に置き座敷へ入ると、父は上座に座していた。下には玄冬が控えている。

愛護の知る父は、母の前では穏やかで、愛護へ声をかけるときも厳めしさを保ちながらも愛情が透けて見える人だった。

だが当主として座る父は、同じ顔をしていても少し遠く見えた。

声は低く、頷きは短い。人を急かすわけではないのに、周囲の者は自然と次の紙を差し出し、必要な言葉だけを返す。


父の前には、一冊の帳面が開かれていた。

古びてはいない。ここ数年の報せをまとめたものらしく、紙の端はまだ白く、墨も鮮やかだった。

行ごとの字はきちんと揃えられ、後に誰が見ても分かるように整えられている。


そこには、領内の家々の名があった。

誰が生まれ、誰が亡くなったか。どこの娘がどこへ嫁いだか。

兵に上がった者、怪我で退いた者、遠縁へ養子に入った者。

愛護の知らない名が、墨でひとつずつ並んでいる。

だが父は、それらをただの文字として扱ってはいなかった。


「家は、人の記憶だけでは保てぬ」


父は言った。


「誰が生まれ、誰が死に、どの血がどこへ渡ったか。それを誤れば、後の者が道を見失う。人は忘れる。善意でも、悲しみでも、都合でも忘れる。だから記録に残す」


愛護は帳面を見つめた。

生まれたこと。死んだこと。どこへ行ったか。何を継いだか。

小さな名が、紙の上でそれぞれの場所を持っている。

その人たちは、愛護の知らないところで生まれ、暮らし、死に、それでもこうして家の中に残る。


そこに、兄の名はない。


愛護は膝の上の手を握った。


父の言葉が間違っているとは思わなかった。むしろ、とても正しいのだと思った。

大きな家が長く続くには、きっとこういうものがいる。

誰かの記憶だけに任せていたら、いつか大切なことも歪む。

父はそれを守っている。


けれど、その正しさの外に美菊がいる。


死んだことにされた兄。生まれたことを、家の紙の上へ残されなかった兄。

山の家で静かに本を読み、愛護が持っていく花を丁寧に眺め、淡い声で「ひめさま」と呼ぶ人。


紙にいなくとも、確かにそこにいる人。


けれどそのことを、父の前で言うことはできなかった。


「難しい顔をしているな」


父が言った。

愛護は顔を上げる。


「難しいです」


「それでいい。容易いものだと思わぬ方がよい」


玄冬が父の横から別の紙を差し出した。領内のある家に子が生まれたという報せだった。

父は目を通し、短く確認を返す。生まれた子の名、親の名、届けた者の名。

まだ顔も知らない赤子が、きちんと紙の上に場所を得ている。


愛護はその墨の行を見た。

よかった、と素直に思った。

そう思ったあとで、胸の奥が少しだけ痛んだ。


父は帳面を閉じ、別の写しを愛護の前へ置いた。


「これは婚姻の記録だ」


愛護は膝を揃え直した。


「はい」


「今すぐすべてを覚える必要はない。だが、風斎がどこと血を結び、どのように続いてきたかは、いずれ知らねばならぬ。お前は本家を継ぐ。相手を迎えるということが、どういう意味を持つかも含めてだ」


父の声は、いつも通り低かった。けれど、愛護はその言葉の重さに、少しだけ背筋を伸ばした。


本家を継ぐ。


それは幼いころから聞いてきたことだった。

だが、十二になって父の座敷で聞くと、前よりも少し胸の近くで響いた。

母の部屋で言われる「姫様らしく」とは違う。

衣の着方や座り方だけではない。自分の横に誰を迎えるか。どの血を風斎へ入れるか。

そういうことまで、いつか自分の身に関わるのだ。


記録には、いくつもの家名が並んでいた。

風斎。妻鳥。雪簇。月渓。

四大武家は識島を支える家であり、ときに婚姻で結ばれ、ときに戦場で肩を並べる。

だが、紙の上で見ると、その関係の織りは思っていたよりずっと細かかった。

愛護はふと思い立ち、問う。


「四家同士で子が生まれると、どちらの色になるのですか」


父は記録の一行を指した。


「血の重い方の証が出る」


「重い方?」


「本家にどれだけ近いか、どの筋を祖に持つか、あるいは血の古さ。たとえば五代続いた傍系の風斎と、家が成って二代目の月渓の子であれば、風斎の色が出る。だが、その月渓の家が本家を離れた姫の血を引く筋であれば月渓の血が出る」


「赤毛に銀の目になったりはしないのですか」


「そういう交ざり方はない。必ずどちらかの色になる」


「では、町の方と結ばれれば? 長くある老舗のお家の方とであれば、民の色になることも?」


「いいや。その時は必ず武家の色が出る。武家の血の重さは民の血を飲み込む」


愛護は、そっと息を詰めた。

胸の奥で密かに考えていた仮定が否定された。

民との間の子であっても、黒髪にはならない。

ならば、なぜ。


父は顎を擦り、余談を語る声音で続けた。


「武家の血が入れば、証が出る。証が出れば、その家のみちゆきは武家として定められる。であるので、町からの嫁取りは時代や状況によってあるものだが、民への輿入れは余程のことがなければ成らぬ。商人や農夫の系譜に突然刀を持たせるのは酷だ」


愛護は指先のこわばりを袖に隠し、紙の上の名をたどった。


字は難しくない。けれど、関係は複雑だった。

誰が誰の子で、どこからどこへ入り、何代を経てどちらの色が出たのか。

線で引かれたものを目で追っていると、途中で何度か分からなくなる。

玄冬が横から、別の写しを出した。


「こちらは、雪簇から迎えた方の例にございます」


父はそれを受け、愛護の前へ置く。


「血の証とは、ただの飾りではない。目に見える矜持であり、誰がどこに属するかを違えぬためのものでもある」


愛護は頷いた。


風斎の色。赤い髪と青い目。妻鳥の灰と赤。雪簇や月渓の色。それぞれの家には、それぞれの証がある。

愛護はそれを、物心ついたころから知っていた。

屋敷にいる者の多くは風斎の者で、赤毛青眼である。

一方で、下働きや厩番、町から雇われた者たちは皆黒い髪と黒い目をしている。

それは何も不思議ではない。屋敷には風斎の者と、風斎ではない者がいる。それだけのことだった。


けれど。


愛護は紙の上へ視線を戻した。


美菊は風斎の子だ。愛護の兄だ。黒い髪と黒い目の、兄。

理に合わない。

それでも、父にも玄冬にも訊けない。

訊けば、言葉は座敷に残る。

残った言葉は、なかったことにできない。

愛護はそれを知っている。


「……重い、です」


愛護は正直に言った。

父の目元が、わずかに和らいだ。


「そう思えるのならば、良い。きちんと見ているということだ」


座学はそこで終わった。父は今日はここまででよいと言い、玄冬が静かに紙を下げた。

座敷を出るころ、蝉の声は少し大きくなっていた。


廊へ出ると、空気が変わる。

父の座敷の紙と墨の匂いから、奥向きの香と夏の湿りへ戻る。

その境を越えながら、愛護は袖の内側で指を握った。








山へ行けたのは、よく晴れた午後だった。


小堂には、青い笹の葉で包んだ葛菓子を供えた。

水気を含んだ透明な菓子で、淡い餡が中に透けて見える。

夏はやはり涼しげなものがよいだろうと選んだもので、女房たちも「姫様はお供えの品を選ぶのがお上手になりましたね」と笑った。

愛護は、その言葉にきちんと礼を言った。


小堂へ向かう道は夏草が伸びていた。

供回りをいつもの場所に残し、朝凪の後ろについて細道へ入る。

山の中は屋敷より涼しいが、湿った土と葉の匂いが濃く、少し歩けば首筋に汗が滲む。

木陰を渡る風は柔らかい。蝉の声は遠近を失い、山全体が鳴っているように聞こえた。


「暑いねえ」


愛護が言うと、朝凪は振り返らずに答えた。


「ご無理はなさらず。足も、速めすぎませぬように」


「大丈夫だよ」


「今、半歩ほど急がれました」


「朝凪、細かい」


そう言うと、朝凪はもう何も返さなかった。


山の家は、いつものようにそこにあった。

障子は少し開けられ、簾が下りている。軒先には水を張った桶が置かれ、井戸から汲んだばかりの冷たさがそこに残っているようだった。

愛護が戸口へ近づくと、中から紙を閉じる音がした。

美菊が顔を上げる。


「こんにちは、ひめさま」


「こんにちは、あにさま」


山の家の中でだけ許される呼び方だった。

言うたびに胸が高く鳴ったころは、もう少し前のことになっている。

今は、その呼び方が自然に口へ乗る。

兄も、いつものように目をやわらげて、愛護を迎える。


「葛のお菓子を持ってきたの。笹で包んであるよ」


「涼しそうです」


「うん。香りもね、すっとするの。愛護これ好きなんだ」


朝凪が包みを解く。今日は冷ました茶が出された。

美菊は皿の上の葛菓子を興味深げに見た。

透明な菓子を日陰で見ると、屋敷で見たときよりもずっと水に近く見える。


「きれいです」


「好きそう?」


「はい。食べるのが、すこしもったいないです」


愛護は笑った。


「じゃあ、半分にする? 見ながら食べられるよ」


「半分にしたら、崩れてしまいませんか」


「……たしかに」


美菊は少し考えるように菓子を見て、それから小さく切った。

朝凪は少し離れたところで次の茶を支度している。会話には入らないが、聞いていないわけではない。

愛護はそういう朝凪の在り方にも、もう慣れていた。

兄と自分が話し、朝凪が座敷の端にいる。

その形は山の家の夏の空気とよく馴染んでいる。


葛菓子を食べ終えるころ、美菊は冷たい布を差し出した。


「ひめさま、汗をかいておられます」


「え、そう?」


愛護が額に手を当てると、たしかに髪の生え際が湿っていた。

布を受け取り、頬に当てる。井戸水の冷たさが皮膚へしみて、思わず目を細めた。


「つめたい」


「朝凪が用意してくれました」


「朝凪は何でも先にするね」


「必要なことをしているだけにございます」


朝凪の返事はいつも通りだった。

愛護はその声を聞きながら、兄の横顔を見た。

夏の光は簾で細かく刻まれ、畳へ淡い影を落としている。

その影の中で、美菊の髪は黒かった。

深く、静かな黒。

何度も見てきた色で、愛護の中ではもう兄そのもののような色だった。


それでも、父の座敷で聞いた話が、胸の奥に残っている。


風斎の血の証。


血の重い方の証が出る。


民の血は飲み込まれる。


密かに考えていた、信じたくない、しかしそうなのであれば美菊が死産とされた理由も想像できた「母の不義の子」という可能性すら潰された、その色。


愛護は、冷たい布を膝の上で畳んだ。


――今日、訊こうと思って来た。


けれどいざ兄を前にすると、言葉は少しだけ重くなった。

でも、何かを暴くためではなく、兄を知るために訊きたい。

そう思えるほどには、この一年で美菊は「山の家の人」ではなく「愛護の兄」として愛護の胸に居場所を作っていた。


「……あにさま」


呼ぶと、美菊が本から顔を上げた。


「はい」


「あにさまは、どうして風斎の色をしていないの」


口にしたあと、愛護は少しだけ布を握った。

兄の黒い髪が嫌なわけではない。黒い目を変だと思っているのでもない。むしろ好きだった。

兄にはその色が似合う。けれど、自分の好きな色に理由があるなら、それを知らないままにはしたくなかった。


美菊は怒らなかった。

少しだけ瞬きをして、自分の髪へ指を触れた。

まるで、その問いがどこから来たのかを確かめているようだった。


「天宿りの代償です」


愛護は、すぐに答えを受け取れなかった。


天宿り。


言葉だけなら知っている。『天眼』も、『十万億土』も、奥向きにいても耳に入る名だった。無論、玄冬の『時樴』も。

人の理を超えた力を宿し、そのかわり何かを奪われた者たち。

尊ばれ、畏れられ、戦の中では普通の武家とは別の場所に置かれる存在。


それが兄。


山の家で本を読み、葛菓子を涼しそうだと言い、愛護の汗を気にして冷たい布を渡してくれる兄が。


「あにさまが?」


声が小さくなった。

美菊は頷いた。


「はい」


「天宿り、なの?」


「はい」


愛護は朝凪を見た。

朝凪は否定しなかった。冷ました茶を器へ移す手を止め、ただ静かにそこにいた。

その沈黙で、答えは足りた。


愛護は、もう一度兄を見た。

天宿りなら、なぜここにいるのだろう。本家が守るのではないのか。

『天眼』は花宮に座し、識島を視ていると聞く。

『十万億土』は悍ましい力だが、それがあるからこそ今の妻鳥の戦況が有利に安定していると、女房たちが声を潜めて話していた。

『時樴』を宿す玄冬は、昔から当主の近くに侍り、重用されている。

天宿りはおそろしい。むごい。畏れるべき力であることが多い。けれど、家や国が必要とする者でもあるはずだった。


それなのに兄は、山の家にいる。

誰にも知られてはいけない者として、隠されている。


「風斎の色を、うばわれたのです」


美菊は静かに言った。


奪われた。


その言葉が、愛護の中に落ちた。


天宿りには代償がある。愛護でも知っている。

けれど、それは遠い言葉だった。

戦場や花宮や、他家の奥の低い声の中にあるものだった。

それが今、兄の髪にある。


黒い髪。黒い目。


美菊が美菊であることそのもののように見えていた色が、奪われた結果なのだと知らされた。


「……痛かったの?」


やっと、それだけ訊いた。

美菊は少し考えた。


「産まれた時からこの色でした。その時、痛みがあったかは……わかりません。今は、とくになにも」


愛護は頷きかけて、頷けなかった。

痛くないなら、よかった。けれど、奪われた事実は変わらない。

兄はずっと黒い。

だから風斎の子として見られなかったのだろうか。だから隠されたのだろうか。それだけなのだろうか。

分からないことが増えた。


「でも、天宿りなら、どうして。どうして……、あにさまの力は、」


言いかけたところで、朝凪の気配がわずかに変わった。

声を出したわけではない。動いたわけでもない。

ただ、そこから先へは来るなと、空気が告げた気がした。

愛護は口を閉じた。


訊いてはいけない。

少なくとも、今は。


愛護は膝の上で、冷たい布を握り直した。


「美菊は、美菊だよ」


代わりにそう言った。

美菊は少しだけ目を見開いた。


「はい」


「風斎の色がなくたって。愛護のあにさまだよ」


美菊はすぐには答えなかった。

やがて、ほんの少し目を伏せる。


「ありがとう、ございます。……ひめさま」


その声は静かだった。


愛護は、胸の奥が熱くなるのを感じた。

本当はもっと訊きたかった。

どうして天宿りなのに隠されているのか。誰が兄をここへ置いたのか。

父は何をどこまで知っているのか。母はなぜ知らないのか。


けれど、どれも口にしなかった。

知らないままにすることは、何も考えないことではない。

知れば守れるものもある。だが、知ったことで壊れるものもある。

今ここで無理に聞けば、朝凪に答えさせることになる。兄も、きっと傷つける。

愛護は、それを望まなかった。


朝凪が、器を差し出した。


「茶を。汗をかかれましたので」


いつも通りの声だった。

愛護は受け取った。

美菊も小皿へ視線を戻す。葛菓子の残りは、夏の光の中で涼しげに透けていた。

さっきまでと同じ山の家。同じ畳。同じ簾の影。同じ兄。

けれど愛護は、美菊の黒い髪と瞳、そこに奪われたものがあるのだと知ってしまった。


目に見える代償。

けれど、その苦しみまで見えるわけではなかった。




■■




夜半。玄冬はまだ書見の間に残っていた。

次の座学で愛護に見せる写しは、すでに選び終えている。

直系の流れ、四家との婚姻、本家を下った筋の扱い。

今の姫に必要なものだけを抜き、余分なものは外した。

翌日には清書へ回せるはずだった。


そこへ、書役が薄い控えを持ってきた。


「玄冬様」


「何だ」


「直系の御子について、ひとつ確認がございます」


玄冬は顔を上げた。

書役は控えを開き、膝を進める。


「家譜には、奥方様の第一子が死産とございます。ですが、忌日控えにも、弔事控えにも、該当する記載が見当たりません。写しを整えるにあたり、空けておいてよろしゅうございますか」


座敷の灯が、紙の上で小さく揺れた。

玄冬はすぐには答えなかった。


死産。


名のない第一子。


記録の上では、それだけで済んでいた。いや、済ませたのだ。

生まれる前に死んだ子として扱えば、名は要らない。

名がなければ、忌日を立てる必要も薄い。

奥方には不吉を伝えぬと決められた。

ならば、弔いの形も大きく残さない方がよかった。


その時は、そう処理された。

そして、それで足りていた。


名のない死産の子を、誰も深く掘り返さない。

奥に記憶を残さぬためにも、控えは薄い方がよい。

何かを隠すには、余計な嘘を積むより、最初から見るべきものを少なくした方がよいこともある。


十六年、それで済んだ。

奥方がその控えを見ることはなかった。当主が見返すこともなかった。

家譜に短く記された一行は、直系の流れを示すうえで大きな意味を持たず、書役たちも古い写しをそのまま踏襲してきた。

名もなく、忌日もなく、ただ「死産」とだけある御子。

そういうものとして、紙の端に置かれていた。


だが今、愛護に家を教えるため、直系の記録を整え直している。

古い写しを新しくするなら、空白もまた目につく。


「その控えを置け」


玄冬が言うと、書役は頭を下げた。


「では、明朝まで空けておきます」


「よい。こちらで見る」


書役は余計なことを問わず、控えを置いて下がった。


座敷に、紙の匂いだけが残る。

玄冬はしばらく動かなかった。


死産と記した。名を与えなかった。奥方の目から遠ざけた。自分の手で、雪の中へ置いた。終わったこととして、家の奥へ沈めた。

だが、記録に残らぬものほど、時を置いてから形を問われた時に厄介だ。


玄冬は、別の箱を開けた。

十六年前の冬の控えである。


奥向きの出入り。産室に詰めた女房。外回りの配置。雪始末に回された者。紙は古く、墨は少し痩せていた。


頁を繰る。


奥。


廊。


裏手。


雪。


あの夜の屋敷が、紙の上で静かに戻ってくる。

やがて、玄冬の指が止まった。


夜半。雪始末の組。


裏手。


汀。


その行の端に、短い添え書きがあった。


半途にて役を離る。


玄冬は、その文字をしばらく見ていた。


灯の火が、紙の端で小さく揺れた。





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