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愛及屋烏花軍  作者: 司馬示朗
◾️花晨月夕──風斎の章
26/27

未明の袖


美菊の声は途切れた。


息を失ったように、体が前へ傾ぐ。朝凪は反射で腕を伸ばし、布団の上へ崩れかけた肩を抱き止めた。

軽かった。ふだんから細い体だとは知っている。けれど予言のあとに触れる美菊は、いつも重さのありかが曖昧になる。

ここにいるのに、いましがた別の場所から戻されたばかりのように体の芯が遅れてついてくる。


「美菊」


呼んでも、返事はない。


予言のあとの美菊は、だいたいこうなる。

すぐに意識を取り戻すこともあれば、そのまましばらく自分の体へ戻ってこないようにぼんやりすることもある。

朝凪はもう、その扱いを覚えていた。

上体をゆっくり寝かせ、首の下へ枕を差し込み、冷えていた指先を布団の内側へ入れる。

水を飲ませるにはまだ早い。無理に動かせば、吐く。


手は自然と額へ行った。熱はない。

予言は病ではない。そう分かっていても、朝凪はいつも熱を確かめる。

病なら薬がある。冷えなら火を入れればいい。怪我なら塞げる。だが予言は、どれでもない。

来たものを受け、告げ、体と心を削られて終わる。

朝凪にできるのは、終わったあとに倒れぬよう支えることだけだった。


障子の向こうで、夜明け前の空が鈍く白みはじめている。

雨はまだ落ちていない。けれど湿った匂いが山から降りてきていた。

遠雷の余韻はもうない。

家の中は静かで、あまりに静かで、いま聞いた言葉だけが床にも柱にも染みついているようだった。


――『天眼(てんがん)』墜つ。


朝凪は、その一語を胸の内で繰り返した。

腹の底が冷え、背が強張るのを感じる。


『天眼』は、ただの一人の天宿りではない。

今の識島が識島として持ち堪えている、その要に近い。

『門』がひらく前触れ。綾の歪み。国の端で起こる、まだ人の目に触れぬ異変。

そうしたものを『天眼』が拾い、囁石(ささめいし)を通して各所へ流す。

兵はそれを受けて走る。詰所は備え、領内の者は避ける。

遅れれば死ぬ場所へ、遅れずに人を送ることができる。


それが、いまの戦の形だった。


『天眼』の存在が公にされたのは、十年ほど前だと聞いている。

雪簇によって囁石が整えられ、『天眼』からの警報が迅速に戦う者たちへ届くようになった。

朝凪を含め若い兵たちは、それを当然のものと認識している。

『門』の兆しは報せられるもの。異変は共有されるもの。そういう前提で体が動く。


だが、昔は違った。大昔ではない。『天眼』が現れる前、ほんの十数年前だ。

朝景は、ときどきその頃の話をした。思い出話ではない。悔恨の話でもない。古い傷の確認のように。


かつては、まず誰かが気づくしかなかった。見張りが綾の異変を拾う。山中で獣が一斉に黙る。町の端で井戸水が濁る。『門』が開いてから、誰かが馬を走らせる。

火急の使いが次の詰所へ飛び込み、そこからさらに別の者が走る。

伝わるころには、すでに禍滲が人里へ入っていることも珍しくなかった。

戦える者が到着したとき、守るべきものがもう残っていないこともあった。


兵の腕が足りなかったわけではない。武家が怠っていたわけでもない。

ただ、知るのが遅ければ、どれほど強くても届かない。

どれほど速く駆けても、もう死んだ者を守ることはできない。


『天眼』ひとつで、その遅れが縮まった。


被害は減った。死者も減った。

完璧ではない。『門』はなおひらき、禍滲はなお人を殺す。

それでも、いまの識島は『天眼』の目によって早く動ける。

失う数の桁が大きく変わった。

『天眼』がいるからこそ、戦場はどうにか戦場の形を保っている。


その目が墜ちれば。


識島は、一気に昔の戦況へ戻る。

十数年前の、泥の中のような戦へ。


朝凪は、美菊の肩に布団を掛け直した。

指先が、知らぬうちに強くなっていたらしい。美菊がかすかに息を吸ったので、朝凪は力を抜く。


「……『天眼』殿が死ぬのは、いつだ」


美菊は、すぐには答えなかった。

目は開いている。けれどまだ、こちらを見ているのか、予言の残像を見ているのか分からない。

黒い瞳の奥に、夜より濃い疲労が沈んでいた。

朝凪は水差しを取ったが、飲ませるにはまだ早いと判断して、濡らした布で唇だけを湿らせた。

美菊は、その冷たさに少し瞬きをした。


「……わかりません」


声は細かった。


「時は、見えませんでした」


言葉を返しただけで、美菊の息が乱れた。

朝凪はそれ以上すぐには問わず、背中へ手を回して少しだけ上体を支えた。

寝かせたままよりも、こうして少し角度をつけた方が呼吸が楽なことがある。

美菊は朝凪の腕に体重を預けた。

普段なら遠慮する重さまで、今は残っていない。


「予言の中の『天眼』様は」


美菊は、しばらくして言った。


「若い、大人の、男性でした」


朝凪は手を止めた。


「朝凪は、『天眼』様を見たことがありますか。……今、おいくつくらいなんでしょうか」


「他領のたかが傍系の人間が『天眼』殿に拝謁するような機会はない。ただ――」


朝凪は記憶を探った。


『天眼』は花宮に座す、雪簇宗主の子だったはずだ。三男だか、四男だか。

知られている情報は少ない。天宿りとしての名ばかりが流布されている。

町の者などは半ば信仰じみた声で「『天眼』様」と拝んでいることもある。

本名や人となり、そういった彼個人の話はほとんど聞かない。

雪簇の血の色、花宮の座、識島全土を『視る』盲いた目。

そうした断片が、詰所の会話や重臣たちの言葉の端からいくらか聞こえるだけだった。


「若い」


朝凪は答えた。


「正確な年は覚えていないが、お前と同じくらいだったはずだ」


美菊は、目を細めるようにして首を振った。


「予言の中の『天眼』様は、朝凪よりも、だいぶ年上に見えました」


であれば。朝凪は考える。


美菊と同じくらいの年なら、今はまだ少年と青年の境に近い。

そこから朝凪より年上の男に見えるまでには、それなりの年月がいる。

二十は近すぎるだろう。早くても二十五、あまり人を知らない美菊が若い大人と断ずるなら三十前後が上限か。


その理解が、まず胸へ落ちた。


朝凪は、ほんの少しだけ息を緩めた。

『天眼』が墜ちる。だが、それは明日ではない。

彼が大人の男として予言に見えたのなら、そこには時間がある。今日、明け方に囁石が沈黙するわけではない。


十年。

おそらく、そのくらいは先だ。


そう思った瞬間、別の冷えが来た。


――十年?


十年後に、風斎はない。


朝凪は美菊を支えたまま、動かなかった。


風斎が滅ぶのは、朝凪が二十三の年である。あと四年。美菊の最初の予言は、今日にいたるまで決してそこを動かさない。

無数の門がひらき、禍滲が地を埋め尽くし、逃げることは叶わない。

風斎は滅びる。

生まれたばかりの美菊が告げたその結末は、朝凪がどれほど年を重ねても、少しも古びなかった。


十年後には、風斎はない。


風斎の名を背負って戦う者も、赤毛と青眼を血の証として仰ぐ者たちも、すべてが消える。

風斎の血を引く者は死に絶える。


――たった一人、愛護を残して。


朝凪の背の内側に、冷たいものが走った。


予言の言葉が戻ってくる。


天眼(てんがん)』墜つ。

月の『傾国(けいこく)』。

鳥の『万願(まんがん)』、『十万億土(じゅうまんおくど)』。

界闢(かいびゃく)』せし風の娘。

万死を越える雪の娘『花軍(はないくさ)』。


『天眼』も『十万億土』も天宿りの名だ。『傾国』も、その名を冠する力の話を聞いたことがある。

ならば、並べられた他の名も同じものと見るべきだろう。

月は月渓。鳥は妻鳥。雪の娘も、おそらく雪簇。では、風の娘は。


「――まさか」


姫だというのか。


朝凪は、すぐに否定しようとした。

彼女についてもう六年になる。

朝に上がり、支度を待ち、手習いに付き、外出に付き、稽古に立ち会ってきた。

機嫌のよい日も、拗ねた日も、母の前で背筋を伸ばす日も、山の家の戸口で美菊に笑う日も見ている。

そこに、人知を超えた力などなかった。

綾の才はあるのかもしれない。風斎の血を引く本家の姫なのだから、それは不思議ではない。

けれど天宿りは、そういうものではない。

勝手に力を与えられ、勝手に何かを奪われる。

与えられるものも、奪われるものも、人の道理を超えている。

愛護に、奪われたものがあるようには見えなかった。


代償は、外から分かるとは限らない。玄冬の寿命のように、目に見えぬものもある。

本人にすら、はじめは自覚できぬものもあるかもしれない。

だが、それにしても愛護はあまりにそのままだった。何も損なわれてはいなかった。

よく笑い、よく頬を膨らませ、最近は姫らしくあろうとして少し背伸びをする。

秘密を抱え、それでも揺らぎながら立っている、ただの少女だった。


朝凪は美菊を見た。

美菊は、白い顔でうずくまっていた。

天眼が墜ちることに怯えているのではない。いや、それもあるのだろう。

識島が厳しい戦へ戻ることを、美菊が何も感じないはずがない。

けれど今の美菊をいちばん揺らしているのは、もっと近い、もっと理に合わない何かのように見えた。


「朝凪」


美菊は、布団の端を握った。


「ほんとうに、『天眼』様は、わたしと同じくらいの歳のかたなんですか」


「間違いない」


朝凪は答えた。


「一つ二つは前後するかもしれないが、少なくとも俺より年下なのは確かだ」


美菊は、さらに顔を曇らせた。


「でも、じゃあ、おかしいんです」


その声には、困惑と不安と怯えがあった。

朝凪は、美菊の背を撫でた。肩甲のあたりから背の中央へ、ゆっくりと。

布越しにも体の冷えが分かる。

美菊は寒いとは言わない。痛いとも、怖いとも、あまり言わない。

だから朝凪は、言葉を待たずに手を置く。


「予言の中の『天眼』様は、大人の男性でした」


美菊は言った。


「『傾国』はたぶん、わたしと同じくらいの男性。『万願』と『十万億土』は、大人の男女」


朝凪は黙って聞いた。


「『花軍』は、ひめさまくらいの女の子でした」


美菊の指が、布団の端を強く掴む。


「『界闢』は、……『界闢』、は」


そこで言葉が止まった。

朝凪は背を撫でる手を止めなかった。急かさない。

予言の細部を思い出すことが、美菊にとってどれほど負担になるのかを知っている。

思い出したくないものを、もう一度目の奥へ浮かべる。

自分の声ではない自分の声が告げたものを、自分の言葉で言い直す。

それは、ただ説明するだけの行為ではない。


しばらくして、美菊は小さく息を吸った。


「ひめさまでした」


朝凪の手が、そこで止まりかける。


美菊は顔を上げないまま続けた。


「今より、少し大きいだけの。まだ、大人になっていない、ひめさまでした」


家の中が、ひどく静かになった。


十年後であれば、愛護は二十一だ。

そのころに風斎はもうない。本家の座も、奥向きの座敷も、愛護を姫と呼ぶ者たちも、彼女を守るために整えられていたあらゆるものも、すべて失われる。風斎当主の娘としての立場など、残らない。

それでも、生きているなら体だけは時を重ねる。

背は伸び、顔立ちは変わる。二葉の守り袋を握っていた小さな手は、十年後にはもう別の形になっているはずだ。

母に似てくるのか、父の面差しが濃くなるのか、それは分からない。

だが少なくとも、少女の姿でいることなどはありえない。


ありえない。


けれど、予言は外れない。


朝凪の胸の内で、十年という猶予が別のものに変わった。

天眼が大人の男として見えたのなら、その未来は遠い。そう思った。

だがその同じ未来の中で、愛護だけが少女のままいるという。

時だけを数えれば合わない。年齢だけを考えれば矛盾している。

けれど美菊の見るものに間違はない。であればどこかに理屈がある。


何が、愛護の時を止める。


その問いは、まだ形にならなかった。


朝凪は、ただ黙った。

美菊も、もう何も言わない。


障子の外は白みはじめていた。

夜が退き、山の木々が薄い灰色の輪郭を取り戻していく。

雨の匂いが少し濃くなる。どこか遠くで鳥が一声鳴いた。


朝は来る。

今夜聞いたことなど何も知らぬ顔で、屋敷は起きる。

愛護は髪を結われ、女房に笑いかけ、寝起きの顔で朝餉の席につくだろう。

囁石は機能し、天眼は花宮から識島を視ている。

何も変わっていないように、日が始まる。


朝凪は美菊の背をもう一度撫でた。


「少し眠れ」


美菊は、かすかに首を振りかけた。


「朝凪」


「いる」


短く答えると、美菊はそれ以上言わなかった。

眠れたのか、ただ目を閉じただけなのかは分からない。

朝凪はその体から少しずつ力が抜けていくのを確かめながら、明けていく障子の白さを見ていた。



■■



夜が明けきってから屋敷へ向かった。


美菊はあのまま起きてこなかった。眠るというより疲弊が限界を迎えて沈んだに近い。

朝凪は火を細く入れ、湯を置き、食べられそうなものをすぐ温められるよう支度だけ整えた。

家を出る時、美菊は寝返りも打たずに静かに息をしていた。


出仕の刻には、遅れなかった。

屋敷は雨前の曇りの下にあった。庭の緑は光を失って少し重く、廊の奥には香と湿った木の匂いが混じっている。

奥向きの者たちは普段通りに動いていた。

女房が衣を運び、侍女が湯を替え、下働きが廊を拭く。

何も変わっていない。


朝凪は、その変わらなさをひとつずつ見た。

奥方の部屋の方に乱れはない。玄冬が朝から動いた気配もない。女房たちの声に、不自然な低さはない。愛護の名が囁かれることもない。


では、姫は話していない。


その推測を心の内で確認しても、体の緊張はすぐにはほどけなかった。


愛護は、いつもの座敷にいた。

目の下に、ほんの少し影がある。眠りが浅かったのだろう。

けれど表情は明るかった。髪はきちんと結われ、衣も乱れていない。

膝を揃えて座り、女房の言葉に頷いている。

その姿は、最近の愛護そのものだった。

まだ子どもらしく甘えたがりで、けれど自分が本家の姫であることを分かりはじめている。


「おはよう、朝凪」


朝凪が膝をつくと、愛護はいつも通りに言った。

声も、いつも通りだった。


「おはようございます、姫様」


「今日は綾の稽古あるよね」


「はい。午後にお仕度願います」


「うん。今日こそちゃんと刃をつくるからね!」


女房たちが笑う。


「まあ、姫様は朝から頼もしゅうございますね」


「ほんとだもん。絶対できるもん」


愛護は少しだけ頬を膨らませる。けれどすぐに、思い直したように背を伸ばした。


「……ほんとうです」


言い直したことに、年嵩の女房が目を細めた。


「たいへんよろしゅうございます」


愛護は満足そうに頷いた。


何も言わない。


山の家のことも、美菊のことも、昨夜知ったことも、何ひとつ口にしない。顔にも出さない。

あの小さな体のどこにそれだけの力があるのかと、朝凪は思った。

泣けば。母に縋れば。玄冬を問いただせば。そうすれば、愛護は一人で抱えずに済んだかもしれない。


それでも、しなかった。


朝凪はいつもの位置へ控えた。

顔も声も変えない。礼節の形を崩さない。姫付きの者として、ただそこにいる。


支度の途中で、年若い侍女が髪飾りを取りに一度席を外した。

年嵩の女房も衣箱へ視線を落とした。

ほんの数秒だった。

誰の目も、愛護にない。


その瞬間、愛護の手が伸びた。


朝凪の袖を掴む。

強かった。

子どもの手とは思えないほど、必死な力だった。布越しに指の形が分かる。朝凪は動かなかった。目も向けなかった。袖を引かれたことに気づいていないような顔で、敷居際に控え続けた。

愛護も、何も言わなかった。


すぐに手は離れた。

それだけだった。

だが、それだけで十分だった。


姫は秘密を守った。

美菊を守った。

朝凪に、それを知らせた。


「姫様、こちらの簪でよろしゅうございますか」


侍女が戻る。

愛護はぱっと顔を上げた。


「うん。それがいい」


いつもの声だった。

朝凪も、いつものようにそこにいた。




■■




綾の稽古は、昼餉の後に行われた。


奥向きに近い小さな板間は外の湿った空気から切り離されていた。

戸は閉められ、外には見張りが立つ。中にいるのは玄冬と朝凪と愛護だけだった。

壁際には稽古用の短刀や木刀が並んでいるが、この日、玄冬はそれらを取らせなかった。


「本日は、少し違うことをいたしましょう」


愛護は顔を上げた。


「違うこと?」


「武具を織るだけが、風斎の綾ではございません」


玄冬はそう言い、朝凪へ目を向けた。


「朝凪。あちらへ」


「は」


朝凪は板間の端へ移った。

愛護から見て、まっすぐ十歩ほど先である。

間には何もない。よく磨かれた板があるだけだった。


その時点で、朝凪は嫌な予感を覚えた。


玄冬の意図はすぐ分かった。

愛護と朝凪のあいだに薄い迷いの綾を張り、まっすぐ進むはずの足をわずかに逸らす。

風斎の綾を知るための、ごく基礎的な稽古である。

見えている目標へただ向かうのではなく、途中で生じるずれを読み、踏み越える。

理にかなっている。

姫に教える内容としても、おかしくない。


だが、おかしくないからこそまずかった。


愛護は、もう何度も山の家へ来ている。

朝凪が幾重にも張った迷いの綾を、朝凪に導かれながらではあっても、踏み越えている。

しかも、ただ連れられていただけではない。

どこから音が遠くなるか、どこで景色が薄く曲がるか、どの足場で意識を持っていかれそうになるか。

愛護は教えられずとも子どものやわらかな感覚で、それらを少しずつ覚えてきた。

玄冬が今から張る稽古用の綾など、山のものに比べればあまりに単純だ。

朝凪は顔を変えなかった。変えられなかった。だが背の内側を冷たい汗が伝うような感覚があった。


「姫様には、朝凪のところまで歩いていただきます」


「歩くだけ?」


「はい。ただし、まっすぐには届きません」


玄冬は左手を開いた。

板間の空気が、わずかに変わる

何かが見えたわけではない。壁が立ったのでも、霧が出たのでもない。

ただ、愛護と朝凪の間にあるはずの距離が、ほんの少しだけ別のものになる。

朝凪は変わらずそこに立っている。まっすぐ行けば届く。そう見える。だが、足を出せば途中で逸れる。


「では、どうぞ」


愛護は頷いた。


一歩。


朝凪は、息を詰めた。


愛護の足は迷わなかった。二歩、三歩と進む。

途中で、玄冬の綾がわずかに意識を横へ引いたはずだった。

けれど愛護は、そこでほんの少しだけ足の置き方を変えた。

目に見えるほどではない。歩幅が半寸縮み、肩の向きがわずかに戻る。その程度である。


だが、それだけでずれは消えた。


四歩目、五歩目。

愛護は止まらない。


六歩目で、玄冬の綾がもう一度向きを変える。

今度は左へ誘う流れだった。愛護は朝凪を見たまま、足先だけをわずかに外へ逃がし、それから次の一歩で自然に戻した。


山の道で、何度もしている歩き方だった。


引き返させる迷いを避ける時。見えているのに近づかない景色へ引かれそうになる時。朝凪の背を追いながら、足元と空気のずれを同時に拾う時。


愛護の足は、肌は、それをとうに覚えている。


あっという間に、愛護は朝凪の前へ着いた。


「着いた!」


明るい声だった。


玄冬が、わずかに黙った。

それは一瞬のことだった。眉を上げるほどでもない。けれど、朝凪には分かった。彼の予想に反したのだ。

初めての稽古なら、二度か三度は逸れる。

自分がずれていることにすら気づかず、まっすぐ歩いたつもりで朝凪の横へ出るはずだった。


愛護は、それをしなかった。


「……姫様」


玄冬が口を開く前に、愛護はぱっと振り返った。


「なんか愛護、これ得意かも!」


はしゃいだ声だった。

朝凪は、その一言でようやく呼吸を戻した。

愛護は笑っている。無邪気で、少し得意げで、褒められたがっている子どもの顔だった。

昨夜のことを誰にも言わなかった少女が、今自分が失敗しなかった理由を、ただの得意不得意に見せようとしている。


「今の、できたよね?」


「はい」


玄冬はゆっくり頷いた。


「初めてにしては、たいへんよく」


「もっと難しいのもする!」


愛護は勢いよく言った。


「姫様」


朝凪は思わず声をかけかけたが、愛護はこちらを見なかった。

見なかったが、分かっているのだろうと思った。

簡単すぎたことをごまかすには、次で失敗するのがいちばんよい。

しかも自分から調子に乗って求めたなら、失敗しても自然に見える。

愛護はそこまで計算しているのか、それとも直感でそうしたのか、朝凪には判断がつかなかった。


玄冬はしばらく愛護を見ていたが、やがて静かに左手を上げる。


「では、少しだけ難しくいたしましょう」


「うん」


「ただ歩くのではなく、途中で二度、向きが変わります。足元だけでなく、朝凪との距離も遠く感じるようにしてございます」


「わかった」


玄冬の綾が、先ほどより深く敷かれた。

それでも、山の家を守る綾とは比べものにならない。

朝凪が何年もかけて層を重ね、人の意識を滑らせ、距離と関係を曖昧にしているあの道とは違う。

これは稽古用であり、愛護を傷つけず、戸惑わせるためだけのものだ。


愛護は元の位置へ戻った。

今度は、最初から少し慎重に歩き出す。

一歩、二歩。

三歩目で、足が右へ流れかける。愛護はそこを戻した。うまい。うますぎる。

朝凪は表情を動かさないまま、内心で祈るような気持ちになった。

四歩目。

玄冬の綾が、距離を変える。朝凪が近いはずなのに、急に一間ほど遠のいたように感じる箇所だった。

愛護はそこで、ほんのわずかに目を細めた。

山の道でも似たことはある。見えている家が、なぜか近づかない。

木立の向こうにあるはずの戸口が、歩いても歩いても少し先にある。


愛護はそれを越えられる。


けれど、越えなかった。


半歩だけ、足を置き違えた。


「あ」


声を上げると同時に、体が左へ流れる。転ぶほどではない。

だが朝凪の正面からずれ、板間の中央を斜めに抜けた。

次の一歩で立て直そうとしたが、玄冬の綾はそこで二度目の向きを変えている。

愛護は足を止めた。


朝凪までは、あと三歩ほど残っていた。


「……だめだった」


愛護は小さく言った。

それから、むずむずと唇を結び、情けない顔で俯く。


「行けると思ったのにな」


その言い方がいかにも恥ずかしそうだったので、玄冬の目元がわずかに和らいだ。


「いいえ」


玄冬は言った。


「今のも、十分に見事でございました」


「でも、途中でずれた」


「ずれたことに気づかれました。まずはそれが肝要にございます」


愛護は少しだけ顔を上げた。


「ほんと?」


「はい」


玄冬は板間の中央へ目を落とした。


「多くの者は、初めは自分が逸れたことにも気づけません。まっすぐ歩いているつもりのまま、目標の横へ出る。姫様は、足がずれる前に違和を拾っておられる」


愛護は、少し安心したように息を吐いた。


「じゃあ、もうちょっと練習したら、できる?」


「できましょう」


玄冬はそう言って、綾を解いた。

板間の空気が元に戻る。


「姫様は、綾を歩く才に長けておられるのかもしれませんな」


愛護の顔がぱっと明るくなる。


「朝凪、聞いた?」


愛護が振り返る。

朝凪は、いつも通りに頭を下げた。


「はい。お見事にございます」


「うん」


愛護は満足そうに頷いた。

その姿は、朝の座敷で袖を掴んだ少女と同じだった。

何も言わずに秘密を守り、必要な時には子どもの顔で笑ってみせる。

本家の姫としてはまだ幼い。けれど、朝凪が思っていたよりずっと早く、大人であろうとしていた。


玄冬は、もう一度綾を敷く。


「では、次は違和を見つけたら立ち止まってお答えください」


「はい!」


機嫌のよい声が高く響く。

朝凪は静かに控えたまま、その稽古を見守った。




■■




その夜、玄冬は北詰の処置部屋へ呼ばれた。


屋敷の北側は、奥向きと違って夜でも人の気配が消えにくい。

詰所、武具倉、処置部屋、負傷者を一時的に置く板間。

戦の報せがあれば最初に騒がしくなり、終わったあとも最後まで灯が残る場所である。


玄冬が入ると、薬湯と血の匂いが混じっていた。

寝台には若い兵が寝かされていた。まだ二十にもならぬ顔だ。

日中の巡回で、禍滲の残滓を受けた者である。

外傷そのものは大きくない。腕に裂けた跡があり、肩口から胸へ黒ずんだ筋が細く走っている程度だった。

だが、表に見える傷は問題ではなかった。


禍滲の濁りが、体内を巡る綾の筋へ入り込んでいる。


処置役たちはすでに綾で押さえていた。

年嵩の女が二人、兵の肩口と胸元へ手をかざしている。

若い男が薬を整え、別の者が濡らした布を替える。

みな手早い。迷いはない。だが、間に合っていない。


濁りは細く、速かった。

血管を伝うのではない。肉の内側にある、綾の通りやすい道を選んで滑っていく。

兵の体はそれに反応して痙攣し、喉の奥で息が詰まる。

唇は紫に寄り、指先は硬く曲がっていた。


処置役の女が玄冬を見た。


「玄冬様」


その一言で、もう状況は足りた。


玄冬は寝台の脇へ膝をつく。

見れば分かる。猶予はない。通常の綾で包み、引き剥がすには動きが速すぎる。

無理に掴めば、濁りは暴れる。こちらの綾を乱し、兵の心の臓へ触れる。そうなれば終わりだ。


「心の臓へ届きます」


女の声は、低く抑えられていた。

玄冬は左手を開いた。


「下がれ」


処置役たちが一歩退く。

それ以上の説明はいらなかった。


次の瞬間、寝台の周囲が変わった。

光の壁が立つわけではない。風が止む音もしない。だが、その場だけが、この世の流れから薄く外れた。

燭台の火が揺れかけた姿のまま留まる。

薬湯の湯気が、白い筋を作ったまま動かない。

処置役の袖から落ちた水滴が、床へ着く直前の高さで丸く止まった。

兵の胸も、痙攣の途中で止まっていた。


時樴(ときくい)』。


その結界は、あらゆる干渉を退ける。

風も、音も、熱も、呼吸も、肉を侵す濁りも。

流れていくはずの時間でさえ、その内へ届かない。

干渉できるのは力の主である玄冬と、この世の根にある綾だけだった。


代償は寿命。


張れば削れる。保てば削れる。見た目には分からない。血が流れるわけでも、骨が折れるわけでもない。ただ、自分の先にあるはずの時間が、確かに短くなる。


玄冬は迷わなかった。


若い兵の胸の奥で、黒い濁りは心の臓へ触れる寸前の形で止まっている。あと一息遅ければ、助からなかっただろう。

玄冬は右手へ綾を寄せた。

刃ではない。糸でもない。匙に近い。薄く、浅く、だが縁だけは崩れぬ形。


止まった空間の中で、玄冬と綾だけが動く。


玄冬はその綾を、兵の胸の奥へ差し入れた。

肉を裂かず、血を乱さず、綾の筋をなぞるように進める。

心の臓の直前で止まった濁りへ触れ、周囲から薄く包む。


引けば裂ける。

押せば沈む。

だから、ずらす。


ほんの僅かに向きを変える。濁りが選んでいる綾の通り道から、半筋だけ外す。

正面から奪うのではない。届こうとしている先との関係を、わずかに変える。


玄冬の額に汗が滲んだ。


呼吸一つ分の間に、体の奥から薄いものが剥がれていく。

痛みではない。疲労でもない。もっと静かで、もっと取り返しのつかない消耗だった。


濁りが、心の臓から外れた。

玄冬は左手を閉じた。

止まっていたものが戻る。

燭台の火が揺れた。湯気が上がる。水滴が床へ落ちて、小さな音を立てる。若い兵の胸が大きく跳ね、詰まっていた息が荒く吐き出された。


「処置を」


玄冬の声に、処置役たちが動いた。

女たちの綾がすぐに重なる。濁りを包み、外へ移し、肩口の傷へ流れを作る。

薬を含ませた布が唇へ当てられ、兵の喉がかすかに動いた。

痙攣はまだある。呼吸も荒い。だが、死へ滑る速さは消えていた。


「今夜を越えれば、助かる」


処置役の女は深く頭を下げた。


玄冬は立ち上がる。

顔色は変えなかった。膝も崩さない。

誰も、彼がどれほど削ったかを見て取ることはできない。

だが袖の内側で左手を握ると、指先がひどく冷えていた。

骨の奥に細い痺れが残っている。


処置部屋を出ると、廊には普通の夜があった。


虫が鳴いている。風が庭木を撫でる。遠くで戸の閉まる音がする。誰かの足音が渡りの向こうを過ぎる。


時間は、何事もなかったように流れていた。





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