遠雷
山の家に戻ったあと、朝凪は火鉢の前に座ったまま、しばらく動かなかった。
火は入っていない。春の終わりとはいえ、谷あいの家には夕方の冷えが早く落ちる。
けれど今の朝凪には、火を起こすというひとつの動作さえ余計だった。
膝の上に置いた手は、力を抜けば震えそうで、だからかえって固く閉じていた。
屋敷を下がるまでは、いつも通りにできた。
小堂から供回りのいる道へ戻り、愛護の裾に泥が跳ねていないことを確かめ、奥向きへ上がってからは姫付きとしての距離を保った。
愛護は白い顔をしていたが、山道を歩いたあとの疲れとして通る程度だった。
女房に迎えられた時も、声は小さかったものの言葉は乱れなかった。
奥方の部屋へ駆け込むことも、玄冬に何かを訴えることもなかった。
少なくとも、朝凪が屋敷を下がるまでは。
そこから先は分からない。
今この瞬間に、愛護が母の前で泣いているかもしれない。
袖の内の守り袋を握りしめ、二葉の留めを押さえながら、今日知ったことを口にしているかもしれない。
奥方が顔色を変え、女房が走る。奥向きの気配が乱れる。玄冬がそれを拾う。
玄冬が動けば、早い。
朝凪が何年もかけて整えたものを、あの男は逆からほどくだろう。
小堂へ至る道、供回りの立つ位置、姫が山へ入る時刻、戻ったあとの顔色。
ひとつひとつは些細でも、繋げれば形になる。
形になれば、山の家へ届く。
ならば先に動くべきか。
美菊を今夜のうちに移すなら、どの道を使う。
山奥へ入れるか。風斎領を出るか。町へ紛れさせるか。
髪と目の色だけなら、町の中では目立たない。黒髪黒目は民の色だ。
識島の多くの者にとってそれはありふれた色で、むしろ四大武家の色の方が異質に見える。
だが美菊は、色だけで消せる者ではない。
伏せた目元、ものを受け取る時の静けさ。
粗末な衣を着せても、町人の中へ落とし込むには、何かが目立つ。
それに、あの顔だ。
年を追うごとに、奥方に似てきている。
風斎の赤と青を持たないのに、伏せた目元や、口を閉じた時の静けさが似る。
色が違う。性別が違う。それでも、見た者のほんの口端にのぼれば。
では、姫を押さえるか。
そこまで考えて、朝凪は膝の上の手を強く握った。
愛護を傷つけたいわけではない。そんな思いは、はじめからない。
けれど、今日のあの場で、朝凪は一瞬、愛護を屋敷へ帰さない道を数えた。
別の隠し場所へ移し、居所ごと覆い、騒ぎが起きるまでの時間を稼ぐ。その間に美菊を逃がす。
愛護は泣くだろう。怒るだろう。朝凪を許さないだろう。
それでも、美菊に本家の手がかからぬなら。
その考えが、実際に手元へ綾を寄せた。
それは形になる前に止まった。
ただ、あの瞬間、自分は最悪の手を思いついた。
思いついたが、実行しなかっただけだ。
その事実だけが、火鉢の冷えた灰のように胸の底へ残っている。
座敷の端で、美菊が小さな函を引き寄せた。
函の上には、古い布が掛けられている。
色は抜け、端は幾度も洗われたせいでやわらかくなっていた。
それでも織りは悪くない。元は、風斎本家の奥で用意された産衣だったのだから当然だった。
今日まで朝凪は、それを産衣だった布としてしか見ていなかった。
美菊は布の端を指で撫でる。
「汀様が、これを捨てずにいてくれました」
朝凪は顔を上げた。
「知ってる」
声が硬くなった。
「雪の夜、お前を包んでいた布だろう」
「はい。汚れて、冷えていたけれど、洗って、干して、しまってくれたそうです」
美菊の声は静かだった。
朝凪も、その話は何度も聞いている。
汀がどのように美菊を拾ったか。その時、布も一緒に持ち帰ったこと。
朝景が何も言わず、湯を沸かしたこと。
汀が震える手で赤子の体を拭き、布を洗い、乾かし、畳んだこと。
その後も、布は家の中にあった。
美菊が熱を出した時には枕元に置かれた。
少し大きくなると、産衣のかたちをほどき、本や文箱へ掛けられるようになった。
汀がいなくなり、朝景がいなくなっても、布はそのまま残った。
由来はある。だが、暮らしの中に馴染みすぎて、もうただの布でもあった。
その端に、奥方の手が残っていた。
二葉の留め。
朝凪は、そんなものを見ていなかった。
見ていたとしても、分かるはずがなかった。
武家の男が、産衣の端の糸留めを気に留めることなどない。
まして、それが奥方の癖だなどと、どうして知れる。
朝凪は道を隠した。家を隠した。美菊の名を隠した。
屋敷の奥で誰がどういう縫い癖を持っているかなど、見るべき範囲に入っていなかった。
その、見ていなかったところから刺された。
朝凪は、火鉢の灰を見下ろした。
「しくじった」
低く落ちた声に、美菊が目を上げる。
「朝凪」
「俺が見落とした」
「朝凪が、どうやって気づくのですか」
問いは穏やかだった。
朝凪は答えられなかった。
答えられないことが、なおさら腹立たしかった。気づけたはずがない。そう思う。
だが、気づけなかったでは済まない。
守っているつもりだった。あらゆる道を測り、痕跡を薄め、人の目を逸らしてきた。
けれど美菊のそばにずっとあったものの端を、朝凪は見ていなかった。
「姫様は、よく見ておられました」
美菊が言った。
「感心してる場合か」
思わず声が荒れた。
美菊は少し首を傾げる。
「けれど、見つけてくださいました」
「見つけられたんだ」
「はい」
「お前な」
そこで言葉が切れた。
美菊は、なぜか少し機嫌がよさそうだった。
今日の重さの中で、そこだけ柔らかく浮いている。
朝凪は今この瞬間にも、屋敷の奥で秘密が破れている可能性を考えているというのに、美菊は古布の端を整えながら、どこか遠いところで春の花でも眺めるような顔をしていた。
「妹が、できました」
朝凪は目を閉じた。
「……今、それを言うのか」
「はい」
美菊は小さく頷いた。
「ひめさまが、あにさま、と」
そこまで言って、ふふ、と笑った。
朝凪は本当に頭が痛くなった。
「こっちは今、お前をどう逃がすか考えてるんだぞ」
「逃げるのですか」
「その可能性もあるという話だ」
「ひめさまは、約束を守ってくださいます」
美菊の声は、変わらず穏やかだった。
「それは、わたしよりも、朝凪のほうがよく知っているのではないですか」
家の中の空気が、そこで少し変わった。
朝凪は、美菊を見た。
美菊は押し付けるでもなく、責めるでもなく、いつもと同じ静けさでただ事実を差し出すように言った。
愛護が約束を守る娘であること。山の家のことも、美菊の名も、何年も黙っていたこと。小堂へ行けなかった冬にも、言える範囲を越えなかったこと。
朝凪は、それを知っているでしょう、と。
知っているどころではない。
自分がこの目で見てきたのだ。
はじめから信用していたわけではない。幼い姫など、いつ秘密をこぼすか分からないと思っていた。
嬉しければ母に話す。寂しければ女房に漏らす。褒められたければ父に言う。不満があれば玄冬に泣きつく。
子どもとはそういうものだと決めていた。
だから見張った。言葉、顔色、視線、屋敷での振る舞い。
少しでも危うければ、二度と山へ入れないつもりだった。
だが愛護は守った。
五年。
小堂の奥に道があることを。山に家があることを。美菊がいることを。朝凪が隠していることを。ずっと黙っていた。
――そして今日も、言わないと言った。
愛護を信じていなければ、あの瞬間に自分は止まらなかった。
美菊が呼ぶ余地など残さず、愛護を屋敷へ戻さなかった。
泣かせても、恨まれても、時間を稼いでいた。
それをしなかった。
できなかったのではない。
しなかった。
朝凪は、握っていた手を開いた。
指の関節が鈍く痛む。
畳を押さえていた時の力が、まだ残っていた。
「……俺は」
声にすると、思ったより苦かった。
「姫を、信頼している」
美菊は何も言わなかった。
ただ、静かにこちらを見ている。
「ずいぶん前から、たぶん」
言ってしまえば、もうごまかせなかった。
認めるしかない。
愛護は、ただの本家の姫ではなくなっていた。
主で、秘密を共有する子どもで、美菊の、妹。
朝凪の中から彼女を害する選択肢は、とうになくなっていた。
朝凪は長く息を吐いた。
胸の底に固まっていたものが少しだけほどける。
それを見て、美菊が微笑んだ。
「落ち着きましたか」
「お前のせいで余計に疲れた」
「わたしのせいですか」
「半分はな」
「では、半分はひめさまですか」
「残りは俺だ」
美菊はまた笑った。
今日はよく笑う。
朝凪はその顔を見て、ようやく肩から力が抜けた。張り詰めていたものが、勝手に少し緩んだ。
美菊は古布を函の上へ戻した。
布の端の二葉は、そこにある。隠したところで意味はない。
愛護は見た。朝凪も知った。
そこに汀が残してくれたものと、奥方の手が同時にあることを、もう知らないままには戻れない。
「朝凪」
「何だ」
「わたし、兄らしく見えますか」
朝凪は返事に詰まった。
美菊は真面目な顔をしている。膝を揃え、古布の端を整えた手を置き、こちらを見ている。
朝凪は、しばらく見た。
「見えない」
きっぱり言った。
美菊は少し瞬きをする。
「そもそもお前に兄の自覚があるようにも見えない」
「……それは、ええ、はい」
否定しないのか。
朝凪は額を押さえた。
美菊は、ふふ、とまた笑った。
その笑い方があまりにのんきで、朝凪はとうとう小さく息を漏らした。
笑ったわけではない。ほとんど呆れだった。
だが、さっきまでの冷たい焦りとは違うものが、胸に混じった。
ふと何かを考えるように手元を見ていた美菊が、思いついたように顔を上げた。
「……兄上?」
朝凪は、露骨に嫌な顔をした。
美菊はそれを見て、さらに目を細める。
「お兄様」
「やめろ」
「では、あにさま?」
「勘弁してくれ」
声に本気の疲れが混じった。
美菊は不思議そうに首を傾げる。
「なぜ?」
「お前は弟とか、そういうんじゃない」
そこまで言って、朝凪は口を閉じた。
雪の夜、自分に弟ができるのかと思った。
家に赤子が来た。両親が面倒をみるらしい。四つの子の頭で考えられることなど、その程度だった。
けれど、すぐに違うと分かった。
父も母も、赤子を若様と呼んだ。
大切に扱い、世話を焼き、しかし朝凪に対するような笑顔はなかった。
家の奥へ置き、離れへ隠し、名前を与えず、触れる時でさえどこか畏まっていた。
朝凪は、それが嫌だった。
哀れんだのではない。そんなきれいなものではなかった。
名もなく置かれている赤子が、たしかに生きている。
その小さな手が朝凪の指を握った。
その瞬間から、ただの預かりものではなくなった。
美菊という名をつけた時、朝凪はおそらく、取り返しのつかないものを選んだのだと思う。
それからの歳月は、その名を中心にずれていった。
屋敷へ仕えることも、姫付きとして立つことも、綾を磨くことも、帰る道を整えることも、みな美菊のいる場所へ結ばれた。
風斎の者としてまっすぐ進むはずだった道は、とっくに別の形へ曲がっている。
それでも、朝凪はその曲がり方を憎めなかった。
武家として生きる以上、死はいつも近くにあった。
名を呼んでいた者が名だけになって戻る。隣に座っていた者が、次には弔いの列へ入る。
それを務めだ、誇りだと飲み込んでも、胸の底には薄い澱が溜まっていく。
自分もいつか、そういう終わり方をする。
泥と血と、人ではないものの臭いの中で、意味などなかったように肉へ戻る。
多分朝凪は、美菊がいなければその澱に潰れるはずの質だったのだ。
けれど、朝凪が不本意な死を迎えるその時、そばに美菊がいるなら。
最後に見るものが、禍々しい異形でも、他人の死に顔でもなく、美菊の目なら。
美菊がその終わりを同じ場所で受け取ってくれるなら。
そこに至るまでのみちゆきを、人生まるごとを、肯定できる気がした。
だが、その感情に名をつけることはできなかった。
好悪では足りない。忠義でもない。家族でもない。
信仰と言うには浅ましい。執着より汚く、救いには軽い。
朝凪は、それをどう呼べばよいのか知らなかった。
「じゃあ、なんですか」
美菊が静かに訊いた。
朝凪は答えようとして、できなかった。
「……知らん」
やっと出た声は、ひどく不機嫌だった。
「名前があるなら、とっくにつけてる」
美菊は不思議そうに返した。
「名前は、あります」
朝凪は眉を寄せる。
美菊は、静かに続けた。
「朝凪が、つけてくれたでしょう」
美菊。
自分がつけた名。
若様でも、不吉の子でも、風斎の嫡子でもない。
朝凪が呼ぶために、朝凪がそこへ置いた名。
その名を呼ぶたびに自分が何を抱えてきたのか、今日になってようやく少しだけ分かった気がした。
美菊。
それそのものが、たぶん、朝凪が彼に向けているものだった。
「わたしにとっても。朝凪も、朝凪です。」
満足げに言う美菊に、小憎らしいようなむず痒いような気分で釘を刺す。
「……なら、兄上はやめろ」
「はい」
「他の呼び方もだぞ」
「はい」
「本当にわかってるのか?」
「……ふふ。はい」
少しも信用ならない返事だった。
障子の向こうは夕方の色へ沈み、山の影が庭の端まで伸びている。
屋敷は遠い。今この瞬間にも、愛護は奥向きにいる。
母のそばにいるかもしれない。ひとりで守り袋を握っているかもしれない。不安は消えない。
だが朝凪は、もう今夜この家を捨てようとは思っていなかった。
姫を連れ去ることもしない。
明日、屋敷へ戻り、いつもの顔で仕える。
愛護の様子を見る。玄冬の目を見る。奥方の気配を測る。
必要なら、また綾を直す。
そこまで呼吸が戻ったところで、美菊が先に立った。
古布を掛けた函を少し奥へ寄せ、袖を直し、台所の方へ向かう。
「何してる」
「夕餉を」
「俺がやる」
「今日は、座っていてください」
美菊の声は静かだったが、返す余地の少ない言い方だった。
朝凪は眉を寄せる。
「火の始末は」
「できます」
「鍋は重い」
「両手で持ちます」
「お前な」
「朝凪は、疲れています」
それだけ言って、美菊は台所へ入った。
美菊が何もできないわけではない。
山の家で暮らす以上、火の扱いも、水の運び方も、簡単な炊事も覚えている。
朝凪がいない昼のあいだ、美菊は美菊で必要なことをする。
本を守る。花の水を替える。布を干す。湯を沸かす。
ひとりで何もかもできるわけではないが、すべて人任せというわけでもない。
それでも朝凪が帰れば、たいてい朝凪が動いた。
早いから。確実だから。危なくないから。
理由はいくらでもつく。実際、その通りでもある。
けれど、それだけではないことを朝凪自身も分かっていた。
朝凪には、自分の内側へ入れたものをできるだけ自分の管理の内へ置こうとする悪癖があった。
美菊を隠すという状況がそうしたのか、生来のものだったのかはもうわからない。
一応、良くないとは思っている。
思っているだけで、直る気配はなかった。
台所で火を起こす音がした。
乾いた薪が置かれ、火吹きで息を送る気配が続く。
しばらくして、細い煙の匂いと、鍋の底が温まる音が座敷へ届いた。
器を出す音、水を注ぐ音、蓋を取る音。
ひとつひとつが、家の中へ静かに置かれていく。
ふと、美菊の袖口から覗いた手が見えた。
白かった。
もともと血色の濃い方ではない。
それでも今の指先は、火のそばにいるのに血の気が引いていた。
薪を持つ手がほんのわずかにこわばり、鍋の蓋を取る時、手首へ不自然な力が入る。
朝凪は、そこでようやく気づいた。
美菊は平気だったわけではない。
妹ができたとのんきに笑い、朝凪に対して兄上などとふざけてみせた。
あれは嘘ではなかっただろう。美菊は本当に、どこか嬉しかったのだと思う。
だが、それだけではなかった。
今日、秘密は裂けた。愛護は真相へ届いた。朝凪が綾を集めたことも、美菊は見た。
もし、わずかでも朝凪から愛護への信が足りなければどうなっていたか、おそらく分かっていた。
それでも美菊は笑った。
朝凪の前で。
朝凪が息を戻せるところまで、話を柔らかい方へ置き続けた。
朝凪は、座ったまま目を伏せた。
やがて、美菊が膳を運んできた。
湯気の立つ汁と、朝に煮ておいたものを温め直した小鉢。漬物。飯。
大したものではない。だが火加減は悪くなかった。
美菊は膳を朝凪の前へ置く。
朝凪は、しばらくそれを見た。
「……無理はしてないな」
「はい」
そう答えた美菊の指先は、まだ少し白かった。
「でも、明日はまた、朝凪がつくってください」
朝凪は顔を上げた。
美菊は汁椀を両手で持ち、湯気越しに少し笑んだ目でこちらを見ていた。
「朝凪は、その方が落ち着くでしょう」
数秒、沈黙が落ちる。
「……余計なことをよく見てるな」
「余計なことではなく、朝凪のことを見ています」
朝凪は言い返せなかった。
諦めて箸を取り、汁をひと口飲む。疲れた体に、温かさが静かに落ちた。
美菊も向かいに座り、自分の膳へ手をつける。
箸を持つその手はもう強張ってはいなかった。
夜は静かに深まっていく。
膳を下げ、湯を使い、火の始末をする。
障子の外で虫が鳴き始め、庭の木々は夜の湿りを抱いて黒く沈んだ。
古布の掛かった函はいつもの場所にある。
花の水も替えられていた。
美菊は少し早く横になった。
朝凪も、いつものように隣へ布団を敷いた。
眠れるとは思っていなかったが、それでもいつの間にか少し意識が落ちていたらしい。
明け方、衣擦れの音で目が覚めた。
朝凪はすぐには体を起こさなかった。
まず、気配を探る。
外ではまだ鳥も鳴いていない。
障子の向こうの色は重い。雨のにおいがする。
隣の布団で、美菊が起き上がっていた。
上体だけを起こし、膝に手を置いている。
黒い髪が肩へ落ち、首はわずかに前へ傾いていた。
朝凪は一瞬、寝ぼけているのかと思った。
だが、次の息で違うと分かった。
目が虚ろだった。
美菊の目は、こちらを見ていない。家の中でも、障子でもない。
もっと遠く、あるいはどこにもない場所へ向いている。
唇がわずかに開き、喉の奥で呼吸が浅く鳴った。
朝凪の背が冷えた。
「美菊」
呼んでも、返事はない。
美菊の首が、かくりと落ちる。
声が出た。
美菊のものではない、けれど確かに美菊の喉から出ている声だった。
「『天眼』墜つ」
夜明け前の山の家で、その声は不自然なほど明瞭だった。
「瞳を失い時は動く。北より災いは火を得る。鳥の地を舐め、川を越え、山を越え、災禍の炎は花に届く」
朝凪は息を止めた。
「月の『傾国』。鳥の『万願』。『十万億土』が切り拓く」
美菊の手が、布団の上でわずかに震えた。
「『界闢』せし風の娘。万の錠をもって理を綴じる」
障子の向こうが、わずかに白む。
「――万死を越える雪の娘『花軍』。幾万の果て、その刃は人の祈りに届く」
遠雷が落ちた。
「花は散るや、残るや」
美菊の虚ろな目が、どこにもない朝を見ていた。
「夜の先に、識島は在る」




