表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
愛及屋烏花軍  作者: 司馬示朗
◾️花晨月夕──風斎の章
24/30

二葉の影踏み


春の祝いのあと、屋敷の庭は少しずつ青へ傾いていった。


山桜の薄い花びらは、雨のたびに枝を離れ、築山の裾や池の縁へ吹き寄せられた。

かわりに若い葉が日に透け、朝の光を受けると、庭のあちこちがまだ乾ききらぬ水を含んでいるように見える。

春の終わりは、華やかさが一段落ちるぶん、ものの気配が近くなる。

土の匂い、濡れた石の黒さ、葉の裏をなでる風の湿り。人の声も、どこか低く聞こえた。


愛護は、袖の内側に手を入れた。

母からもらった守り袋はそこにあった。

淡い藤色の布は何度も触れたせいで、もう愛護の指になじみはじめている。

端の糸を押さえると、二枚の若葉のような留めが指先に触れた。


祝いの日の座敷は、まだ目の奥に残っている。

赤飯の湯気。淡い色の菓子。春の枝。新しい衣の重み。

父も、母も、玄冬も、奥に仕える者たちも、それぞれの形で愛護を祝ってくれた。

膳の上の器も、花も、衣も、女房たちの手の動きも、すべてがその日の愛護のために整えられていた。

十一になった愛護のために。

それは嬉しい記憶だった。胸の内に小さな明かりが灯るような、あたたかい記憶だった。

けれど、山の家で古布の端を見てから、その明かりのそばに別のものが座るようになった。


美菊の函に掛けてあった、色の抜けた古い布。

その端にも、同じ形の糸があった。

最初はただ、不思議だった。けれど不思議なものは、しまおうとしてもなかなか胸の奥へ収まらない。

美菊の年のことも、誕生日のことも、女房がこぼした五年ぶりという言葉も。

みな別々のものだったはずなのに、日を追うごとにどこかで細く絡まりはじめていた。





その日、愛護が奥方の部屋へ上がると、母は針を持っていた。

部屋には、いつもの香が薄く漂っている。

障子は半ば開けられ、庭の青葉が光を含んでいた。

奥方の傍らには、小さく畳まれた白い布がいくつか置かれている。

衣というほど大きなものではない。

手のひらより少し大きく、やわらかそうで、端が丁寧に始末されていた。


「母様、それは?」


愛護が問うと、奥方は顔を上げた。


「下働きのひとりに、子が生まれたのです。ほんの気持ちばかりですが、肌布を持たせようと思って」


「母様が縫うの?」


「全部ではありませんよ。けれど、最後の留めくらいは」


奥方はそう言って、針先を布の端へ通した。

細い糸が、布のきわで小さく重なる。二枚の葉が寄り添うような形だった。

愛護は、思わず身を乗り出した。


「それも、二葉?」


「ええ」


奥方は少しだけ笑う。祝いの日と同じ、はにかむような笑みだった。


「赤子の肌に触れるものは、なるべくほどけぬように、角が立たぬように。見えないところでも、糸が浮いていると肌を擦ってしまうでしょう」


そばにいた年嵩の女房が、うなずいた。


「奥方様は、産衣にもよくその留めをなさいます。姫様の御産着にもございましたね」


産衣。

その言葉が、胸の中で音を立てずに落ちた。


愛護は、自分の袖の内側を押さえた。

守り袋はそこにある。母の手で留められた、二葉の糸。

赤子の肌布。産衣。美菊の函に掛けられていた古布。


どれも同じではない。

守り袋と肌布と古布は違う。

そんな留め方をする人がほかにいないとも言えない。

けれど、言葉はすぐには離れてくれなかった。


奥方は布の端を整え、糸を切った。


「どうしました」


「……きれいだと思って」


愛護は、なるべく普通の声で答えた。

奥方はそれを聞いて、やわらかく目を細める。


「いつか、愛護も覚えるといいわ」


「うん」


愛護は頷いた。

その日は、それ以上何も聞かなかった。


母の手元には白い肌布があり、針山があり、糸を切る小さな鋏がある。

どれも穏やかなものだった。生まれた赤子へ贈る、静かな祝いの支度だった。


けれど愛護は、その白い布を見ながら、自分の祝いの膳を思い出していた。


赤飯。菓子。春の枝。新しい衣。

十一になった自分へ向けられた、たくさんの手。


その手の明るさが、なぜだか今は、胸に少し重かった。



■■



その日、空は薄く曇っていた。

雨は降っていないが、山の方には湿った色がある。

庭の若葉は日に透けず、青を少し沈ませていた。

供えには白い小花をいくつか合わせたものが選ばれ、菓子は淡い青の入った小さな干菓子だった。


小堂に花を供え、手を合わせる。いつもの手順だった。

供回りの気配が遠くなり、朝凪の短い合図が落ちる。


「参りましょう」


愛護は頷いた。


山道は、前より青くなっていた。花は少なくなったが、草の丈が増し、土の匂いが濃い。

迷いの綾の層を越える時、耳の奥で山の音が一度薄くなった。

稽古で鈴を見失った時の感覚が、少しだけ戻る。

見えているのに、名がない。

そこにあるのに、心が届かない。

朝凪はその綾を、何事もないように踏み越えていく。


山の家は、いつものようにそこにあった。

障子は細く開けられ、座敷の奥に薄い光が入っている。美菊は本を閉じるところだった。

愛護を見ると、静かに顔を上げる。大きな笑みではない。ただ、目元がやわらぐ。

その表情を見ると、愛護はいつも胸が少し明るくなる。


今日も、そうなるはずだった。

けれどいま、明るくなった胸の奥に、別のものが沈んでいる。


「こんにちは、ひめさま」


「こんにちは、美菊」


愛護は花と菓子を差し出した。

美菊は丁寧に受け取り、花を花入れへ移した。

窓辺ではなく、座敷の内側へ置く。

今日の光では、その方が花の白がよく見えるのだろう。

花を贈る数年間で、美菊はそういうことをすっかり知っていた。


茶を出す前に、美菊は読んでいた本をしまった。

細い栞を挟み、表紙を手のひらで撫でてから、座敷の端に置かれた小さな函を引き寄せる。

蓋を開け、本を中へ横たえた。

函の上には、前と同じ古布が掛けられている。

色の抜けた、やわらかそうな布。


今日は落ちなかった。

美菊はそれを少し持ち上げ、函の蓋を閉めてから、また静かに掛け直した。


端の糸が見えた。

二葉の留め。

愛護は、袖の内側で守り袋を押さえた。


美菊も、朝凪も、何も変わらない。

美菊は茶の支度へ移り、朝凪は座敷の端で菓子の包みをほどいている。

古布は、ここではただの布なのだ。

函の上に掛けられ、日に当たりすぎぬよう、湿気を避けるよう、長く使われてきたもの。

誰もその端を気にしていない。


愛護だけが、そこから目を離せなかった。





干菓子が小皿へ移される。白い花は棚の上で静かに開いている。

座敷には水の音が薄く届き、風が障子を撫でた。

いつもなら、愛護はこの静けさを好きだと思う。

美菊がいて、朝凪がいて、屋敷では言えない話を少しだけして、本を見せてもらう。


けれど今日は、言葉がなかなか出てこなかった。


美菊は、それを急かさなかった。

山の家の沈黙は、屋敷の沈黙とは違う。

咎めるものではなく、次の言葉が出るまで置かれる場所のようだった。


愛護は、湯呑を膝の上で抱いた。


「その布」


声は、自分で思ったより小さかった。

美菊が顔を上げる。


「はい」


「ずっと、あるの?」


美菊は、函の上の古布を見た。


「はい。小さいころから」


それだけの返事だった。

愛護は、袖の中の守り袋をぎゅっと握る。指先に、二葉の留めが触れた。


「美菊のもの?」


「はい」


美菊は少し考えるように目を伏せた。


「生まれたときのものだと、聞いています」


座敷の中で、風の音が一度遠くなった。


愛護は、すぐには息ができなかった。


生まれたときのもの。


産衣。


奥方様は、産衣にもよくその留めをなさいます。


春に十一になった自分。

年の終わりに生まれて、まだ十五の美菊。

五年ぶりのお子。

古布の端の二葉。

母の手。


戻せない。


どれかひとつなら、まだどこかへしまえたかもしれない。

けれど、もうほどけなかった。

ひとつの糸を引けば、別の糸までついてくる。

違うと言うための言葉が、喉の奥で動かなくなった。


朝凪が、わずかに顔を上げた。


愛護はそれを見た。


いつもと同じ顔だった。

姿勢も、目の伏せ方も、変わらない。

けれど、座敷の空気だけが変わっていた。

愛護にはそれが分かった。

何かが今、山の家の内側で音もなく抜かれたようだった。


愛護は、もう一度古布を見た。

そこから目を離して、美菊を見る。


黒い髪。黒い目。山の家の薄い光によく馴染む人。

朝凪が帰る家で、本を読み、花を挿し、穏やかに暮らしている人。


「美菊は」


口にした瞬間、朝凪の背が、ほんの少しだけまっすぐになった。

愛護は続けた。


「どうして、ここにいるの」


美菊は答えなかった。

ただ、朝凪を見た。


その視線が動いた途端、座敷の静けさは別のものになった。

愛護は、胸の奥が冷えるのを感じた。

今の問いは、訊いてはいけないものだったのだと分かった。


朝凪は、ゆっくりと身を正した。


膝の上に置かれていた手が、ほんの少し開く。

稽古で綾を呼ぶ前の手に似ていた。けれど何も織られない。

指先は動かず、ただ畳の上で静かに止まっている。

朝凪の視線は愛護ではなく、まず障子の方へ向いた。外に人の気配はない。次に戸口を見る。

それから、美菊の方へ一度だけ目を移した。


愛護は、そのすべてを見ていた。

朝凪は何も言っていない。

それなのに、座敷も、山の家も、戸口までの距離も、急に狭くなったように思えた。

朝凪がそこに座っているだけで、どこへも逃げられないようだった。


「姫様」


朝凪の声は低かった。


「それ以上、お尋ねになってはなりません」


愛護は唇を噛んだ。


「どうして」


「お答えすれば、姫様にも守っていただかねばならぬものが増えます」


「もう守ってる」


声が震えた。けれど、出た。


「山の家のことも、美菊のことも、言ってない」


朝凪は、すぐには答えなかった。

その沈黙が、愛護には怖かった。

叱られる怖さではない。怒られる怖さでもない。

朝凪が何をどこまで考えているのか、まるで見えない怖さだった。

稽古の鈴を思い出す。

そこにあるのに、名が出てこない。

朝凪の綾では、何を見失ったのかさえ分からなくなる。


今、朝凪の中にあるものも、そうだった。

愛護には見えなかった。


美菊が、古布の上へ手を置いた。

強く握るのではない。ただ、そこにあるものを押さえるように、指先を静かに添える。

朝凪はその手を見た。目だけが動いた。

口元は閉じたまま、息の音さえしない。


美菊は、ほんの少しだけ頷いた。


朝凪の肩に入っていた力が、わずかに変わる。

緩んだのではない。別の形に固まったように見えた。

愛護には、その頷きの意味を全部は分からなかった。

ただ、美菊が朝凪の後ろへ隠れなかったことだけは分かった。


「朝凪は」


愛護は、言葉を探した。


「美菊を、何から隠してるの」


朝凪の手が、畳の上で静かに握られた。

それだけだった。

けれど愛護は、その一瞬で、自分がもう引き返せないところまで来たのだと分かった。


「風斎本家でございます」


朝凪は言った。

声は、ひどく固かった。

いつもの礼を尽くす声より、さらに奥で固められた声だった。

愛護は瞬きをした。


「……父様や、玄冬や、重臣(おじさま)たち?」


「はい」


「母様、も?」


「はい。奥方様にも、知られてはならぬことです。知られれば、美菊はもうここにはいられません」


胸の中で、何かが軋んだ。


母様からも。

その言葉だけが、愛護の中でうまく形にならなかった。

愛護を祝ってくれた母。

袖口を直し、守り袋を縫い、髪飾りを選んでくれる母。

いつだって惜しみなく愛してくれる、やさしい母。

その母からさえ、美菊を隠している。

朝凪はそう言った。


「美菊は、悪いことをしたの」


その瞬間、朝凪の顔から、側付きの静けさが一枚だけ剥がれた。


「していない」


低い声だった。

愛護は息を止めた。

朝凪はすぐに頭を下げた。けれど、次の言葉はもう普段の形へ戻りきらなかった。


「何ひとつ。美菊は、何もしておりません」


美菊が、少しだけ目を伏せた。


愛護は、古布を見る。


二葉の留め。

産衣。

生まれたときのもの。

五年ぶり。

年の終わり。

十五。


今まで知っていた形では、足りないのだと思った。

美菊という名前の、朝凪が大事に隠しているひと。

その答えは、朝凪が差し出してくれていたものだった。

愛護はそれを受け取って、ずっと会いに来ていた。


けれど、なぜ隠されているのかを知らなかった。

知らないままでよかったのかもしれない。

けれど、もう知りたいと思ってしまった。


「美菊は」


愛護は、美菊を見た。


美菊は静かに座っている。

黒い髪が頬にかかり、伏せた目元は母に――よく、似ていた。


多分、ずっと、どこかで母のおもかげを見ていた。

だから最初から彼が気になったし、何も知らないのに好ましいと感じていたのかもしれない。

それでも、その黒い色が、愛護の目を覆い隠していたのだ。

風斎の子なら赤い髪と青い目で生まれる。美菊は違う。

だから、結びつかないはずだった。


でも、産衣の端に、母の手があった。


「美菊は……母様の子なの」


山の家の中から、音が消えた。


外では風が吹いているはずだった。枝も揺れているはずだった。

けれど、そのどれもが急に遠のいた。

朝凪のまとう綾ではない。

愛護自身の耳が、他の音を拾えなくなったのだ。


朝凪は、ほんのわずかに目を伏せた。

次に顔を上げた時には、いつもの側付きの顔に戻っていた。

平静で、礼を失わず、余分なものを何も出さない顔だった。


「姫様」


声もまた、整っていた。


「そのような思いつきを、軽々にお口になさってはなりません」


愛護は、朝凪を見た。

畳の目まで、急にはっきり見えた。

膝の上の自分の手が小さく見える。

けれど、袖の内側にある守り袋の形だけは、妙に熱を持っていた。


「思いつきじゃない」


愛護は袖の内側から守り袋を出した。

淡い藤色の布が、膝の上で小さく揺れる。端の二葉の留めに、指を添える。


「これは、母様が縫ってくれたの」


朝凪の目が、ほんのわずかに守り袋へ落ちた。

まだ、崩れない。

愛護は、函の上の古布を指した。


「そっちも、同じ。母様の手だよ」


言った瞬間、朝凪の息が止まった。


本当に、わずかなことだった。

けれど愛護には分かった。

朝凪の指先が、畳の上で動かなくなる。

美菊の方でも、古布に添えられていた手が、ぎゅっと縮んだ。


愛護は続けた。


「母様は、大切なものに、この留めをするの。赤ちゃんの肌布にも、産衣にも。女房が言ってた。母様も、そうだって」


誰も、すぐには答えなかった。


朝凪は何も言わない。

美菊も何も言わない。

その沈黙が、答えだった。


冷静になれば、いくらでも言えたはずだった。

糸の留め方など珍しいものではないと。

似たものを見間違えただけだと。

自分の母が同じような留めを知っていたのかもしれないと。

朝凪なら、きっと言えた。

いつもの朝凪なら、愛護が言葉にする前に、逃げ道を整えていたはずだった。


なのに、言わない。


言えない。

美菊が悪いことをしたのかと聞いた時よりも、座敷の空気はひどく張り詰めていた。


愛護は、胸の奥が冷えていくのを感じながら、もう一度問うた。


「美菊は、母様の子なの」


今度は、声が少しも震えなかった。


朝凪の手元に、綾が集まった。

それはほんの一瞬だった。光も音もない。けれど愛護には分かった。

稽古で見たものと同じ、けれどもっと薄く、鋭い流れが、朝凪の指先へ寄った。

何かを織るには小さすぎる。

けれど、何かを変えるには十分すぎるほどの気配だった。


「朝凪」


美菊が呼んだ。

静かな声だった。

それだけで、綾の流れが止まる。


朝凪は、美菊を見た。


二人は、しばらく言葉を交わさなかった。

美菊は古布に触れていた手を離し、膝の上へ戻した。

それから、ゆっくり首を振る。

責めるようではなかった。恐れるようでもなかった。ただ、小さな動きだった。


朝凪の口元が、わずかに歪んだ。

苦い顔だった。

愛護は、そんな顔の朝凪を初めて見た。


次の瞬間、朝凪は深く頭を下げた。


「姫様」


声は固かった。


「これより申し上げることは、屋敷へ持ち帰っても、決して口にしてはなりません」


愛護は頷けなかった。

首が動かなかった。


朝凪は、待った。


返事を急かさない。

けれど、答えないままでは進まない。

そういう沈黙だった。


愛護は、膝の上で手を握った。


「……言わない」


ようやく声が出た。


「誰にも」


朝凪は、頭を下げたまま一拍置き、言った。


「風斎本家の亡くなられた第一子。その御子が、美菊にございます」


言葉は、短く置かれた。


短いのに、座敷の中の何もかもを変えてしまうだけの重さがあった。


愛護は、息を吸った。


吸ったのに、胸の途中で止まった。


第一子。

その御子。

美菊。


山の家の座敷が、ぐらりと遠くなる。


愛護は、美菊を見た。


美菊は膝の上に手を置いたまま、静かに座っていた。

膝の上の指先が、ほんの少しだけ動く。

愛護は何か言おうとした。けれど、声にならなかった。


亡くなったあにさま。


冬に聞いた言葉が戻ってくる。

小さな衣。母の声。男の子だった。

その子は、ずっと遠い昔のことだった。

愛護が知らなかっただけの、屋敷の奥の悲しみだった。


その人が、目の前にいる。


黒い髪で。黒い目で。山の家で本を読んで。花を挿して。愛護に、ひめさまと呼びかける。


美菊は、愛護の沈黙を急かさなかった。

目も逸らさなかった。

それから、ほんのわずかに頷いた。

自分から名乗るためではなく、愛護が見つけてしまったものを否定しないための頷きだった。

愛護は、その小さな頷きで、胸の奥の最後の逃げ場が消えるのを感じた。


「……母様は」


声がかすれた。


「知らないの」


朝凪は答えた。


「ご存じありません」


「本当に?」


「はい」


愛護は、美菊を見る。


母は知らない。


死んだはずの自分の子が生きていることを。

その子を、朝凪がずっと隠してきたことを。

愛護が何度も会っていたことを。

その子が、母の縫った産衣の布を、いまも山の家で使っていることを。


母は知らないまま、愛護を祝った。

十一になったねと笑い、守り袋を持たせてくれた。


その守り袋と同じ手の留めが、美菊の産衣だった布に残っていた。


愛護は、袖の内側を押さえた。


「言ったら」


唇が震えた。


「母様に言ったら、だめなの」


朝凪の目が、わずかに低くなる。


「なりません」


その声は、いつもの「なりません」と違っていた。

庭へ出てはならない時や菓子を余分に食べてはならない時の、淡々とした制止ではない。

そこには、絶対に越えさせない線があった。


愛護は、聞き返せなかった。

それでも、言葉は胸の内でこぼれた。


「でも、母様は」


「姫様」


朝凪の声が、少しだけ強くなった。

それだけで、愛護の言葉は止まった。

朝凪は、強い声を出したことを詫びるように、すぐに頭を下げた。けれど、その線は緩まなかった。


「お伝えすることはなりません」


愛護は膝の上の手を見た。


小さい、自分の指。

守り袋の端を握りしめると、二葉の留めが爪に触れた。

母が縫ってくれたもの。美菊の産衣にもあったもの。


母に言えない。


美菊がいることを。

美菊が母の子であることを。

愛護の兄であることを。


それを言えば、美菊の家が壊れる。

朝凪がずっと隠してきたものが壊れる。

山の家の静けさも、本の函も、白い花も、伏せられた湯呑も、朝凪が帰る場所も、みんな別のものになってしまう。


愛護は、息を深く吸った。


泣きそうだった。けれど、泣いてはいけない気がした。

泣けば、母に言えない悲しさだけが前へ出てしまう。

目の前にいる美菊のことを、置いていってしまう。


「美菊は」


愛護は、やっと顔を上げた。


「ここにいたいの」


美菊は少しだけ瞬きをした。

座敷の端へ置かれた花を見る。函の上の古布を見る。それから、朝凪の方へほんの少し目を向ける。

朝凪は何も言わなかった。


美菊は愛護へ向き直った。


「はい」


声は大きくなかった。けれど、いつものように淡く流れる声ではなかった。


「ここが、わたしの家です」


愛護は、その言葉を胸の中で受け止めた。


美菊は、奪われて閉じ込められている人ではない。

山の家に座って、朝凪の帰りを待つ人だった。

ここで、朝凪と生きている人だった。

ならば。


愛護は、それを壊してはいけない。


「……分かった」


声は小さかった。


「言わない。母様にも」


朝凪の畳についていた指先から、ゆっくり力が抜ける。

そこで初めて、愛護は朝凪がどれほど強く畳を押さえていたのか分かった。

関節のあたりが白くなっている。


朝凪は深く頭を下げた。


「ありがとうございます」


声は低く、わずかに掠れていた。

礼の形は整っていた。けれど整いきってはいなかった。

いつもの側付きの礼より、ずっと深く、長かった。


「姫様」


もう一度、頭が下がる。


「どうか、」


そこで、声が途切れた。


愛護は、朝凪を見た。


そのかすれた声が、泣きそうに聞こえた。

朝凪が泣くはずがない。朝凪はいつも静かで、正しくて、どんな時でも前に立つ人だ。

大人で、冷静で、失敗したところなど見たことがない、優秀な人だ。

その朝凪が、いま声を詰まらせ、愛護に頭を下げている。


愛護は、袖の内側の守り袋を握った。


「うん」


その一言しか出なかった。

けれど、その一言の中で、愛護は思った。


守りたい。


美菊を。

美菊がここにいたいと言った、この家を。

そして、美菊を守るためにずっと前に立ってきた朝凪を。


朝凪は頭を下げたままだった。





そのあとの時間は、あまり長くなかった。


茶はすっかり冷めていた。菓子も手つかずに近い。

朝凪はそれを何も言わずに片づけ、美菊は古布の掛かった函を少し奥へ寄せた。

白い花だけが、棚の上で変わらず静かに咲いている。


帰る刻になると、愛護は立ち上がった。

足元が少し頼りなかった。けれど、朝凪の手は借りなかった。朝凪も差し出さなかった。

ただ、いつものように一歩先へ立ち、戸口の方を確かめる。


美菊は、戸口まで見送った。


「ひめさま」


呼ばれて、愛護は振り返る。

美菊は言葉を探しているようだった。けれど、結局、何か特別なことは言わなかった。


「お気をつけて」


「うん」


愛護は頷いた。

そして、少しだけ迷った。


喉の奥に、新しい呼び名があった。

冬に母から聞いた時には遠い言葉だった。

今日まで、自分には関係の薄い、箱の底の昔のような言葉だった。


今は違う。


けれど、それをすぐに口にしてよいのか分からなかった。

美菊は、美菊だ。

山の家にいる、美菊という人だ。

急に呼び名を変えれば、何かを押しつけることになるのではないかと思った。


それでも、言わずに帰れば、もう二度と言えない気もした。


「……あにさま」


声は、ほとんど息のようだった。


美菊は、すぐには返事をしなかった。

その呼び名が自分へ向けられたものだと、少し遅れて分かったように、目を上げる。

それから、静かに頷いた。


「はい」


そのあとで、いつものように付け足した。


「ひめさま」


愛護は、少しだけ笑った。

胸の奥はまだ痛かった。

痛いのに、その呼び名が返ってきたことだけは、確かにあたたかかった。



山道を下りる間、朝凪は前を歩いた。

いつもと同じ歩幅だった。

枝の張ったところではわずかに立ち止まり、足元の悪いところでは少しだけ道を空ける。

会話はない。山の音は戻っている。葉擦れも、水の気配も、鳥の声も、さっきより近い。


けれど愛護の中では、何も前と同じではなかった。


小堂の奥に、山の家がある。

そこには美菊がいる。

朝凪が大事に隠している、静かなひと。

黒い髪と黒い目を持ち、花を挿し、本を読むひと。

朝凪が帰る家で、待っているひと。


そして。


死んだはずの、風斎の嫡子。

愛護の兄。



小堂へ戻ると、供回りの気配が近づいた。

朝凪は何事もなかったように歩みを整え、愛護も裾を直した。

奥向きへ戻れば、女房たちが迎える。

母の部屋へ行けば、いつものやわらかな声がある。

きっと母は、今日も何も知らない顔で愛護を見る。


愛護は袖の内側で、守り袋を押さえた。


二葉の留めが、指先に触れる。


言わない。


母にも。父にも。誰にも。



そう決めた時、愛護ははじめて、本当の意味で自分が秘密を守る側に立ったのだと分かった。





評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ