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愛及屋烏花軍  作者: 司馬示朗
◾️花晨月夕──風斎の章
21/32


雪は、もうほとんど残っていなかった。


庭石の陰や、築山の北側にだけ、薄く汚れた白が張りついている。

朝のうちはまだ霜が降り、奥向きの板廊へ出れば、足袋越しにも冷えがじわりと上がってきた。

けれど日が高くなるにつれて、庭の匂いは少しずつ変わる。

乾いた冬の埃っぽさがほどけ、土の奥に湿りが戻り、枝先の固い芽が見えないところで息をしはじめるような匂いがした。


春は来ている。

それなのに、風斎の屋敷には、春らしい浮き立ちはなかった。


小堂筋の傷は、まだ消えていない。


あれから日ごとに詰所へ報せが積まれていた。

広がりはない。禍滲も出ない。ただ、綾の流れに傷だけが残っている。

そこを通る者は必ず肌の裏へかすかなざらつきを覚え、見張りに立つ者は何も起こらぬ場所を何刻も見つめ続けることになる。


奥向きへ伝えられるのは、そのうち必要な分だけだった。


小堂そのものに損じはない。

道の見張りは続いている。

姫様がお参りなさるには、まだ早い。


朝凪は、それ以上を言わない。

愛護も、それ以上を聞かなかった。


聞かずに済ませることは、以前より少し上手になっていた。

奥にいる者には奥にいる者の分というものがあり、聞いたところで答えられぬことを相手に負わせるのは、姫としてよくない。

そう教えられたからだけではない。

朝凪が言わぬことの背後には、言えぬ理由があるのだと、愛護自身ももう知っていた。


けれど、聞かないことと、胸の内が静かでいることは別だった。


手習いの最中、筆がふと止まる。

墨を含んだ穂先が紙へわずかに触れ、書きかけの線が太く滲む。

庭を見るつもりで顔を上げると、目はいつのまにか山の方角を探している。

母の部屋で香の匂いを聞いていても、女房たちの衣擦れや低い話し声の合間に、小堂筋のことを思う。


美菊は無事だと、朝凪は言った。

山の家にも損じはないと、言った。


だから大丈夫なのだと、愛護は何度も自分に言い聞かせた。

言い聞かせて頷く。頷いたあとで、また別の不安が生まれる。

それは子どもじみたものだと分かっていた。

無事と聞いているのに、会えないだけで胸が落ち着かない。

そういう自分を恥ずかしいとも思う。

けれど、会えない日が長くなるほど、心の置きどころは少しずつ狭まっていった。


その鬱屈を、玄冬が見て取ったのかどうかは分からない。

けれど、雪の名残が庭の隅へ退き、朝の霜が昼前には消えるようになったころ、玄冬は愛護の前で静かに言った。


「姫様にも、綾の基礎を始めていただきます」


愛護は顔を上げた。

側には朝凪が控えていた。表情は変わらない。驚いた様子もない。

つまり、これはいま思いついた話ではなく、すでに大人たちの間で決まっていたことなのだろう。


「今から?」


「はい。早すぎることはございません」


玄冬の返答は短かったが、そこには相談ではなく決定の重みがあった。


愛護にとって、それはまったく知らない話ではない。

風斎の姫は守られる。奥方も守られる。

奥向きに詰める女たちは、戦場からもっとも遠い場所に置かれる。

それは事実で、愛護もそのように扱われてきた。

だが、守られる立場であることは、戦いと無縁でよいという意味ではない。


四大武家は、領民を守るためにある。


異界の門から禍滲が出れば、まず前線の兵が立つ。次に名のある者たちが立つ。

禍滲の流れが本家屋敷へ迫るほどの事態になれば、普段は武器ではなく書を扱っているような者たちも綾を取る。

姫や奥方は最後まで守られる。

けれど本当の最後の最後に守られるべきものはその背後にいる民であり、いざとなれば奥の女たちもまた民を守るために武器を持つ。


それが武家の根にある理だった。


愛護は幼いころから、何度もその話を聞かされてきた。

風斎に生まれた者の誇りとして。四大武家の血を引く者が忘れてはならぬ務めとして。

けれど、頭で知っていることと、いざ自分の手に綾を集めることはまるで違った。


稽古は、奥向きに近い小さな板間で始まった。

若い兵たちが声を上げ、砂を踏み、武具を交える訓練場ではない。

戸は閉められ、外には見張りが立ち、そこにいるのは玄冬と朝凪と愛護だけだった。

人目に触れさせるにはまだ早いのだと、誰も言わなかったが愛護にも分かった。


板間の壁際には、いくつかの武具が並べられていた。

小さめの木刀。刃を潰した短刀。短い槍の柄。

どれも稽古用だが、飾りではない。

手に取れば体へ重さが返る、本物の道具だった。

朝凪はそのうちの短刀を取り、愛護の前へ差し出した。


「まずは、お持ちください」


愛護は両手で受けた。思ったより重かった。

手首が沈み、慌てて支え直す。刃を潰してあるとはいえ、鉄は鉄だった。

遠目には小ぶりで、どこか端正にさえ見えたものが、手に持った途端別のものになる。

冷たく、硬く、こちらの握りが悪ければ、そのまま腕へ負担を返してくる。

愛護は思わず息をつめた。


朝凪は、すぐには助けなかった。

愛護がどうにか持ち直すまで待ってから、短刀の柄へ手を添え、指の位置だけを直す。


「実物の重さを知らなければ、綾でも武具は織れません」


「禍滲には、綾の武器の方が効くんでしょう?」


「はい。ですが、綾は思い浮かべたものを都合よく形にしてくれるわけではございません」


朝凪の指が、柄の上を軽く示す。


「刀を知らぬ者が綾で刀を織っても、形だけになります。刃の通り方を知らなければ切れ味は鈍り、握りを知らなければ手の内で崩れる。強度も保ちません。重さ、間合い、振った時に体へ返る力。そうしたものを知ったうえで、禍滲へ届くよう綾を整えるのが基本にございます」


愛護は手の中の短刀を見た。

ただの鉄の短刀が、急にずっと難しいものに思えた。

いままで見ていた綾の武具は、兵たちの掌に当たり前のように生まれていた。

けれどあれは、ただ不思議な力が形を取ったのではない。

そこへ至るまでに、体が知った重さや痛みが積まれている。


「じゃあ、本物をよく知ってる人が作った武器のほうが強いの?」


「左様にございます」


朝凪の声は、いつも通り淡々としていた。


「熟達すれば、実物ではありえぬものも織れます。視認できぬほど薄い刃、手元へ戻る槍、百発百中で貫く矢。ですが、そこへ至る者ほど実物を軽んじません。土台を知らぬまま、上辺だけを作ることはできませんので」


愛護は唸った。

まだ何もしていないのに、もう遠い。

自分の手にある短刀はただ重く、朝凪の説明は正しく、玄冬の視線は静かで、どこにも誤魔化す余地がない。

姫だから、幼いから、できなくてもよい。そう言われたら楽だったかもしれない。

けれど、ここに立たされた時点で、それはもう許されていないのだった。


短刀を置いたあと、玄冬が綾の集め方を見せた。

彼は右手を開いた。すると、板間の空気の濃さがほんのわずかに変わる。

光るわけではない。音が鳴るわけでもない。けれど愛護には、そこだけ流れが寄ったように見えた。

水面に風が触れて、波紋だけが一か所へ集まるような変化だった。

その流れが、玄冬の掌で短い刃の輪郭を取る。


愛護は息を止めて見惚れた。

玄冬の作る刃には飾り気がなかった。

光をまとっているわけでも、鋭さを誇るように揺れているわけでもない。

ただ、そこにある。必要なだけの形を持ち、必要なだけの強さで保たれている。

派手ではなく、何よりも余分がなかった。


「綾は、無理に掴むものではございません」


玄冬は言った。


「流れているものを手元へ寄せる。寄せたものへ、形を与える。姫様はまず、刃にしようと急がず、手の内へ留めることをお考えください」


愛護は頷いた。

頷いたが、うまくいくかどうかは別だった。


手を開く。目を凝らす。綾はある。あるはずだ。幼いころから、屋敷の中で感じてきた。

奥向きの守り、廊へ薄く敷かれた迷い、朝凪が身の輪郭にまとわせる、ごく細い綾。

見えないけれど、あるものとして体が知っている。


けれど、それを手元へ寄せようとした途端、分からなくなった。

水を掬おうとして、指の間からすべて落ちていくようだった。


「……来ない」


愛護が小さく言うと、朝凪が答えた。


「焦れば散ります」


「焦ってない」


「散っております」


悔しい。


愛護はもう一度、手を開いた。

今度は息を詰めすぎないようにして、掌の上の空気をじっと見る。

ある。さっきよりは、分かる。

風ではない。水でもない。

けれど確かに流れているものが、指先のあたりで薄く震えている。


それを手の内へ留めようとした瞬間、淡く頼りないものが形になりかけた。

愛護は慌てて、それを刃にしようとした。

細く、まっすぐ、玄冬が作ったような形へ。


途端に、それはぺたりと曲がった。

刃ではない。

濡れた紙の端のようなものが、手の上でくにゃりと歪み、支えきれなくなった愛護はその場へ尻餅をついた。

板間に鈍い音がする。


朝凪が一歩動いた。


「お怪我は」


「ない」


即答した。

本当に怪我はない。痛くもない。ただ、ひどく格好が悪い。

玄冬は笑わなかった。朝凪も笑わない。けれど笑われないことが、かえって恥ずかしい。


「今の、ちょっとはできた?」


「形にはなりかけました」


玄冬はそう言った。


「ただ、刃ではありませんな」


朝凪も淡々と続けた。


「あれでは斬る前に折れます」


「分かってるもん」


愛護は床へ座ったまま、手のひらを見つめた。

そこにはもう何も残っていない。

けれど、さっき一瞬だけ、確かに何かがあった。

自分の中のものではない。この世に流れているものを、ほんの少しだけ手の内へ寄せた。


できなかったのに、胸の奥が少し熱い。

それが悔しさなのか、面白さなのか、まだよく分からなかった。


しばらくして、愛護はふと思いついた。


このところ、屋敷では『天眼』様という言葉をよく聞いた。

小堂筋の傷が見つかってから詰所の者たちは何かにつけて、『天眼』様から新たな報せはない、『天眼』様の視た限りでは広がりはない、というような話をしている。

奥向きにまで詳しいことが届くわけではないが、それでも大人たちの声の端にその名は何度も引っかかった。


識島全土を視る人。

まだ誰も知らない綾の揺らぎをを拾う人。


そういうふうに耳にするたび、愛護の中では、『天眼』様という存在が少しずつ人ではなく遠い役目そのもののようになっていた。

けれど今、自分の掌で綾が崩れたあとではその遠さが急に気になった。


「ねえ。『天眼』様も、最初はうまく見えなかったの?」


その場の空気が、ほんのわずか変わった。

朝凪は愛護を見ず、玄冬へ視線を向ける。

玄冬は掌の刃をほどき、手を膝へ戻した。

その動きは静かだったが、答える前に置かれた間は、さっきまでの稽古のものとは違った。


「『天眼』の力は、綾とは異なります」


「異なる?」


「はい。綾は、この世に満ちるものを人が掬い、織り、扱うものです。血筋によって得手はあれど、基本は学ぶものにございます。天宿りは違う。あれは、代償を払った者へ、力そのものが降ろされる」


愛護は眉を寄せた。


「降ろされるって、どういうこと?」


「本人が望んだから得るものではなく、学んだから使えるようになるものでもない、ということです」


玄冬の声は、いつもより少し低かった。


「代償を払わされた瞬間、力の使い方も含めて、身の内に置かれる。幼子であっても、本人がその理を知らずとも、その力に属することはできてしまう」


愛護は、さっき自分の手で崩れた綾を思い出した。

あれほど小さな刃ひとつ形にならない。

なのに、『天眼』は識島全土を視る。裂け目の兆しを視る。誰も知らない異変を拾う。

それは、稽古を重ねて少しずつ届いた場所ではないのだという。


「じゃあ、練習はいらないの?」


「力そのものには」


玄冬は答えた。


「ただし、抱えて生きるには慣れが要ります。使うか使わぬかを選べる類の力であれば、それをどう扱うか。自分の意志で制御ができぬ類のものであれば、どう受け入れるか。人の身に余る力と、どう生きるか」


愛護は、うまく返事ができなかった。


便利な力だと思っていた。

『天眼』がいるから、異変があれば分かる。

玄冬がいるから、風斎は長く戦えてきた。

妻鳥の総領は、面をつけた兵を置くことができる。

大人たちの会話の中で、天宿りはしばしば役目として扱われる。

だから愛護も、そういうものだと思っていた。


けれど今、玄冬の口から聞くそれは、役目より先に、ひどく重いものだった。


「天宿りって、たくさんいるの?」


「本来は、ほとんどおりません」


玄冬は言った。


「識島全土で、一つの時代に一人いれば多いほどにございます」


愛護は思わず顔を上げた。


「えっ……でも、今はいるでしょう。『天眼』様も、玄冬も、妻鳥の総領様も」


「はい」


玄冬は否定しない。


「今は、多いのです。記録に残る限り、数百年このように重なったことはございません」


その言葉は、板間の冷えの中へ静かに落ちた。


愛護はそこでようやく、大人たちが天宿りの話をするときに声を低くする理由が、少し分かった気がした。

珍しいものが多いのは、めでたいことではないのかもしれない。


何かが多く降りている。

何かが多く奪われている。


そう考えると、手のひらの上で崩れた綾よりも、ずっと頼りない気持ちになった。


「代償って、どんなものなの?」


「公にされぬことも多うございます」


玄冬の声に迷いはなかったが、踏み込まない線もあった。


「本人の身に深く関わるものもあれば、家の事情に触れるものもある。人前に出すには、あまりに私的なものもございますゆえ」


愛護は頷いた。


頷きながら、これ以上は聞いてはいけないのだとも思った。

知ることと踏み込むことは違う。その境目を、玄冬は静かに示している。


その日の稽古は、愛護がもう一度だけ綾を集めようとして、今度は短い棒のようなものを作り、朝凪に「刃ではなく棒にございます」と言われて終わった。


疲れた。


けれど、ただ疲れただけではなかった。




その日から、愛護は書庫へ行くようになった。


風斎本家の書庫は、子どもが遊びに行く場所ではない。

古い紙の匂いがして、棚は高く、巻物や綴じ本には細かな札がついている。

窓は少なく、光は障子を透かして鈍く入り、火の扱いには細かな決まりがあった。

書を出す時は必ず係の者がつき、頁をめくるにも、指先の湿りを払うよう言われる。


最初の愛護は、たいへん真面目だった。


背筋を伸ばし、膝を揃え、係の者が出してくれた書を両手で受け取る。

大事なものを学ぶのだから、ちゃんとしなければならない。

綾の稽古で尻餅をついた自分とは違って、書を読む自分はもう少し落ち着いて見えるはずだ。

そう思って、はじめのうちは札の文字まで丁寧に読み、分からない言葉があると小さな紙へ控えようともした。


愛護は、最初に綾の本を出してもらった。


すぐに後悔した。

難しい。


風斎の綾の性質、迷い、距離、位相、認識。

文字は並んでいるが、言葉が硬く、読んでいるうちに頭の中で絡まる。

最初は真面目に座っていた背中が、少しずつ丸くなる。

膝の上に置いた手は、いつのまにか頁の端を押さえるだけになり、控えの紙へ書いた文字も、三つめの難しい言葉あたりから急に細く頼りなくなった。


戦の記録はもっと硬い。

いつ、どこで、どれほどの裂け目がひらき、何名が出て、何名が戻らず、どの処置が効いたか。

大事な記録なのだろう。愛護にも、それは分かる。分かるから投げ出すわけにはいかない。


けれど読んでも、その場にいた人間の顔は見えなかった。


死者三名。

負傷者七名。

裂け目閉鎖。

綾の乱れ、翌朝まで残存。


そういう字だけが続く。


愛護は一度、頁の上へ顔を近づけた。

すると文字が近すぎて、よけいに読みにくくなった。

仕方なく顔を上げる。今度は背筋を伸ばし直す。

伸ばしたはずの背筋は、半頁ほど進むころにはまた少しずつほどけた。


係の者の手前、机に突っ伏すことはしない。

しないが、心の中ではすでにかなりぐんにゃりしていた。


天宿りについての書は、さらに少なかった。

長い風斎の歴史があるのに、係の者が探してきたのは二冊だけである。

一冊は紙の端が脆く、触れるにも気を遣うほど古い。

もう一冊は比較的新しいが、内容はやはり記録だった。


どの時代に、どの領で天宿りが現れたか。

力の性質。

代償、不詳。

代償、非公開。

没年。


愛護は読み終えるころ、頬杖をつきたくなっていた。

もちろん書庫でそんなことはしない。けれど心の中では、かなりついていた。

背中も心も、最初の真面目さからはだいぶ遠いところへ来ている。

書庫の静けさと古い紙の匂いの中で、愛護は、勉強というものは人を少しずつ畳んでいくのだなと思った。


それでも、愛護は通うのをやめなかった。


一日で分かろうとするから、頭の中で文字がほどけなくなるのだと思った。

だから次の日は、ほんの少しだけ読むことにした。

綾の性質について三頁。戦の記録を一項目。天宿りの書を、分かるところだけ。

分からない言葉は紙へ控え、あとで係の者に聞く。

聞いても分からないものは、いったんそのままにしておく。


そういうふうに決めると、書庫へ入る時の息苦しさは少し薄れた。


古い紙の匂いにも慣れてきた。

棚のどこに綾の書があり、どの函に戦の記録がまとまっているかも、少しずつ覚えた。

係の者も、最初は姫が退屈してすぐ来なくなると思っていたのかもしれない。

けれど愛護が何日も通ううち、今日はこのあたりを、と言えば、それに合うものを静かに出してくれるようになった。


読めば、少しずつ分かることもあった。


風斎の綾が、ただ人を迷わせるだけのものではないこと。

距離や気配や認識をずらし、戦場そのものの流れを変えること。

裂け目が小さいうちに押さえられるかどうかで、その後の死者の数がまるで違うこと。

天宿りについても、記録の端々から、大人たちがそれを畏れ、頼り、同時にあまり触れたがらないことが見えてきた。


分かると、もっと知りたくなった。


けれど、そうなると今度は、屋敷の書では足りなくなった。

ここにあるものは、どれも記録だった。

いつ、どこで、なにがあったか。何人が死んで、何が効いたか。

大事なものだとは分かる。分かるから、愛護も真面目に読む。

けれど、そこにいるはずの人の声は聞こえなかった。

天宿りについての書も、古いほうも慎重に読んだが、やはり同じだった。


愛護は頁を閉じ、しばらく表紙を見つめた。

知りたいのは、そういうことだけではなかった。

天宿りが何を失ったのか。何を見て、何を聞いて、周りの人たちにどう扱われたのか。

記録の中では一行で終わるその人が、本当はどんな顔をして生きていたのか。


もちろん、そんなものが書庫の公的な記録に残るはずはない。

それでも、毎日少しずつ通ううちに、愛護はますます思うようになった。


もっと、人の話みたいなものはないのだろうか。




そう思いはじめたころ、愛護は朝凪が町へ下りる予定を小耳にはさんだ。


その日、詰所の若い者たちが、次の休みに町で酒を飲もうとしていたらしい。

廊の向こうで誰かが朝凪を誘う声がした。

愛護は偶然その近くを通りかかっただけだったが、朝凪の返事はよく聞こえた。


「私は遠慮いたします」


いつも通りの固い声だった。

相手が何か笑って、せっかく町へ出るなら少しくらい付き合えと言った。

朝凪は変わらない調子で、買うものがあるだけです、とだけ答え、それ以上は取り合わなかった。


その日の午後、人目の少ないところで朝凪を呼んだ。


「朝凪。今度のお休み、町へ行くの?」


朝凪は一拍置いた。


「私用にございます」


「お酒じゃないんでしょう」


「姫様」


少しだけ咎める声だった。

愛護は慌てて首を振る。


「聞こえちゃったの。聞こうとしたんじゃないよ」


朝凪はそれ以上咎めなかった。ただ、話を戻すように視線だけを向ける。

愛護は袖口を指で押さえた。


「町に行くなら、天宿りの本、探してきてくれない?」


「書庫のものでは足りませんか」


「足りるけど、堅いの」


正直に言うと、朝凪の目が少しだけ細くなった。

愛護は、自分の頼みが軽いことを分かっていた。

天宿りは人が何かを奪われて得る力で、物語の飾りではない。

玄冬の話を聞いたばかりなら、なおさらだ。


けれど、知りたかった。記録ではなく、人の言葉として残ったものを。


「物語みたいなのでもいいの。よさそうなのがあったらでいいから」


朝凪はすぐには頷かなかった。


「不適切なものはお渡しできません」


「うん」


「また、見つかるとも限りません」


「うん」


「それでもよろしければ」


愛護は、ぱっと顔を明るくした。


「ありがとう」


「礼には及びません」


朝凪はいつもの顔だった。

変にやわらかくもかたくもない。

そういう時は、ちゃんと愛護の望みを前向きに聞いてくれている。

愛護はにっこりと笑った。



■■



町には、春先の湿りが残っていた。


雪は消えている。だが、道の端には水が溜まり、荷車の轍がやわらかい土を削っている。

軒先では冬物を奥へ下げ、春の品を前へ出しはじめていた。

魚を売る声、布を広げる声、子どもが走る足音。

風斎の屋敷の静けさとは違い、町の音は近く、遠慮がない。


朝凪は、まず日常の用を済ませた。

灯し油を少し、山の家で使う紙と、細い針。傷みにくい乾物と、薬種をいくらか。

どれも目立つものではない。美菊の暮らしに必要で、ひとつひとつはただの買い物として通るものばかりだった。


それから、本屋へ寄った。

町に下りたもともとの目的は、美菊に与える本だった。

本人から頼まれたわけではない。だが、美菊は本を喜ぶ。

受け取る時の手つきや、最初の頁を開く時の目で分かる。

表情が大きく変わるわけではない。声もいつも通り静かだ。

それでも、紙に触れる指が少し丁寧になり、文字へ落ちる視線が早くなる。

山の家から出られない美菊にとって、本は外の景色を少しだけ運んでくるものだった。


そのついでに、愛護の頼みも探すつもりだった。

天宿りは昔から物語の題材になる。実際の天宿りが背負うものよりずっと軽く、都合よく、代償もきれいに整えられていることが多い。

朝凪はそういうものを好まない。けれど、愛護にはそれくらいでよいのかもしれなかった。

堅い記録だけを読ませても、頭に残らない。

怖がらせるためではなく、興味の入り口としてなら、物語にも役目はある。


棚を見て、古い冒険譚を一冊選んだ。


声を失った若者が、代わりに風の声を聞く天宿りとなり、旅の果てに故郷を救う話らしい。

粗筋をざっと見た限り、暗すぎない。

恋だの血生臭い因縁だのも薄い。愛護にはちょうどよいだろう。


それを脇へ置いたあと、朝凪は本来の目的である美菊のための本を探した。


民間伝承を集めた棚には、古い本がいくつかあった。


祭り、山の怪、川の祟り、裂け目の近くで見たという異形。記録としての正確さは怪しい。

民の話は、禍滲と病と祟りをよく混ぜる。

恐ろしいことが起きれば怪のせいにし、理由の分からぬ死が続けば祟りにする。

だが、書庫の記録にはない土地の匂いがある。

美菊はそういうものを読むとき、文字の向こうにある人の声を聞いているような顔をすることがあった。


朝凪は、そのうち一冊を開いた。


最初は、美菊が読めそうか確かめるだけのつもりだった。

紙は少し黄ばんでいる。字は読みやすいが、ところどころ古い言い回しが混じる。

夜に鳴く石。川面へ立つ女。裂け目のあとに生まれたという黒い獣。

朝凪は半ば読み流しながら、頁を送った。


そこで、指が止まった。


項目の見出しは短かった。


件。


朝凪は、目を落とす。


そこには、人の胎を奪う禍滲の話が記されていた。


人のかたちを借りて生まれたそれは、奇妙な色をしており、生まれた瞬間に災いを告げる。

声は赤子のものだが、言葉は大人のように明瞭である。

その告げた災いは必ず起こる。

長く生きることはなく、すぐに死ぬ。

ゆえに、その出現は大凶として忌まれる。


朝凪は、息を止めていた。


店の中では、誰かが帳面をめくっている。外では荷車が通る。店主が奥で客と話している。

町は変わらず動いている。春先の湿った空気も、人の声も、紙の匂いも、何ひとつ止まっていない。


けれど朝凪の視線は、紙の上から動かなかった。


奇妙な色。

生まれた瞬間に災いを告げる。

その災いは必ず起こる。

すぐに死ぬ。


違う、と胸の奥で何かが言った。


奇妙な色なのではない。

本来あるべき色を奪われたのではないか。


すぐに死ぬのではない。

すぐに殺されるのではないか。


人の胎を奪った禍滲なのではない。

人として生まれ、代償を払わされ、力の使い方ごと予言を降ろされた天宿りなのではないか。

親と違う色で産まれ、産声の代わりに未来を語ったせいで、禍滲の名を着せられ、殺されてきたのではないか。


雪の夜。


赤子の声。


風斎の色を持たず、不吉として捨てられた子。


朝凪の指が、紙の端を強く押さえた。

古い紙がわずかに鳴り、そこでようやく自分が力を入れすぎていることに気づく。

指を緩めても、胸の奥の強張りはほどけなかった。



項目の末尾には、短く記されていた。



その禍滲の名を、『(くだん)』という。




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