冬の匣
『裂け目』が見つかってから、二月が過ぎていた。
冬は深くなっている。
妻鳥領のように雪は毎日降るわけではない。
けれど、山の陰や庭石の隙に残った白はなかなか消えず、朝になると屋敷の板廊には冷えが薄く張りついていた。
池の水は幾度も凍り、昼の光でほどけ、夜のうちにまた固まる。
枝ばかりになった庭木のあいだを風が抜けると、葉擦れではなく、乾いた小さな軋みが聞こえた。
小堂筋の綾の傷は、まだ残っている。
『天眼』から新たな警告はない。
雪簇の『天宿り』は、識島全土をひとりで視ている。
新たに開く門、動き出す裂け目、まだ誰も知らぬ異変。そういうものを先に拾うのが役目だった。
すでに見つかり、動かず残っている傷に、いつまでも視線を留めておく余裕はない。
そこから先は、領の者が見る。
風斎の兵が日ごとに通い、綾の流れを確かめ、見張りの位置を変え、記録を残す。
二月続けても、変化はない。
しかし変化がないから安心できる、というものでもなかった。
動かない傷は、消えた傷とは違う。
朝凪は、その日の昼過ぎ、詰所で報告を受けていた。
小堂筋の見回りから戻った若い兵が、手袋を外しながら膝をつく。
頬は冷えで赤く、髪には細かな雪が残っていた。
「本日も、小堂筋の『裂け目』に変化はございません。本道へ寄せた揺らぎも、前日と変わらず」
「見張りは」
「二名を置いております。面の兵は開けた斜面に一体。古道側へは寄せておりません」
朝凪は頷いた。
それだけでよかった。
古道側へ寄せていない。
それを聞くために、今日もこの報告を待っていたのだ。
詰所の中では、別の兵たちが武具の手入れをしていた。
冬は手元が冷える。綾で織った武具に錆は出ないが、実物の刀や槍はそうもいかない。
油を含ませた布の匂いが薄く漂い、火鉢の灰の中で炭が小さく赤くなっている。
戻った者は報告を終えると、冷えた指を火へかざした。
誰も大きな声では話さない。
『裂け目』が見つかった直後のような張り詰め方はもうないが、完全に気が抜けているわけでもなかった。
朝凪は報告を畳み、奥へ戻った。
廊へ出ると、火鉢のある詰所より空気が一段冷えた。
冬の屋敷では、板廊の下から冷たさが上がってくる。
足音も、人の声も、壁や柱へ吸われるように低い。
奥向きへ近づけば香の気配と女房たちの衣擦れが混じるが、そのやわらかさの下にも、やはり小堂筋の件以来の薄い緊張が残っていた。
愛護もそれをよくわかっており、小堂に行きたいとは言わない。美菊の名も出さない。
山の家は無事なのかと問えるのは、朝凪と二人になった時だけである。
その朝凪から聞けることも限られている。
小堂そのものに損じはない。山道にも大きな乱れはない。美菊は無事だ。
その程度の短い答えを、愛護は何度も大事そうに受け取った。
そのせいか、この冬、愛護は奥方の部屋へいることが少し増えた。
不安を言葉にするわけではない。けれど、ひとりでいるより、母のそばにいる方が息がしやすいのだろう。
奥方もそれを感じ取っており、針仕事や文の整理の傍らに愛護を置いておく。
朝凪がその部屋の外へ呼ばれたのは、夕刻に近いころだった。
すぐに参じたが、中での作業が長引いているらしい。
廊で控えるよう女房に告げられ、朝凪は敷居から少し離れて膝をついた。
襖の向こうでは、古い箱を開けている音がした。
木の蓋がわずかに軋む。布が広げられる。
女房が低く何かを尋ね、奥方がそれへ短く答える。
その中で、愛護の声がした。
「母様、それ、なあに? ちいさい着物」
奥方はすぐには答えなかった。
布を撫でる音がした。ひどく小さな音だったのに、冬の座敷では妙にはっきり聞こえた。
「……お前より前の子に、用意していたものです」
朝凪の指が、膝の上で止まった。
息を忘れたわけではない。顔を上げたわけでもない。
だが、体の内側だけが一瞬で固くなる。
詰所で本家の動きを探っていたころの癖が、もう何年も経つのに、すぐ戻ってくる。
声の調子、言葉の選び方、沈黙の長さ。
そのひとつひとつを、逃さず拾おうとする。
第一子。
本来の、風斎本家の長子。
美菊のことだ。
朝凪は、襖の向こうを見なかった。見れば何かが顔に出る。出てはならない。
「じゃあ、愛護の、あにさま? あねさま? ってこと?」
愛護の声に深刻さはなかった。
知らなかったことを知った子どもの声だった。
驚いてはいる。けれど、自分の足元が揺らぐような驚きではない。
古い箱の底から、自分の生まれる前のものが出てきた。それを不思議がっている。
奥方の声は、少し遠くなった。
「男子だったと、聞きました」
聞きました。
朝凪は、その一語を胸の内で繰り返した。
見た、ではない。抱いた、でもない。男子だったと、『聞いた』。
奥方自身の記憶ではなく、誰かから渡された言葉として、今もそのまま残っている言い方だった。
朝凪は今なお本家に忠義を誓っていない。
当主も、重臣も、あの赤子を不吉として捨てる判断に関わり得た者たちも、何ひとつ許していない。これからも許すつもりはない。
美菊が雪の中で死んでいれば、彼らは本当に死産として済ませたのだろう。
そのことを思うだけで、体の奥が冷える。
けれど、今の奥方の声だけは、その冷えの中へ違う形で落ちた。
知らなかったのか。
あるいは、知らされなかったのか。
産んだ女が、わが子の色も、声も、何を口にしたかも、本当に確かめられなかったのか。
確かめる前に取り上げられ、あとから「男子だった」「亡くなった」と聞かされただけなのか。
それを信じるには足りない。
だが、捨ててしまうにも足りなかった。
襖の向こうで、愛護がまた訊いた。
「……あにさま、どこいっちゃったの?」
今度は、少し声が小さかった。
奥方はしばらく黙っていた。
「生まれてすぐ、亡くなったのです」
それだけを言った。
泣き声ではなかった。取り乱してもいない。
長い年月を箱の底で乾かして、それでも折り目だけは消えなかった布を、そっと開くような声だった。
愛護は何も言わなかった。
朝凪も、動かなかった。
しばらくして、女房が襖を開けた。
朝凪はいつも通りに頭を下げ、奥方の用向きを受けた。
内容は些細なものだった。翌日の手習いの時刻を少しずらすことと、愛護が使う文箱を別の座敷へ移すこと。それだけである。
奥方はいつもの顔をしていた。
愛護も、特に沈んでいるわけではなかった。
ただ、少し考え込むような顔をしている。
母のそばで古い衣を見つけ、自分より前に兄がいたと知った。
愛護にとっては、それ以上でも、それ以下でもない。
朝凪は、その顔を見てかすかに息を沈めた。
愛護は、まだ何も繋げていない。
当然だった。
黒髪黒目の美菊と、赤毛青眼の風斎本家に生まれた男子。
山の家で静かに暮らす者と、生まれてすぐ亡くなった赤子。
その二つは、愛護の中で結びつきようもないほど離れすぎている。
それでも、線は置かれた。
いつか届くかもしれない場所へ、細く、静かに。
用向きが終わると、愛護も自分の部屋へ戻ることになった。
朝凪は少し後ろにつく。女房も一人ついていた。
廊は夕方の冷えを含みはじめていて、障子の向こうの庭はもう薄く暗い。
愛護はしばらく黙って歩いていたが、角を曲がる手前でふと朝凪を振り返った。
「朝凪は知ってた? 愛護に、あにさまがいたんだって」
「奥方様の第一子が亡くなられたことは、存じております」
朝凪は側付きの声で答えた。
愛護は、そっか、と頷いた。それだけだった。
秘密を打ち明けているつもりも、特別な探りを入れているつもりもない。
古い箱から見つけたものの話を、朝凪にもした。
それだけのことだった。
「小さい衣だったの」
愛護は言った。
「着られなかったんだって」
その声には、子どもなりの寂しさがあった。
朝凪は返事をしなかった。
返事をすれば、何かを選ばなければならなくなる。
奥方を悼む言葉か。死んだ子を悼む言葉か。
あるいは、愛護へ向ける慰めか。
どれも、今の朝凪には選べなかった。
愛護は廊の先へ目を向ける。
「母様、泣いてなかったけど」
少しだけ考えてから、続けた。
「でも、ずっとしまってたんだね」
それが、愛護の受け取り方だった。
泣くことだけが悲しみではない。忘れないことだけが愛情ではない。
着せられなかった衣を捨てず、冬の日に箱から出し、娘に見せる。
それを、愛護はまだ言葉にしきれないまま、胸の内に置いたのだ。
朝凪は、愛護を見た。
六つのころ、この姫はもっと分かりやすかった。
嬉しければ声を跳ねさせ、腹を立てれば頬をふくらませ、気になったことをすぐ口にした。
今もその名残はある。山の家では特に、年相応の顔をよくする。
だが今は、こうして誰かの痛みらしきものを見て、それをすぐ騒がずに持っておける。
朝凪にとって、愛護は本来、美菊から遠ざけておきたい存在だった。
関われば危うい。近づけば綻びが増える。
姫という立場は、山の家を隠すには大きすぎる灯だった。
だから、はじめはただ警戒した。踏み込ませまいとし、余計なことを言わせまいとし、必要なら厳しく退けた。
それでも四年が経った。
愛護は知ったものを、外へ漏らさなかった。
聞けない場所では聞かず、言えない名は言わず、山の家に残したものを山の家のものとして扱った。
その沈黙を、朝凪はいつしか信じていた。
「奥方様にとって、大切なものなのでしょう」
結局、朝凪はそう言った。
愛護は頷いた。
「うん。そう思った」
廊の先で、女房が愛護の歩みを促す。
愛護は朝凪へ小さく手を振りかけて、途中で姫らしくないと思ったのか、手を袖の中へ戻した。
その小さな動きまで見送ってから、朝凪は一礼し、ようやく息を吐いた。
■■
冬の夕暮れは短い。
屋敷を出るころにはまだ薄明かりがあったのに、山道へ入るともう足元の影が深い。
雪は降っていないが、ところどころに残った白が道をぼんやり光らせていた。
朝凪はいつものように綾をまとい、人の目から滑り落ちるように山へ入った。
道は静かだった。
小堂筋の方角には寄らない。今は別の筋を使う。
遠回りになるが、余計な痕跡を残さないためにはその方がいい。
裂け目が見つかってから、朝凪は山の家へ戻る道を何度か変えていた。
どれも朝凪にしか使えない。
人の意識を逸らし、山の中の距離を少しずつずらし、用のない者が入り込む理由を奪う道だった。
それでも、あの日の十万億土の兵の足音は忘れられない。
迷いを持たないものには、迷いの綾が薄くなる。
今はかれらも小堂筋の開けた場所に置かれている。
古い山道には近づいていない。報告ではそうなっていた。
だが、報告はその日のものに過ぎない。明日も同じとは限らない。
朝凪は道の縁を確かめながら家へ向かった。
戸を開けると、美菊は火鉢のそばに座っていた。
「おかえりなさい」
「ただいま」
朝凪が外套を外すと、美菊の目がその肩先へ向いた。
顔色ではなく、朝凪のまわりに残る綾の乱れを見ている目だった。
美菊は綾で武具を織ることも、迷いの術を使うこともできない。綾を使うには訓練がいる。
だが風斎の血を引いている以上、綾の気配そのものを感じ取ることはできる。
まして朝凪が毎日この家へ綾をまとって帰るのを、美菊は長く見てきた。
いつものほどけ方と違えば、気づく。
「小堂筋ですか」
「今日も見に行かせた」
朝凪は火鉢の近くへ座った。
「『天眼』殿から新しい警告はない。風斎の見立てでも動いてない」
美菊は、膝の上で手を重ねる。
「消えそうですか」
「いいや」
朝凪は炭を見た。赤は弱い。火箸を取り、少しだけ位置を直す。
「消えはしないが、広がってもいないし、『門』の兆候もない。だが、いつまで見張るべきかも決めかねている」
「……そうですか」
美菊はそれきり、『裂け目』のことを聞かなかった。
膝の横に、愛護と少しずつ読んでいた本が置かれている。
赤い花びらの栞は、前に読んだところへ挟まったままだ。
美菊はしばらくその本を見ていた。
開きはしない。ただ、手を伸ばし、表紙の角へ指先を置く。
その触れ方は、確かめるようだった。
そこにあること。
動いていないこと。
次に開かれる場所を、まだ失っていないこと。
「ひめさまは、お元気ですか」
朝凪は少しだけ間を置く。
今日の愛護を思い出した。
母の箱から出てきた小さな衣を見て、それを不思議がり、寂しがり、けれど真摯に受け取っていた顔。
小堂の花のことを気にする時と同じように、言える形でしか言わないものを抱える顔。
「元気だ」
朝凪は答えた。
「『小堂の花』を気にしていた」
美菊の目元が、ほんの少しゆるんだ。
「はい」
愛護が本当に気にしているものは、花ではない。
けれど愛護が屋敷で言える心配はそこまでで、美菊が受け取れる言葉もまた、そこまでだった。
炭の赤が少し戻り、部屋の冷えがゆっくり退いていく。
美菊の指は、まだ本の角に触れている。
そしていつもより少しだけ長く、その本のそばに座っていた。
朝凪は何も言わず、湯を分け、火の加減を見た。
外では風が木々を鳴らしている。
小堂筋の傷はまだ残り、屋敷の奥には着せられなかった小さな衣が箱へ戻されている。
どちらも誰かのために用意され、そこにありながら届かないものだった。
冬の夜は深く、火鉢の赤だけが小さくその場を照らしていた。




