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愛及屋烏花軍  作者: 司馬示朗
◾️花晨月夕──風斎の章
20/32

冬の匣


『裂け目』が見つかってから、二月が過ぎていた。


冬は深くなっている。

妻鳥領のように雪は毎日降るわけではない。

けれど、山の陰や庭石の隙に残った白はなかなか消えず、朝になると屋敷の板廊には冷えが薄く張りついていた。

池の水は幾度も凍り、昼の光でほどけ、夜のうちにまた固まる。

枝ばかりになった庭木のあいだを風が抜けると、葉擦れではなく、乾いた小さな軋みが聞こえた。


小堂筋の綾の傷は、まだ残っている。


『天眼』から新たな警告はない。

雪簇の『天宿り』は、識島全土をひとりで視ている。

新たに開く門、動き出す裂け目、まだ誰も知らぬ異変。そういうものを先に拾うのが役目だった。

すでに見つかり、動かず残っている傷に、いつまでも視線を留めておく余裕はない。

そこから先は、領の者が見る。

風斎の兵が日ごとに通い、綾の流れを確かめ、見張りの位置を変え、記録を残す。


二月続けても、変化はない。

しかし変化がないから安心できる、というものでもなかった。

動かない傷は、消えた傷とは違う。


朝凪は、その日の昼過ぎ、詰所で報告を受けていた。

小堂筋の見回りから戻った若い兵が、手袋を外しながら膝をつく。

頬は冷えで赤く、髪には細かな雪が残っていた。


「本日も、小堂筋の『裂け目』に変化はございません。本道へ寄せた揺らぎも、前日と変わらず」


「見張りは」


「二名を置いております。面の兵は開けた斜面に一体。古道側へは寄せておりません」


朝凪は頷いた。


それだけでよかった。

古道側へ寄せていない。

それを聞くために、今日もこの報告を待っていたのだ。


詰所の中では、別の兵たちが武具の手入れをしていた。

冬は手元が冷える。綾で織った武具に錆は出ないが、実物の刀や槍はそうもいかない。

油を含ませた布の匂いが薄く漂い、火鉢の灰の中で炭が小さく赤くなっている。

戻った者は報告を終えると、冷えた指を火へかざした。

誰も大きな声では話さない。

『裂け目』が見つかった直後のような張り詰め方はもうないが、完全に気が抜けているわけでもなかった。


朝凪は報告を畳み、奥へ戻った。


廊へ出ると、火鉢のある詰所より空気が一段冷えた。

冬の屋敷では、板廊の下から冷たさが上がってくる。

足音も、人の声も、壁や柱へ吸われるように低い。

奥向きへ近づけば香の気配と女房たちの衣擦れが混じるが、そのやわらかさの下にも、やはり小堂筋の件以来の薄い緊張が残っていた。


愛護もそれをよくわかっており、小堂に行きたいとは言わない。美菊の名も出さない。

山の家は無事なのかと問えるのは、朝凪と二人になった時だけである。

その朝凪から聞けることも限られている。

小堂そのものに損じはない。山道にも大きな乱れはない。美菊は無事だ。

その程度の短い答えを、愛護は何度も大事そうに受け取った。


そのせいか、この冬、愛護は奥方の部屋へいることが少し増えた。

不安を言葉にするわけではない。けれど、ひとりでいるより、母のそばにいる方が息がしやすいのだろう。

奥方もそれを感じ取っており、針仕事や文の整理の傍らに愛護を置いておく。


朝凪がその部屋の外へ呼ばれたのは、夕刻に近いころだった。

すぐに参じたが、中での作業が長引いているらしい。

廊で控えるよう女房に告げられ、朝凪は敷居から少し離れて膝をついた。

襖の向こうでは、古い箱を開けている音がした。

木の蓋がわずかに軋む。布が広げられる。

女房が低く何かを尋ね、奥方がそれへ短く答える。

その中で、愛護の声がした。


「母様、それ、なあに? ちいさい着物」


奥方はすぐには答えなかった。

布を撫でる音がした。ひどく小さな音だったのに、冬の座敷では妙にはっきり聞こえた。


「……お前より前の子に、用意していたものです」


朝凪の指が、膝の上で止まった。


息を忘れたわけではない。顔を上げたわけでもない。

だが、体の内側だけが一瞬で固くなる。

詰所で本家の動きを探っていたころの癖が、もう何年も経つのに、すぐ戻ってくる。

声の調子、言葉の選び方、沈黙の長さ。

そのひとつひとつを、逃さず拾おうとする。


第一子。


本来の、風斎本家の長子。


美菊のことだ。


朝凪は、襖の向こうを見なかった。見れば何かが顔に出る。出てはならない。


「じゃあ、愛護の、あにさま? あねさま? ってこと?」


愛護の声に深刻さはなかった。

知らなかったことを知った子どもの声だった。

驚いてはいる。けれど、自分の足元が揺らぐような驚きではない。

古い箱の底から、自分の生まれる前のものが出てきた。それを不思議がっている。

奥方の声は、少し遠くなった。


「男子だったと、聞きました」


聞きました。


朝凪は、その一語を胸の内で繰り返した。

見た、ではない。抱いた、でもない。男子だったと、『聞いた』。

奥方自身の記憶ではなく、誰かから渡された言葉として、今もそのまま残っている言い方だった。


朝凪は今なお本家に忠義を誓っていない。


当主も、重臣も、あの赤子を不吉として捨てる判断に関わり得た者たちも、何ひとつ許していない。これからも許すつもりはない。

美菊が雪の中で死んでいれば、彼らは本当に死産として済ませたのだろう。

そのことを思うだけで、体の奥が冷える。


けれど、今の奥方の声だけは、その冷えの中へ違う形で落ちた。


知らなかったのか。

あるいは、知らされなかったのか。

産んだ女が、わが子の色も、声も、何を口にしたかも、本当に確かめられなかったのか。

確かめる前に取り上げられ、あとから「男子だった」「亡くなった」と聞かされただけなのか。


それを信じるには足りない。

だが、捨ててしまうにも足りなかった。


襖の向こうで、愛護がまた訊いた。


「……あにさま、どこいっちゃったの?」


今度は、少し声が小さかった。

奥方はしばらく黙っていた。


「生まれてすぐ、亡くなったのです」


それだけを言った。

泣き声ではなかった。取り乱してもいない。

長い年月を箱の底で乾かして、それでも折り目だけは消えなかった布を、そっと開くような声だった。


愛護は何も言わなかった。

朝凪も、動かなかった。


しばらくして、女房が襖を開けた。

朝凪はいつも通りに頭を下げ、奥方の用向きを受けた。

内容は些細なものだった。翌日の手習いの時刻を少しずらすことと、愛護が使う文箱を別の座敷へ移すこと。それだけである。


奥方はいつもの顔をしていた。

愛護も、特に沈んでいるわけではなかった。

ただ、少し考え込むような顔をしている。

母のそばで古い衣を見つけ、自分より前に兄がいたと知った。

愛護にとっては、それ以上でも、それ以下でもない。


朝凪は、その顔を見てかすかに息を沈めた。

愛護は、まだ何も繋げていない。

当然だった。

黒髪黒目の美菊と、赤毛青眼の風斎本家に生まれた男子。

山の家で静かに暮らす者と、生まれてすぐ亡くなった赤子。

その二つは、愛護の中で結びつきようもないほど離れすぎている。


それでも、線は置かれた。

いつか届くかもしれない場所へ、細く、静かに。




用向きが終わると、愛護も自分の部屋へ戻ることになった。

朝凪は少し後ろにつく。女房も一人ついていた。

廊は夕方の冷えを含みはじめていて、障子の向こうの庭はもう薄く暗い。

愛護はしばらく黙って歩いていたが、角を曲がる手前でふと朝凪を振り返った。


「朝凪は知ってた? 愛護に、あにさまがいたんだって」


「奥方様の第一子が亡くなられたことは、存じております」


朝凪は側付きの声で答えた。

愛護は、そっか、と頷いた。それだけだった。

秘密を打ち明けているつもりも、特別な探りを入れているつもりもない。

古い箱から見つけたものの話を、朝凪にもした。

それだけのことだった。


「小さい衣だったの」


愛護は言った。


「着られなかったんだって」


その声には、子どもなりの寂しさがあった。


朝凪は返事をしなかった。

返事をすれば、何かを選ばなければならなくなる。

奥方を悼む言葉か。死んだ子を悼む言葉か。

あるいは、愛護へ向ける慰めか。

どれも、今の朝凪には選べなかった。


愛護は廊の先へ目を向ける。


「母様、泣いてなかったけど」


少しだけ考えてから、続けた。


「でも、ずっとしまってたんだね」


それが、愛護の受け取り方だった。


泣くことだけが悲しみではない。忘れないことだけが愛情ではない。

着せられなかった衣を捨てず、冬の日に箱から出し、娘に見せる。

それを、愛護はまだ言葉にしきれないまま、胸の内に置いたのだ。


朝凪は、愛護を見た。


六つのころ、この姫はもっと分かりやすかった。

嬉しければ声を跳ねさせ、腹を立てれば頬をふくらませ、気になったことをすぐ口にした。

今もその名残はある。山の家では特に、年相応の顔をよくする。


だが今は、こうして誰かの痛みらしきものを見て、それをすぐ騒がずに持っておける。


朝凪にとって、愛護は本来、美菊から遠ざけておきたい存在だった。

関われば危うい。近づけば綻びが増える。

姫という立場は、山の家を隠すには大きすぎる灯だった。

だから、はじめはただ警戒した。踏み込ませまいとし、余計なことを言わせまいとし、必要なら厳しく退けた。


それでも四年が経った。


愛護は知ったものを、外へ漏らさなかった。

聞けない場所では聞かず、言えない名は言わず、山の家に残したものを山の家のものとして扱った。

その沈黙を、朝凪はいつしか信じていた。


「奥方様にとって、大切なものなのでしょう」


結局、朝凪はそう言った。

愛護は頷いた。


「うん。そう思った」


廊の先で、女房が愛護の歩みを促す。

愛護は朝凪へ小さく手を振りかけて、途中で姫らしくないと思ったのか、手を袖の中へ戻した。

その小さな動きまで見送ってから、朝凪は一礼し、ようやく息を吐いた。



■■



冬の夕暮れは短い。

屋敷を出るころにはまだ薄明かりがあったのに、山道へ入るともう足元の影が深い。

雪は降っていないが、ところどころに残った白が道をぼんやり光らせていた。

朝凪はいつものように綾をまとい、人の目から滑り落ちるように山へ入った。


道は静かだった。

小堂筋の方角には寄らない。今は別の筋を使う。

遠回りになるが、余計な痕跡を残さないためにはその方がいい。

裂け目が見つかってから、朝凪は山の家へ戻る道を何度か変えていた。

どれも朝凪にしか使えない。

人の意識を逸らし、山の中の距離を少しずつずらし、用のない者が入り込む理由を奪う道だった。


それでも、あの日の十万億土の兵の足音は忘れられない。


迷いを持たないものには、迷いの綾が薄くなる。

今はかれらも小堂筋の開けた場所に置かれている。

古い山道には近づいていない。報告ではそうなっていた。

だが、報告はその日のものに過ぎない。明日も同じとは限らない。


朝凪は道の縁を確かめながら家へ向かった。



戸を開けると、美菊は火鉢のそばに座っていた。


「おかえりなさい」


「ただいま」


朝凪が外套を外すと、美菊の目がその肩先へ向いた。

顔色ではなく、朝凪のまわりに残る綾の乱れを見ている目だった。


美菊は綾で武具を織ることも、迷いの術を使うこともできない。綾を使うには訓練がいる。

だが風斎の血を引いている以上、綾の気配そのものを感じ取ることはできる。

まして朝凪が毎日この家へ綾をまとって帰るのを、美菊は長く見てきた。

いつものほどけ方と違えば、気づく。


「小堂筋ですか」


「今日も見に行かせた」


朝凪は火鉢の近くへ座った。


「『天眼』殿から新しい警告はない。風斎の見立てでも動いてない」


美菊は、膝の上で手を重ねる。


「消えそうですか」


「いいや」


朝凪は炭を見た。赤は弱い。火箸を取り、少しだけ位置を直す。


「消えはしないが、広がってもいないし、『門』の兆候もない。だが、いつまで見張るべきかも決めかねている」


「……そうですか」


美菊はそれきり、『裂け目』のことを聞かなかった。


膝の横に、愛護と少しずつ読んでいた本が置かれている。

赤い花びらの栞は、前に読んだところへ挟まったままだ。

美菊はしばらくその本を見ていた。

開きはしない。ただ、手を伸ばし、表紙の角へ指先を置く。


その触れ方は、確かめるようだった。


そこにあること。

動いていないこと。

次に開かれる場所を、まだ失っていないこと。


「ひめさまは、お元気ですか」


朝凪は少しだけ間を置く。

今日の愛護を思い出した。

母の箱から出てきた小さな衣を見て、それを不思議がり、寂しがり、けれど真摯に受け取っていた顔。

小堂の花のことを気にする時と同じように、言える形でしか言わないものを抱える顔。


「元気だ」


朝凪は答えた。


「『小堂の花』を気にしていた」


美菊の目元が、ほんの少しゆるんだ。


「はい」


愛護が本当に気にしているものは、花ではない。

けれど愛護が屋敷で言える心配はそこまでで、美菊が受け取れる言葉もまた、そこまでだった。


炭の赤が少し戻り、部屋の冷えがゆっくり退いていく。

美菊の指は、まだ本の角に触れている。

そしていつもより少しだけ長く、その本のそばに座っていた。


朝凪は何も言わず、湯を分け、火の加減を見た。

外では風が木々を鳴らしている。

小堂筋の傷はまだ残り、屋敷の奥には着せられなかった小さな衣が箱へ戻されている。


どちらも誰かのために用意され、そこにありながら届かないものだった。

冬の夜は深く、火鉢の赤だけが小さくその場を照らしていた。



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