薄氷
冬の朝は、音まで白く沈む。
昨夜深くに降っていた雪はやんでいた。
けれど山から下りてくる冷えは深く、屋敷の板廊には夜の名残が薄く残っている。
庭の池には端の方だけ氷が張り、枯れた枝は風に鳴るほどの葉も持たない。
人の動きがあっても、どこか控えめに聞こえる日だった。
愛護は手習いの間にいた。
火鉢は近くに置かれている。墨もよく磨られていた。紙も新しい。
けれど、筆先はさっきから同じ字の途中で止まっている。
廊の向こうで足音がした。
走ってはいない。けれど、急いでいない足音でもなかった。
屋敷では本当に急ぐ時ほど、表向きの静けさが増す。
そういう足音を聞き分けるくらいには、愛護ももう奥の空気が読めるようになっていた。
敷居際に控えていた朝凪も、顔を上げないまま外へ意識を向けている。
やがて足音は部屋の前で止まった。
「朝凪」
襖の向こうから玄冬の声がした。
朝凪が一礼して立つ。
「こちらに」
襖が開くと、廊の冷えがすっと入ってきた。
玄冬は敷居の外に膝をつき、まず愛護へ頭を下げる。
声は低く、平静だった。
平静だからこそ、軽い用ではないのだと分かる。
「姫様。小堂筋に、綾の傷が出ております」
小堂、と聞いた瞬間、愛護の指が筆の軸を強く握った。
「傷?」
「今のところ、禍滲の出た報はございません。『門』には至らず、『裂け目』に近い揺らぎにございます」
『門』ではない。
その言葉だけなら、少しは安心してよいはずだった。
禍滲が出るほど異界と口を開けたものが『門』で、そうでないものは、まだ揺らぎに過ぎない。
けれど愛護は安心できなかった。
小堂の先には、山の家がある。
もちろん、そんなことをここで口にできるはずがない。
小堂へ季節のものを供える姫。
それが、屋敷の中で愛護に許されている形だった。
その奥に、本当は美菊がいる。朝凪が隠してきた家がある。
玄冬は朝凪へ目を向けた。
「姫様が日ごろ参られる道だ。道の癖を知る者にも見せておきたい」
「承知いたしました」
朝凪の返事はいつも通りだった。
愛護は、思わず声をかける。
「朝凪。小堂は、だいじょうぶ?」
「確認して参ります。姫様は奥にてお待ちください」
朝凪はそれだけ答えた。
美菊は、とは訊けない。山の家は、とも訊けない。
愛護は筆を置いた。
手の内に残る硬い感触が、かえって落ち着かなかった。
朝凪が玄冬の後に続いて出ていく。
襖が閉まると、部屋はまた静かになった。
愛護は、途中で崩れた字を見下ろした。
墨が一か所で滲み、形が濁っている。
控えていた女房が替えの紙を用意しようと動く。
「ありがとう」
声は震えなかった。
震えなかったことだけが、今の愛護にできたことだった。
■■
外へ出ると、空は低かった。
雪雲だ。日は鈍く、山裾の草は霜を含んで色を失っている。
朝凪は玄冬の少し後ろを歩きながら、薄く綾をまとった。
隠れるためではない。今日は公の用で呼ばれている。
必要なのは、山筋に残る揺らぎを肌で拾うための薄い膜だった。
小堂筋へ近づくにつれ、冷えとは別の不快さが指先へ触れた。
『門』が開いた時のような、世界の肌が強く裂かれる感覚ではない。
もっと細く、浅い。
刃先で指を切った時、血が出る前に痛みだけが妙にはっきり立つことがある。あれに似ていた。
見えないのに、そこにあると分かる。
小堂の手前には、すでに風斎の兵が数名立っていた。
その外側に、面をつけた兵が二体いる。
妻鳥の十万億土の兵だった。
四年前から領境の見張りとして置かれているものの一部が、山筋の異変に合わせて回されてきたのだろう。
華やかな面の下に、生きた気配はない。
呼吸で胸が動くこともなく、寒さに身を縮めることもない。
冬の山に立っていてなお寒そうに見えないことが、かえって寒々しかった。
小堂そのものは無事だった。
古い扉も、石段も、供えられた花も、乱れてはいない。
先日置かれた花は寒さで少し縮んでいるが、堂の前は掃かた跡そのままにある。
愛護が来たことの痕跡は、いつものように整って残っている。
『傷』は、そこから少し外れた場所にあった。
本道と古い山道が近くを通るあたりである。
本道は小堂から屋敷へ戻るための、人目のある道だった。
古い山道は、今ではほとんど使われていない。
実際には、その奥に朝凪が人の目と意識を何重にも逸らしてきた筋がある。
山の家へ続く道だ。
表から見れば、ただの冬枯れの山だった。
けれど朝凪には分かった。綾の流れが、そこでわずかに擦れている。
まず本道側へ薄く尾を引き、そこからごく細い棘のようなものが、古い山道の外縁に触れていた。
山の家へ届いているわけではない。隠しの層を破っているわけでもない。
ただ、外側の布目に爪がかかったような触れ方だった。
それだけで、十分に嫌だった。
玄冬が横へ立つ。
「どう見る」
朝凪は膝をつき、霜の降りた土へ指を置いた。
「浅いです。ただ、屋敷筋へ尾を引いております」
兵たちの目が本道へ向いた。
屋敷へ戻る道。姫の供回りも通る道。
そこへ綾のざらつきが伸びているとなれば、放ってはおけない。
玄冬の視線も、自然とそちらへ寄る。
朝凪は、さらに言葉を重ねた。
「木立の中へ残すより、開けた方へ寄せたほうが見張りも処置も利きます。本道側へずらします」
「できるか」
「はい」
「任せる」
玄冬の目は、朝凪の手元にあった。術の出来を見る目だった。
若い者に処置を任せる以上、どこまで正確に扱うかを確かめるのは当然である。
だから朝凪は、必要な顔で綾を広げた。
まず、誰の目にも分かる本道側のざらつきを動かす。
綾は力ずくで押すものではない。流れがそちらを選ぶよう、ほんの少しだけ道理の傾きを変える。
屋敷へ向かう尾を、木立の中ではなく、見張りの置ける開けた斜面へ寄せる。
その仕事の影で、朝凪は古い山道の外縁へ触れていた細い棘を払った。
強く触れれば目立つ。だから、表の揺らぎを動かす流れへ紛れさせる。
本道側へ寄せる綾の余波に見えるように、山の家へ向かう縁を一枚、薄く折り返す。
その時、面の兵が動いた。
命じられたのは、本道側の見張りだったはずだ。
だが、『裂け目』の傷が一瞬、古い山道の方へも気配を返したのかもしれない。
面の兵の足が、迷いの綾の外縁へ置かれた。
朝凪の喉の奥が、冷えた。
人なら止まる場所だった。
そこは道ではない、と感じる。
入らなくてよい、と考える前に、何となく足が別の方へ向く。
朝凪が六年かけて重ねてきた綾は、そういう小さな判断へ働く。
人の目と意識を、そっと手前で折り返す。
けれど面の兵には、折り返すものがない。
迷わない。
不気味がらない。
ここへ入る理由と入らない理由を比べない。
ただ、命と気配に従って進む。
一歩。
雪を踏む音がした。
朝凪は、息を乱さなかった。顔も変えなかった。ただ、本道側へずらしていた綾を少し強める。
屋敷筋へ伸びる傷の処置としては自然な範囲で、面の兵の足元に向きの違う流れを作った。
古い山道へ続く気配を、開けた斜面の乱れへ重ねてしまう。
面の兵の足が、半歩外れた。
それだけだった。
それだけで、朝凪の背中には冷たい汗が薄く浮いた。
玄冬は本道側の揺らぎを見ていた。
朝凪の処置に従って傷の尾が開けた方へ寄っていくのを確認し、兵へ配置を指示する。
古い山道へ面の兵が入りかけたことは、動きの一部として処理された。
見張りの位置を変えた、その程度にしか見えなかったはずだ。
朝凪は、綾をほどかなかった。
まだ早い。
その時、囁石が鳴った。
小さな耳飾りの中で、遠い声が割れるように響く。
雪簇の『天眼』から飛ぶ報せは、その場にいる者たちの耳へ同時に届いた。
≪『開門』。風斎領、白、ハの三。東五。規模、小。出現数、未詳。≫
『門』。
全員の意識がそちらへ向いた。
示された場所は本道を少し下った先にある。
昔は炭を焼いていたという窪地で、今は黒い土と崩れた石組みだけが残っている。
『裂け目』の傷とは別の場所だが、近い。
さっきまで『裂け目』のざらつきに気を取られていたぶん、報せがなければ対応が遅れただろう。
玄冬が短く言った。
「行く」
兵たちが動く。
炭焼き跡に着くころには、『門』はすでに形を持っていた。
雪の上に、まず影が増えていた。地面の影ではない。
光の向きに従わず、黒土の底からにじみ上がるような暗さだった。
そこだけ冬の白が汚れ、空気が内側へ吸われる。
穴が開くというより、景色の一部が折れて、こちらではない色を裏返したように見えた。
その折れた影の縁から、禍滲が這い出した。
一体目は低い。犬ほどの高さしかない。だが脚が多く、動きが速かった。
背に並んだ棘が、雪の白を引っ掻くように揺れる。
続いて二体目が出る。こちらは片側だけ膨れ、形が歪んでいた。
『門』は小さい。
だが小さいことと、無害なことは違う。
兵が散る。
朝凪は刀を織るより先に、足場へ綾をかけた。
冬の地面は固い。だが雪の下の落ち葉は滑る。
禍滲が速ければ速いほど、半歩の違いは大きい。
跳んだ先に、思っただけの地面がない。
それだけで爪の軌道は狂う。
一体目が兵へ跳びかかった。
朝凪は距離をずらす。
喉へ届くはずの爪が、肩の衣を裂いて抜けた。
兵の槍が入る。深くはないが、禍滲の脚が止まる。
その瞬間、面の兵が踏み込んだ。
禍滲の棘が腕を裂いた。骨に当たる鈍い音がして、袖の布が破れる。
それでも兵は止まらなかった。裂けた腕で禍滲の胴を押さえつける。
肉が戻る。
音もなく、急ぐ様子もなく、ただ壊れた形が元の形へ寄る。
骨が噛み合い、裂けた肉が閉じる。痛みをこらえる顔はない。声もない。呼吸すらない。
戦場に置けばこれほど頼もしいものはないのだと分かる。
分かるからこそ、見ている方の背筋が冷えた。
二体目が雪を蹴った。
朝凪は綾で短刀を織り、首ではなく脚を狙う。
小さく速い禍滲は、首を落とすより先に動きを殺した方が早い。
脚の節へ刃を入れると、黒い体が傾いた。
そこへ玄冬の短槍が入る。
余分のない一撃だった。
もう一体も、面の兵に押さえられたまま風斎の槍を受け、ほどけるように形を失った。
『門』はほどなく閉じる。
黒土の窪みはまた雪と影だけの場所に戻ったが、空気には異界の濁りがしばらく残った。
その濁りは分かりやすい。
禍滲が出た場所には、嫌な後味が残る。
こちらの世のものが、異界の色に一度触れてしまった跡だ。
兵たちはそちらの処置へ回り、朝凪と玄冬は小堂筋へ戻った。
尾をずらした『裂け目』の傷は、変わらず残っていた。
『門』の跡とは違う。炭焼き跡に残った濁りは、時間が経てば散るものだった。
だが小堂筋の傷は、濁るのではなく、細い筋のまま冷えている。
冬の空気にまぎれて、皮膚の裏にだけ触れてくる。
玄冬はそれを見下ろした。
「浅い」
「はい」
朝凪は頷く。
「浅いまま、散りません。『門』の跡とは別の残り方です」
「屋敷筋へ寄せた分は」
「変化はないようです。散らず、ただ、戻ろうとする様子もありません」
玄冬は短く頷いた。
「当面、姫様の参詣は控えていただく」
「そのようにお伝えいたします」
玄冬に着いて道を下る。
その時、開けた斜面に立つ面の兵が視界の端に入った。
面は割れていない。腕にも傷はない。
さっき骨まで裂かれたはずの場所は、もう何もなかったように静かな肌の下におさまっている。
朝凪は、古い山道の方を見なかった。
見れば、そこに意識を置いたことになる。
ただ、袖の内側で指を軽く握る。
人の目を逸らすために積んできたものが、人ではないものには通じない。
その事実だけが、冬の冷えとは別に残った。
■■
屋敷へ戻ったころには、日が傾きかけていた。
冬の日は短い。廊へ入ると、外より早く夕方が来ているように感じる。
朝凪が奥へ戻ると、愛護は小さな座敷にいた。
手習いの紙は脇に片づけられている。
読むつもりで持ってこられたらしい本が一冊置かれていたが、閉じたままだった。
人目があるうちは、愛護は何も言わなかった。
茶を置いた侍女が下がり、障子の向こうの気配が遠のいてから、ようやく口を開く。
「小堂は」
「損じたところはございません」
朝凪は膝をつき、いつもの距離で答えた。
愛護は一度、息を吐いた。
けれど、それだけでは足りない顔をしている。
小堂の先。山の家。美菊。聞きたいことは、そちらにある。
だが愛護は聞かなかった。
聞かないまま、閉じた本の角へ指を置いた。
「次のお参りは」
「当面、お控えいただくのがよろしいかと」
愛護の目が曇る。
「そんなに?」
「傷の残り方がよくありません。安全が確かめられるまで、間を置くべきにございます」
愛護は唇を結んだ。
しばらくして、小さく頷く。
「……わかった」
それは、納得した声ではなかった。
けれど、受け入れる声ではあった。
朝凪は深く頭を下げる。
「花、枯れたままにならない?」
「こちらで整えます」
「ほんとに?」
「はい」
愛護はそれで、ようやく少し力を抜いた。
「じゃあ、お願い。もうすぐ山茶花が見頃だから、それがいいな」
「承知いたしました」
会話はそこで切れた。
言えないことが、二人の間に残る。
愛護はそれを押し込めるように茶碗を取った。
朝凪はそれ以上、何も言わなかった。
■■
冬の山道は暗い。
虫の声はもうほとんどなく、木々の上で風が鳴るだけだった。
足元では霜を踏む音がする。迷いの綾はいつも通りに重なっている。
人ならば、ここで道を見失う。
用のない者なら、用がないことを思い出す。
少なくとも、足は自然と別の方へ向く。
朝凪は、その層をひとつずつ確かめながら歩いた。
薄くなってはいない。
破れてもいない。
それでも、面の兵が一歩を置いた感触が、まだ頭の中に残っていた。
家の灯りが見える。
戸を開けると、美菊が顔を上げた。
「おかえりなさい」
「ただいま」
いつものように返したつもりだった。
美菊は、すぐには次を言わなかった。
灯りのそばに座り、膝には針仕事の布を置いている。
けれど針は止まったままだった。
美菊の目は朝凪の顔ではなく、肩や袖のまわりをゆっくり見ていた。
朝凪が戸口で綾をほどく時、いつもはもっと静かにほどける。
今日は、細かな砂が布に残っているように、輪郭の外でわずかに引っかかった。
美菊はその引っかかりを見るように、目を細めた。
「……ざらざらしています」
朝凪は履物を脱いだ。
「小堂筋に『裂け目』が出た」
美菊の手が、布の上で止まる。
「小堂」
「小堂そのものには触れていない」
朝凪は先に言った。
美菊は小さく頷いた。
「『門』に、なりますか」
「今はまだ。だが、当分注視が必要になる」
「……そうですか」
美菊はそれきり黙った。
針を持った指が、わずかに縮こまる。
その視線は、机の上の文箱へと流れていた。
台所に降り、手を洗う。水は刺すように冷たかった。布で拭いても、指先に冷えが残る。
火鉢へ炭を足すと、赤い火がゆっくり起きた。
部屋の冷えが少しだけほどける。美菊は針仕事を畳み、膝の横へ置いた。
朝凪は火を見たまま言った。
「何か見えたか」
予言のことだった。
美菊はすぐには答えなかった。
灯りの下で、黒い目が少し伏せられる。
何かを探しているのか、何もないことを確かめているのか、朝凪には分からない。
やがて、美菊は小さく言った。
「……まだ」
まだ。
その一言は、火鉢のそばでも冷たく聞こえた。
朝凪はそれ以上聞かなかった。
「飯にするぞ」
「はい」
美菊は立ち上がる。
器を出す。湯を温める。戸の隙間を見る。
いつもの夜へ戻るための動きが、家の中にひとつずつ置かれていく。
だが、戻りきりはしなかった。
小堂の先に、この家がある。
人の目から隠し、道から逸らし、日々の奥へ沈めてきた家がある。
その外側に、細い傷が触れた。
まだ何も見えていない。
まだ、予言は声になっていない。
それでも朝凪の袖には、冬の『裂け目』の冷たさが残っていた。
火の前に座っても、それはしばらく消えなかった。




