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愛及屋烏花軍  作者: 司馬示朗
◾️花晨月夕──風斎の章
19/33

薄氷


冬の朝は、音まで白く沈む。


昨夜深くに降っていた雪はやんでいた。

けれど山から下りてくる冷えは深く、屋敷の板廊には夜の名残が薄く残っている。

庭の池には端の方だけ氷が張り、枯れた枝は風に鳴るほどの葉も持たない。

人の動きがあっても、どこか控えめに聞こえる日だった。


愛護は手習いの間にいた。

火鉢は近くに置かれている。墨もよく磨られていた。紙も新しい。

けれど、筆先はさっきから同じ字の途中で止まっている。


廊の向こうで足音がした。

走ってはいない。けれど、急いでいない足音でもなかった。

屋敷では本当に急ぐ時ほど、表向きの静けさが増す。

そういう足音を聞き分けるくらいには、愛護ももう奥の空気が読めるようになっていた。

敷居際に控えていた朝凪も、顔を上げないまま外へ意識を向けている。

やがて足音は部屋の前で止まった。


「朝凪」


襖の向こうから玄冬の声がした。

朝凪が一礼して立つ。


「こちらに」


襖が開くと、廊の冷えがすっと入ってきた。

玄冬は敷居の外に膝をつき、まず愛護へ頭を下げる。

声は低く、平静だった。

平静だからこそ、軽い用ではないのだと分かる。


「姫様。小堂筋に、綾の傷が出ております」


小堂、と聞いた瞬間、愛護の指が筆の軸を強く握った。


「傷?」

「今のところ、禍滲の出た報はございません。『門』には至らず、『裂け目』に近い揺らぎにございます」


『門』ではない。

その言葉だけなら、少しは安心してよいはずだった。

禍滲が出るほど異界と口を開けたものが『門』で、そうでないものは、まだ揺らぎに過ぎない。

けれど愛護は安心できなかった。


小堂の先には、山の家がある。


もちろん、そんなことをここで口にできるはずがない。

小堂へ季節のものを供える姫。

それが、屋敷の中で愛護に許されている形だった。

その奥に、本当は美菊がいる。朝凪が隠してきた家がある。


玄冬は朝凪へ目を向けた。


「姫様が日ごろ参られる道だ。道の癖を知る者にも見せておきたい」

「承知いたしました」


朝凪の返事はいつも通りだった。

愛護は、思わず声をかける。


「朝凪。小堂は、だいじょうぶ?」

「確認して参ります。姫様は奥にてお待ちください」


朝凪はそれだけ答えた。

美菊は、とは訊けない。山の家は、とも訊けない。

愛護は筆を置いた。

手の内に残る硬い感触が、かえって落ち着かなかった。


朝凪が玄冬の後に続いて出ていく。

襖が閉まると、部屋はまた静かになった。

愛護は、途中で崩れた字を見下ろした。

墨が一か所で滲み、形が濁っている。

控えていた女房が替えの紙を用意しようと動く。


「ありがとう」


声は震えなかった。

震えなかったことだけが、今の愛護にできたことだった。



■■



外へ出ると、空は低かった。


雪雲だ。日は鈍く、山裾の草は霜を含んで色を失っている。

朝凪は玄冬の少し後ろを歩きながら、薄く綾をまとった。

隠れるためではない。今日は公の用で呼ばれている。

必要なのは、山筋に残る揺らぎを肌で拾うための薄い膜だった。


小堂筋へ近づくにつれ、冷えとは別の不快さが指先へ触れた。

『門』が開いた時のような、世界の肌が強く裂かれる感覚ではない。

もっと細く、浅い。

刃先で指を切った時、血が出る前に痛みだけが妙にはっきり立つことがある。あれに似ていた。

見えないのに、そこにあると分かる。


小堂の手前には、すでに風斎の兵が数名立っていた。

その外側に、面をつけた兵が二体いる。

妻鳥の十万億土の兵だった。

四年前から領境の見張りとして置かれているものの一部が、山筋の異変に合わせて回されてきたのだろう。

華やかな面の下に、生きた気配はない。

呼吸で胸が動くこともなく、寒さに身を縮めることもない。

冬の山に立っていてなお寒そうに見えないことが、かえって寒々しかった。


小堂そのものは無事だった。

古い扉も、石段も、供えられた花も、乱れてはいない。

先日置かれた花は寒さで少し縮んでいるが、堂の前は掃かた跡そのままにある。

愛護が来たことの痕跡は、いつものように整って残っている。


『傷』は、そこから少し外れた場所にあった。


本道と古い山道が近くを通るあたりである。

本道は小堂から屋敷へ戻るための、人目のある道だった。

古い山道は、今ではほとんど使われていない。

実際には、その奥に朝凪が人の目と意識を何重にも逸らしてきた筋がある。

山の家へ続く道だ。


表から見れば、ただの冬枯れの山だった。

けれど朝凪には分かった。綾の流れが、そこでわずかに擦れている。

まず本道側へ薄く尾を引き、そこからごく細い棘のようなものが、古い山道の外縁に触れていた。

山の家へ届いているわけではない。隠しの層を破っているわけでもない。

ただ、外側の布目に爪がかかったような触れ方だった。

それだけで、十分に嫌だった。


玄冬が横へ立つ。


「どう見る」


朝凪は膝をつき、霜の降りた土へ指を置いた。


「浅いです。ただ、屋敷筋へ尾を引いております」


兵たちの目が本道へ向いた。

屋敷へ戻る道。姫の供回りも通る道。

そこへ綾のざらつきが伸びているとなれば、放ってはおけない。

玄冬の視線も、自然とそちらへ寄る。

朝凪は、さらに言葉を重ねた。


「木立の中へ残すより、開けた方へ寄せたほうが見張りも処置も利きます。本道側へずらします」

「できるか」

「はい」

「任せる」


玄冬の目は、朝凪の手元にあった。術の出来を見る目だった。

若い者に処置を任せる以上、どこまで正確に扱うかを確かめるのは当然である。

だから朝凪は、必要な顔で綾を広げた。


まず、誰の目にも分かる本道側のざらつきを動かす。

綾は力ずくで押すものではない。流れがそちらを選ぶよう、ほんの少しだけ道理の傾きを変える。

屋敷へ向かう尾を、木立の中ではなく、見張りの置ける開けた斜面へ寄せる。

その仕事の影で、朝凪は古い山道の外縁へ触れていた細い棘を払った。

強く触れれば目立つ。だから、表の揺らぎを動かす流れへ紛れさせる。

本道側へ寄せる綾の余波に見えるように、山の家へ向かう縁を一枚、薄く折り返す。


その時、面の兵が動いた。


命じられたのは、本道側の見張りだったはずだ。

だが、『裂け目』の傷が一瞬、古い山道の方へも気配を返したのかもしれない。

面の兵の足が、迷いの綾の外縁へ置かれた。


朝凪の喉の奥が、冷えた。


人なら止まる場所だった。

そこは道ではない、と感じる。

入らなくてよい、と考える前に、何となく足が別の方へ向く。

朝凪が六年かけて重ねてきた綾は、そういう小さな判断へ働く。

人の目と意識を、そっと手前で折り返す。

けれど面の兵には、折り返すものがない。


迷わない。

不気味がらない。

ここへ入る理由と入らない理由を比べない。


ただ、命と気配に従って進む。


一歩。


雪を踏む音がした。


朝凪は、息を乱さなかった。顔も変えなかった。ただ、本道側へずらしていた綾を少し強める。

屋敷筋へ伸びる傷の処置としては自然な範囲で、面の兵の足元に向きの違う流れを作った。

古い山道へ続く気配を、開けた斜面の乱れへ重ねてしまう。


面の兵の足が、半歩外れた。

それだけだった。

それだけで、朝凪の背中には冷たい汗が薄く浮いた。


玄冬は本道側の揺らぎを見ていた。

朝凪の処置に従って傷の尾が開けた方へ寄っていくのを確認し、兵へ配置を指示する。

古い山道へ面の兵が入りかけたことは、動きの一部として処理された。

見張りの位置を変えた、その程度にしか見えなかったはずだ。


朝凪は、綾をほどかなかった。

まだ早い。


その時、囁石が鳴った。

小さな耳飾りの中で、遠い声が割れるように響く。

雪簇の『天眼』から飛ぶ報せは、その場にいる者たちの耳へ同時に届いた。


≪『開門』。風斎領、白、ハの三。東五。規模、小。出現数、未詳。≫


『門』。

全員の意識がそちらへ向いた。


示された場所は本道を少し下った先にある。

昔は炭を焼いていたという窪地で、今は黒い土と崩れた石組みだけが残っている。

『裂け目』の傷とは別の場所だが、近い。

さっきまで『裂け目』のざらつきに気を取られていたぶん、報せがなければ対応が遅れただろう。

玄冬が短く言った。


「行く」


兵たちが動く。

炭焼き跡に着くころには、『門』はすでに形を持っていた。

雪の上に、まず影が増えていた。地面の影ではない。

光の向きに従わず、黒土の底からにじみ上がるような暗さだった。

そこだけ冬の白が汚れ、空気が内側へ吸われる。

穴が開くというより、景色の一部が折れて、こちらではない色を裏返したように見えた。


その折れた影の縁から、禍滲が這い出した。

一体目は低い。犬ほどの高さしかない。だが脚が多く、動きが速かった。

背に並んだ棘が、雪の白を引っ掻くように揺れる。

続いて二体目が出る。こちらは片側だけ膨れ、形が歪んでいた。


『門』は小さい。

だが小さいことと、無害なことは違う。


兵が散る。

朝凪は刀を織るより先に、足場へ綾をかけた。

冬の地面は固い。だが雪の下の落ち葉は滑る。

禍滲が速ければ速いほど、半歩の違いは大きい。

跳んだ先に、思っただけの地面がない。

それだけで爪の軌道は狂う。


一体目が兵へ跳びかかった。

朝凪は距離をずらす。

喉へ届くはずの爪が、肩の衣を裂いて抜けた。

兵の槍が入る。深くはないが、禍滲の脚が止まる。


その瞬間、面の兵が踏み込んだ。

禍滲の棘が腕を裂いた。骨に当たる鈍い音がして、袖の布が破れる。

それでも兵は止まらなかった。裂けた腕で禍滲の胴を押さえつける。

肉が戻る。

音もなく、急ぐ様子もなく、ただ壊れた形が元の形へ寄る。

骨が噛み合い、裂けた肉が閉じる。痛みをこらえる顔はない。声もない。呼吸すらない。

戦場に置けばこれほど頼もしいものはないのだと分かる。

分かるからこそ、見ている方の背筋が冷えた。


二体目が雪を蹴った。

朝凪は綾で短刀を織り、首ではなく脚を狙う。

小さく速い禍滲は、首を落とすより先に動きを殺した方が早い。

脚の節へ刃を入れると、黒い体が傾いた。

そこへ玄冬の短槍が入る。

余分のない一撃だった。


もう一体も、面の兵に押さえられたまま風斎の槍を受け、ほどけるように形を失った。

『門』はほどなく閉じる。

黒土の窪みはまた雪と影だけの場所に戻ったが、空気には異界の濁りがしばらく残った。


その濁りは分かりやすい。

禍滲が出た場所には、嫌な後味が残る。

こちらの世のものが、異界の色に一度触れてしまった跡だ。

兵たちはそちらの処置へ回り、朝凪と玄冬は小堂筋へ戻った。


尾をずらした『裂け目』の傷は、変わらず残っていた。

『門』の跡とは違う。炭焼き跡に残った濁りは、時間が経てば散るものだった。

だが小堂筋の傷は、濁るのではなく、細い筋のまま冷えている。

冬の空気にまぎれて、皮膚の裏にだけ触れてくる。

玄冬はそれを見下ろした。


「浅い」

「はい」


朝凪は頷く。


「浅いまま、散りません。『門』の跡とは別の残り方です」

「屋敷筋へ寄せた分は」

「変化はないようです。散らず、ただ、戻ろうとする様子もありません」


玄冬は短く頷いた。


「当面、姫様の参詣は控えていただく」

「そのようにお伝えいたします」


玄冬に着いて道を下る。

その時、開けた斜面に立つ面の兵が視界の端に入った。

面は割れていない。腕にも傷はない。

さっき骨まで裂かれたはずの場所は、もう何もなかったように静かな肌の下におさまっている。


朝凪は、古い山道の方を見なかった。

見れば、そこに意識を置いたことになる。

ただ、袖の内側で指を軽く握る。

人の目を逸らすために積んできたものが、人ではないものには通じない。

その事実だけが、冬の冷えとは別に残った。



■■



屋敷へ戻ったころには、日が傾きかけていた。


冬の日は短い。廊へ入ると、外より早く夕方が来ているように感じる。

朝凪が奥へ戻ると、愛護は小さな座敷にいた。

手習いの紙は脇に片づけられている。

読むつもりで持ってこられたらしい本が一冊置かれていたが、閉じたままだった。


人目があるうちは、愛護は何も言わなかった。

茶を置いた侍女が下がり、障子の向こうの気配が遠のいてから、ようやく口を開く。


「小堂は」

「損じたところはございません」


朝凪は膝をつき、いつもの距離で答えた。

愛護は一度、息を吐いた。

けれど、それだけでは足りない顔をしている。

小堂の先。山の家。美菊。聞きたいことは、そちらにある。

だが愛護は聞かなかった。

聞かないまま、閉じた本の角へ指を置いた。


「次のお参りは」

「当面、お控えいただくのがよろしいかと」


愛護の目が曇る。


「そんなに?」

「傷の残り方がよくありません。安全が確かめられるまで、間を置くべきにございます」


愛護は唇を結んだ。

しばらくして、小さく頷く。


「……わかった」


それは、納得した声ではなかった。

けれど、受け入れる声ではあった。

朝凪は深く頭を下げる。


「花、枯れたままにならない?」

「こちらで整えます」

「ほんとに?」

「はい」


愛護はそれで、ようやく少し力を抜いた。


「じゃあ、お願い。もうすぐ山茶花が見頃だから、それがいいな」

「承知いたしました」


会話はそこで切れた。


言えないことが、二人の間に残る。

愛護はそれを押し込めるように茶碗を取った。

朝凪はそれ以上、何も言わなかった。



■■



冬の山道は暗い。

虫の声はもうほとんどなく、木々の上で風が鳴るだけだった。

足元では霜を踏む音がする。迷いの綾はいつも通りに重なっている。

人ならば、ここで道を見失う。

用のない者なら、用がないことを思い出す。

少なくとも、足は自然と別の方へ向く。


朝凪は、その層をひとつずつ確かめながら歩いた。

薄くなってはいない。

破れてもいない。

それでも、面の兵が一歩を置いた感触が、まだ頭の中に残っていた。


家の灯りが見える。

戸を開けると、美菊が顔を上げた。


「おかえりなさい」

「ただいま」


いつものように返したつもりだった。

美菊は、すぐには次を言わなかった。

灯りのそばに座り、膝には針仕事の布を置いている。

けれど針は止まったままだった。

美菊の目は朝凪の顔ではなく、肩や袖のまわりをゆっくり見ていた。


朝凪が戸口で綾をほどく時、いつもはもっと静かにほどける。

今日は、細かな砂が布に残っているように、輪郭の外でわずかに引っかかった。

美菊はその引っかかりを見るように、目を細めた。


「……ざらざらしています」


朝凪は履物を脱いだ。


「小堂筋に『裂け目』が出た」


美菊の手が、布の上で止まる。


「小堂」

「小堂そのものには触れていない」


朝凪は先に言った。

美菊は小さく頷いた。


「『門』に、なりますか」

「今はまだ。だが、当分注視が必要になる」

「……そうですか」


美菊はそれきり黙った。

針を持った指が、わずかに縮こまる。

その視線は、机の上の文箱へと流れていた。


台所に降り、手を洗う。水は刺すように冷たかった。布で拭いても、指先に冷えが残る。

火鉢へ炭を足すと、赤い火がゆっくり起きた。

部屋の冷えが少しだけほどける。美菊は針仕事を畳み、膝の横へ置いた。

朝凪は火を見たまま言った。


「何か見えたか」


予言のことだった。

美菊はすぐには答えなかった。

灯りの下で、黒い目が少し伏せられる。

何かを探しているのか、何もないことを確かめているのか、朝凪には分からない。

やがて、美菊は小さく言った。


「……まだ」


まだ。

その一言は、火鉢のそばでも冷たく聞こえた。

朝凪はそれ以上聞かなかった。


「飯にするぞ」

「はい」


美菊は立ち上がる。

器を出す。湯を温める。戸の隙間を見る。

いつもの夜へ戻るための動きが、家の中にひとつずつ置かれていく。

だが、戻りきりはしなかった。

小堂の先に、この家がある。

人の目から隠し、道から逸らし、日々の奥へ沈めてきた家がある。

その外側に、細い傷が触れた。

まだ何も見えていない。

まだ、予言は声になっていない。


それでも朝凪の袖には、冬の『裂け目』の冷たさが残っていた。

火の前に座っても、それはしばらく消えなかった。




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