留め置く花
秋の山は、昼でもどこかいろが薄い。
夏のあいだは、緑が家のすぐそばまで押し寄せてくるようだった。
葉は厚く、風は湿り、戸を開ければ虫の声より先に青い匂いが入ってくる。
けれど秋になると、同じ山でも急に距離ができる。
木々はまだ立っているし、草も残っている。
けれど、その奥にある空気が少しだけ澄んで、ものの輪郭が細くなる。
その日は、朝凪が家にいた。
屋敷へ上がらない日だった。
そういう日は多くない。
美菊は縁側に座り、膝の上に本を置いていた。
愛護が来るたび、少しずつ読んでいる本だった。古い綴じ本で、紙は少し黄ばんでいる。
山の家にある本の中ではまだ読みやすい方だが、それでも愛護には難しい字が時々ある。
美菊が読めるところを読み、愛護が覗き込み、分からない字を聞く。
朝凪がそばにいる時は、ごく短く補足することもある。
ただ、長くは読めない。
愛護が山の家にいられる時間は、いつも限られている。
だからその本はいつも途中で閉じられる。
前に読んだところへ戻れるよう、今は葉を一枚挟んでいた。
その葉が、欠けていた。
前に挟んだ時はきれいな形をしていたのに、乾いて脆くなり、端が少し砕けている。
頁を開いたとき、小さな屑が紙の上へ散った。
美菊はそれを指先で集めた。
縁側の向こうでは、朝凪が竹籠の底を直している。
家で使う細かなものはだいたい彼が直してしまうのだ。
無心で紐を結び直し、竹を押さえ、歪みを整える。
こういう時の朝凪は何も考えていない顔をしていて、少しだけ幼いころを思い出す。
「朝凪」
「何だ」
朝凪は手元から目を上げた。
「厚い紙、ありますか」
「紙?」
「はい」
美菊は本を少し持ち上げた。
「この本に使う、栞を作ろうと思って」
朝凪は本を見て、すぐに欠けた葉へ目を落とした。
「それ、もう崩れるな」
「はい」
「厚いのなら少しある。あとで出す」
「ありがとうございます」
「葉を押すのか」
「はい」
朝凪は籠の底を押さえ直す。
「指、切るなよ」
「切りません」
「お前は細かいもの持つと、やたら静かになるからな」
美菊は少し瞬いた。
「静かだと、切りますか」
「気づくのが遅れる」
そう言われて、美菊は自分の指先を見た。
切ったことがあるのだろうか。
あった気もする。
朝凪が覚えているのなら、きっとあったのだろう。
「気をつけます」
「そうしてくれ」
朝凪はそれだけ言って、また籠へ目を戻した。
美菊は本を閉じ、欠けた葉を小皿に移した。
古い葉なのに、捨てるのは少し惜しかった。
愛護が前にここまで読んだ場所を、しばらく守ってくれていたものだったからだ。
昼を少し過ぎてから、美菊は庭へ出た。
庭といっても、屋敷のような整えられた庭とはまるで違う。
石の置き方も、枝の払われ方も、草の刈り方も、すべてが粗い。
山の端を少しだけ家の方へ引き寄せたような場所だった。
秋になると、そこには色が少しずつ落ちてくる。
派手ではない。燃えるような紅葉でもない。
ただ、草の先や木の葉の端に、赤や黄が細く差す。
美菊はしゃがみ、葉を一枚ずつ見た。
薄すぎるものは、押したら消えそうだった。
厚いものは本に挟むには向かない。
虫に食われた穴の形が面白いものもあったが、愛護のものにするには少し違う気がした。
朝凪も、いつのまにか縁から下りていた。
「これとか、ちょうどいいんじゃないか」
差し出されたのは、黄色い葉だった。
丸みがあって、傷も少ない。紙に挟めばきれいに収まりそうだった。
美菊は受け取って、しばらく見た。
「……きれいです」
「だろ」
「でも」
美菊は庭の方へ視線を戻した。
「ひめさまみたいな、赤い色のものにしようと思って」
朝凪は少しだけ考えた。
「姫の髪か」
「はい」
「葉の赤だと、少し暗いな。あの色は、葉より花びらの方が近い」
そう言って、庭を見回す。
朝凪はこういう時、妙にまじめに探す。
愛護のためというより、美菊がそうしたいと言ったからだ。
美菊はそれを知っている。
美菊は手元の葉を見た。
黄色い葉の下にさっき拾った赤い葉が数枚ある。
そのうち一枚は少し褐色に寄った赤で、朝凪の髪に近かった。
風斎の赤。屋敷の人々の色。
けれど美菊にとっては、まず朝凪の色だった。
美菊はその葉を抜き取り、立ち上がった。
朝凪はまだ花を探すように庭を見ている。
美菊は、そっと手を伸ばした。
赤い葉を朝凪の耳元へかざす。
朝凪がこちらを見た。
「何だ」
「これは、朝凪の色ですね」
自分で言ってから、少し嬉しくなった。
本当に、よく似ていた。
葉の赤は少し乾いていて、朝凪の髪ほど深くはない。
けれど光の当たり方によっては、そっくりに見える。
朝凪は、かざされた葉を横目で見た。
「俺の色で作るのか」
「はい」
美菊は少し考えた。
「朝凪も、栞、もらってくれますか」
朝凪はすぐには答えなかった。
その間に、庭の向こうで小さな虫が跳ねた。草の穂が揺れる。空は高く、昼の光は柔らかい。
たぶん、要るかどうか、使えるかどうかを考えている。
朝凪はだいたい美菊に甘いが、そういうところは妙に正直だった。
「作ってくれるなら」
短い答えだった。
それから、少し真剣に葉を探した。
愛護の赤は難しかった。朝凪の言う通り、葉の赤では少し重い。濃すぎる。
愛護の髪はもっと明るく、陽を含んでいる。
庭の端に、名も知らない小さな赤い花が咲いていた。
花びらの縁が、愛護の髪に少し似ている。
美菊はそれを一輪だけ摘んだ。
厚い紙を細く切り、押した葉と花びらを挟む。
何日かかけて、紙の間で色が落ち着くのを待った。
愛護の栞には、赤い花びらを小さくひとつ。
朝凪の栞には、赤い葉を細く切って、少し斜めに置いた。
そうして出来上がったものを、まず朝凪へ差し出した。
「これ」
朝凪は手を止めた。
「俺のか」
「はい」
朝凪は指先で受け取った。
壊れ物を持つような手だった。栞は薄い。少し力を入れれば折れる。
けれど朝凪の手の中にあると、ちゃんと守られているように見えた。
「使ってくれますか」
「使う」
当たり前のように言われて、美菊は少しだけ目を伏せた。
嬉しかった。
朝凪は栞をしばらく見ていた。
何かを言うでもなく、ただ端を確かめ、葉の色を見る。
それから、自分の道具箱の中へ入れた。
雑に置かず、紙の間へ挟むようにして。
美菊はそれを見ていた。
朝凪は顔を上げる。
「姫の分は」
「文箱に入れました」
「見せてみろ」
美菊は文箱を開け、もう一枚を出す。
朝凪はそれも見た。
赤い花びらの端は、薄い紙の中で少しだけ光を持っている。
愛護の髪そのものではない。
けれど、あの明るさに近づこうとした色だった。
「いいんじゃないか」
「本当ですか」
「ああ」
美菊はほっとした。
「きっと喜ぶ」
朝凪が続けた。
そう言われると、胸の奥が静かに明るくなった。
■■
愛護が菊を持ってきたのは、それから数日後だった。
その日山の家へ入ってきた愛護は、朝からよほど大事に抱えてきたのだろう、大輪の菊を両手で持っていた。
小堂へ供える分はすでに済ませてきたのだと、朝凪の手元に残った包みや花の扱いで分かる。
愛護が山の家へ持ってくるものは、いつもそうだった。
まず小堂へ供える。形を残す。
そのうえで、少しだけこちらへ運ぶ。
「美菊」
戸口で、愛護はぱっと顔を明るくした。
十になっても、その顔は変わらない。
昔よりずっと気をつけることを覚えたし、屋敷では姫らしく振る舞うことも増えたと聞く。
それでも山の家へ着くと、表情がまっすぐになる。
「見て」
差し出された菊は、見事だった。
白い花弁が幾重にも重なり、中心へ向かって淡く影を作っている。
山の家には少し大きすぎるくらいだった。
けれど、愛護はそれを誇らしそうに抱えている。
「きれいに咲いたの」
「ありがとうございます。……ほんとうに、見事ですね」
美菊は受け取った。
「美菊のお名前とおなじでしょう」
愛護は嬉しそうに続ける。
「美菊のお父様? お母様? お名前考えた方、美菊が菊みたいにきれいな人になるってわかってつけたのかな?」
美菊は、花を持ったまま朝凪を見た。
朝凪は、なんとも言えない顔をしていた。
美菊には分かる。これは、嫌な顔ではない。怒った顔でもない。
どちらかといえば、恥ずかしい時の顔。
朝凪が美菊の名をつけたことを愛護は知らない。
知らないまま、まっすぐその名前を褒めた。
美菊は少し笑った。
「どうでしょう」
愛護がこちらを見る。
美菊は菊の花をそっと抱え直した。
「でも、そうだとしたら、その期待に応えられていると、いいのですが」
「こたえてるよ!」
愛護は即座に言った。
「すっごくこたえてると思う!」
朝凪は渋い顔のままだった。
「ね、美菊、どこに飾る? 大きいから、倒れないところがいいよね」
「はい。こちらへ」
美菊に促され、滅多にない朝凪の平静と違う顔に気づかないまま、愛護は跳ねるように家の中へと入っていった。
菊は、いつもの小さな器には入らなかった。
朝凪が奥から少し背のある器を出してくる。
美菊は花の重さを見ながら水を足し、茎を支えた。
白い大輪は座敷の隅に置かれると、そこだけ明るく見えた。
愛護はその傍に美菊を座らせ、満足そうに見ている。
「やっぱり似合う!」
朝凪は何も言わなかった。
お茶を飲んだあと、あの本を出した。
愛護はすぐに身を乗り出す。
「続き?」
「はい」
美菊は文箱を開けた。
中には、愛護のために作った栞が入っている。
赤い花びらを挟んだ、薄い栞。今日まで何度も見た。
けれど、差し出す時になると、少し手元が緊張した。
「ひめさま」
「なに?」
「これを、作りました」
愛護は目を見開いた。
「栞?」
「はい。この本に使うものです」
美菊は両手で差し出した。
「ひめさまが来てくださる時に、ここで」
愛護は受け取った。
その途端、顔が変わった。
大きな青い目がいっそう輝く。
あかるい頬に赤みがさし、口が小さくひらく。
喜んでいる。
とても。
栞は、愛護の手の上でほとんど重さを持たない。
愛護はそれを落とさないように、両手でそっと囲った。
右から見て、左から見て、光へかざしかけて、すぐにやめる。
薄い紙の中の赤い花びらを、何度も見た。
「美菊が作ったの?」
「はい」
「愛護に?」
「はい」
「すごい」
愛護は息を詰めるように言った。
「すごくきれい」
美菊は、少し恥ずかしくなった。
丁寧に作ったつもりではある。けれど、素人の手である。
端はほんの少し歪んでいるし、花びらの位置も真ん中とは言いがたい。
屋敷で良いものを見慣れているだろう愛護にそこまでじっと見られると、粗が全部見える気がした。
「そんなに、見ないでください」
「見るよ!」
愛護は顔を上げた。
「愛護のなんでしょう?」
「はい」
「じゃあ見る」
それは理屈として正しいのかどうか分からなかったが、愛護は真剣だった。
しばらく眺めたあと、愛護はぱっと顔を上げた。
「これ、持って帰っていい? 毎日使うの!」
美菊は、朝凪を見た。
朝凪は首を振った。
「なりません」
声は、姫に向ける声だった。静かで、固い。
愛護の顔がみるみる不満になる。
「なんで。栞だよ。小さいよ。袖に入れてこっそり持って帰れるよ」
「入りはします」
朝凪は否定しなかった。
「じゃあ」
「その後が問題にございます」
愛護は口をつぐむ。
朝凪は続けた。
「姫様のお部屋のものは、姫様だけで管理されているわけではございません。文箱も、本も、机も、侍女や女房の手が入ります」
「隠すもん」
「隠したものを、毎日お使いにはなれません」
「……」
「栞を作るには数日かかります。葉や花を押し、紙を用意し、乾かす必要がある。誰かに見つかった時、姫様がそれを誰の目にも触れさせず作られた、と言うのは通りにくい」
愛護の手の中で、栞が少し低くなる。
「他の言い訳で通ったとして」
朝凪は愛護を見た。
「姫様が大事になさればなさるほど、周りはそれを見ます。どこで得たものか、誰が作ったものか。興味を持たれます」
それで終わりだった。
十分だった。
愛護は反論しなかった。できなかったのだろう。
言われたことは、ひとつずつ納得できる。
納得できるから、余計にしょんぼりした。
「……そっか」
声が小さい。
「だめかあ」
美菊は、愛護の手から栞を受け取った。
愛護は少しだけ名残惜しそうにしたが、離した。
美菊は本を開き、今日読むところへ栞を挟んだ。
赤い花びらが、頁の端から少しだけ見える。
「お持ちになれなくても」
愛護が美菊を見る。
美菊は本をそっと押さえた。
「ここに、あります。ひめさまが来てくれるなら、ずっと、いつでも」
愛護は黙った。
しょんぼりした顔のまま、栞の挟まった本を見る。
「……ずっと?」
「はい」
「いつでも?」
「はい」
美菊は頷いた。
「ちゃんと、ずっと、ここにあります」
愛護は、少しだけ息を吸った。
そうして、ようやく笑った。
「うん」
まだ少し寂しそうだった。けれど、顔は上がった。
「ちゃんと、ずっと、ここに置いててね」
「はい」
「愛護が来たら、絶対出してね」
「はい」
「ほかの人に使わせちゃだめ」
「使わせません」
愛護はそれで納得したようだった。
本は、少しだけ読んだ。
いつもより進みは遅かった。愛護が何度も栞を見たからだ。
そのたびに美菊は少し恥ずかしくなり、朝凪は何も言わずに茶を足した。
帰る時間になると、愛護は本に栞が挟まれていることをもう一度確かめた。
「置いていくね」
「はい」
「でも、愛護のだからね」
「はい。ひめさまのものです」
「うん」
それで、愛護は帰っていった。
朝凪がいつものように連れていく。
戸口を出る時、愛護は菊を振り返った。
白い大輪は座敷の奥で静かに咲いている。
■■
屋敷に戻ると、玄冬が表に出ていた。
偶然にも見えたし、そうでないようにも見えた。
玄冬は愛護を見て、少し目を細めた。
「お戻りでございますか」
「うん」
「小堂参りは、恙なく」
「ちゃんと供えたよ」
「それはようございました」
そこで終わるかと思った。
けれど玄冬は、愛護の顔を見ていた。
小堂参りのあと、愛護はたいてい機嫌がよい。
実際、いつもより明るい声で戻ることが多い。
しかし今日は違った。悪いことがあった顔ではない。けれど、少し元気がない。
玄冬は静かに問う。
「何か、残念なことでもございましたか」
愛護は一瞬だけ朝凪を見た。
朝凪は平静な顔をしていた。けれど、その平静さの奥に、少し困ったような気配をわざと残している。
愛護にも分かった。これは、そういう顔だ。
愛護は口を尖らせた。
「山でね、いいものを見つけたんだけど、朝凪に持って帰っちゃだめって言われちゃったの」
玄冬は朝凪を見る。
朝凪は一礼した。
「姫様のお部屋へ持ち込むには不向きと判断いたしました」
声は少しも乱れない。
玄冬はしばらく二人を見ていた。
愛護は本当に残念そうで、朝凪は本当に側付きらしく困っている。
玄冬はそれで、線を引いたのだろう。
姫が山で何かを欲しがり、側付きが止めた。それだけのこととして。
「それは残念でございましたな」
玄冬は愛護へ向き直った。
「しかし山のものは、山にあるままにした方がようございます」
愛護はぱちぱちと瞬いた。
山のものは、山にあるまま。
栞は、山の家にある。
本に挟まっている。
美菊が、ずっと、いつでも、と言った。
愛護は少し遅れて頷いた。
「……うん」
それから、もう一度小さく言った。
「そうだね」
玄冬はそれ以上何も言わなかった。
■■
ところで。
愛護は、朝凪が自分の側を離れている時、どこで何をしているのかをあまり知らない。
朝凪はいつも愛護の少し後ろにいる。あるいは、呼べば来る。
必要な時に必要な顔で現れて、必要なだけ控え、用が済めば静かに下がる。
だから、詰所の者とどう話すのか、書付をどう扱うのか、愛護の知らないところで何をしているのか、そのあたりは案外知らなかった。
美菊を訪ねた数日後。
その日は、たまたまだった。
部屋を移る途中、廊の向こうで朝凪が詰所の男と何事か話していた。短いやりとりだった。
朝凪は相手から書付を受け取り、目を通し、手に持った紙束に挟み込む。
その時、薄いものがひらりと見えた。
紙の白。
そこにうつる、赤。
ほんの一瞬だった。距離もあった。細かな形など、見えるはずもない。
けれど愛護には、それで十分だった。
赤い花びらの栞。
美菊が作ってくれた、あの栞。
そう思った。
愛護は、その場では声を出さなかった。
けれど胸の中では、もう大変なことになっていた。
朝凪が持っている。
愛護にはだめだと言ったのに。
山の家に置いていけと言ったのに。
袖に入るだけではだめで、そのあとが問題だと、あんなにきちんと説明してたのに。
朝凪が、持っている。
その日の午後、愛護は人目のないところに朝凪を呼んだ。
「朝凪」
「はい」
朝凪はいつも通りに来た。いつも通りに膝をつき、いつも通りに控える。
その顔を見ていると、愛護の胸の中で膨らんでいた不満が――悲しみが、またむくむくと大きくなった。
「持ってるでしょう」
「何をでございましょう」
「栞」
朝凪の顔色が、一瞬だけ変わった。
本当に一瞬だったが、あきらかに「まずい」という顔だった。
「やっぱり!」
「姫様」
朝凪はすぐにいつもの顔へ戻った。
「これは、姫様がお預けになったものとは別のものにございます」
「見たもん。赤かったもん。紙もおなじ感じだったもん」
「同じ紙で作った別のものにございます」
愛護は疑わしげに目を細めた。
「……ほんとに、愛護のじゃないの」
うっすらと涙の混じる声に、朝凪は少しだけ息を置いた。
叱るでも、困るでもない。
ただ、愛護が疑っているものの向こうに、山の家の静かな座敷と、そこで栞を差し出した美菊の手があったことをきちんと見ている間だった。
「姫様」
声は静かだった。
「あれは、姫様に嘘をついたり、約束を破ったりするような者ではありません」
愛護は黙った。
その言い方は、朝凪にしてはめずらしくやわらかかった。
「あれが、姫様のものを勝手に私へ渡すことはございません」
朝凪は目を伏せる。
「姫様のものは、あの家にございます。あの本に挟んだまま、次に姫様がいらっしゃる時まで、置いてあります」
愛護は唇を結んだ。
美菊は、そういうことをしない。
それは、言われてみればそうだった。
あの静かな人が、愛護に「ここにあります」と言ったものを、こっそり朝凪へ渡すところなどどう考えても浮かばない。
けれど、納得したからといって不満が消えるわけではなかった。
「でも、でも、じゃあ、それも――」
我に返り、寸でのところで声を潜める。
「美菊が作ったんでしょう」
そこで朝凪は、ほんのわずかに黙った。
否定しない。
愛護はますます頬をふくらませた。
「ずるい」
「ずるくはございません」
「愛護のはだめって言ったのに」
「姫様のものは、外から姫様のお部屋へお持ち帰りになることが問題でございました」
朝凪は少しも慌てなかった。
「これは私が私の家から持ち込んだものにございますので、何ら問題はありません」
正論だった。
あまりにも正論だった。
朝凪は静かに控えている。
こちらがどれほど不満そうにしても、側付きの顔を崩さない。
崩さないところが、また腹立たしい。
「ずるい」
「ずるくはございません」
「ずるい!」
「姫様」
「ずるいったら、ずるいの!」
朝凪はそれ以上、言い返さなかった。
その沈黙もまた、愛護には少し悔しい。
「愛護も、毎日使いたかった」
「お気持ちは承知しております」
「承知してるだけじゃいや」
愛護はぷいと横を向いた。
朝凪はしばらく黙っていた。
その沈黙のあいだに、たぶん何かを考えている。
愛護はそれも分かる。分かるから、余計にむっとする。
やがて朝凪が言った。
「次は、姫様が持ち帰れるものとして通せる形を考えます」
愛護は横を向いたまま、目だけを動かした。
「……なに」
「野花の小さな細工であれば、姫様が山で摘み、その場で作ったものとして扱えるかもしれません」
「美菊が作ってくれる?」
「頼むことはできます」
「愛護が持って帰れる?」
「できる限りそのように」
まだ不満だった。
けれど、少しだけ機嫌が戻った。
「絶対だからね」
「確約はいたしかねます」
「朝凪」
「できる限りです」
「絶対っていって」
「調整いたします」
愛護はまた頬をふくらませた。
朝凪は深く一礼した。
その顔があまりに涼しいので、愛護はしばらく拗ねることにした。




