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愛及屋烏花軍  作者: 司馬示朗
◾️花晨月夕──風斎の章
17/32

雨香の余白


雨は、夜のうちにやんでいた。


朝になって障子を開けると、庭の草木はまだ水を抱いていた。

葉の先に残った雫が光を受け、風が渡るたびに細かく揺れる。

池の面は白く曇った空を映して鈍く明るく、濡れた庭石の縁だけが、磨いたように黒い。

雨あがりの屋敷は、いつもより匂いが近かった。

土の湿り、青葉の息、廊へ薄く残る香の気配。人の声まで少し低く聞こえる。


愛護は、早くから起きていた。


十になった愛護は、もう侍女に起こされるまで寝床の中で丸くなっている子ではない。

もちろん眠い日もあるし、起きたくない朝もある。

けれど今日は、目が覚めた瞬間から胸の中がそわそわして、布団の中にとどまっていられなかった。


今日は、小堂へ水無月を供えに行く。

そういうことになっていた。


支度の間、愛護はできるだけ落ち着いた顔をした。

髪を梳かれるあいだも、帯を締められるあいだも、むやみに問いかけない。

昔なら、今日はどの包みなのか、崩れていないか、早く見たいと何度も身をよじっただろう。

けれど今は違う。嬉しいことを、嬉しいまま全部外へ出してしまうのはよくないと知っている。

それでも、目はどうしても菓子の包みへ向いた。


水無月は、白い外郎の上に小豆を置いた菓子である。

三角に切られた形が夏の氷を模し、上に散る小豆には厄を払う意味があるのだと、女房が教えてくれた。

愛護には、そこまで深いことは分からない。

ただ、涼しげで、きれいで、やわらかくて、美菊にもきっと似合うと思った。


似合う、という言い方が正しいのかは分からない。

けれど、山の家の薄く日のさす座敷で白い菓子と小豆の色が小さな皿にのっているところを想像すると、なんとなくそう思うのだった。


「姫様」


侍女が袖を整えながら、ふふ、と笑った。


「本日は、ずいぶんお静かでいらっしゃいますね」


愛護はどきりとした。


「静かなのは、よいことでしょう」


「ええ。たいへんよろしゅうございます」


年若い侍女はそう言って笑う。悪気はない。

愛護が以前より少し大人びたことを、ただ喜んでいる顔だった。


愛護は頷いた。

頷きながら、余計なことを言わなかった自分を心の中で少し褒めた。


支度が整うころ、奥方が部屋へ入ってきた。

雨あがりの光の中でも、奥方は静かに明るかった。

淡い衣の裾を引き、濡れた庭の方を一度見てから、愛護の前へ座る。

その目は、昔から変わらずやわらかい。

やわらかいが、何も見ていない目ではない。


「今日は小堂へ参るのでしたね」


「はい」


愛護は膝の上で手を揃えた。


「水無月をお供えします」


「そう」


奥方は微笑んだ。


「愛護は、ほんとうに小堂参りに熱心ね」


声は穏やかだった。

責めているわけではない。何かを疑っているようでもない。

むしろ、幼い娘が一族を弔う小堂を大事にすることを好ましく思っている響きだ。

けれど愛護は、胸の内側を小さくつつかれたような気がした。


熱心。


そう見えている。

そう見せているのだから当然なのに、面と向かって言われると、やはり少しだけ指先が冷える。


愛護は、できるだけ自然に言葉を選んだ。


「季節のものをお供えすると、よころんでいただけるかなと思うのです」


少しわざとらしいだろうか。

けれど、供養の気持ちとしてはおかしくないはずだ。


奥方は、ふっと笑う。


「ええ。よい心がけです」


愛護はほっとしかけた。

だが奥方は、そのまま庭へ目をやり、続けた。


「けれど、雨あがりの山は足もとが悪いでしょう。小堂のあたりだけで済ませて、あまり奥へ入りすぎてはいけませんよ」


愛護は一瞬、息を止めた。


奥へ。

入りすぎては。


ばれているのだろうか。

小堂だけでは済ませていないことを、母様は知っているのだろうか。

どこまで。いつから。朝凪、どうしよう。


胸の中で言葉がばたばたと暴れた。

けれど、後ろで控える朝凪の顔は少しも変わらない。

いつものように、何も起きていない顔をしている。

なら、大丈夫なのだ。

たぶん。

朝凪がそういう顔をしている時は、たいてい大丈夫である。


愛護はどうにか頷いた。


「はい。気をつけます」


「朝凪」


奥方が顔を上げる。

敷居際に控えていた朝凪が、静かに頭を下げた。

十九になった朝凪は、もう少年とは言いがたい。

背も伸び、肩も開き、若い武家の者として屋敷の中でもよく目につく。

けれど愛護の前に控える姿は、昔とあまり変わらない。

余計なものを表へ出さず、必要なところへだけ目を向けている。


「はい」


「頼みましたよ」


姫が雨あがりの山道で転ばぬように。

供物をきちんと小堂へ届けられるように。

少しばかり外の時間を楽しむにしても、危ないことにならぬように。


奥方は、女房や侍女は、愛護が小堂参りを口実に野山で遊んでいると思っている。

そして、それを朝凪以外には秘密にできているつもりだと思っている。


四年かけて、朝凪が少しずつそこへ寄せた。


小堂より奥の道に咲いている花を、帰りに少し摘ませる。

山の木の実や葉の名を、愛護にいくつか覚えさせる。

雨の翌日には裾の湿りを、小堂の石段ではなくその先の草地で少し遊ばれたものとして見えるように整える。

長く居すぎた日は、小鳥を追って巣を見つけたがったのだと、声を潜めて侍女たちの笑い話へ流す。


そうやって、姫は小堂へ供えに行き、そのあと山で遊ぶことを秘密の楽しみにしている――という像を屋敷の中へ馴染ませてきた。


嘘ではない。

ただ、その内実を明かさないだけだ。


「承知いたしました」


深く一礼する朝凪の顔に、乱れはない。

愛護はその横顔を見て、少しだけ胸の奥を落ち着かせた。


部屋を出ると、廊の空気は少し冷えていた。

包みを持つ老僕と、付き添いの侍女が控えている。

水無月は小堂へ供える分と、あとで下げる分として分けてある。

すべて朝凪が整えたものだった。

表から見れば、姫が小堂へ供える菓子の支度として少しもおかしくない。

実際、そのうちのひと包みは本当に小堂へ供える。

痕跡を残す。

誰があとから堂を見ても、愛護が確かに来て、確かに供えたと分かるように。


裏へ向かう途中で、玄冬と行き会った。

玄冬は、いつものように静かにそこにいた。

急に現れたわけではないのだろうが、けれど愛護には時々、玄冬という人は呼ばれる前からその場にいるように見えることがある。

年を重ねても背は曲がらず、目だけが少し深くなった。


「姫様」


玄冬が一礼する。


「水無月のお供えでございますか」


「うん」


愛護は少し得意になった。


「ちゃんとしてくるよ」


「それはよろしゅうございます」


玄冬はそう言って、雨に濡れた庭の方を見た。


「雨のあとは、山の道が緩みます。お戻りの刻をお忘れになりませんよう」


愛護は素直に頷く。


「気をつけるね」


玄冬が朝凪へ目を向ける。


「朝凪」


「は」


「足もとを」


短い言葉だった。

小堂を、とも、供物を、とも言わなかった。

足もとを。

朝凪は、そのわずかな違いを聞き落とさない。


「承知しております」


二人の間で、それ以上の言葉はなかった。

けれど朝凪は知っている。

玄冬は、奥の女たちよりもう少し正確に見ている。

小堂参りだけで済んでいないことを、そしてそれを朝凪があえて屋敷の中に「秘密」として広めたことを、おそらく気づいている。

だが今のところ、玄冬は動かない。

愛護が許容できる時刻で戻ること。怪我をしないこと。屋敷へ不自然な綻びを持ち帰らないこと。朝凪が必ず同行すること。

その線の内側にある限り、姫が山で少し羽を伸ばしているだけのこととして、黙っている。


その黙認もまた、朝凪は使っていた。

あらゆるものを使わなければ、美菊を守れない。


屋敷を出るころには、空は少し明るくなっていた。

雨雲は遠くへ退き、薄い日が差している。けれど道はまだ湿っている。

山裾へ向かう途中の草は水を含み、歩くたびに裾へ小さな雫が跳ねた。

愛護は何度も包みの方を見たくなったが、今日は我慢した。

水無月は老僕が持っている。

老僕は枝物や菓子の扱いに慣れた者で、朝凪が選んだだけあって余計なことを訊かない。


山裾の東屋に着くと、朝凪は包みを受け取った。


「ここから先は足場が悪うございます。姫様には私が付きます」


いつもの言葉だった。

侍女も老僕も、もう慣れている。

『姫が小堂へ供え物を持っていく時は、細道に入るところからは朝凪のみが同道する』。

東屋で待つ者たちは、そこへ疑問を挟まない。

四年間何度も繰り返された段取りは、やがて思考の外となり、そういうものとして受け入れられる。


愛護は朝凪の後ろについて歩いた。

小堂は、山の中腹にある。

正式な法要を営むほどの場所ではない。

古く、小さく、風斎の一族のうち戦で死んだ者たちを簡素に弔うための堂である。

昔はその横手から山を下るあたりに民家があり、そこに住む者たちが参るために建てられたものだった。

屋敷の奥で暮らす愛護にとっては、本当ならほとんど縁のない場所だった。

今では、そこへ季節ごとの花や菓子を供える姫として、屋敷の中で広く認識されている。


小堂の前は、雨に洗われていた。

石段には濡れた葉が数枚張りついている。

朝凪が先にそれを払い、愛護はそのあとを慎重に上がった。

堂の扉は古いが、手入れはされている。

湿った木の匂いがした。


愛護は水無月を供えた。

朝凪に教わった通り、皿の向きを整える。

包みを解き、白い菓子が崩れていないことを確かめ、古くなっていた花の茎を紙に包む。

昨日の雨で吹き込んだのだろう、床の端に落ちていた小さな葉も拾った。


手を合わせる。

それは決して形だけではない。

ここに供えることは、山の家へ行くための名目である。

けれど、だからといって粗末にしてよいものではない。

そう教えたのは朝凪だったし、四年も経てば愛護もそれを分かっている。


誰かがあとからここを見ても、姫が来たことが分かるように。

本当に供えたことが分かるように。

ただ遊びに来たのではないと分かるように。

すべて、きちんと残していく。


堂を出ると、朝凪は別の包みを手にした。


「こちらを」


「うん」


それは、小堂へ供えたものとは別に分けておいた水無月だった。

表向きには、帰りに下げる分という名目の、愛護のための菓子。

だが実際には、美菊へ持っていくためのものだ。

愛護はその包みを見て顔を明るくした。


朝凪が低く言う。


「足もとにお気をつけください」


「わかってる」


「本日は特に」


「わかってるってば」


そう言いながらも、愛護の足は少し軽くなっていた。

小堂から先へ進むと、道はさらに細くなる。

人のために整えられた道というより、山のものに人が少しだけ通らせてもらっているような道だった。

木の根がところどころ露出し、雨で湿った土が黒く光っている。

葉の先から落ちた雫が、肩や袖にぽつぽつと触れた。


それでも、愛護はもうこの道を怖がらない。


四年前は、見えているのにまっすぐ届かない景色が不安だった。

曲がり角の向こうに同じような木が立ち、足元の石が何度も現れる気がして、道そのものに試されているようだった。

今でも、迷いの綾はある。

空気はところどころで薄く曲がり、耳へ届く音も少し遠い。

けれど愛護は、どこから内側なのか、どこで足を置けばよいのか、少しずつ覚えていた。


慣れた道だった。

慣れた道だからこそ、危うかった。


「朝凪、水無月、崩れてないかな」


「崩れておりません」


「見てないじゃない」


「先ほど確認いたしました」


「でも、坂で揺れたかも」


「揺らさないように持っております」


「美菊、こういうの好きかな」


美菊は、嫌いなものや嫌なことはあまり言わない。

けれど、嬉しいことや好きなものは、きちんと口にする。

小さな声で、少し考えてから、好きです、と言う。

だから愛護は、それを聞きたかった。


水無月を食べた美菊が、好きです、と言ってくれたらいい。

涼しいです、と言ってくれたらいい。

白い三角を、きれいだと見てくれたらいい。


考えていると、足が先へ出た。

濡れた土の上で、草履の底がずるりと流れた。


「あ」


声より先に、腕を掴まれた。

朝凪だった。

強い力ではない。けれど、逃しようのない確かさで、愛護の体を引き戻す。

包みは揺れなかった。愛護の膝も、地面へつかなかった。

ほんの一瞬、足元が抜けたように感じただけで、すぐに体は元の位置へ戻された。


けれど、朝凪の顔は険しかった。


「姫様」


低い声だった。

愛護はすぐ分かった。

これは、怒られる。


「……ごめんなさい」


先に言った。

朝凪はそれでも、すぐには手を離さなかった。


「お戻りになった時、裾に泥が跳ねていれば、奥方様は山道の奥までお入りになったと見ます」


愛護は黙る。


「膝を擦れば、なおさらです」


「うん」


「『山遊び』が危ういものだと思われれば、終いです」


その言葉は、ただ足もとを叱るものではなかった。

愛護は胸の奥で、さっきの奥方の声を思い出した。


――あまり奥へ入りすぎてはいけませんよ。


母は知っている。小堂だけで済んでいないことを。

玄冬も、雨あがりの山道を心配していた。

けれど、山で少し遊ぶくらいなら、と見逃してくれている。


怪我をしたら。

裾を泥だらけにして戻ったら。

きっと「山遊び」どころか、次から小堂へ行くこと自体が難しくなる。

朝凪が整えてくれた形も、柔らかな黙認も、すべて壊れる。


愛護は、朝凪の手元を見た。

掴まれた腕は痛くない。

けれど、その指には余裕がなかった。


「……気をつける」


「はい」


「ほんとうに。もう急がない」


朝凪はそれでようやく手を離した。


「お願いいたします」


その言い方が、叱責というより懇願に聞こえて、愛護は胸がきゅっとした。


そこから先は、ゆっくり歩いた。

水無月は無事だった。

愛護の裾も、少し湿っただけで泥は跳ねていない。

膝も、手も、どこも擦っていない。

何もなかったことにできる。何もなかったことにしなければならない。


山の家が見えたころ、愛護は一度だけ深く息を吸った。


雨あがりの山の匂いがした。

濡れた木と土と、草の青い匂い。

それから、家の中にある、火と湯の匂い。


戸口に、美菊がいた。


十五になった美菊は、前よりずっと背が伸びていた。

けれど、立っている姿は相変わらず静かだった。

黒い髪は肩のあたりで光を含み、黒い目は雨あがりの空気の中で、どこか深く見える。

愛護は最初に会ったころ、ただきれいな人だと思っていた。

今もきれいだと思う。けれど今は、それだけではない。


美菊は、こちらを見て、少しだけ目をやわらげた。


「こんにちは、ひめさま」


「こんにちは、美菊」


いつも通りに言えた。

そう思ったのに、美菊は愛護の顔を見て、それから足元へ視線を落とした。


「……道が、すべりましたか」


愛護は目を丸くする。


「なんで分かるの」


美菊は少し考えた。


「いつもより、足もとを見ておられるので」


責めるでも、心配を大げさにするでもない。

ただ、見ていた。愛護が何も言わなくても、少しだけ違うところを見つけた。

愛護は急に恥ずかしくなった。


「ちょっとだけ。転んでないよ」


「はい」


「朝凪が掴んでくれたから」


美菊は朝凪を見る。

朝凪は何も言わない。

その沈黙で、たぶん美菊には十分だったのだろう。


「濡れては、いませんか」


「少しだけ」


「では、中へ」


美菊はそう言って、戸口をあけた。


中へ入ると、座る場所には小さな布が敷いてあった。

雨あがりの日なので、裾や足元が冷えないように用意していたのだろう。

美菊はいつも、そういうことを黙ってしている。

愛護が気づく時もあれば、気づかない時もある。

今日は足を滑らせかけたあとだったから、その布がありがたかった。


朝凪が包みを置く。

愛護は、そこでようやく顔を明るくした。


「今日は、水無月を持ってきたの」


美菊が包みを見る。

それから、静かに問うた。


「小堂のぶんは」


「ちゃんと供えたよ」


愛護は少し胸を張った。


「こっちは、美菊のぶん」


美菊は、それでほっとしたように目をやわらげた。


「ありがとう、ございます」


その一言が、愛護には嬉しかった。

ただ菓子を喜ばれたのではない。

小堂へ供える分をきちんと供えて、その上で持ってきたことを美菊が分かってくれた。

そのことが嬉しかった。


皿へ移された水無月は山の家の中で見ると、屋敷で見た時よりも小さく、涼しげだった。

白い外郎は灯りを受けてやわらかく光り、小豆の色がそこへぽつぽつと沈んでいる。

美菊はしばらくそれを眺めてから、楊枝を取った。


「三角です」


「氷の形なんだって」


「氷」


「うん。夏の暑いのを払うんだって。小豆は、悪いものをよけるって」


美菊は、ふしぎそうに瞬いた。


「悪いもの」


「そう。だから、美菊にもいいかなと思ったの」


言ってから、愛護は少しだけ口をつぐんだ。

悪いものをよける。

そう言った時、何か大きすぎるものへ触れたような気がしたのだ。


美菊が何を持っているのか、愛護は知らない。

なぜこの家から出られないのかも、深くは知らない。

ただ、秘密があることだけは知っている。

朝凪が守っていること。自分も守らなければならないこと。

知らないまま大事にしなければならないものが、この家にはある。


美菊は、愛護の言葉の重さを、受け取りすぎないようにしたのかもしれない。

静かに頷いて、


「ありがとうございます」


とだけ言った。


それから、二人で水無月を食べた。

美菊は少しずつ食べる。

甘いものを口にしても、大きく笑うわけではない。

けれど、今日はいつもよりほんの少し、目の奥が明るい。

愛護はそれを見逃さなかった。


「好き?」


美菊は、少しだけ目を伏せて、もう一口食べた。

それから小さく頷く。


「好きです」


愛護の顔がぱっと明るくなった。


「ほんと?」


「はい。甘くて、涼しいです」


美菊は皿の上の白い三角を見て、また少しだけ目をやわらげた。


「ひめさまが、持ってきてくださったので」


愛護は、少し照れた。


「それも好きのうち?」


「はい」


美菊は静かに頷いた。


「だから、もっと好きです」


その言い方がまっすぐだったので、愛護はかえって何も言えなくなった。


朝凪は少し離れたところに座っていた。

湯を注ぎ直しながら、口を挟まない。けれど、全部聞いているのは分かる。

昔からそうだ。朝凪は会話に混ざらなくても、その場にいないわけではない。


美菊は、ふと愛護の足元をもう一度見た。


「痛くは、ありませんか」


「うん。大丈夫、捻ってないよ」


「よかったです」


その声が本当にほっとしていたので、愛護は少しだけ背筋を正した。


「次は、もっとちゃんと歩く」


「はい」


「水無月も崩れなかったし、裾も汚してないし、小堂にもちゃんと供えたし」


「はい」


美菊は頷く。


「ひめさまは、ちゃんとされています」


それは、昔言われた言葉と似ていた。


「きちんとした姫」の姿をを見せたいと思って、桔梗を持ってきた日。

美菊は、愛護を見て、すごいですねと言ってくれた。

あのとき愛護は、褒められて嬉しくて、すぐにいつもの調子へ戻ってしまった。


今も嬉しい。

けれど、嬉しさの形が少し違う。


ただ姫らしく座れたことを褒められたのではない。

秘密を守るために必要なことを、ちゃんとしたと見てもらえた気がした。

愛護は、少し照れながら頷いた。


「うん」


その日は、長居しなかった。

雨あがりで道が悪いこともある。

戻る刻を外せば、玄冬に何を言われるか分からない。

次のために、きちんと守らなくてはならない。

だから、今日は短く。


美菊も、それを分かっていた。

名残惜しそうにはしない。

水無月の乗っていた皿を片づけ、包みを丁寧に畳んで、愛護が立つのに合わせて戸口へ出る。


「またね、美菊」


「はい」


「次は、晴れた日に来る」


美菊は小さく頷いた。


「気をつけて、お戻りください」


「うん」


愛護はそう言って、朝凪の後ろへついた。


帰り道は、行きよりも慎重だった。

水無月の包みはもうない。けれど、だからといって急いでよいわけではない。

足を置く場所を見て、裾を持ち、濡れた木の根を避ける。

朝凪は前を歩きながら要所で振り返り、速度を落とす。


小堂へ戻ると、供えた水無月はそのままきちんと置かれていた。

愛護はもう一度だけ手を合わせた。


それから東屋へ戻る。

侍女も老僕も、待ちくたびれた様子はない。

むしろ、雨あがりの山道で姫が無事に戻ったことにほっとしているくらいだった。

愛護の裾は少し湿っているが、泥は跳ねていない。

髪も乱れていない。顔色もよい。供え物も済ませた。何も問題はない。


屋敷へ戻るころには、空はすっかり明るくなっていた。


廊へ上がる前、玄冬がいた。

待っていたようには見えなかった。たまたま、奥へ向かう途中に行き会っただけに見える。

けれど朝凪には分かった。確認に来たのだ。

戻りの刻、愛護の歩き方、裾の汚れ、顔色。

玄冬はそれらをひと目で見る。


「お戻りでございますか」


「うん」


愛護は頷いた。


「水無月、ちゃんと供えてきたよ」


「それはようございました」


玄冬は目を細める。


「雨あがりの山は、難儀でございましたでしょう」


愛護は少しだけ考えた。

転びかけたことは言わない。言わない方がいい。

けれど、全部平気だったように言うのも違う気がした。


「少し。でも、朝凪が見てくれたから大丈夫」


玄冬は静かに頷いた。


「それは何よりにございます」


それだけだった。

それから、ほんの一瞬だけ、玄冬の目が朝凪へ向く。

朝凪は深く一礼した。

言葉はない。

けれど、その一瞬だけで十分だった。

今日は許容の内側に収まった。怪我はなく、遅れもなく、屋敷へ持ち帰った乱れもない。

小堂にも供えた。姫は少し山で涼んだだけ。そういう形で、今日も閉じられる。


玄冬は何も言わず、奥へ向かった。

愛護はその背を見送り、ふう、と小さく息を吐いた。


「どうかなさいましたか」


朝凪が問う。


「ううん」


愛護は首を振る。


「ちゃんと戻れたなって思っただけ」


朝凪は少しだけ目を伏せた。


「はい、ようございました」


「もっと褒めて」


「水無月を供え、足もとに気をつけ、定刻にお戻りになったことは、よろしゅうございました」


「固い」


「必要なことを必要なぶん申し上げました」


愛護は少し笑った。


四年前なら、きっともっと大きな声で笑っていた。

でも今は、廊の先に人がいるのを知っている。だから笑いは小さく抑える。


それでも、笑えるくらいには嬉しかった。


小堂へ供えた。

美菊に渡した。

水無月は崩れなかった。

足も滑らせただけで、転ばなかった。

母にも、玄冬にも、きっと大きな心配はかけていない。


すべて、何もなかった顔で終わった。

それが、今の愛護にできる「ちゃんと」だった。


廊の外では、雨あがりの庭がまだ濡れている。

葉の先から、最後の雫がひとつ落ちた。

それが石に触れて、ほんの小さく音を立てる。

誰にも気づかれないほどの音だった。


けれど愛護には、その音が妙にはっきり聞こえた。


山の家の方でも、きっとまだ、雨の匂いがしている。

水無月の白い菓子を、美菊は少しずつ食べた。

好きです、と言ってくれた。

愛護が持ってきてくれたから、もっと好きだと。


そのことを思うと、胸の内側が静かに明るくなる。

愛護は、その明るさを外へこぼさないように、そっと息を吸った。

朝凪はその横で、何も言わずに歩いている。


濡れた庭の匂いと、屋敷の廊の乾いた木の匂いが混じる。

いつもの場所へ戻っていく足音だけが、静かに続いていた。




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