李の甘煮
「きちんとした姫の訪い」から、二日ほど経った夜のことだった。
山の家には、いつもの静けさが戻っていた。
昼の暑さはまだ家の柱や畳の奥に残っている。
けれど日が落ちると、山の夜気は思い出したように冷える。
障子の向こうでは虫が鳴きはじめ、遠くの木々が風に揺れるたび、葉擦れの音が細く入ってきた。
七月の山は、昼と夜とで別の顔をする。
朝凪は夕餉の片づけを終え、火を少し落とした。
今日は屋敷でもこれといって大きなことはなかった。
姫は機嫌よく過ごし、手習いでは一度だけ筆を持ったまま桔梗の話をしそうになって、朝凪の顔を見て慌てて口をつぐんだ。
そのあとは何もなかったように一字ずつ丁寧に書いていた。
約束を守る、ということに関してあの姫は本当によくやっている。
そう思いながら朝凪は湯呑を置いた。
美菊は、少し離れたところに座っていた。
膝の上には愛護からもらった文がある。
もう何度も読んだはずなのに、まだ折り目を崩さないように指先で押さえている。
桔梗の訪いの日から、美菊は時折その文を出して眺めていた。
字を追うというより、その紙がここへ届いたこと自体を確かめているようだった。
朝凪はそれを見ても、何も言わなかった。
言えばしまわせてしまう。
しまわせるほどのことではない。
しばらくして、美菊が顔を上げた。
「……朝凪」
「何だ」
「ありがとう、ございました」
唐突だが、そう感じさせない色があった。
おそらく、ずっと言う時機を探していたのだろう。
美菊は文を膝の上で揃え、少しだけ頭を下げた。
「たくさん、わがままを言いました」
「別に」
「言いました」
美菊は静かに言い直す。
「ひめさまに、お手紙をいただいて。きちんとしたひめさまを、見たいと、言って。わたしも、きちんとしたいと、言って」
朝凪は黙っていた。
美菊の言葉は遅い。
遅いが、今日は途中でやめる気がないようだった。
「朝凪は、いろいろ、してくれました。屋敷のことも、道のことも、お花のことも。わたしに、お迎えの仕方も、教えてくれました」
「大したことじゃない」
「大したことです」
その言い方が、珍しく少しだけ強かった。
朝凪は目を上げる。
美菊は相変わらず静かな顔をしている。
けれど、そこには譲らないものがあった。
美菊がこういう顔をするとき、朝凪はだいたい押し切れない。
「だから」
美菊は少し間を置く。
「わたしも、なにか返したいです」
「返す?」
「はい」
膝の上で、文をそっと押さえる。
「朝凪が、してほしいことは、ありますか。わたしに、できること」
朝凪は、すぐには答えなかった。
できること。
そう言われても、美菊にできることは限られている。
まず、この家からは出られない。
それだけで、できることの大半は消える。
その上、美菊は日々のことをすでにしている。
朝凪が屋敷へ下りているあいだ、家の中を整え、埃を払い、庭先の薬草を見て、火の扱いを覚え、簡単な炊事もする。
最初のころより、ずっと手つきも良くなった。
水の量を間違えなくなったし、焦がすことも少なくなった。
戸締まりも覚えている。
これ以上、何をさせるというのか。
家の修繕は駄目だ。
高いところへ上がるのも駄目だ。
刃物を多く使う作業も避けたい。
重いものを動かすのも論外だった。
できないからではない。させたくない。
怪我をしたら困る。
いや、困るなどという言い方では軽すぎる。
そもそも、元服も済ませた自分がいて、どうして子どもの美菊にそんなことをさせるのか。
美菊はこの家の中にいてくれればいい。
無理をせず、余計な危うさに触れず、日々を淡く繋いでくれれば、それだけでいい。
してほしいこと。
そう考えれば、答えはもっと簡単だった。
家にいてほしい。
ただ、家にいてくれればいい。
美菊がこの家から動かない。
その前提があるだけで、朝凪の張る策は一段も二段も楽になる。
屋敷の目を逸らす時も、山の綾を整える時も、物を運ぶ時も、愛護を通す時も、美菊がここから動かないと分かっているから組めることがある。
だが、それはもう美菊がずっとしていることだった。
今さら、してほしいなどと言うことではない。
朝凪は黙ったまま、美菊を見る。
美菊は待っていた。
急かさず、疑わず、ただ待っている。
その顔を見ているうち、胸の奥の底、一番深いところに手が届いてしまった。
――幸せに、長生きしてほしい。
言葉にすれば、それだけだった。
何かをしてほしいのではない。
何かを返してほしいのでもない。
この家で、少しでも穏やかに、できるだけ長く、何も奪われずにいてほしい。
予言に口を奪われても、家から出られなくても、その血を隠していても、それでも美菊の生が、ただ苦しく寂しいだけのもので終わらなければいい。
そう思った。
けれど、それは口にはできない。
自分たちは八年後、終わる。
予言はそこへ収束する。
逃げられない。
抗っても、備えても、遠ざけても、必ずその日へ行き着く。
美菊は十九になり、自分は二十三になり、風斎と終わる。
長生きしてくれなど、どの口で言うのか。
幸せに、など。
その言葉を差し出せるほど、朝凪は愚かではなかった。
だから、表には何も出さなかった。
ただ少し視線を外し、思い出したように言った。
「この間、李を持って帰ったろ」
美菊が瞬く。
「すもも」
「ああ」
「赤い、まるいの」
「そうだ」
数日前、屋敷の下の町で買ってきたものだった。
熟れすぎる前の李をいくつか、籠に入れて持ち帰った。
美菊はそのまま食べるには酸っぱいと言って、少しだけ目を細めていた。
朝凪は顎で台所の方を示す。
「あれ、煮といてくれよ」
「煮る」
「父さんがやってたやつ。覚えてるか」
美菊は少し考えた。
「皮を、少しだけ、切って」
「そう」
「水と、蜜を入れて」
「蜜は少しでいい。入れすぎるとくどい」
「はい」
「火は弱く。崩れる前に止める。汁は捨てるな」
美菊は、真剣に頷いた。
「覚えています」
「じゃあ、それでいい」
朝凪は湯呑を手に取る。
「明日、帰ったら食う」
美菊はしばらく朝凪を見ていた。
本当にそれでよいのか、と言いたげでもあった。
けれど、朝凪がそれ以上何も言わないと分かると、やがて小さく頷いた。
「はい」
声がやわらかい。
「おいしく、します」
朝凪は返事をしなかった。
返事の代わりに、湯を飲む。
火の落ちた部屋に、虫の声が細く差し込んでいる。
外の夜は深く、山はもう黒い。明日になれば朝凪はまた屋敷へ下り、美菊はこの家に残る。
火を見て、水を汲み、李を煮る。
たぶん、父が昔していたようにはならない。
蜜の加減も、火の止めどころも、少し違うだろう。
それでいい、と思った。
美菊が覚えていて、手を動かして、明日の自分を待つ。
それだけで、十分すぎるほどだった。
「焦がすなよ」
朝凪がようやく言う。
美菊は慎重な顔で頷いた。
「焦がしません」
その様子があまりに生真面目だったので、朝凪は少しだけ笑った。
火の気と、湯の匂いと、膝の上に置かれた文。
それから、まだ煮られていない李の、青く甘酸っぱい気配。
朝凪は何も言わずに座っていた。
言えなかった願いは、胸の奥に沈めたままだった。
けれど明日、李が煮えていれば、それでよかった。
少なくともその明日だけは、美菊がこの家で火を見て、自分の帰りを待っている。
そのくらいの未来なら、まだ望んでもよい気がした。




