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愛及屋烏花軍  作者: 司馬示朗
◾️花晨月夕──風斎の章
16/33

李の甘煮


「きちんとした姫の訪い」から、二日ほど経った夜のことだった。


山の家には、いつもの静けさが戻っていた。

昼の暑さはまだ家の柱や畳の奥に残っている。

けれど日が落ちると、山の夜気は思い出したように冷える。

障子の向こうでは虫が鳴きはじめ、遠くの木々が風に揺れるたび、葉擦れの音が細く入ってきた。

七月の山は、昼と夜とで別の顔をする。


朝凪は夕餉の片づけを終え、火を少し落とした。

今日は屋敷でもこれといって大きなことはなかった。

姫は機嫌よく過ごし、手習いでは一度だけ筆を持ったまま桔梗の話をしそうになって、朝凪の顔を見て慌てて口をつぐんだ。

そのあとは何もなかったように一字ずつ丁寧に書いていた。


約束を守る、ということに関してあの姫は本当によくやっている。

そう思いながら朝凪は湯呑を置いた。


美菊は、少し離れたところに座っていた。

膝の上には愛護からもらった文がある。

もう何度も読んだはずなのに、まだ折り目を崩さないように指先で押さえている。

桔梗の訪いの日から、美菊は時折その文を出して眺めていた。

字を追うというより、その紙がここへ届いたこと自体を確かめているようだった。


朝凪はそれを見ても、何も言わなかった。

言えばしまわせてしまう。

しまわせるほどのことではない。

しばらくして、美菊が顔を上げた。


「……朝凪」

「何だ」

「ありがとう、ございました」


唐突だが、そう感じさせない色があった。

おそらく、ずっと言う時機を探していたのだろう。

美菊は文を膝の上で揃え、少しだけ頭を下げた。


「たくさん、わがままを言いました」

「別に」

「言いました」


美菊は静かに言い直す。


「ひめさまに、お手紙をいただいて。きちんとしたひめさまを、見たいと、言って。わたしも、きちんとしたいと、言って」


朝凪は黙っていた。

美菊の言葉は遅い。

遅いが、今日は途中でやめる気がないようだった。


「朝凪は、いろいろ、してくれました。屋敷のことも、道のことも、お花のことも。わたしに、お迎えの仕方も、教えてくれました」

「大したことじゃない」

「大したことです」


その言い方が、珍しく少しだけ強かった。

朝凪は目を上げる。

美菊は相変わらず静かな顔をしている。

けれど、そこには譲らないものがあった。

美菊がこういう顔をするとき、朝凪はだいたい押し切れない。


「だから」


美菊は少し間を置く。


「わたしも、なにか返したいです」

「返す?」

「はい」


膝の上で、文をそっと押さえる。


「朝凪が、してほしいことは、ありますか。わたしに、できること」


朝凪は、すぐには答えなかった。

できること。

そう言われても、美菊にできることは限られている。


まず、この家からは出られない。

それだけで、できることの大半は消える。


その上、美菊は日々のことをすでにしている。

朝凪が屋敷へ下りているあいだ、家の中を整え、埃を払い、庭先の薬草を見て、火の扱いを覚え、簡単な炊事もする。

最初のころより、ずっと手つきも良くなった。

水の量を間違えなくなったし、焦がすことも少なくなった。

戸締まりも覚えている。

これ以上、何をさせるというのか。


家の修繕は駄目だ。

高いところへ上がるのも駄目だ。

刃物を多く使う作業も避けたい。

重いものを動かすのも論外だった。


できないからではない。させたくない。

怪我をしたら困る。

いや、困るなどという言い方では軽すぎる。


そもそも、元服も済ませた自分がいて、どうして子どもの美菊にそんなことをさせるのか。

美菊はこの家の中にいてくれればいい。

無理をせず、余計な危うさに触れず、日々を淡く繋いでくれれば、それだけでいい。


してほしいこと。

そう考えれば、答えはもっと簡単だった。


家にいてほしい。

ただ、家にいてくれればいい。


美菊がこの家から動かない。

その前提があるだけで、朝凪の張る策は一段も二段も楽になる。

屋敷の目を逸らす時も、山の綾を整える時も、物を運ぶ時も、愛護を通す時も、美菊がここから動かないと分かっているから組めることがある。

だが、それはもう美菊がずっとしていることだった。

今さら、してほしいなどと言うことではない。


朝凪は黙ったまま、美菊を見る。

美菊は待っていた。

急かさず、疑わず、ただ待っている。


その顔を見ているうち、胸の奥の底、一番深いところに手が届いてしまった。


――幸せに、長生きしてほしい。


言葉にすれば、それだけだった。


何かをしてほしいのではない。

何かを返してほしいのでもない。

この家で、少しでも穏やかに、できるだけ長く、何も奪われずにいてほしい。

予言に口を奪われても、家から出られなくても、その血を隠していても、それでも美菊の生が、ただ苦しく寂しいだけのもので終わらなければいい。

そう思った。


けれど、それは口にはできない。


自分たちは八年後、終わる。


予言はそこへ収束する。

逃げられない。

抗っても、備えても、遠ざけても、必ずその日へ行き着く。

美菊は十九になり、自分は二十三になり、風斎と終わる。


長生きしてくれなど、どの口で言うのか。


幸せに、など。


その言葉を差し出せるほど、朝凪は愚かではなかった。


だから、表には何も出さなかった。

ただ少し視線を外し、思い出したように言った。


「この間、李を持って帰ったろ」


美菊が瞬く。


「すもも」

「ああ」

「赤い、まるいの」

「そうだ」


数日前、屋敷の下の町で買ってきたものだった。

熟れすぎる前の李をいくつか、籠に入れて持ち帰った。

美菊はそのまま食べるには酸っぱいと言って、少しだけ目を細めていた。

朝凪は顎で台所の方を示す。


「あれ、煮といてくれよ」

「煮る」

「父さんがやってたやつ。覚えてるか」


美菊は少し考えた。


「皮を、少しだけ、切って」

「そう」

「水と、蜜を入れて」

「蜜は少しでいい。入れすぎるとくどい」

「はい」

「火は弱く。崩れる前に止める。汁は捨てるな」


美菊は、真剣に頷いた。


「覚えています」

「じゃあ、それでいい」


朝凪は湯呑を手に取る。


「明日、帰ったら食う」


美菊はしばらく朝凪を見ていた。

本当にそれでよいのか、と言いたげでもあった。

けれど、朝凪がそれ以上何も言わないと分かると、やがて小さく頷いた。


「はい」


声がやわらかい。


「おいしく、します」


朝凪は返事をしなかった。

返事の代わりに、湯を飲む。

火の落ちた部屋に、虫の声が細く差し込んでいる。

外の夜は深く、山はもう黒い。明日になれば朝凪はまた屋敷へ下り、美菊はこの家に残る。

火を見て、水を汲み、李を煮る。

たぶん、父が昔していたようにはならない。

蜜の加減も、火の止めどころも、少し違うだろう。


それでいい、と思った。

美菊が覚えていて、手を動かして、明日の自分を待つ。

それだけで、十分すぎるほどだった。


「焦がすなよ」


朝凪がようやく言う。

美菊は慎重な顔で頷いた。


「焦がしません」


その様子があまりに生真面目だったので、朝凪は少しだけ笑った。





火の気と、湯の匂いと、膝の上に置かれた文。

それから、まだ煮られていない李の、青く甘酸っぱい気配。


朝凪は何も言わずに座っていた。


言えなかった願いは、胸の奥に沈めたままだった。

けれど明日、李が煮えていれば、それでよかった。

少なくともその明日だけは、美菊がこの家で火を見て、自分の帰りを待っている。


そのくらいの未来なら、まだ望んでもよい気がした。





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