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愛及屋烏花軍  作者: 司馬示朗
◾️花晨月夕──風斎の章
15/31

桔梗の客座


梔子の香は、もう庭の奥へ退きはじめていた。


ついこのあいだまで、廊を渡る風には白く甘い匂いがあった。

朝の支度をしていても、昼に障子を開けても、夕方に庭先を見ても、どこかにその香が残っていた。

けれど七月も半ばへ入ると、花は少しずつ終わりへ傾く。

厚かった白い花弁は端からくたびれ、青い葉の匂いが先に立つようになった。


かわりに、庭の奥では桔梗が色を増していた。

まだ盛りというほどではない。けれど、青紫の蕾がいくつもふくらみ、ひとつふたつは星のようにひらいている。

強い香はない。目立ちすぎる花でもない。

けれど、夏の光の中で見ると、そこだけ涼しい影を持っているように見えた。


愛護はその桔梗を眺めながら、妻鳥の客が来た日のことを思い出していた。


北から来た灰の髪の一行。

よく響く笑い声。

座敷へ入ったときの、空気の変わり方。

静かな総領と、その後ろにいたよく動く人。


難しい話は、ほとんど分からなかった。

門だの裂け目だの、夜番だの、面をつけた兵だの、大人たちの話は愛護の頭には少し重すぎた。

けれど、自分がその場に座っていたことは覚えている。


ちゃんと座っていた。


膝を揃えて、手を置いて、袖をいじらないようにして、眠くならないように少しだけ爪先へ力を入れて。

話の中身は分からなくても、これは大事な場なのだと分かったから、愛護はちゃんとした。

最後には、座敷を出た途端に気が抜けてしまった。

客人に「ちゃんとできた」とはしゃぐ声が届いていたと、後から聞いて少し恥ずかしくなった。

けれど。


それでも、ちゃんとできたのだ。


愛護は庭の桔梗を見ながら、胸の中でそのことを何度も確かめた。

そうすると、何か小さな火みたいなものがぽっと灯る。

姫としてちゃんと振舞えたことが、少しだけ誇らしい。


そして、その誇らしさの先で、ふと美菊の顔が浮かんだ。


あのきれいなひとにも、見てほしい。


そう思った途端、愛護は膝の上の手をぎゅっと握った。


美菊に会ったのは、まだ三度だけだ。


最初は、山で迷って辿り着いた。

あれはもう、思い返すだけで少し情けない。

知らない山道で心細くなって、強い武家の子だと自分へ言い聞かせながら歩いていたのに、結局、朝凪に見つかって怒られた。


二度目は、逃げた馬のあとを追って、また山へ入ってしまった。

約束を破るつもりはなかったけれど、結果としてはまた迷い込んだような形になって、朝凪の顔はとても怖かった。


三度目は、梔子を持っていった。

これはちゃんとした訪いだったはずなのに、嬉しくて、たぶんずいぶん落ち着きがなかった。

花を渡せたことも、手紙を読んでもらえたことも、何もかも嬉しくて、姫らしくしていようという気持ちは途中からどこかへ行ってしまった気がする。


つまり、美菊が知っている愛護は、だいたい迷っているか、怒られているか、はしゃいでいる。

それは、なんだか不本意だった。


愛護は風斎の姫なのだ。

ちゃんとしようと思えばちゃんとできる。

お客様の前でだって、座っていられる。

挨拶だってできる。

難しい話の中でも、最後までがんばれる。


それを、美菊にも見てほしい。

それから、できれば、褒めてほしい。


そこまで考えて、愛護は少しだけ頬を熱くした。

けれど思ってしまったものは仕方がない。

褒めてほしい。あの静かな声で、すごいですね、と言われたい。


そう思うと、もうじっとしていられなかった。


その日の手習いが終わると、愛護は文机の前へ座った。

侍女たちには、今日はひとりで書くからと下がってもらった。

はじめは少し不思議そうな顔をされたが、愛護が真面目な顔をしていると、みな深くは訊かなかった。


白い紙を前に置く。

筆を持つ。


美菊へ送る文は、誰にでも見せてよいものではない。

山の家のことも、美菊のことも、屋敷の中では口にしないと決めている。

朝凪との約束は、美菊に会いたいならちゃんと守らなければならないものだった。

だから手紙は、愛護が自分で考えて自分で書かねばならない。


愛護はしばらく考えて、ゆっくり筆を下ろした。


――このあいだ、愛護はおきゃくさまの前でちゃんとできました。

――美菊にも見てほしいです。


それだけ書くと、少し物足りない気がした。

けれど余計なことを書くと、どこか危うくなる気もする。

妻鳥のことを詳しく書くのも、座敷の話を書くのも違う。

美菊に伝えたいのは、ただ、ちゃんとした愛護を見てほしいということだけだ。


書き終えた紙を前に、愛護はしばらく悩んだ。


変ではないだろうか。

子どもっぽすぎないだろうか。

美菊は読んで分かるだろうか。


けれど、これを侍女に見せるわけにはいかない。

見せられる相手は、ひとりだけだった。


「朝凪」


呼ぶと、ほどなく朝凪が来た。

いつも通り、敷居際で一礼する。

愛護が文机の前で紙を抱えているのを見るとすぐに何かを察したようだったが、顔には出さなかった。


「御用でございますか」


「これ」


愛護は紙を差し出した。


「へんじゃない?」


朝凪は一瞬だけ愛護を見た。

それから紙へ目を落とす。


文は短い。だから読むのに時間はかからなかった。

ただ、読み終えた朝凪が、ほんの一瞬だけ黙った。

その沈黙に、愛護は少しだけ首をすくめる。

叱られるほどではない。

けれど、朝凪が面倒だと思った時の間だ。


「……問題ございません」

「ほんとうに?」


「はい」


朝凪はそう答え、紙を丁寧に折った。


「美菊に渡してくれる?」


「……お預かりはいたします」


その言い方に、愛護は少しだけ眉を寄せた。


「お預かり、だけ?」


「姫様」


朝凪の声が少し固くなる。


「梔子をお持ちになったのは、つい先日のことにございます」


「うん」


「またすぐに、となれば不自然です」


「お手紙を渡すだけだよ」


「手紙を渡すだけで済めばよろしいのですが」


愛護は口をつぐんだ。


たしかに、手紙を届けてもらうだけの話ではない。

そこにはもう、見てほしいと書いてある。

できれば訪ねたい。美菊に、ちゃんとした愛護を見せたい。

そのお願いを紙へ乗せて朝凪に差し出しているのだから、ただの手紙だと言い張るには少し無理がある。


「……だって」


愛護は膝の上で手を握った。


「愛護、美菊に、ちゃんとした愛護も見てほしいんだもん」


朝凪は黙っている。


「いつも、迷ったり、怒られたり、はしゃいだりしてるでしょう」


「姫様」


「でも、このあいだはちゃんとできたよ。ちゃんとごあいさつして、ちゃんと座ってた。袖もいじらなかったし、眠くならないようにがんばった」


言っているうちに、胸の奥の誇らしさがまた少し膨らんだ。


「だから、見てほしいの」


朝凪はすぐには答えなかった。


沈黙が落ちる。

庭の方で、蝉の声が薄く鳴っていた。

まだ盛りではない、どこか控えめな声だった。


やがて朝凪は、折った文を懐へ収めた。


「……文はお渡しいたします」


愛護の顔が明るくなる。


「ほんとう?」


「ただし、次の訪いをお約束するものではございません」


「うん」


「前回から間が近すぎます。行けるかどうかは、こちらで判断いたします」


「じゃあ、いつならいいの?」


「今は、お答えできません」


きっぱりと言われ、愛護は少し不満そうに唇を尖らせた。

けれど、文を返されなかっただけでも、今日のところは十分なのだと分かっている。

朝凪はそういうところをごまかさない。

駄目な時は駄目と言うし、危ない時は少しも譲らない。

だからこそ、文を預かると言ったなら、ちゃんと美菊のところまでは届けてくれる。


「……わかった」


愛護はしぶしぶ頷いた。


「ちゃんと、美菊に渡してね」


「承知しております」


朝凪の返事はいつも通り固かったが、愛護はもうずいぶん嬉しかった。



■■



昼の暑さはまだ山肌に残っているのに、家の中には早くも夜の涼しさが入っている。

戸を閉めても、どこかから草の匂いが細く流れてきた。

遠くで虫が鳴き、近くでは湯の気配がある。


朝凪は帰ると、まずいつものように家の様子を見た。

戸の合わせ、灯り、火の始末、水の残り。

美菊はそのあいだ、座って待っている。

今日は本を広げていなかった。ただ、朝凪の手元を見ていた。


「ただいま」


「おかえりなさい」


短いやりとりのあと、朝凪は懐から文を取り出した。


「姫からだ」


美菊の目が、わずかに大きくなる。


「ひめさま、から」


「ああ」


愛護からの文は、これで二通目だった。

一通目は、梔子を届ける前の先触れだった。

訪いの理由を整えるためのもので、朝凪が危ういところを見て、必要な形に収めたものだ。

気軽なやりとりなど、できるはずがない。

だからこそ、こうして二通目が来たこと自体が、美菊には大きなことなのだろう。


美菊は両手で受け取った。

封を開ける仕草が、少しだけ慎重になる。

破かないように、折り目を崩しすぎないように、指先で紙をなぞる。

それから、ゆっくり読み始めた。


文は短い。

だが美菊は、短い文を何度も読むように目で追った。


朝凪は向かいに座り、その様子を見ていた。口は出さない。

けれど、美菊の目がどこで止まったか、どこで少しやわらいだかは分かった。


やがて美菊は顔を上げた。


「……ひめさま」


「ん」


「きちんとしたひめさまを、見せてくださるそうです」


声が、ほんの少し弾んでいた。

美菊にしては、ずいぶん分かりやすい喜びだった。


「見たいです」


朝凪は予想していた。

予想していたが、やはり実際に言われると面倒だった。


「駄目だ」


「……」


美菊の顔が、目に見えてしょんぼりした。

朝凪は一瞬だけ黙る。


「……前回から日が近い。すぐにまた同じようなことをすれば、不自然になる」


「はい」


返事は素直だった。

けれど落ち込み方も素直だった。

美菊は文を膝の上へ置き、目を伏せた。

大きく肩を落とすわけではない。ねだって泣くわけでもない。

なのにやたらと憐れに見える。


「……」


梔子の訪いから、まだそう日が経っていない。

今すぐは無理だ。続けて同じ名目を使えば、不自然になる。

屋敷の者の目も、山裾で待たせる供回りの感覚も、こちらが思うほど鈍くはない。


けれど、七月も下旬になれば、庭の桔梗が盛りを迎える。


桔梗なら、小堂へ手向ける花として軽すぎない。

強い香もなく、山の家へ少し持ち帰って挿しても扱いに困らない。

梔子とは花の姿も時季も違う。

姫がまた別の花を供えたいと言い出しても、かろうじて理屈は立つ。


朝凪は短く息を吐いた。


「……文月の終わりだ」


美菊が顔を上げる。


「桔梗が盛りになるころなら、理由はつけられるかもしれない」


美菊の目が、期待にひかる。


「では」


「約束はしない」


朝凪はすぐに釘を刺した。


「屋敷の様子を見て、危うければ流す。来られるようなら、その時は整える」


「はい」


今度の返事は、さっきよりずっと明るかった。


朝凪は内心でため息をつく。

結局、こうなる。


危ういから避けるべきだと分かっていても、美菊が目に見えて沈むとそこで切り捨てきれない。

危うさは見えている。面倒も読めている。

しかし、通せる形へ収めればよい。


駄目だと断つのではなく、時期をずらす。

無理だと退けるのではなく、名目を立てる。


それで美菊から消沈した気配は消え去ったし、朝凪としてもひとまず話はそこへ落ちたつもりだった。


それで終わるはずだった。


しかし美菊は文を膝に置いたまま、しばらく考えるように黙っていた。

そうしてから、ふと顔を上げる。


「……朝凪」


「何だ」


「ひめさまが、きちんとしたひめさまを、見せてくださるなら」


嫌な予感がした。


「わたしも、きちんとしなければいけないのでは?」


案の定だった。

朝凪は、今度こそ本当に面倒になった。


「別にいい」


「でも」


「お前は黙って座ってるだけで、それなりにきちんと見える」


美菊は全然信じていない目をした。


「朝凪。めんどうな時の顔してます」


朝凪は黙った。


「やっぱり」


「いや、」


「ひめさまは、きちんともてなされにいらっしゃるのに」


それは、当たり前といえば当たり前の発想だった。

愛護が「ちゃんとした姫」を見せに来るなら、美菊もまた、それを迎える側としてきちんとしたい。

茶を通す側。花をもらう側。座を整える側として、どう振る舞えばよいのか知りたい。


美菊は、そういうことに不慣れだった。当然だ。

家から出ない。

客も来ない。

朝凪以外の人間と話すことも今となっては、ない。


そこへ愛護が来る。

姫として、きちんとして来る。

そう考えれば、美菊が不安になるのも分からないではなかった。


分からないではないが、心底面倒だ。


「……何を知りたい」


「ごあいさつ」


「挨拶」


「お花をいただくとき。お茶をお出しするとき。座っていただくところ。お話を聞くとき」


「多いな」


「全部、だいじです」


その言い方が、あまりに真面目だった。


朝凪はしばらく美菊を見た。

美菊も、じっとこちらを見る。

黒い目には、不退転の決意があった。


「……分かった」


結局、そう言うしかなかった。


その夜から、朝凪は最低限の「迎える側のきちんとした振る舞い」を教えることになった。


戸口で、相手より先に色々喋らないこと。

花を受け取るときは、まず礼を言うこと。

枝ばかり見つめすぎると相手が困るから、礼のあとで見ること。

座へ通すときは、先に場所を示すこと。

茶は、相手の右手側へ置くこと。

話を聞くときは、相手を見てもよいが、じっと見すぎないこと。


美菊はひとつずつ真剣に聞いた。

真剣すぎて、朝凪はだんだん馬鹿らしくなってきた。

しかし愛護も美菊も、どちらもまだ子どもなのだ。

片方はちゃんと姫を見せたいと張り切り、もう片方はちゃんと迎えたいと張り切っている。

どちらも本気だから、こちらが適当に流すわけにもいかない。


「お茶は、ここですか」


「もう少し手前」


「このくらい」


「それでいい」


「ひめさまが、お話をされたら」


「聞け」


「はい」


「相槌はいつも通りでいい。多すぎると変だ」


「多く、できません」


「それはそうだな」


美菊は少しだけ困ったように瞬いた。


朝凪はそれを見て、また小さく息を吐いた。

面倒ではある。手間も増える。どう考えても余計なことを始めている。


けれど美菊がそれを望んでいるなら、朝凪は最後まで付き合うしかなかった。



■■



桔梗が盛りを迎えるころ、朝凪は屋敷での下準備を始めた。


前回と大きく変える必要はない。むしろ、変えない方がいい。

姫が季節の花を手向ける。小堂へ供える。供回りは山裾まで。そこから先は朝凪が同道する。

前に問題なく通った形だからこそ、二度目も自然に見える。


朝凪はまず、花の扱いを整えた。

桔梗は庭のどのあたりが見頃か。切っても不自然でない枝はどれか。

小堂へ供える分と、愛護が手に持つ分をどう分けるか。

老僕には、花を傷めぬようどこまで持たせるか。


次に、日取りを見た。

奥方の用向きが重ならない日。愛護の手習いが軽い日。

屋敷の内外に客がなく、妙な注目が集まりにくい日。

山裾の東屋に人を置いても、長く待たせて不審が出にくい時刻。


それから、供回りを選ぶ。

前と同じ形を保つ。口の軽い者は外す。花の供えという名目に疑問を挟まない者を残す。

年若い侍女には、姫がこのごろ手向けを大事にしている、という話をそれとなく聞かせておく。


最後に、山の綾を見た。

見られているところで大きく手を加えることはできない。

だが、道筋の歪みを薄く直し、愛護が通る道だけは過不足なく通せるようにする。

迷いすぎてもいけない。まっすぐすぎてもいけない。

人目からは遠く、けれど姫の足には過度な負担がないように。

待たせた者に猜疑が出ないように。


ひとつずつ整えていくうち、朝凪の頭の中では訪いの形がきっちり組み上がっていった。

愛護は、その細かな手順のほとんどを知らない。

ただ、朝凪が「桔梗の支度が整いました」と告げた時、ぱっと顔を明るくした。


「行けるの?」


「はい」


「美菊、待ってる?」


「はい」


「きちんと?」


「……きちんと、待っているでしょう」


愛護はそれを聞いて、急に背筋を伸ばした。


「じゃあ、愛護もきちんとする」


「左様になさってください」


朝凪の返事は固い。

けれど、愛護はもう慣れている。


その日、桔梗は朝のうちに切られた。

青紫の花は、手に取ると見た目よりずっと軽い。

香はほとんどない。

けれどその形は凛としていて、姫が小堂へ手向ける花としても、山の家へ少し持ち込む花としても、ちょうどよかった。

愛護はその枝を見て、小さく頷いた。


「きれい」


「持つ時は、花を揺らしすぎませんよう」


「わかってる」


「道中も、お急ぎになりませんよう」


「わかってる」


「本日は、きちんとした姫様をお見せになるのでしょう」


そう言われると、愛護はむっとした顔を引っ込め、真面目に頷いた。


「うん」


供回りを連れて屋敷を出る。

前回と同じように恙なく事は進み、東屋を離れると愛護は急に口数を減らした。


緊張しているのだろう。

朝凪はあえて何も言わなかった。


山の道は、夏の匂いがした。

湿った土、濃い葉、遠くで鳴く蝉の声。

春に迷い込んだ時の心細さとは違う。

いまは朝凪が前にいる。道も、きちんと道として通っている。

けれど、山の奥へ入るほど、外の音は薄くなり、代わりに愛護の胸の鼓動だけが少しずつ近くなるようだった。


今日こそ、ちゃんとする。


美菊に見てもらう。

褒めてもらう。

きれいなあのひとに、ちゃんと姫様している愛護を見てもらう。


そう思うと、足が勝手に急ぎそうになる。

愛護はそのたび、自分で少し歩幅を小さくした。


やがて見えた戸口には、美菊がいた。

いつもより、ほんの少しだけ背筋が伸びている気がした。

元々、きれいに立つひとである。

けれど今日は、そこに意識して整えたような固さが少しだけ混じっていた。


愛護はそれを見て、胸の奥がふわっとした。

美菊も、きちんとして待っていてくれた。


「こんにちは」


愛護は、いつもより少し落ち着いた声で言った。


「こんにちは、ひめさま」


美菊も、いつもより丁寧に返す。

愛護は両手で桔梗を差し出した。


「今日は、桔梗を持ってきました。夏のお花なのに、とても涼しげで、きれいだと思ったのです」


言いながら、途中でちょっと舌が絡まりそうになった。

けれど最後まで言えた。

愛護は内心で、よし、と思う。


美菊は両手で受け取った。


「ありがとうございます」


まず礼を言う。

それから花を見る。

青紫の花を眺める美菊の目がやわらいだ。


「きれい、です」


愛護は嬉しくなったが、まだ胸は張らない。

ここで終わりではない。

今日は、もてなされるところまでちゃんとしなければならないのだ。


美菊は桔梗を持ったまま、少し横へ身を引いた。


「どうぞ」


中へ促す。

愛護は草履を脱いだ。揃える。裾を直す。朝凪に何も言われる前に、ちゃんとした。

家の中へ入ると、美菊が座る場所を示してくれる。

以前より少しぎこちないが、そのぎこちなさにも、きちんと迎えようとしている感じがあった。


愛護はすすめられた場所へ座った。


膝を揃える。

手を置く。

背筋を伸ばす。


美菊は桔梗を小さな花器へ挿した。朝凪が用意していたものだろう。

背の低い器で、青紫の花が多すぎず少なすぎず、ちょうどよく収まった。

花は家の中へ入ると、外で見るよりも涼しく見えた。


それから美菊は茶を出した。

手つきはゆっくりだった。慎重で、少しだけ緊張している。

茶碗を置く位置をほんの一瞬迷ったのを、愛護は見た。

けれど美菊はすぐに直し、ちゃんと愛護の前へ置いた。


「どうぞ」


「ありがとうございます」


愛護は両手で受け取った。


ここまで、ちゃんとできている。


美菊も、ちゃんとしている。

愛護も、ちゃんとしている。


朝凪は少し離れて座っていた。表情はいつも通りだが、全部を見ていることは分かった。

愛護はそれも少し心強かった。


茶をひと口飲む。

熱すぎない。

水菓子も小さく切られて置かれている。


しばらく、愛護は黙っていた。


本当はもう喋りたい。美菊にどうだったか聞きたい。

愛護、ちゃんとできてるでしょう、と言いたい。

けれど、もう少し我慢した。

お客様の前できちんとできたのだから、ここでも少しは我慢できる。


だが、茶をもうひと口飲んだところで、限界が来た。


愛護はちら、と美菊を見た。

美菊はその視線に気づく。

愛護は言葉にはしない。

けれど目がもう、どうだった、と訊いていた。


美菊は少しだけ瞬き、それから、とても真面目に言った。


「ひめさま、すごいですね」


愛護の目がぱっと開く。


「とても、ちゃんとされてます」


その瞬間、愛護の中で、きちんとした姫の顔が全部ほどけた。


「そうでしょー!」


胸を張る。

声も大きくなる。

朝凪が何か言いかけた気配がしたが、愛護はもう止まらなかった。


「愛護、この前もちゃんとしてたの。北からお客様が来てね、つなどり様っていうの。すごく賑やかな人たちでね、でも総領様は静かだったの。あと、もうひとり、目が大きくて、すごく動く人がいてね」


美菊は頷く。


「はい」


「その人がね、愛護がちょっとだらっとしそうになったときに、こう」


愛護は自分で背筋を伸ばしてみせる。


「ってしてくれて、愛護も、はっ、てなって、ちゃんとしたの」


「はい」


「でもね、難しいお話はぜんぜんわかんなかった。門とか、山とか、見張りとか。でも大事なお話だったから、愛護、ちゃんと座ってた」


「はい」


「それでね、下がっていいって言われて、愛護ちゃんとごあいさつして出たの。でも、出たあとにね、ちょっとだけ大きい声で、ちゃんとできたって言っちゃった」


そこだけは、少し声が小さくなる。

美菊は、しばらく考えるようにしてから言った。


「それは、ちゃんとできてうれしかったから、ですか」


「うん」


「なら、よかったです」


「よかった?」


「はい。ちゃんとできたことをうれしいと思えるのは、よいことだと、思います」


愛護は目を瞬いた。


そういう言い方をされるとは思っていなかった。

恥ずかしいところだと思っていたものが、美菊の声に触れると、少し違う形になる。


「……そうかな」


「はい」


美菊は静かに頷く。


「ひめさまは、がんばったのですね」


愛護は、今度こそ嬉しくてたまらなくなった。


そこから先は、もうすっかりいつもの調子だった。


妻鳥の人たちの笑い声のこと。

風斎の屋敷がその日とても静かだったこと。

朝凪が近くにいてくれて心強かったこと。

難しい話が始まると大人たちの声が変わること。

母がとてもきれいに座っていたこと。

父が少し怖い顔をしていたこと。


思い出した順に、ぽろぽろ喋る。まとまりはない。

けれど美菊は楽しそうに聞いていた。

大きく笑うことはないが、目の奥がやわらいでいる。

相槌は短い。

それでも愛護には、ちゃんと聞いてくれているのが分かった。


朝凪は黙って見ていた。


茶がなくなった。

菓子もなくなった。

桔梗は花器の中で静かに立っている。


頃合いだった。


「姫様」


朝凪が呼ぶ。


「そろそろお戻りを」


愛護は今日は素直に頷いた。


「うん」


充分だった。

見てもらえた。褒めてもらえた。

しかも、ちゃんとできて嬉しかったことまで、よかったと言ってもらえた。

それだけで、胸の中は軽かった。


美菊は見送りに出た。

軒先まで出て、夏の光の中に立つ。

桔梗は家の中に残っている。花の色だけが、障子の奥で小さく見えた。


愛護は草履を履き、朝凪の方へ一歩進みかけて、それから振り返った。


「ねえ、美菊」


「はい」


「愛護も美菊のこと、屋敷でおもてなししたいなあ」


言ってから、愛護は少しだけ笑った。


「今日みたいに。ちゃんとお茶出して、お菓子も出して、愛護のお部屋も見せてあげるの」


美菊はすぐには答えなかった。


風が、軒先を通る。

夏の葉が揺れ、遠くで蝉が鳴いた。


美菊は愛護を見ていた。

それから、ほんの少しだけ目を伏せる。


その願いが、どれほど遠いか。

朝凪には分かる。

美菊にも、分かっている。


屋敷へ行くことなど、できない。

本家の奥へ、美菊を通すことなどできるはずがない。

風斎の正統の長子でありながら、死産とされた者を。

隠され生きている者を。

姫の客として迎える日など、来るはずがない。


それでも、美菊は少し黙ってから、静かに言った。


「……いつか、ぜひ」


愛護の顔が、ぱっと明るくなる。


「うん!」


それは約束ではない。

けれど、愛護には約束のように聞こえたのだろう。


朝凪は何も言わなかった。

ただ、愛護の歩き出すのを待ち、少し遅れて山道へ入る。

愛護は何度か振り返った。

そのたびに、美菊はまだ軒先に立っていた。

最後に木立が家を隠す直前、美菊の黒い髪が夏の光の中で細く揺れた。


綾の道へ入ると、外の音は少し遠くなる。


愛護は機嫌がよかった。

歩幅も軽い。けれど今日は急ぎすぎない。

ちゃんとした姫を見せたあとの、ちゃんとした帰り道のつもりなのかもしれない。


朝凪はその横で、黙って歩いた。


今日の訪いもうまく済んだ。

屋敷へ戻っても、何事もなかったように処理できるだろう。

桔梗は小堂へ供えた。名目も通る。

時間も、愛護が少々散策したと思える程度だ。

供回りも不審は持たない。


万事、問題ない。

そう思ってよいはずだった。


けれど、胸の底には、さきほどの言葉だけが細く残っている。


いつか。


愛護には近い未来のように聞こえたのかもしれない。

美菊には、遠い夢のように聞こえたのかもしれない。


朝凪には、叶わない願いの形をした、ひどく柔らかい刃のように思えた。


山の家の方で、戸が閉まる気配がした。


朝凪は振り返らない。


隣では、愛護がまだ少し得意げな顔をして歩いている。

夏の風が、桔梗の咲く庭の方から、かすかに青い匂いを運んでくるようだった。





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