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愛及屋烏花軍  作者: 司馬示朗
◾️花晨月夕──風斎の章
14/32

鳥声来たりて

朝のうちから、風斎の屋敷には薄い緊張が敷かれていた。


騒がしいわけではない。むしろいつもより静かだった。

廊はよく拭かれ、敷居の塵は払われ、座敷へ通じる庭石には朝露の名残すら見苦しく残らぬよう手が入っている。

白花はもう盛りをやや過ぎていたが梔子の香はまだ濃く、風がひとたび渡れば甘い匂いが廊の奥まで細く滑っていった。

大きな客が来る朝とは、こういうものだ。


とくに相手が北の妻鳥(つまどり)ともなればなおさらだった。


灰の髪、赤い目。熱と衝きの家。

声が大きく、陽気で、前へ出ることを躊躇わぬ一族。

風斎とはずいぶん肌合いが違う。

違うからこそ、迎える側はいつもより整え、言葉を選び、綻びのない顔をする。


山裾の見張りに立っていた若い兵が彼らの到着を知ったのは、馬の蹄より先に笑い声でだった。


朝の山は音をよく返す。

鳥の声も、水の音も、早い時間なら妙にはっきり聞こえる。

だからこそその朝、街道の折れた向こうから届いた人の笑いはやけに鮮やかだった。


見ると、ほどなく灰が見えた。


木々のあいだから、まず髪の色がのぞく。

風斎の赤とは違う。雪曇りを焦がしたみたいな灰だ。

その灰がいくつも連なって、街道を折れてくる。

供の数は多すぎず、ただ一目でよく統べられた一行だとわかった。


先頭には、濃い灰髪の男がいた。


若い兵は、その姿を見て、なるほどと思った。

あれが今の妻鳥の総領なのだろう、と。


いかにも主らしい仰々しさはない。

馬を無理に昂らせもしなければ、視線で周囲を圧することもしない。

ただ前を向いているだけなのに、列のまとまりが自然とそこへ吸い寄せられていた。

騒がしいはずの一族の真ん中にいて、ただひとり静かな芯になっている。


その後ろを行く少年の方は、まるで逆だった。


明るい灰の髪。大きな目がくるくると周りを拾い、供の者に何か言われればすぐそちらへ笑って返す。

遠目でも人好きのする明るさがわかる。

それでいて、ただの賑やかな若者では終わらないものが馬上の背に一本通っていた。

前へ出る家の、前へ出るための子なのだと知れる。


その二人を中心に、妻鳥の一行は風斎の門へ近づいてくる。

若い兵は気づかぬうちに襟元を正していた。



■■



風斎の屋敷の奥では、愛護がいつもよりずっと辛抱強くしていた。


髪を結われても文句を言わない。

着物の合わせを直されても身をよじらない。

膝を揃えなさいと言われれば、ちゃんと揃える。


それだけで六つの子としてはたいしたものだった。

けれど本人の胸の中では、もうだいぶ前からじっとしていられないものが跳ねている。

大きな客、北から来る客、妻鳥の総領とその後継者。

耳に入る言葉は半分もわからぬが、「大事なことが来る」という気配だけは幼い子の肌にも伝わっていた。


「愛護。妻鳥の皆様にきちんとご挨拶できますね」


奥方がそう言うと、愛護は顔を上げた。


「ごあいさつできるよ! つ、つな……どり?さまは、ごあいさつしにいらっしゃるの?」


「つまどり様、ですよ。父様と大事なお話をしにいらっしゃるのです。」


愛護は、ふうん、と喉の奥で唸り俯く。

奥方は笑うでもなく、やわらかく言った。


「愛護はまだ話の内容はわからずとも、こういう場で、人がどんなふうに話し、どんなところで空気が変わるのか、それを少しずつ知っていかねばなりません」


後ろに控えていた玄冬が、静かに続ける。


「それに、姫様が健やかにお育ちであることをお見せするのも大事なお役目です。まずはご挨拶。そしてきちんとその場にいることが本日においては重要です」


愛護は考えた末、こくりと頷いた。


「がんばる」


「頃合いを見て下がれるように、朝凪を置いておきますからね」


少し離れたところに座していた朝凪が一礼する。

それで愛護は、いくらか安心したようだった。

知らない客が来ても、わからない話が始まっても、朝凪は近くにいる。

それだけで六つの子には心強いものだった。



■■



妻鳥の一行が通されたとき、座敷の色ははっきり変わった。


風斎の赤と青の座へ、灰と赤が入る。

それだけのことなのに、室内の温度まで違って見える。


先頭の妻鳥総領・(しずか)は、濃い灰の髪と暗い赤の瞳を持つ、硬質な美丈夫だった。

いかにも妻鳥らしい押しの強さを前へ出す男ではない。

立っているだけで場の芯が定まるような、静かな威のある男だ。

騒がしい一族の中心にあってその騒がしさを抑えるのではなく、ただ受け止めて束ねているように見える。


その半歩後ろにいる少年が、妻鳥宵の甥であり次期総領に指名されている妻鳥(あかし)である。

宵より淡い灰の髪に、あかるい茜の目をしていた。

輪郭はまだ若く、肩も細い。上がった口角の面差しは一見少女にすら見える。

それでいて軽さはなく、大きな瞳には圧があった。


そして供回りが五名。うち二名は鼻梁から上を覆う面をつけている。


一行が座につくと、風斎当主と宵はまず当たり障りのない挨拶を二、三言交わした。

そののち、風斎当主が傍らの愛護へ目をやる。

愛護は小さく背を伸ばし、教えられたとおりに一歩進み出た。


「……ようこそ、おいでくださいました。風斎の愛護です。本日は、遠いところをありがとうございます」


幼い声だった。言い落とすまいとする懸命さが先に立つ。

宵は目を和らげ、愛護へ向き直った。


「ご丁寧なご挨拶を痛み入ります、姫。妻鳥を預かっております、宵にございます。本日は拝顔かなって光栄です」


その返しは幼子相手と崩すことなく、しかし十分にやわらかい。

整えられた座敷の空気の中へ、少しも角を立てずに入ってくる声だった。

愛護が小さく息をついたのを見てから、宵はあらためて風斎当主へ向き直り、深く礼をした。


「此度の急な来訪、受けていただきありがたい」


「気にするな。貴殿が自ら足を運ぶと言うのだ、軽い話ではあるまい。」


「ええ」


宵は頷く。


「北の山筋で、浅い『裂け目』が続いている。『門』と言うには小さく、禍滲も出ない。危険かどうかでいうと今のところ民に実害はない。しかし、それが続く」


差し出された図には、山裾、街道、古道、見張りの位置、村へ下る小径まで細かく記されていた。

宵はその上へ指を置きながら、淡々と話す。


ひとつを掃けば、別の筋でまた開く。

夜を越えれば明け方に、明け方を越えれば昼に出る。

綾の異変を察知しても、それが『門』となるか『裂け目』で終わるかはその時点ではわからない。

そして『裂け目』をいち早く見つけることができる『天眼』はひとりで識島全土を視ているため、どうしても明確に『門』と成り得る乱れを優先して視線を置かざるを得ない。

『裂け目』の警報は送れても、その動向を彼が長時間注視することは難しい。

であるから当然現地に領の兵が出る。

結局『門』ではないなら損害はないが、消耗する。重い備えを空振りしつづける形になる。


「気味が悪い。まるで、何かを確かめているようで」


そして宵が最後に三つ連続して示した位置は、もうほとんど風斎領との境の真上だった。

風斎当主の顔が、わずかに険しくなる。


「こちらでも、兵を退いた後に妙な引っかかりが残るときがあった。それは『裂け目』ですらない揺らぎだったが……」


「同時期の話であれば、無関係ではないと見る。だが境をまたいで同じ傾向なら、いよいよ人の勘だけでは追いきれない。『天眼』殿も、あまりに微細な綾の揺れまで追っては負担が重すぎる。彼は『門』を優先するべきだ」


そう言ってから、宵はひと呼吸おいた。

来訪の本題は報告ではない。そこへ対処するために、何を出すかの話になる。


宵は後ろへ目を向けた。


「こちらとしては、夜番と見張りの一部をこの者たちで置き換えるのが、最も損耗が少ないと見ている」


座の空気が、目に見えて硬くなった。


宵が示したのは、供回りのうちの面をつけた二名である。

華やかな細工の面は、遠目には祭礼の飾りのようにも見える。

だが武家の目には、それが生きた人間でないことはすぐ知れた。

呼吸がなく、気配がなく、そこにいるのに“生”の重みだけがない。


「……十万億土に立つ者、か、」


風斎当主の声が落ちた。


――天宿り『十万億土(じゅうまんおくど)』。


それが妻鳥宵を妻鳥総領の座につけた力――死者を甦らせる力である。


肉一片、骨一片でも残っていれば、生前の肉体を冥府の底から呼び戻し、再び立たせることができる。

剣筋も、足運びも、戦い方の癖も、武家として鍛えた肉体の記憶も残る。

命じられた通りに立ちつづけ、食事も睡眠も要らず、戦で体が損壊しても宵が生きている限りその場で再生する。

禍滲と戦うための兵としては、驚くほど完全に近い形での甦り。

しかし、戻るのは肉体のみ。

自我、感情、生前の記憶、そういった――魂と呼ぶべきものは喪われたまま、体だけがある。


あまりに、命の尊厳を踏み躙る力だった。


控えている面の兵は、相変わらずぴくりとも動かない。

愛護はそっとそちらを見た。

何か変だ、とは分かる。だが六つの子に、それ以上の言葉はまだない。


風斎当主は、しばらく黙した。


十万億土が利にかなうことは分かる。

眠らず、疲れず、壊れても宵が立つ限り立ち直る兵。

こういう散発的な事態には、これ以上なく向いている。

けれど、その向きすぎる理の裏にあるむごさも、知らぬ者ではなかった。


最初に口を開いたのは奥方だった。


「……領民の目には、あまり近づけたくはありませぬ」


責める声ではない。ただ、苦い。

それが人の自然な心であると認めた上で置く声音だった。

宵はすぐに頷く。


「村にも街道にも寄せません。山の筋、廃道、夜番。そういった人を置くには負担が重いところだけに」


当たり前のことを当たり前に言う声だった。


「すまない……こちらも、ありがたいことには違いないのだ」


当主は低く言った。


「兵を休ませられる。夜を人の身体で埋めずに済む。だが、受け止めきれぬ者も出る」


「ええ」


宵の声は揺れなかった。


「だから、今日は参った。どこまで見せ、どこから隠し、どこで出すか、最初に決めておきたかった」


そこから先は、実務の話だ。


どの古道を閉じるか。

村へ続く脇道をどこで止めるか。

鳴り石をどの位置へ飛ばすか。

夜番の刻限をどう重ねるか。

『裂け目』が同時に二つ三つ重なった時、どちらが先に兵を増し、どの時点で援兵を境越しに送るか。


話がそこまで降りるころには、愛護の肩からじわじわ力が抜けていた。

頑張って座っている。

いるが、もう限界が近い。

古道の名など子どもには全部同じ音に聞こえるし、刻限の話はもっと眠い。


その時、宵のそばに控えている燈と目が合った。


彼は大きな目を細め、にっこりと笑った。

礼を失しないぎりぎりの気安さであった。

それから、ごく自然な顔で自分の背筋をすっと伸ばしてみせる。

はっと息をのんだ愛護は、慌てて同じように背を正す。

そのやりとりを、奥方は見逃さなかった。


「愛護」


静かな声がかかる。


「もうよろしいでしょう」


朝凪がすぐ一礼し、愛護の後ろへ回る。


「失礼いたします」


愛護は小さく頷き、客人へ向けて退室の挨拶をする。

立ち上がってふと宵の方を見ると、相手はごくわずかに笑った。

幼い姫が最後まで懸命に座を保っていたことを、きちんと見ていたのだとわかる笑い方だった。


障子が閉まり、座敷の空気がひと呼吸ぶんゆるむ。

その、すぐあとだった。


「愛護、ちゃんとできた!」


愛護の声が、まだ客人に届く場所から、はっきり座敷へ転がり込んできた。

子どもらしく弾んだ、高い声だった。

姫の顔を保っていた緊張がいっぺんにほどけたのだと知れる。

すぐあとに、侍女の忍び笑いと朝凪の低く短い返答が何か続いたが、そちらは障子と廊が薄めて言葉までは分からない。


風斎当主が、思わずといったように苦笑した。


「……失礼した」


その笑みには、客前で姫が気を抜いたことへの詫びと、その気の抜け方があまりに年相応であることへの親らしいゆるみとが同時に滲んでいた。

張りつめていた座の空気が、そのひとことのぶんだけわずかにやわらぐ。

宵はすぐに首を振った。


「とんでもない。とてもよくできた姫でいらっしゃる」


答える声には、相手を立てるためだけではない実感があった。

そして、少し口もとをゆるめる。


「これがあの年頃のころなど、動いていない瞬間を見たことがなかった」


半歩後ろに控えていた燈を、目だけでそう示す。

妻鳥の供のあいだから、くつくつと忍び笑いがこぼれる。

堪えようとしているのに堪えきれぬ、喉の奥だけで転がる笑いだった。

けれどここが風斎の座敷であることも、皆よく心得ている。

だから声は決して大きくならず、ただ灰の列の端々で、小さく揺れる気配だけが伝わる。

燈は、ひどくくちゃくちゃの顔をした。


「ちょっと、総領」


「違ったか」


「違くないけどさあ」


言い返しながらも、本気で抗議しているわけではない。

昔を暴かれた気恥ずかしさの方が勝っているのが見て取れた。

その若さが、かえって場をやわらげる。

また供の者たちの喉が鳴った。

風斎の座敷でなければ、きっともっとあからさまな笑いになっていただろう。


奥方が、ふふ、と笑った。


「とてもお元気だったのですね。楽しそう」


やわらかな声だった。

燈の幼いころが目に浮かぶようだと思わずにはいられない、そんな響きがあった。


そして、その余韻のまま、奥方は続けた。


「……わたくしも、男子を育ててみとうございます」


そのひとことのあと、座の空気が一呼吸分静かになる。


風斎本家の第一子は男子であったが死産だったと、総領である宵の耳にも入っていた。

宵は、慰めめいたことは言わなかった。

ただ一拍置いて、静かに言う。


「風斎の若君であれば、きっと聡明で、落ち着いたお子でございましょう」


奥方は、ふっとその姿を思い描いたような顔をした。

それから淡く笑って、小さく頷く。


そうして場は、もう一度、もとの実務の顔へ戻った。



■■



『門』が開いた報せは、昼をいくらも過ぎぬうちに来た。


囁石の音は、座敷の空気を切り裂く。

≪『開門』。風斎領、白、イの八。西十二。規模、小。出現数、未詳。≫

そう『天眼』の声が落ちた時には、もう誰の顔にも政の色はなかった。


風斎当主が立つ。

宵もまた、間を置かずに腰を上げた。


「現場までご一緒してもよろしいか」


声音は静かだった。

問いというよりは、必要なことを必要な形で申し出ている響きに近い。

風斎当主は一瞬だけ宵を見た。

使者ではなく総領みずから来ている以上、この種の事態に立ち会いたいと思うのは不自然ではない。

まして今しがたまで話していたのは、まさに境の揺らぎのことだった。


「かまわぬ」


短く頷いてから、風斎当主は言葉を継いだ。


「ただし、地の理はまず我らが。そちらは、そのあとへ」


「承知」


宵はすぐに応じた。


「風斎が崩したところへ、こちらが打ち込もう」


そのやりとりのあいだに、燈の顔つきが変わった。

口を引き結び目の圧が際立つと、さきほどまでの明るい若者ではなく、武家の子としての鋭さがそのまま立つ。

供の者たちもまた、音もなく気配を締めた。面の兵は変わらず静謐としている。

風斎当主が座敷を出る。

宵も歩を合わせ、妻鳥の一行も乱れなくそれに続いた。




現場は山裾の街道脇だった。

斜面の中途が、爪で裂いた紙みたいに歪んでいる。

向こう側の色だけが、この世のものではない。

濁った暗色が裂け目の奥でゆらつき、そこから禍滲が飛び出してきた。


三体。

小さい門にしては、出足が速い。


風斎の兵が先に入る。

綾を薄く広げ、間合いと位置をずらす。

禍滲の爪がまっすぐ来たはずなのに、着く場所だけが半歩ぶん狂う。

踏み込んだ脚が、思っていた地面を踏み損ねる。


そこへ、燈が真正面から叩き込んだ。

手の内に集めた綾が、重い大斧になる。

輪郭が定まるや否や、もう振り下ろしている。肩口へ一撃。

返す刃で横へ払い、風斎がほんの僅かに流した禍滲の重心へ、もう一度重さを乗せる。

力任せなのではない。力を最もよく効く位置へ落とすための、妻鳥らしい豪胆さだった。


「そこ!」


燈の声が飛ぶ。

その明るさは戦場でも消えない。むしろ血の匂いの中ほどよく通る。


妻鳥の兵もそれに応じ、大ぶりの武具を次々と織る。

長柄。鎚。斧。

風斎が敵の理を静かに狂わせ、その空白へ妻鳥が容赦なく重量を落とす。

家風の違いが衝突せず、きっちり噛み合っていた。


横へ抜けた一体の前へ、面の兵が滑り込む。


避けない。


禍滲の爪が肩から胸まで深く裂いた。

肉が開き、骨がのぞく。

普通の人間ならそこで崩れる。

だが兵は止まらず、裂かれたまま腕を伸ばし、禍滲の首もとへ食らいつくように押さえ込んだ。


次の瞬きのあいだに、裂かれた肉が寄っていく。

皮膚が閉じる。

砕けた骨が噛む。

壊れたものが、まるで壊れたこと自体を認めぬように元へ戻る。

そこへ燈の斧が落ち、禍滲は崩れた。


十万億土に立つ者は、生前、宵にそれを望んだ者たちだ。

死してなお退くことをよしとしなかった、妻鳥の武人たち。

それは誇りであり、尊き信念だ。

しかし、遺された者にとってはそれだけで呑み切れぬものがある。


体は戻らぬ。声は届かぬ。壊れても終わらぬ。

ただの死よりも遠い場所に、彼らはいる。


燈の父も、とうにその列に並んでいる。

誇らしかった。尊敬している。

もう二度とその顔を見ることはなくとも、どこかでともに戦っているのだと思うと胸が熱くなる。

ただ、自分は十万億土は望まない。


なぜならこの手で宵を弑すると、燈はもうずいぶん前に決めているのだ。




最後の一体は、最初から重さが違った。

肩が高い。

腕が長い。

小門から出たにしては、明らかに質が悪い。


宵がそこへ入った。


武器は持たない。

拳と足に綾を纏わせるだけで、距離を潰す。

最初の打で軸を揺らし、返しで脇腹へ重い衝きを入れ、振り下ろされた前脚を紙一枚ぶんだけ外して内へ潜る。

だが相手も粘った。二の打ち、三の打ちで崩れきらない。


禍滲が吠えた。

空気が震える。


宵はその真正面へ踏み込んだ。

踏み込みは短い。だが短いまま、全身の重さが一点へ集まる。

拳に纏った綾が濃くなり、胸骨のど真ん中へ、寸分違わず衝き込まれた。


鈍い音がした。

巨体が仰け反る。

その刹那、風斎の綾がさらに足場を狂わせ、右から妻鳥の長柄が抉る。

開いた胴の筋へ、燈の大斧が真上から落ちた。


禍滲の形が、ついに崩れた。


その時、最後の爪が面の兵の顔を掠める。

面が割れ、半ば落ちた。


その下にあったのは、人の顔だった。


血の気のない皮膚。

光のない目。

表情が抜け落ちた、虚ろな、死体の顔。


宵の手がすぐに伸びた。


禍滲を沈めきるのとほとんど同時だった。

割れた面を押さえ、顔を隠し直す。

動きは速い。だが荒くない。

それはまるで、泣く幼子の目を覆ってやるような優しい手つきだった。




そのまま『門』は閉じ、戦は終わった。


風斎の兵が後始末に散り、妻鳥の兵は武具をほどきながら呼吸を整える。

面の兵はまた何事もなかったように立っている。

傷も、破れも、まるで最初からなかったみたいに。


屋敷へ戻った後、会談は短く詰め直された。

見た以上、もう話は早い。

今日の戦そのものが『裂け目』の連続と同一とは限らずとも、山裾が不穏である疑いは濃い。

古道をいくつ閉じるか、人目を避ける山筋をどう割るか、面の兵はいつから置くか。

さきほどまでの議論は、現実を一度踏んだぶんだけ具体になった。


そして辞する段になって、愛護も見送りに出た。

表で何かあったとは察しているのだろう。けれど深くは問わない。

ただ、灰の一行をじっと目で追っている。


宵が馬に乗る前にふと振り返ると、少し前へと出た愛護が燈に小さく手を振っていた。

燈も振り返すと、嬉しそうに笑って更に大きく手を振ろうとしたが、側付きの少年に低い声で嗜められ慌てて澄まし顔を取り繕う。

子どもはどの家でも同じだなと思った。

無邪気でかわいくて、未来に続くひかりだ。

十万億土の道の果てに、あの子たちが笑っていられる世があればいいと思う。


馬を引く。面の兵は黙して続いた。



■■



帰路に入ってしばらくすると、張っていたものがいっぺんにほどけた。


山裾の道はまだ明るい。

草の匂いが立ち、馬の蹄が乾いたところと湿ったところを交互に踏んでいく。

風斎の屋敷を離れて人目もないとなれば、もうよそゆきの顔をしている必要はなかった。


「いや、まじでさあ」


最初に口を開いたのは燈だった。


「風斎の屋敷、めっちゃ静かじゃなかった!?」


後ろの供がすぐ乗る。


「静かでしたなあ」


「やばくない? なんであんな静かなの? てか、もしかしてウチがうるさすぎんの?」


「もしかしなくとも」


「やば! 雪簇は? 月渓は!?」


別のところから笑いが上がる。


「若が三人おれば、あれくらいの静けさは吹き飛びましょうな」


「オレ三人いたら絶対たのしいじゃん」


「地獄でございます」


「失礼すぎる」


また笑いが重なった。


その前で同じように笑っていた宵が、笑いの余韻を引きずったまま「あ~~……」と声にならない声を漏らした。

顔を見ずとも燈にはわかる。あれはだいぶ疲れてる時のやつだ。

案の定、総領は馬上で背を崩せないまま、声だけひどくだらしなくした。


「あ~~~も~~~……つかれた……」


「かわいそう! 総領がお疲れだ!」


燈がすぐさま馬を寄せる。


「総領、帰ったらすぐ休みなよ」


「そうしたいのは山々なんだけどさ」


宵はぐにゃりと首を落とす。


「報告もあるし、片づけることもあるし、書付も回さなきゃいけないし」


「いやいやいや、今日だって明け方までなんかやってたじゃん」


燈は呆れたように言う。


「オレやっとくって。とりあえず書付持って、重臣(おっちゃん)とこ行けばいいっしょ?」


後ろで何人かが吹き出した。


「重臣をおっちゃんと読むな」


「だっておっちゃんじゃん。全員おっちゃん」


「全員ではございません」


「えっ、ウソ? 若干おっちゃんじゃない人いる? おばちゃんいた?」


「おやめください」


宵が肩を揺らした。笑っている。


「……いやまて」


横目を寄越す。


「明け方まで起きてたの知ってるってことは、お前も起きてたんじゃないか」


燈はしれっと答えた。


「いや、オレは超早寝早起きだっただけ」


「どの口が」


「ほんとほんと。昨日たまちゃんにさあ」


その言い方だけで、後ろの供たちの顔がすでににやつく。

燈は気にせず続けた。


「『あっくん! 明日は大事な会談なんでしょう? 早く寝ないと起きられませんよ』って言われてさァ……」


(たまき)――燈の許嫁である娘は、来年の祝言を前にもう本家へ上がっている。

歳は燈と同じであるが落ち着いていて、よく気がつく。

雑な燈の支度や段取りや、果ては生活態度まで世話を焼くのを楽しんでいるようだった。


「夕餉終わったらもうマジですぐ布団に押し込められた」


まだちょっと空明るかったもんね、と遠い目をする燈に、すかさず後ろから声が飛ぶ。


「もはや許嫁というより母君では」


「幼児?」


「愛護姫の方がまだしっかりしておられそうでしたな」


「てめ~~~らさぁ~~~~~」


燈が振り返って抗議すると、供の間から明るい笑いがどっと上がる。


「否定できる材料をお持ちで?」


「あるわ! ……あるわ!」


「なさそう」


「璉殿がいなければ会談に寝坊しておられたかもしれませぬな」


「してないって!」


「布団ごと馬上に縛って連れていくところでした」


「もう別に置いて行ってもいいのでは?」


「総領いますぐオレに人事権ちょうだい! こいつら僻地に飛ばしてやる!」


燈がぶうぶう言っているあいだも、笑いは切れなかった。

宵もその少し前を行きながら、笑いながら聞いている。

止めもしないし、煽りもしない。ただ、楽しそうだった。

疲れてはいるのだろうが、その疲れの底に、この声の多さをちゃんと好いている気配がある。


風がひとつ、山あいを抜けた。


道の右手は少し開けていて、吹きさらしになる。

草がいっせいに伏せ、馬のたてがみが流れた。

燈は何気ない顔のまま、馬を半歩だけ前へ出す。

風の当たる側へ寄り、崩れかけた路肩も先に自分が踏む位置だった。


宵はそれに気づいたようでもあり、気づかないふりをしたようでもある。

ただ、並んだ歩幅だけが少し揃う。


笑い声はまだ後ろで続いていた。



灰の一行は、そのにぎやかさごと、北へ向かって帰っていった。




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