白花の余香
山の家へ手紙を持ち帰った夜から、数日が過ぎていた。
姫が訪う日取りも段取りも、すべて決まっている。
屋敷で使う口実も、供回りの人数も、山裾で誰を待たせ、どこから先を自分だけで通すかも、一つずつ過不足なく整えた。
整えたはずだった。
それでも、その日を前にして、朝凪の胸の内は少しも鎮まらない。
戸を閉め、灯りをともして、いつも通りの夜の家に戻っても、意識だけがまだ屋敷の奥に引っかかったままだった。
自分で決めたことだ。どうせ避けられぬ接点なら、見ているところへ置く。その方がまだましだと、自分で判断した。
何度考えても、その判断に結局は至る。
なのにいざ明日が迫ると、考えは勝手に悪い方へ転がる。
万一、本家の誰かが不自然さに気づいたら。
防ぎの綾のひとところでも乱れれば。
愛護が子どもらしい無邪気さで余計なことを口にしたら。
ひとつ綻べば、その先は読めない。
朝凪は、膝の上で組んだ手にじわりと力が入るのを感じた。
向かいでは、美菊が手紙を持っていた。
もう何度も読んだのだろう。
折り目を崩さぬよう、ひどく丁寧に指でなぞっている。
朝凪が黙ったまま動かないので、美菊はやがてその様子を見て取ったらしい。
文をそっと閉じ、膝の上に置いてから、少しだけ朝凪の方へ身を向けた。
「……あきら」
呼ばれて、朝凪は顔を上げる。
美菊はすぐには次を言わなかった。
いつものように、言葉を探すための小さな間がある。
その目には、黙りこくる朝凪を気遣う気配があった。
「だいじょうぶです」
朝凪は黙っている。
「なにかあっても、わたしは、滅びの日まで、しなないので」
その言葉を聞いた瞬間、朝凪の目が暗く沈んだ。
「そうだ」
声は低かった。
「死なない。決まってるのは、死なないことだけだ」
吐き捨てるようなそれは、棘が滲む。
「生きてさえいれば、予言は成就する。美菊。予言に見えた十九のお前に、腕はあったか。脚は」
美菊は少しだけ息を呑んだ。
「……た、ぶん。あきらと、立っていたので」
「そうか」
朝凪は少しも安堵しなかった。むしろ、その返答で余計に顔つきが険しくなる。
「じゃあ――舌は。目は。臓腑は。……心は」
最後のひとことだけ、低く、切るように落ちた。
美菊は、その意味をすぐには飲み込めなかったようだった。
けれど、朝凪の顔を見たとたん、何を言われているのか悟ったらしい。
肩が小さく震える。
朝凪は視線を逸らさない。
「お前は絶対に、滅びの日まで不慮の何かで死ぬことも、風斎に殺されることもない。でも、それだけだ。本家に、あの日捨てた予言の子が生きていると露見したら、何をされるか分からない。死ねれば辛苦はそこで終わるが、お前はあと八年、絶対に死なない」
そこでいったん唇を噛んだ。
言葉を切れば収まると思ったのに、収まらなかった。
「俺は――」
喉がかすかに鳴る。
「俺は、お前が損なわれるのは、耐えられない」
部屋の中が、しんとした。
外を風が撫でていく。灯芯がわずかに鳴る。
そのどちらも、今はひどく遠かった。
美菊は、目を見開いたまま朝凪を見ていた。
十一の、外の世をほとんど知らぬ子どもには、そこまで思い及ばなかったのだろう。
死なない、という一事がどういう残酷さへも転びうることを、朝凪ほどの現実味では考えられない。
やがて、震えるような声がこぼれた。
「……ごめんなさい……」
朝凪はすぐに首を振る。
「謝らなくていい」
きっぱりと言ってから、少しだけ目を伏せた。
「……悪い。怖がらせたいわけじゃない。ただ、俺は最悪を想定して動く。これは、ほとんど習い性だ」
そこまで言えば、もう続ける言葉はなかった。
朝凪は声を落とし、最後だけいつもの調子へ戻す。
「少なくとも、今回の訪いで失敗する可能性は限りなく低い。そう整えた。――過信はしないが、今の俺が張れる最良の策だ」
美菊は、しばらく黙っていた。
やがて、ごく小さく頷く。
それ以上の言葉はなく、ただ、そのあとで手紙を胸の近くへ引き寄せた。
その仕草を見たとき、朝凪はようやく少しだけ息を吐いた。
まだ何も始まっていない。
だからこそ、始まる前に考えられるだけ考えておくしかない。
■■
明けてしまえば、夜の重さはどこにも残っていないように見えた。
庭はすでに明るく、空には雲ひとつない。
雨の季節が退いたあとの光は透きとおっているくせに妙に強く、白い壁も、敷き詰めた砂も、見たままより一段明るく映す。
風は軽く、葉の匂いは青い。
その青さの中に、梔子の甘い香だけがひっそりと混じっていた。
愛護は、その朝、いつもより早く目を覚ました。
まだ侍女に起こされる前だった。
目が開いてすぐ、今日はその日なのだと思い出し、胸の奥がふわりと落ち着かなくなる。
うれしい。
けれど、そのうれしさがそのまま身体の置き場をなくさせる。
布団の上でしばらくじっとしていても、気持ちは少しも静まらなかった。
――梔子を、持っていく。
そのことを思うだけで、胸のあたりがそわそわする。
起き上がった愛護は、昨夜のうちに枕元へ寄せておいた小さな箱を引き寄せた。
細い紐と、薄く香を含ませた包みが入っている。
香は、文を添えるときに使う程度の、ごく淡いものだ。
花に結ぶにはくどいかもしれないと思って、昨夜何度も迷った。
結局、いちばんきれいなのは花そのものだと自分で決め、箱へ戻しておいたのだが、それでも朝になればまた見てしまう。
箱の中身を確かめ、やっぱり使わないともう一度決める。
そんなことだけでも、今日はひどく大事な気がした。
表向きの理由は、すでに整えられていた。
姫が、裏山の小さな堂へ時季の花を供えたいと仰せである――そういう話になっている。
屋敷の者たちの中でも、その堂のことを詳しく知る者は多くない。
けれど、戦で死んだ一族の者へ花を手向けるのなら不自然ではないし、初夏の花がいま美しいのも事実だった。
姫がふと思い立ち、香のよい白花を供えたいと望むことは、少しもおかしくない。
供回りも、朝凪が手際よく整えていた。
屋敷を出るまでは年若い侍女がひとり、山裾までは庭方の老僕が花の扱いのために同行する。
だが、最後の細い道は足場も悪く、人が多いとかえって煩わしい。
そこから先は、護衛役として朝凪のみがつき、侍女と老僕は途中の東屋で待つ。
それが今日の段取りだった。
愛護は、その理屈の出来のよさを半分も分かっていない。
ただ朝凪が、いつもの少しも隙のない顔で「そのようにいたしました」と告げたので、そういうものなのだろうと思っているだけだった。
けれど、屋敷の者たちから見れば、姫のささやかな望みを無理なく形にした、側付きの手際として十分に通る話だった。
朝凪が愛護の部屋へ呼ばれたのは、庭師が梔子の枝を切る少し前だった。
朝凪はいつもの出仕姿で、敷居際に膝をつく。
「準備は整っております」
「うん」
愛護は頷きながらも、視線は障子の外の梔子へ向いている。朝凪はその横顔をちらりと見てから、静かに言葉を継いだ。
「本日は、あくまで供花のための外出にございます。道中、必要以上に人目を引かれませぬよう、お振る舞いにご留意ください」
口調は固い。
いつもどおり、少しの揺らぎもない。けれど、その内容は半ば念押しでもあった。
愛護は姿勢を正す。
「はい。ちゃんとする」
「よろしくお願い申し上げます」
そこで、座敷の外から別の気配が差した。
「朝からずいぶんと堅いな」
玄冬だった。
愛護が顔を上げる。
「玄冬」
玄冬は敷居の外に立ち、まず愛護へ一礼した。その動きは過不足がなく、崩れない。
「本日のお出まし承っております、姫様」
「うん。お花を持っていくの」
「左様にございますか」
玄冬はちくりと刺す。
「ただ、先の一件がございました。姫様がおひとりで抜けられるようなことが再びあっては、この玄冬、御父上にも御母上にも申し開きが立ちませぬ」
愛護は少しだけ肩をすくめたが、逆らわずに頷いた。
「今日は、ちゃんとするよ」
「それを承れれば結構にございます」
そう言いながら玄冬の目は、庭師が水を含ませた布で切り口を包んでいる梔子の枝へ向いた。
いちばん花付きのよい一枝だった。
開ききった白い花と、これからほどける蕾とがほどよく混じり、枝葉も青くつややかだ。
香はまだ強すぎず、けれど近寄ればすぐに分かる。
「時季の花を手向けられるのは、姫様らしいお心づかいかと存じます。朝凪」
「は」
「この先も同様の外出を整えるなら、毎度、今回と同じように枠を先に用意しろ。姫様の御意が、軽率な抜け出しとして見えるのは避けねばならぬ」
「承知しております」
「道は湿っていよう。足もとに気をつけろ」
「は」
玄冬はもう一度愛護に視線を戻すと口もとの緊張をわずかにほどき、それ以上は何も言わずに去っていった。
その背を見送りながら、朝凪は胸の内でひとつだけ計算を改める。
これで、今後も同じ理屈は使える。
玄冬自身の耳に入っていてなお、不自然ではないと判断された。
十分だった。
支度を終え、一行は屋敷を出た。
侍女は愛護の小さな荷を持ち、老僕は梔子の枝を抱えて歩く。
朝凪は少し後ろからつき、愛護の歩幅に合わせる。
門を出るまでのあいだ、愛護はちゃんと姫の顔をしていた。
浮き立ってはいる。けれど浮き立ちすぎてはいない。
人に問われれば「花を供えに」とだけ答え、余計なことは口にしない。
山裾の東屋に着くと、侍女と老僕はそこで待つことになった。
枝は朝凪が受け取り、愛護は草履の鼻緒を直されてから、細い道へ足を踏み入れる。
ただし、今日の道筋は、朝凪が普段ひとりで使うものとは違っていた。
いつもの近道は綾の流れの自然さを重視している分、距離は稼げない。供を待たせた状態で使うには無理がある。
朝凪は昨夜のうちに防ぎの綾を一部ほどき、人の子どもの歩で辿れる程度にだけ、道と距離の噛み合いをずらしていた。
屋敷の側から堂へ向かうらしい筋をなぞりながら、山の家へ至るには十分なように。
深くは触らない。目立たぬよう、あくまで薄く。
そして今日が終わったらすぐに元に戻せるように。
愛護は、その変化を理屈では知らない。
けれど空気が切り替わるたび、小さく息を呑んでいた。
道が少しだけ近づく。
景色のつながりが、ふと柔らかくなる。
そういう違和を肌で拾う才覚がある。
やがて木立がふっと途切れ、家が見えた。
戸口に、美菊がいた。
日の当たる場所に立つその姿は、相変わらず浮世離れしていた。
静かで、すっきりしていて、こちらが気後れするほど整っている。
けれど今は、会えたことの嬉しさがそれを上回っていた。
「……ひめさま」
美菊が呼ぶ。
その声を聞いた瞬間、愛護の顔は自然にほころんだ。
「こんにちは」
「こんにちは」
短い挨拶が交わされる。
朝凪はいつものように、戸口の位置、周囲の気配、家の内側の見え方を確かめる。
風は穏やかだ。人の気配もない。問題はない。
視線を戻すと、愛護が両手を差し出していた。
朝凪から大事そうに受け取った梔子の枝を捧げ持ち、改めて美菊へ向き直る。
「これ」
少しだけ緊張した声で言う。
「このあいだのお礼」
美菊は、枝を見る。
白い花、まだ若い蕾、青い葉。
やがて、そっと受け取った。
「……ありがとう、ございます」
その声がやわらいだのを、愛護は聞き逃さなかった。
美菊は大きく笑うことはしない。
だが、花へ向く目の静けさが、ちゃんと優しい。
「きれい、です」
「よかった」
美菊は枝を抱えたまま、しばらく見ていた。
花だけではなく、その花を持ってきた理由まで、まるごと受け取るような見方だった。
あまりにじっと見ているので、愛護の方が少しだけ気恥ずかしくなる。
「お手紙も、ありがとうございました」
その一言に、愛護は目を瞬いた。
「ちゃんと、読んでくれたんだ」
「はい」
「へんなこと書いてなかった?」
「……だいじょうぶ、でし、た」
妙に慎重に答える様子が面白くて、愛護はふふっと笑った。
■■
戸口近くの縁には、小さな膳が用意されていた。茶と菓子。
家の中へ深く通すことはしないが、追い返すつもりもない。
その加減が、いかにも朝凪らしいと愛護には思えた。
座るよう促され、愛護は嬉しそうに膝を揃える。
花を渡せたこと、それを受け取ってもらえたこと、それだけで胸がいっぱいだった。
愛護は茶碗を両手で持ちながら、ときどきちらちらと美菊を見る。
その視線の熱心さは、隠す気があっても隠しきれない。
美菊は相変わらず静かに受け止めているが、そばに梔子があるせいか、全体の気配がいつもより少し明るい。
「おうち、いいにおいだね」
愛護が言う。
「くちなしが、あるので」
そう返して、美菊は縁に置いた枝の方へ目をやる。
香が家の中へゆっくり広がっていた。
「お花、どこに飾るの?」
「どこが、よいでしょう。そういうのはあまり、しらなくて」
「ええと」
愛護は身を乗り出し、障子の脇の小さな花台を指した。
「あそこ。光がよくあたりそう」
美菊は頷き、そっと枝をそこへ移した。
白い花が静かな室内に置かれると、家そのものの空気が少しだけ変わる。
外の季節が、一枝ぶんだけこの家へ入り込んだようだった。
「きれい」
愛護が息をつく。
「はい」
その「はい」がやわらかくて、愛護はまた嬉しくなる。
朝凪は少し離れたところに控え、二人を見ていた。
今日の訪いは、あくまで量るためのものだ。
無理をさせず、余計なことも言わせず、短く終える。
そのことだけを崩さなければいい。
やがて茶を飲み終えたころ、朝凪が静かに口を開いた。
「姫様」
「はい」
「本日は、これにてお礼は十分に伝わったかと存じます」
そろそろ帰る刻だという合図だった。
愛護は名残惜しそうにしながらも、ちゃんと頷く。
「……うん」
それから美菊を見て、
「また、来てもいい?」
と訊く。
朝凪がすぐに答えた。
「私の同伴のもとであれば、差し支えございません」
愛護は目を見開いた。
「ほんと?」
「はい」
「また、お花もってきてもいい?」
「然るべき形を守っていただく限りは」
それで十分だった。
愛護はぱっと顔を輝かせる。
美菊もまた、梔子のそばでほんの少しだけ目元をやわらげた。
■■
帰り道、愛護は来たときよりずっと足取りが軽かった。
「美菊、喜んでたよね」
「はい」
「ね」
「はい」
朝凪はそれ以上何も足さない。
ただ、今日の訪いが破綻せずに済んだこと、それだけを胸の内で確認する。
愛護の機嫌がよいのは結構だが、そこにさして意味はない。
意味があるのは、余計な綻びが生じなかったことの方だ。
東屋まで戻ると、侍女と老僕が待っていた。
老僕は空になった包みを見て、無事に花を供えたのだと理解し、何も言わずに一礼する。
愛護も「ありがとう」とだけ返し、そこから先はまた姫の顔へ戻った。
屋敷へ戻り着いたのは、陽が少し傾き始めたころだった。
玄冬はちょうど廊の曲がり角で一行と行き合った。
目ざとく、まず愛護の顔を見る。
「……上機嫌でいらっしゃる」
愛護は少しだけ胸を張る。
「うん。お花、ちゃんと置いてこれたから」
嘘ではない。
玄冬はそれに頷き、今度は朝凪を見る。
「道は」
「問題ございません。姫様のお足もとに障りはなく」
「ならよい」
玄冬は一度だけ頷いた。
それから、愛護の背が遠のいたのを見て、低く言い添える。
「前のようなことを繰り返させるな。きょうの形で済むなら、その方がましだ」
「心得ております」
「お前なら抜かるまい」
それだけ言って、玄冬は去った。
■■
夜になり、勤めを終えて朝凪が山の家へ戻ると、梔子の香がまだ家の中に残っていた。
花台の上に、昼の枝がそのままある。
灯りの下で見る白は昼よりも少し冷たく、静かだった。
美菊はそのそばに座っていた。
長いこと見ていたのだろう。顔を上げるのが少し遅い。
「ただいま」
「おかえり、なさい」
朝凪は向かいへ座る。
しばらく、どちらも何も言わない。
やがて朝凪が低く口を開く。
「……ひとまず、今日のところは済んだ」
美菊が頷く。
「はい」
「思ったより、余計なことは起きなかった」
それは安堵ではない。結果の確認だった。
愛護が浮かれすぎることもなく、玄冬の目も不自然には向かなかった。
梔子を渡し、少し話し、戻る。
それだけの訪いとして、きれいに収まった。
美菊は梔子へ目を戻し、少し間を置いてから言う。
「……ひめさま、うれしそうでした」
「そうか」
朝凪の返しは淡々としている。
「お前は」
少しだけ言葉を切る。
「どうだ」
「……うれしい、です」
その答えに、朝凪は何も言わなかった。
ただ花を見た。
外の気配を、枝一本で持ち込むしかない。
そう思うと、やはり胸の底に苦いものが残る。
美菊は家から出ない。出さない。そうして守ってきた。
そして今日まで、そのやり方に間違いはなかった。
ここにいる限り、本家の目からも、余計なものからも遠ざけられる。
けれど同時に、それは軟禁でしかないこともわかっていた。
まだ十五の身で、朝凪にできることなど多くはない。
今の自分に選べる最善がこれなのだと分かっていても、その正しさだけでは飲み下せぬものがある。
「……悪いな」
ぽつりと、朝凪は言った。
美菊が目を上げる。
「なにが、ですか」
「こんなふうにしか、見せられない」
梔子へ顎を少しやる。
「外へ連れて行けりゃ、一番早いんだろうが」
言ってから、朝凪は小さく息を吐いた。
叶わないことを口にしても仕方がない。
けれど、美菊が花を見ている横顔の前では、そういう言葉が勝手に零れた。
美菊はすぐには何も言わなかった。
やがて、ほんの少しだけ体を寄せる。
触れるほどではない。
だが、いつもよりは明らかに近い場所へ座り直す。
朝凪は、その動きを目だけで追う。
美菊はしばらく黙っていたが、やがて途切れ途切れに言った。
「……ここが、すきです」
朝凪は何も言わない。
「しずかで」
「こわくなくて」
そこまで言って、美菊は少し迷うように唇を閉じた。
それから、朝凪の袖のあたりへ目を落とし、ひどく小さな声で続ける。
「……あきらが、かえってくる」
その言い方はあまりにも不器用で、飾りも何もなかった。
だからこそ、朝凪には十分だった。
「……そうか」
花台の上の梔子が、灯りの加減で白く揺れる。
昼、愛護が嬉しそうに差し出した枝を、今こうして美菊が眺めている。
それだけで、朝凪の胸の苦さは少しだけ薄くなる。
外をまるごと連れてくることはできない。
それでも、花ひと枝なら届く。
季節の匂いひとつなら、ここへ持ち込める。
愛護がこれから先も、朝凪の同伴のもとでこの家へ来るなら、そういう外の気配が少しずつ増えるのかもしれない。
ただしそれは危うさでもある。
しばらく二人で黙ったまま、梔子を見ていた。
外では、夜の風が木々を揺らしている。
屋敷の喧騒も、人の声も、ここまでは届かない。
静かな家の中に、花だけが明るい季節の匂いを残している。
美菊はまた、ほんの少しだけ朝凪の方へ寄った。
朝凪はそれを受け入れる。
言葉にならないものが、そうしてやり取りされる夜だった。
さっきまで胸にあった苦さは、なくなったわけではない。
けれど、そのまま飲み下せるくらいには穏やかになっていた。
守る方法は、まだこれしかない。
それで十分だとは思わない。
だが、今の自分にできるのがこれである以上、まずはそれを整えていくしかない。
隣の気配が、その判断を静かに肯いているように思えた。
朝凪は視線を花へ戻し、低く言った。
「……花の手入れ、確認しておく」
「はい」
「次は、もう少し蕾の多い枝でもいいかもな」
美菊はほんの少し目をやわらげた。
愛護がまた来ることを、朝凪がすでに前提に置いているのが分かったのだろう。
「……はい」
短い返事だった。
それだけで、この先も続いていく気配がある。
屋敷から山の家へ、目に見えない細い筋が、少しずつ踏み固められていく。
危うさは消えない。
だが、危ういからといって何もかもを閉ざして済む段では、もうなかった。
梔子は静かに香っていた。




