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愛及屋烏花軍  作者: 司馬示朗
◾️花晨月夕──風斎の章
22/32

春霞の俤


夕暮れどきの光は、ときどき妙に人を騙す。


障子を透かして入る最後の色がものの輪郭を曖昧にし、普段見慣れているものまで少し別のものに見せるのだ。

山の家では、それがいっそう顕著だった。

谷あいにあるせいで、陽が沈み切るより先に影が深くなる。

そのかわり、残る光は長くやわらかい。


朝凪は、その光の中で美菊を見ていた。


美菊は、窓に近いところへ座っていた。膝を揃え、手を重ね、ただ静かにそこにいる。

彼は十五になっても、どこかこの世の地に足をついていないような空気をしている。

息をしているから人だとわかるだけで、そうでなければ古い絵巻から抜け出てきたもののようにも見える。


その髪へ、光が落ちていた。

黒い髪だった。

墨を溶かしたような、濁りのない黒。

ただ暗いだけではない。光を吸い込んで、なお底に艶を残すような色だ。


風斎の子は、赤毛に青眼で生まれる。


それはこの世の理だった。

血が一滴でも流れていれば、必ずそうなる。

濃淡の差はある。赤にもさまざまあり、青にもさまざまある。

だが、風斎の子であるなら、髪は赤く、目は青い。


だから美菊は、本来ならそうであるはずだった。

本来なら。


朝凪は柱へ背を預けたまま、視線を動かさない。


町の実家を売り、この山の家へ移ってきたばかりの頃だった。

まだ十三と九つで、二人とも今よりずっと幼かった。

家の勝手を覚え、夜の冷え方を知り、ここで生きる形をどうにか作り始めていた頃だ。


その頃、美菊がぽとりと言ったのだ。

自分が黒髪黒目で生まれたのは、天宿りの代償だと。


朝凪は、いまでもその時の美菊の声音を覚えている。

いつもと同じ、起伏の少ない声だった。

重大なことを告げているのにどこか他人事のようでもあり、けれど決して嘘ではないと分かる声。


――風斎の色を、うばわれたのです。


たしか、そう言った。


その時朝凪は、正直に言えば少し拍子抜けした。


軽いな、と思ったのだ。


一族の滅亡すら予言する力の代償としては、あまりに軽い。髪と目の色が違うだけだ。

もちろん、そのせいで捨てられたのだから、結果だけ見れば軽いはずもない。

だが朝凪の感覚では、それは「代償」そのものではなかった。

代償はもっと別のところにあるように思えた。


勝手に口を動かされること。

自分の意思と関係なく、不吉を告げさせられること。

それによって心が削れていくこと。

言葉が自分のものでなくなること。

そして、雪山へ捨てられたあの寒さ。

そちらの方が、よほど重いじゃないかと思った。


けれど、今ならわかる。


黒髪黒目だから、そうなったのだ。


朝凪は、美菊の横顔を見ながら思う。

もし美菊が、風斎の色を持って生まれていたなら。


産声の代わりに災いを告げたとしても、すぐに雪山へ捨てられることはなかっただろう。

もちろん、それで平穏に祝福されたとは思わない。不吉は不吉だ。騒ぎにもなったはずだ。

だが、少なくとも、一旦は処遇が検討されたに違いない。

なにしろ、赤毛に青眼なのだ。

当主と妻の間に生まれた、待望の長子であることが一目で分かる。

そうであれば、すぐに思い至っただろう。

これは異常なだけの赤子ではなく、天宿りではないかと。


風斎は、禍滲に立ち向かってきた一族だ。

災いの予言がたとえ不可避であろうと、それをただ座して受けるような家ではない。

変えられぬとしても、知ることに価値を置く。抗えぬなら、抗えぬなりに備える。

そういう諦めの悪さが、誇りとして染みついている。


ならば、美菊は重用されたはずだった。

予言が不吉であればあるほど、なおさらだ。

あまりにも不穏な力だとしても、一族のために囲い、守り、使っただろう。

嫡子として遇し、いずれ家の中枢へ置いたかもしれない。

少なくとも、「あってはならないもの」としてそのまま雪へ葬られることはなかった。


だが、そうならなかった。


風斎の色がなかったからだ。


黒髪。

黒い目。


それは風斎において、存在しえない色だった。


当主も、妻も、見事な風斎の色をしている。

血の疑いようがない二人から、どうしてそんな子が生まれる。

不義の子ですらありえない。

風斎の血が一滴でも流れていれば、必ず赤毛青眼になる。

それがこの家の、いや四大武家の理だ。


だから、美菊は最初から「ありえないもの」になった。


筋が通らない。

理に合わない。

存在してはならない。


そこへ、産声の代わりに滅びの予言が落ちたのだ。


あれはもう、予言そのものが忌まれたのではない。

予言を告げる「その赤子ごと」忌まれたのだ。


そう考えると、朝凪はどうしようもなくやるせなくなる。


髪と目の色は、ただの色ではなかった。

風斎においては、それだけで許されるかどうかを分ける境だった。


美菊は、窓の外を見ていた。

少しして、朝凪の視線に気づいたらしく、ゆっくりとこちらを向く。


黒い瞳だった。

宵闇よりなお深い色。


朝凪はその黒へ、夕暮れの残光ごしに一瞬だけ別の色を重ねてみる。


日の落ちる前の、あわい赤。

春の空に似た、うすくけぶる青。


そうだったかもしれない髪。

そうだったかもしれない目。


喉の奥で、小さく笑った。


似合わない。

「美菊」には、なにひとつ。


美菊は、不思議そうに朝凪を見ていた。



■■



綾の傷が消えたという報せは、あまりに静かに届いた。


その朝、詰所へ戻った兵は、いつものように膝をついた。

頬には山の冷えが残り、袖の端には枯れ草の屑がついている。

春へ向かうとはいえ、山裾の朝はまだ冷える。

小堂筋へ上がる者は、帰るころには指先を赤くしていた。


「小堂筋の裂け目、確認できません」


最初、誰も声を荒げなかった。


二月のあいだ、毎日似たような報告が続いていたのだ。

広がりはない。門にも至らない。屋敷筋へ寄せた揺らぎに変化なし。

見張りは配置どおり。面の兵は開けた斜面にあり、古道側へは近づけていない。


その繰り返しの中で、不意に落ちた言葉だった。


朝凪は報告書へ目を落としたまま、しばらく動かなかった。


「見落としでは」


「玄冬様もご確認を」


兵は短く答えた。


詰所の空気がそこでわずかに変わった。ざわつきではない。

武具の手入れをしていた者の手が止まり、誰かが火鉢の灰をつつく音だけが、やけに小さく響いた。


傷が消えた。

その事実は、喜ばしいはずだった。


小堂筋に残っていた綾のざらつきは禍滲が這い出す口ではなく、この世の肌へ細く残った傷のようなものだ。

それでも、そこにある限り見張らねばならなかった。

小堂は姫が季節のものを供えに行く場所であり、その奥には人に知られてはならぬ道がある。


だから朝凪は、この二月、毎日の報告を聞いてきた。


面の兵が古道側へ寄っていないか。

揺らぎが奥の綾へ触れていないか。

小堂そのものに異変はないか。


傷が残っているあいだは、少なくともそこを見張ることができた。

危ういものには形があり、形があるものには兵を置ける。

だが、消えたとなれば話は別だった。


消えた理由が分からない。

それは、消えたという事実より長く朝凪の胸に残った。


翌日も、その翌日も、風斎の者たちは小堂筋へ上がった。

玄冬も二度足を運び、詰所の年嵩の兵も確認し、朝凪もまた姫付きとしてではなく風斎の武家の一人として現場へ呼ばれた。


小堂は春の薄い光の中にあった。

冬のあいだ縮こまっていた草が、石段の脇で少しずつ青みを取り戻している。

供えられていた花は何度も替えられていたが、姫が来ない小堂はどこか人の気配が浅かった。

堂の前は掃かれている。水も替えられている。

けれど、季節のものを自分の手で置いていた愛護の気配だけが欠けているようだった。


傷のあった場所には、何もなかった。

本道と古い山道の近く。屋敷筋へ揺らぎを寄せ、見張りを置いたあの一帯である。

冬のあいだ、皮膚の裏へ触れるように残っていた冷たい筋は消えていた。

初めからそこには何もなかったように、綾の流れはなめらかだった。


朝凪は膝をつき、土へ指を置いた。

冷たさは、春の土のものだった。綾のざらつきではない。


「どうだ」


玄冬が横から問うた。


「残りは見えません」


朝凪は答えた。


「ただ、消え方が分かりません」


玄冬はしばらく黙っていた。

風が小堂の古い扉を撫でる。

きしむほどではない。ただ、木の表面を薄く指でなぞったような音がした。


「分からぬことは残る」


玄冬は言った。


「だが、残っておらぬものを残っているとは扱えない」


それは、結論だった。

慎重な言い方ではあった。見張りをすぐに全て解くわけではない。小堂筋の巡回も続ける。

だが、姫の参詣をいつまでも止める根拠は薄れた。

消えたものは消えたものとして扱うしかない。


朝凪は頭を下げた。


「承知いたしました」


声は、いつも通りに出た。

けれど山を下りる時、朝凪は一度だけ古い山道の方を見た。

見れば意識を置くことになる。そう分かっていても、見ずにはいられなかった。

冬のあいだ、外縁へ爪をかけられた場所。

面の兵が、迷いの綾をほとんど踏み越えかけた場所。


今は何もない。

何もないことが、かえって気味悪かった。





数日を経て、小堂参りの再開が許された。

大仰な許可ではない。

奥方から愛護へ、今度のよい日に季節のものを供えに行ってもよいでしょう、と穏やかに告げられただけだった。

だが、愛護の胸にはそれだけで春の水が流れ込んだようだった。

もちろん、顔には出しすぎないようにした。


十歳の愛護は、もう六つのころのようにその場で跳ねたりはしない。

嬉しければ嬉しいほど、まず膝の上の手を揃える。

目だけが明るくなり、それを侍女に見られてはっとして、また少し姫らしい顔へ戻す。


朝凪は、その様子を少し離れて見ていた。


愛護はこの二月、ただ黙っていただけではない。

小堂の先を案じていることは、朝凪にも分かっていた。

美菊の無事を知りたがっていることも、山の家へ行けぬ日々を数えていることも、分からぬはずがなかった。

それでも愛護は、人前で一度も名を出さなかった。

小堂の花は、と訊くことはあっても、その先にいる相手のことは決して口にしない。

朝凪が答えられる範囲を越えぬように、子どもなりに線を引き、その線の内側でずっと堪えていた。


秘密を守ることだけなら、愛護はもう四年続けている。

けれど、会えない不安がそこに重なってもなお同じように口をつぐみ切ることは、ただの聞き分けとは違った。

守るべきものは約束ではなく、その先にあるものだと分かっている者の態度だった。


「姫様」


朝凪が呼ぶと、愛護はすぐ顔を上げた。


「はい」


「当日は、私の指示から外れぬようお願いいたします。道は改めて確かめながら進みます」


「分かってる」


愛護は真面目に頷いた。

少しだけ間を置いてから、小さな声で付け足す。


「ちゃんと、待ってたもの」


朝凪は、その言葉へすぐには返せなかった。

結局、頭を下げるだけに留めた。





参詣の日は、薄曇りだった。


春の空にしては光が弱く、けれど冬の雲ほど重くはない。

供えに選ばれたのは、白梅の枝と淡い色の菓子だった。

小堂へ供える分と、山の家へ持っていく分。

愛護は包みを何度も見たが、前のようにあれこれ口には出さなかった。


小堂までは、以前より供が多かった。


そこから先は、いつも通りには進まなかった。

朝凪はまず小堂の前で供えを整え、風向きと人の位置を見た。

見張りの兵の目がどこへ向いているか、本道側に置かれた者がどのあたりまで気配を拾っているかを確かめる。


愛護は黙って待った。

待ちながら、小堂の奥の道を見ないようにしていた。

そこを見すぎれば、何かがあると自分で言っているようなものだ。

だから愛護は花の前で手を合わせ、いつもより少し長く目を閉じた。

祈っているふりではない。小堂へ供えているのだから、祈ることそのものは嘘ではない。

ただ、その祈りの奥には、別の顔があった。


美菊に会えますように。

美菊が元気でいますように。


朝凪が戻ってきた。


「参りましょう」


その一言で、愛護は息を吸った。


山道は、冬のころより少し明るくなっていた。

枝の先には芽があり、土は湿り、ところどころに若い草が出ている。

けれど、傷のあったあたりを通る時、愛護は胸が少し冷えた。

自分には朝凪たちほど細かくは分からない。

それでも、朝凪の背がわずかに固くなったことは分かった。


何もない場所を、朝凪はとても慎重に通った。

それが、怖かった。

危ないものが見えている時より、何も見えないのに気を張っている時の方が愛護には怖く思えた。

けれど口には出さない。

裾を乱さぬように歩き、朝凪が止まれば止まり、進めば進む。


やがて、道の気配が変わった。

空気が薄く折れるように、外の山が少し遠ざかる。

迷いの綾の層を越えたのだと、愛護にも分かった。


山の家が見えた。

戸口に、美菊が立っていた。


それだけで、愛護の胸の中にためていたものが一気にほどけた。

呼びたい。駆け寄りたい。けれど足元は山道で、朝凪が前にいる。

だから一歩だけ早くなったところで、どうにか踏みとどまる。


美菊がこちらを見た。


普段、美菊の表情は大きく動かない。

嬉しい時でも、目元が少しやわらぐくらいで、声も静かだ。

だからこそ、その時の笑みは愛護の胸にまっすぐ入ってきた。


くっきりと、やわらかかった。


会えたことを喜んでいると、隠しようもなく分かる顔だった。

声にするより先に、目元と口元がほどけ、そこに親しみが灯る。

美菊はすぐにいつもの静けさへ戻ろうとしたが、戻りきる前の一瞬を愛護は見た。


あれ、と思った。


どこかで見たことがある。


けれど、その考えはすぐに消えた。

消えたというより、嬉しさに押し流された。

美菊が笑ってくれた。自分を待っていてくれた。

そのことだけで胸がいっぱいになり、愛護はもう我慢できなかった。


「美菊!」


「こんにちは、ひめさま」


美菊の声も、いつもより明るい。

愛護は山の家へ上がると、すぐ喋り出した。

小堂の傷が消えたこと。けれど朝凪がまだとても慎重だったこと。

綾の稽古を始めたこと。

手のひらの上に刃のようなものを作ろうとして、くにゃっと曲がってしまったこと。


話したいことは、いくらでもあった。

美菊は一つずつ聞いた。

相槌は多くない。けれど、きちんと聞いている。

愛護が綾の刃の形を手で示すと、少し目を細める。

朝凪に淡々と駄目出しされた話をすると、ほんの少し口元をゆるめる。


「それでね、あと、本も読んでるの。天宿りの本。屋敷の本はすごく固いんだけど、朝凪が町で物語の本を買ってきてくれたの」


「よかったですね」


「うん。でも今日は、その話より先に」


愛護は座敷の端を見た。


「栞。見せて」


美菊はすぐに頷いた。立ち上がり、奥の棚から文箱を持ち出す。

小さな箱だった。よく手入れされていて、蓋を開ける時の指先はとても丁寧だった。


愛護は、その手元を見ていた。


文箱の中から本が出てくる。

愛護と美菊が少しずつ読んでいた本だった。

赤い花びらの栞は、前に挟んだ場所にそのままある。

美菊は本を抱えるようにして持ち、畳の上へ置いた。


その手つきで、愛護は急に別の部屋を思い出した。


母の部屋。

冬の光。

古い箱の底から取り出された、小さな衣。


母はあの時、とても静かに布を撫でていた。

泣いてはいなかった。

けれど、大事なものを傷つけないように、長くしまっていたものを久しぶりに光へ出すように、そっと扱っていた。


美菊の手元は、それに少し似ていた。


同じ仕草ではない。

けれど、大事なものをしまっておいた場所から出す時、人はこういう手になるのかもしれない。

愛護はそんなふうに思った。


「ちゃんと、あった」


愛護が言うと、美菊は不思議そうに目を上げた。


「はい。ここに」


「持って帰れないから、ここにあるのは分かってたけど。見たかったの」


美菊は本を少しだけ愛護の方へ向けた。

赤い花びらは、紙のあいだで少し色を落としていた。

けれど、かえって落ち着いた色になっている。

愛護はそれを指先で触れたかったが、潰してしまいそうでやめた。

代わりに、本の端をそっと撫でる。


「母様のお部屋にもね、箱があったの」


口にしてから、愛護は少しだけ声を落とした。


「小さい衣が入ってたの。愛護より前の子に用意してたものなんだって」


美菊の手が、わずかに止まった。

朝凪も黙ったままだった。


愛護は、その沈黙の意味を深くは考えなかった。

久しぶりに会えた美菊へ、聞いてほしいことが多すぎた。

小堂に来られなかった冬にあったことを、ぜんぶ話したかった。


「男の子だったんだって。愛護の、あにさま。」


美菊はゆっくり瞬きをした。

その目が、ほんの少しだけ朝凪の方へ動いた。

愛護は本を見ていたので、それには気づかなかった。

朝凪は湯呑へ手を伸ばしかけ、途中で止めた。

止まったのは一瞬だった。すぐにいつも通りの手つきで持ち上げる。


「……そう、ですか」


愛護は頷いた。


「あにさまって、どんな感じなんだろうね」


それは、見たことのないものを想像する時の声だった。

憧れに少し似ていて、けれど深刻ではない。

遠くの国にはどんな花が咲くのだろう、と問うのと同じ温度だった。


美菊は答えなかった。

答えられなかったのではなく、答えを選んでいるように見えた。


愛護は待たずに続ける。


「愛護、美菊みたいなあにさまがほしかったかも」


朝凪の目が、わずかに動いた。


「一緒に本を読んで、一緒にお散歩して、一緒に朝凪に『なりません』って言われるの」


言いながら、愛護はその光景を本当に思い浮かべていた。


屋敷の部屋で本を読む。

美菊がゆっくり字を追い、愛護が先を急ごうとして怒られる。

外へ出たいと言えば、朝凪が「なりません」と即座に言う。

それでも二人で顔を見合わせて、少しだけ、と頼む。

きっと朝凪は渋い顔をする。


楽しい空想だった。


美菊は、その空想を静かに聞いていた。

目元が少しやわらぐ。

さっき戸口で愛護を迎えた時の笑みより、ずっと淡い。

けれど、そこにも確かに何かがあった。


「……それは」


美菊は言葉を探すように、一拍置いた。


「たのしそう、です」


「でしょう!」


愛護はぱっと笑った。


美菊は朝凪を見た。

朝凪は視線を返さない。

湯呑を置き、火鉢の灰を少し直す。

そうしている間に、山の家の空気は何事もなかったように戻っていった。


愛護はそれに気づかなかった。

あるいは、気づいても、何かが変わったと名づけるほどではなかった。

久しぶりの山の家にいて、美菊がいて、栞があって、本があって、話したいことがまだいくつもある。

その中で、一瞬の沈黙は小さく沈んだ。


ようやく本が開かれた。

前に読んだところからだった。栞をそっと外し、横に置く。

愛護は少し身を乗り出し、美菊はいつものように静かに文字を追った。

朝凪は少し離れたところで、二人を見ていた。


本の内容は、愛護の頭へ半分ほどしか入らなかった。

嬉しさで胸がそわそわしている。

美菊が笑ってくれたこと。栞がちゃんと残っていたこと。小さい衣の話を聞いてくれたこと。

美菊みたいな兄がいたら楽しいだろうと思ったこと。

それらが、春の薄い光の中で、ひとつずつ重なっていた。


帰りの刻は、いつもより早く来たように思えた。

愛護は名残惜しかったが、駄々はこねなかった。

朝凪が「そろそろお戻りに」と言えば、頷く。

美菊は本を閉じ、栞を戻し、また文箱へしまった。


その手元を、愛護はまた見ていた。


大事なものをしまう手。

箱の底へ衣を戻した母の手が、また少しだけ重なった。


「また来るね」


「はい」


美菊は答えた。


「お待ちしています」


戸口まで出て見送ってくれる美菊の顔は、もういつもの静かな顔に戻っていた。

けれど愛護には、最初に見た笑みがまだ残っていた。

あのやわらかい顔。会えたことを、ちゃんと喜んでいる顔。


どこかで見たことがある。


そう思ったのに、やはりまだ分からなかった。




屋敷へ戻るころには、夕方の光が廊の奥まで伸びていた。

奥方は、愛護の帰りを待っていた。心配していたのだろう。

けれど表には出さず、愛護が部屋へ入るといつものように穏やかに迎えた。


「おかえりなさい、愛護」


その声を聞いた途端、愛護はほっとした。


「ただいま戻りました」


きちんと頭を下げると、奥方がふっと微笑んだ。

その笑みを見て、愛護は足を止めた。


愛情のにじむ、やわらかい笑みだった。


大事な者が無事に戻ってきたことを喜ぶ顔。

声に出して騒ぐわけではなく、抱きしめるわけでもない。

けれど目元と口元に、隠しきれない安堵が灯る。


山の家の戸口で美菊が見せた顔が、不意にそこへ重なった。


愛護は瞬きをした。


「どうしました」


奥方が不思議そうに問う。

愛護は慌てて首を振った。


「なんでもありません」


そう答えた声は、少しだけ遅れた。


愛護は奥方のそばへ座った。

小堂に行けたこと。花を供えたこと。山道はまだ少し春が早かったこと。そういう、言える話だけをした。


奥方は静かに聞いてくれた。

愛護は話しながら、時折その顔を見た。



そしてそのたびに、山の家の戸口でこちらを見ていた美菊の笑みを、思い出していた。





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