最終話
五日後、州城内の船着き場には珪己の姿があった。
珪己が隠すように胸に抱いているのは布に包まれた子供だ。
吹きつけてくる風の冷たさに珪己は額の前に手を掲げ、そして目を細めた。
この街を取り囲む山々の頂にはいまだ雪が積もっている。そこから吹き降ろされてくる風は氷の粒を含んでいるかのように冷たい。だが少し視線をずらせば、川のほとり、五分咲きの梅が香っている。長らく冬将軍が支配してきたこの街にも春がやってこようとしていた。
この船着き場は貴賓専用だ。また、城内ゆえに、集う者はごくわずかだった。珪己と、侑生と。それに彼の部下数名だけだ。他にも同伴してきた部下はいたが、大半はすでに開陽へと戻っている。隼平もしかりだ。
「珪己殿」
侑生がそっと近づいてきた。
その紫の袍衣から香る白檀に、珪己は時の流れを感じた。この人のそばに近寄るたびに、近寄られるたびに、白檀の香りがしていたことを。その都度鼓動が早まっていたことを。だが再会して以来、今日この時まで珪己は白檀の香りに気づいていなかった。あの頃の珪己ではありえない鈍感さだ。
だがそれも恋することを、愛することを知ってしまったからだろう。
一度知ってしまえば、香りや距離ごときで胸が高鳴ることはないのかもしれない。
「珪己殿。船出の準備が整ったようです」
促され、珪己は差し出された手をとった。
その手に触れても珪己の胸は弾まなかった。
*
前日も珪己は侑生に手をとられて州城を出ている。屯所、そして晃飛の家を訪れている。どちらも全焼したというのは本当で、屯所の方では多くの人間がいまだ片づけや整備に追われていた。焼けた建物は崩され、更地になっていた。
そこで珪己は一人の男を紹介された。
「俺はあなたのおかげで命拾いをしました」
そう言った男は、顔は覚えていないが、イムルになぶられていたところを珪己の登場によって救われたのだそうだ。
「俺と、あと俺の仲間が二人、今もこうして生きているのはあなたのおかげです。俺達、怖くてあなたを置いて逃げてしまって……そのことをずっと後悔していました。あなたは勇気を出してあいつと剣を交えてくれたのに……。でも今日、こうしてあなたと会えて胸のつかえがとれました。あなたも無事だったんですね」
涙でぐしょぐしょの顔――なのに満面の笑みを浮かべる男に、珪己はかける言葉をみつけられなかった。喜んでいいのか、悲しんでいいのか。腹を立てていいのか、誇っていいのか。珪己にはわからなかったのである。
次に訪れた晃飛の家は、家主不在のせいか、焼け落ちたままの状態で放置されていた。そこで珪己は思い出の品となるものをいくつか拾い集めた。愛用の食器、金属製の箸、そんなものを。道場では灰にまみれた短剣と長剣を拾った。短剣は珪己が、長剣は仁威が稽古に使っていたものだ。晃飛や氾兄弟のものは見つけることができなかった。
自室では母の形見の琵琶も見つけた。筐体の表面は焼け焦げ、弦はすべて切れていたが、手を入れればもう一度使えるようになりそうだった。
この家で弾いた数々の曲を思い出し、珪己はたまらず涙をこぼした。その時そばにいた人、その人へ抱いた想い、何もかもが愛おしくて――。
*
こぎ出された船は街中を進み、やがて大河へと出た。
一度流れにのった船は、あとは動力なしで自然に進み始めた。緩やかな流れながらも、川は船を東へ――開陽へと導いていく。
珪己は船内から出ると遠ざかりつつある零央の街を見やった。
晴天のもと、街に健在する幾多の建屋がきらきらと照り輝いている。その輝きは珪己の胸をしめつけた。あの光は、輝きは――珪己にとっての青春そのものだったからだ。
あの街で知り合った人々、知った事柄。そして――初めての恋。何もかもが光り輝いている。たとえすべてを失おうともあの輝きがこの胸から消えることはない……。
涙ぐみそうになり、珪己はぐっとこらえた。
(ううん、違う)
(私はすべてを失ったわけじゃない)
ただ一人の愛する人を喪失し、今も心は悲鳴をあげている。だがすべてを失ったわけではない。愛はまだこの胸にある。この胸の中で仁威は生きている。確かに存在しているのだ。
晃飛も空斗も空也も――たとえ二度と会えなくても思い出はこの胸の中にずっと生き続ける。もしも運命がゆるしてくれるなら、いつかまた会えるはずだ。
そして――この腕の中には子供がいる。
護るべき子供がいる。
独りであれば零央でわびしく朽ち果てていたかもしれない。絶望に溺れて静かに息絶えていたかもしれない。だが自分の感傷めいた最期に子供を巻きこむわけにはいかなかった。子供のこれからを思うのであれば、親としてはよりよい選択をするしかない。いや、そうしたいと珪己は本心から思っていた。愛に殉じたいほどに仁威のことを乞うてはいるが、子供の存在がある以上……それはできない。
あの街に残ることも考えた。何度も考えた。零央に残り、仁威と過ごした地に骨をうずめたいという願望は……今も正直ある。仁威が生存しているという一縷の望みにかけるならば、零央の街がもっともふさわしい。だがこの街で自分ひとりで子供を育てきる自信は珪己にはなかった。商才もつても何もない自分が生きていくには、いまだ荒涼とした雰囲気に満ちた零央ではとても厳しく映った。
以前逗留していた宿の夫婦のことは頭をかすめた。あの人たちなら助けてくれるはずだ……と。だがすぐに考えをあらためた。現皇帝の血をひく我が子を自分ひとりで匿い続けることなど、もとよりどうあがいても不可能なのだ。いつかは誰かにばれる。侑生のような聡い人間に遭遇すればそれで終い、泡沫の生活には安寧などない。
そして、仁威が生きている可能性に懸けるということは、イムルが生きている可能性についても目をそらすわけにはいかないのである。
ならば――珪己が選べる未来は。
*
珪己と、子。そして侑生と。
三人を乗せた船は、三人を次の舞台へと導くかのように川面を進んでいく。
その先に何が待ち受けているとも知らずに。
【放浪篇 完】
放浪篇全五巻、ようやく完結できました。
特に今回の五巻は連載開始から完結まで丸一年かかってしまい、リアルタイムで追いかけてくださった方にはご迷惑をおかけしました。
これまでは完結したものをなろうに取り込み、あとは推敲をしつつテンポよく公開していたのですが、本作、五巻は後半部分をまとめるのに苦労し……申し訳ありませんm(_ _)m
さて、放浪篇はいかかでしたでしょうか。
以下、ネタバレを含むのでお気をつけください。
----
このくらい離れていれば大丈夫でしょうか。
放浪篇では、地方を舞台にすることと、改めて自分というものを(人間としても武芸者としても)見直すことを決めて書き出しました。
それと、珪己と仁威の関係を発展させることも重要な要と考えていました。
楊武襲撃事変での罪を決死の想いで打ち明ける仁威。
そんな仁威のことを「大切な人」だと言い切った珪己。
そこから二人の恋心が膨らんでいきます。
開陽から離れた場所にいることも、恋が育つ理由となりました。
(珪己本人はそうは思っていないのですが。放浪篇3後半あたりに記載あり)
少女篇1のあとがきでも明言していますが、本作はダブルヒーローものです。
ただ、単純な逆ハーものとか、二人の男性の間でゆらゆらと揺れるヒロイン像にするつもりはなく。
(これからもそういうふうにする予定は今のところないです)
どちらかというと、よくある女性の人生、人との出会いや繋がりを描こうと思っていました。
幾人もの男性がその都度、状況毎に目の前に現れるというのは、人生において至極自然だと思いませんか?
別れがあれば出会いがあり。
出会いがあればまた別れもあり。
ずっと一緒にいたいと願ってもそれが叶わないこともあり……。
なので、放浪篇は仁威との関係を深めるための作品といっても過言ではありませんでした。
そして次は侑生の番だと考えています。
そう、実はこの剣女列伝シリーズは三部作構成にしようと前から思っていたのです。
〇〇篇の、〇〇に入る言葉はまだ決めていません。
今のアイデアだと狂乱篇、とか?
政治的にも、戦闘的にも、愛憎的にも、濃いめというか、ぐちゃぐちゃした感じ、混沌とした感じにしようかなと漠然と思っています。
珪己ももう少女とたとえるには成長していますし^^
剣女列伝シリーズ、「剣女」という言葉は「闘う女性」という意味で使っているのですが、実際に珪己が実戦で剣を使ったのはこの放浪篇5だけなので、次の篇ではもう少し剣を持たせてもいいかなーと思ったり。
あ、最終篇では舞台はまた開陽に戻そうと決めていましたが、中身はまだほぼ白紙です。
侑生や玄徳、皇族の人々や官吏、そういった懐かしの面々が再登場することくらいしか決まっていません。
なので次の篇の公開は一年以上先になるのではないかと予想しています。
篇の最初を書くのはけっこう大変なのです。
設定をあらためて考えなくてはいけないので。汗
ただ、Side storyの方に放浪篇に関する短い話を投稿する予定はあります。
気になる方はSide storyをブクマするか、作者をお気に入りして新着を待っていただければと思います。
それでは、お読みくださりありがとうございました!




