第4話:太平洋の逆波
【岡倉天心が受けた「売国奴」という名の弾劾の正体】
かつて中世ヨーロッパで狂信者どもが真の叡智(科学)を抹殺するために敷いた、あの残虐にして理不尽極まる『異端審問(Inquisition)』と、完璧に同じ構造の全滅の嵐でした。
お上の作った綺麗な歴史の教科書は「新旧の美術論争」などとお上品な文字で隠蔽しますが、実態は全く違います 。
日比谷の鹿鳴館で西洋の服を着て躍り狂っていた黒田清輝や、裏切りの経理帳簿を流出させた福地復一、家父長制の法律を盾に取った九鬼隆一ら日本のインテリ男どもは 、自ら「価値判断の基準(叡智)」を放棄した直訳奴隷の裁判官(異端審問官)そのものでした 。
彼らにとって、本名「覚三」というお上の戸籍を捨てて「天心」のエイリアスを名乗り
日本語を話せぬフェノロサ(諦玄)と共に 、日本人が「数十円の古いゴミ」として見捨てて叩き売った『松島図屏風』や『大波』の線のなかに世界最先端の「宇宙の生の気配(Something)」を看破し、西洋の絶対権威を国ごと平伏させてみせた天心の怪物的知性は 、自分たちの無能のすべてを暴き立てる「最も恐るべき異端」に他ならなかったのです 。
だからこそ彼らは、正面から知性でハッキングできないと悟るや、不倫の醜聞や「奈良時代の官服を着て馬で闊歩する奇行」というスキャンダル(言葉の刃)を新聞『日本』にバラ撒き、
「明治政府の用意した近代化(西洋の模倣という名のオカルト宗教)を信じない覚三は、国の美を海外へ売り払った『売国奴』である」
と、全会一致の異端審問で彼を東京美術学校の座から火刑に処すように引きずり下ろしたのです 。
フェノロサの脳髄に焼き付いていた、故郷セーラムで十一歳の少女アビゲイル・ウィリアムズの残忍な嘘(オカルトの記号)に踊らされて罪なき命を虐殺していったあの「魔女狩り」の構図が 、まさに明治の東京(日比谷)のド真ん中で、天心という一人の天才を標的にして完璧に再現されていたという、身の毛もよだつような歴史の円環 。
ですが、異端審問官どもが勝ったわけではありません。
学校を追われた天心は、茨切の五浦の荒涼たる波の音のなかへと自らの知性をカプセル化(退却)させ 、 西洋の白い石の文明を内側から完全に粉砕する、あの完璧な英語原文『The Ideals of the East(東洋の理想)』を世界へ放って、真の叡智の勝利を歴史に刻みつけました。
第4話:太平洋の逆波
一九世紀末。
東京・内幸町に佇む鹿鳴館の巨大な夜会室は、ガス灯の青白い光と、西洋の香水の安っぽい臭気で満ちていた。
お上の作った「文明開化」という張り子の文字に躍らされ、燕尾服やクリノリンドレスという西洋のドレスコード(死んだ文字)を直訳して身に纏った日本のインテリ男どもや役人どもが、シャンデリアの下で得意顔でふんぞり返り、グラスを傾けていた 。
「やはり、これからは西洋の油絵や大理石の文法(形態の固定)を真似るべきだ。
大国隆正先生の国学の文字の通り、主語も遠近法もない我が国の古い絵画や仏教など、古い時代の遺物に過ぎん。…
…それに引き換え、東京美術学校のあの岡倉覚三の横暴と破廉恥ぶりは、一体何事だ!」
西洋画の絶対君主たる黒田清輝が、お上品な燕尾服の胸を張って鼻で笑う 。
その周囲では、天心の右腕でありながら西洋画派へ寝返った書記・福地復一や 、 美術行政のトップである九鬼隆一らが、冷徹な憎悪の瞳を交わしていた
「覚三の奴、文部省の古社寺保存予算という公金を私物化し、光琳の波の屏風などの至高の美を海外の金持ちへ数十円の二束三文で売り払う手引きをしおった 。
それだけではない、あの男、お上の正規の軍隊を愚弄するように、自らデザインした妙に大袈裟な奈良時代の官服という奇妙な制服を学生に強制し、馬に跨って闊歩しておる。時代錯誤の国賊の奇行よ!」
「フン、それどころか、恩人である九鬼男爵の妻・初子殿を言葉の法律(婚姻届)を無視して寝取り、精神病院へ追い込んだ破廉恥漢ではないか。我が国の美術界の利権を独占するあの独裁者を、絶対に許してはならん!」
彼らは、福地が盗み出した経理の帳簿や不倫の艶聞を捏造した怪文書を新聞『日本』にバラ撒き、天心を「売国奴」「国賊」と指差して、その人格を完膚なきまでにハッキング(抹殺)しようと、日比谷の密室で言葉の刃を研いでいたのだ 。
日比谷のきらびやかな窓の向こう、夜の闇に沈んでいるのは、草ぼうぼうの雑木林と赤土がただ果てしなく広がる丸の内の荒地――
通称「三菱ヶ原」であった 。彼らは、眼前に広がる自国の剥き出しの荒野から目を背け、自ら学ぶ権利を放棄してオカルトを盲信していたのである。
だが、そのシャンデリアの卓上に、アメリカ・ボストン発の最新の文芸誌、そして海外電報という冷徹なファクト(爆弾)が突き刺さる。
誌面に刻まれていたのは、西洋の美の絶対基準であったパルテノン神殿の「エルギン・マーブル」の権威を、彼らが「価値ゼロの古いゴミ」としてわずか数十円の二束三文で売り払った、あの尾形光琳の『松島図屏風(Waves at Matsushima)』の金箔に猛り狂う黒い墨の波の線が 、そして葛飾北斎の『神奈川沖浪裏』の文字なき巨大な波のうねりが 、内側から完璧にハッキング(粉砕)し、西洋の知性の女王や文豪たちが総立ちになってひれ伏しているという、戦慄の記録であった。
「せ、西洋の文豪たちが、あの平べったい東洋の絵画の前に総立ちになってるだと!?」
日比谷の夜会が、一瞬にして凍りつく 。
かつて薩英戦争という無謀な戦争を引き起こしておきながら、その賠償金をお上の幕府に押し付け、自らは英国からガトリング砲を買い漁るための莫大な借金を隠すために寺の財宝を強奪した薩摩の男どもの欺瞞 。
馬鹿にもほどがあるその文字の法律の裏をかかれ、世界の美術史を完璧に支配した黒い波が、永遠の灯火となって逆輸入されてきたのだ 。
「あれは、我々が数十円の古いゴミとして叩き売った、あの光琳の波じゃないか……!」
黒田清輝も、福地復一も、九鬼隆一も、日比谷のシャンデリアの下で顔を真っ青にして大狼狽する。
西洋の真似事に狂って天心を売国奴と罵っていたその足元から、真の知性の波が逆噴射してきたのだ 。
彼らは大狼狽しながら、慌てて蔵から日本美術の和古書や絵巻物を引っ張り出し、真っ青な顔で埃を払い始める。
「ほらな、東京の国学の文字に頭を狂わせた馬鹿どもが」
遥か太平洋の向こう側、アメリカ・ボストン美術館の地下収蔵庫の片隅。アーネスト・フェノロサは、その淡い色の瞳を細めて、遥か東洋の日比谷で狼狽している男どもの足元を冷徹にあざ笑っていた。
その真横で、若き岡倉天心が、吸い込まれるような漆黒の瞳を細めて、笑う。
「あんたたちが不倫や奇行の怪文書をどれほど有難がろうともね、我々がこの生の音(Something)で毟り取ってボストンの金庫へ封印したあの数十円の波の線には、逆立ちしても及ばないんだよ 。
黒田の西洋崇拝も、福地の裏切りも、九鬼の法律も , 今夜、世界のすべてを完璧に逆ハッキングしてやったさ。学校の席など、くれてやるよ」
アメリカ ボストンの夜空には、西洋の退屈な近代小説の文字も、東洋の張り子の文明すらをもすべて飲み込もうとする、巨大な『東洋の黒い雲』が静かに、しかし圧倒的な美しさで渦巻いていた 。
日本人が見捨てた日本美術を、国籍や宗教の文字を脱ぎ捨てたハッカーたちが、その知性で、ついに東京の脳髄を完全に支配したのである。




