第3話:二束三文のカプセル化
第3話:二束三文のカプセル化
一九世紀末。
アメリカ・ボストン美術館の地下収収蔵庫の空気は、ひんやりとした大理石の冷気と、巨大な鉄製金庫の重油の匂いに満ちていた。
お上の作った「文明開化」という安い張り子の文字に踊らされ、西洋の真似事に狂奔する東京のインテリ男どもを遥かに置き去りにし、太平洋を越えて送り届けられた至高の日本美術品群――「ウェルド・コレクション」の巨大な木箱が、地下の真ん中にうず高く積み上げられていた。
「ハハハ! 西洋の完璧な形態の法律に比べれば、主語も遠近法もない東洋の絵画など、平べったい未開の見世物に過ぎん。我々ボストンのエリートがわざわざ収蔵してやるだけでも、ありがたいと思ってもらわねばな」
パルテノン神殿の白大理石の写真を飾り立て、お上品な文字の文法規則を盲信する白人の評議員どもが、ふんぞり返って鼻で笑う。
だが、その傲慢な空間へ、冷徹なニヒリズムの霧を纏った一人の男が踏み込んだ。
アーネスト・フェノロサ。アメリカの国籍(戸籍の文字)やキリスト教の一世限りの審判という死んだ教義を心の底からあざ笑って脱ぎ捨て、比叡山・三井寺で仏教徒「諦玄」の法名を奪い返した異端のハッカーである。
フェノロサは相変わらず日本語の言葉を一行だって「話せなかったし、読めなかった」。
だが、だからこそ文字のノイズを完全に無視し、その淡い色の瞳を、木箱の奥に眠る線の美の深淵へとダイレクトに射抜いていた。彼の脳髄には、故郷セーラムで十一歳の少女アビゲイル・ウィリアムズの残忍な嘘(オカルトの記号)に踊らされ、隣人を魔女として虐殺していったあの全滅の狂気の構図が完璧にシンクロしていた。
「――ほら見ろ、ボストンのインテリども。お前たちのその死んだ耳と眼でしか読めないから、これが未開のゴミに見えるだけさ。……驚くなよ。
ここにある奇跡の絵画たちはね、日本の古物商の店先で、わずか『数十円』という薪同然の二束三文で、この私の手が毟り取ってきたものだ」
数十円――その生々しい数字に、白人の学者どもが息をのむ。フェノロサは冷徹に、東洋の島国で起きていた狂気の全滅の嵐を、その言葉の刃で告発していった。
お上の『神仏分離令』という土地没収の法律によって、明日の米にも困る極貧の奈落に落とされた京都・奈良の古寺の住職たちが、寺の瓦一枚を維持するために、涙を流して数円のキャッシュ(現金)と引き換えに手放した宝物。
『廃藩置県』によって美のパトロンであった大名家がすべて全滅し、行き場を失った至高の和紙や名画が、ドブ板の奥にゴミのように山積みにされていた市場崩壊の現実。
そして何より、東京の帝国大学を出たインテリ男どもが、「西洋の文字の法律(油絵・大理石)」を直訳して真似ることに頭が狂い、自国の墨の線を「価値判断の基準すら持たぬ、未開の記号」と見捨てて、自ら学ぶ権利を放棄していたという、身の毛もよだつような日本の怠惰。
「教授、お上のルールを直訳するしか脳のない馬鹿どものお陰で、この至高の波は全滅を免れたのです。これより、我々の脳内インターフェースで完璧にカプセル化(封印)します」
フェノロサの真横から、影のように滑り出てきたのは、二十代前半の若き天才、岡倉天心であった。本名「覚三」というお上の戸籍の文字を完全に捨て去り、老子の宇宙のインターフェースからエイリアス「天心」を戦闘服として毟り取った男。
天心が厳重にカプセル化されていた木箱の封印を物理的な力で毟り取った瞬間、地下収蔵庫の闇を完璧にハッキング(逆支配)する、黄金の閃光が爆発した。
溢れ出したのは、金箔の背景のなかに、猛り狂う黒い墨の波の線だけで人間の無意識の官能をハッキングする、尾形光琳の真の最高傑作『松島図屏風(Waves at Matsushima)』であった。
さらにその真横へ同時に並べられたのは、お上品な文字の写実主義(ディケンズ流)を内側から完全に叩き潰す、葛飾北斎の『神奈川沖浪裏(The Great Wave)』の文字なき巨大な波のうねりだった。
光琳の描いた墨の波の線のトーン(遺伝子)を、北斎が脳髄にダイレクトにコピーして狂喜乱舞した、二大最高峰の「東洋の波」の直接衝突。
西洋の学者どもは、その線の圧倒的なダイナミズム、自然の生の駆動の前に、言葉を失って総立ちになり、脳髄を完膚なきまでに破壊された。形態の固定を誇るエルギン・マーブルの白い石の文明など、この数十円の波の気配の前には、一瞬で飲み尽くされる張り子の玩具に過ぎなかったのだ。
「――Look. There is something inside this wave.(見ろ。この波の裏にはね、あんたたちの死んだ文字の法律じゃ逆立ちしても説明できねえ、宇宙の生の気配が永遠に封印されているのさ)」
日本語の喋れぬフェノロサが、天心のエイリアスに向かって、その淡い瞳を細めてアリアを響かせる。天心は、吸い込まれるような漆黒の瞳にその黄金と黒の波を映しながら、ニヒルに笑ってみせた。
「ええ、フェノロサ。お上の怠惰からこの至高の叡智をボストンの金庫室へカプセル化して救ってやったのは、我々だ。南方熊楠が紀伊の深い森でお上の神社合祀令の死んだ文字に反逆し、鎮守の森を守り抜いているように、我々はこの数十円の波の線で、世界の最先端の知性を国ごと逆転させてひれ伏せるのさ」




