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あの時、あなたを崖から突き落としたのは私です  作者: 九葉(くずは)


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第7話

 書斎でもう一度、木を擦る音がした。


「どなたか、いらっしゃいますか」


 返事はなかった。

 内扉へは近づかず、廊下の見張りを呼ぼうとした。

 その時、向こうから扉が開いた。


 黒い外套の男が立っていた。

 泥のついた裾。こけた頬。笑うと欠けた歯が見える、その顔。


「ロダン!」


 私は廊下側の扉へ走った。


「誰か! ロダンがいるわ!」


 外で兵が応じる。

 鍵は机に置いたままだ。取りに戻ろうとした私の前へ、男が回り込んだ。

 短剣が突き出され、私は足を止めた。


「騒ぐな! 開けたら喉を切るぞ!」


 扉が激しく揺れた。


「イネス様、扉から離れてください!」


 私は壁際へ退いた。

 ロダンも扉を気にしていた。外套の下の手が震えている。


「どうして、書斎から」

「伯爵様の抜け道を、お前たちが知るものか」


 男は唾を飲み込んだ。

 書斎の向こうに、壁から浮いた本棚が見えた。父は私たちを閉じ込めておきながら、自分だけの逃げ道を作っていたのだ。


「いいか、助かりたければ、私の言うとおりにしろ」

「もう兵が来ているわ」

「だからお前が追い返すんだ!」


 短剣を向けたまま、ロダンが小瓶を出した。

 透明な液体が揺れる。


「腹が立って皿を割ったとでも言え。お前なら、あの男に近づける。茶にこれを混ぜろ。飲んですぐには死なん。私が逃げる時間さえあればいい」


 扉の外で兵が応援を呼んでいる。

 私は机の陰へ少しずつ動いた。ロダンとの間に、せめて家具を挟みたかった。


「将軍が死んでも、軍は残るわ」

「指揮官が倒れれば、騒ぎにはなる! 伯爵様を連れ出す隙もできる。お前だって、こんな所で殺されるよりましだろう!」


 父を助けるという言葉だけ、妙に急いでいた。

 きっと、それすら本心ではない。

 自分が生き延びるために、私にもう一度、あの人を裏切れと言っている。


「首を刎ねられると思っているのか? お前が今度こそあいつを殺してくれれば、伯爵様は褒めてくださる。今度こそ、娘として」


 私は机の端を掴んだ。


「今度こそ、ですって?」


 十年前から、何も変わっていない。

 言うとおりにすれば許す。役に立てば食べさせる。

 そう言われて働いても、次の日にはまた、役立たずと呼ばれた。


 扉に重いものが打ちつけられた。

 ロダンが振り返る。その隙に、私は机の鍵へ手を伸ばした。

 男が気づき、刃を振った。

 引っ込めた手のすぐ先で、卓上の皿が割れた。


「妙な真似をするな! この刃にも毒が塗ってある!」


 私は壁へ追い詰められた。

 林檎が床に転がっている。

 今夜、ヴォルフラムに話そうと思っていた。十年前のことを。薬を塗りながら、少しずつでも。

 この男は、そんなささやかな願いまで奪おうとしている。


「受け取れ!」


 突きつけられた瓶を、私は横から払った。


 パリンッ!


 壁に当たった瓶が砕けた。

 ロダンが目を剥く。


「この役立たずがぁッ!」

「あなたの役になんて、二度と立たない!」


 扉の外から、聞き覚えのある声がした。


「イネス! 離れていろ!」


 ヴォルフラム。

 夕方まで戻らないと思っていた人の声に、ロダンの顔色が変わった。

 男は逃げ道へ戻る代わりに、私の腕へ手を伸ばした。人質にするつもりだ。


 私は卓上の水差しを両手で持ち上げ、差し出された腕へ叩きつけた。


「ぐあっ!」


 短剣が床へ落ちる。

 直後、扉の錠の周りが割れ、木片が飛んだ。

 兵の体当たりで開いた隙間から、黒い軍服が踏み込んでくる。


 ヴォルフラムは私と男の間へ入り、ロダンを机の向こうへ蹴り飛ばした。

 男の背が壁を打つ。

 私は水差しを手放し、震える指を握り込んだ。


「俺の女に、何をした」


 低い声と共に、抜き放たれた剣がロダンへ向けられた。

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