第6話
翌朝、雨はやんでいた。
昨夜の薬壺は、まだ書斎の机の端にあった。
ヴォルフラムの姿はない。
私は内扉をそっと閉め、自分の部屋へ戻った。
「イネス様、朝食をお持ちしました」
セルジュの後ろから、従卒がワゴンを押して入ってきた。
湯気の立つパンとスープ。先日の林檎のコンポートも、小皿に載っている。
「ヴォルフラム様は、もうお出かけですか」
「郊外の駐屯地です。捕虜の移送と部隊の点検で、夕方までかかる予定でしたが、早めに戻るつもりのようです」
セルジュの視線が、内扉へ動いた。
「今朝、薬の壺をどこへ置くかで、ずいぶん悩んでおられました」
「薬を?」
「しまえば、もう要らないと思われるかもしれない。出しておけば、また塗れと命じているように見える。どこが適切か、と」
私は匙を落としかけた。
「私に聞かれても困るので、ご本人にお尋ねくださいと申し上げました」
あの大きな背中を思い出し、俯く。
塗ってほしいのなら、そう言えばいいのに。
けれど昨夜、私も薬を塗る以外のことは何も言えなかった。
「セルジュさんは、昔からあの方をご存じなのですか」
「軍に入った頃からです。私も当時は一兵卒でした」
彼は従卒を先に帰し、窓辺に立った。
「ずっと、あのように怖い方だったのですか」
「怖いと言えば、怖かったですね。傷が治りきらないうちから鍛錬を始めて、医務室へ連れ戻されるような人でしたから」
昨日触れた傷が、指先に蘇る。
「ただ、兵を無駄に死なせる人ではありません。退却の時にはいつも最後尾にいた。だから兵も、あの人についていくんです」
「どうして、そこまで」
「軍で立場を得れば、戻る道を作れると考えていたのでしょう。故国では死んだことにされ、後見人に追われる身でしたから」
私は匙を置いた。
「私への復讐のために?」
セルジュはすぐには答えなかった。
「将軍が何を思っていたか、私にも全部は分かりません。ただ、お伝えできることはあります」
彼は椅子の背に触れ、静かに続けた。
「国境の戦で、伯爵の私兵が敗れて屋敷へ退いたでしょう。撤退の際、帳簿や証人を始末する恐れがありました。将軍はそれを聞いた時、貴女の居場所を何度も確かめていた」
再会の日の父の姿ではなく、杖を持って物置へ入ってきた父を思い出した。
追い詰められたあの人なら、何をしただろう。
「進軍の前夜、あの人は地図を広げたまま眠らず、何度も『間に合え』と言っていましたよ」
「私が、殺されるかもしれないと?」
「少なくとも、貴女を失うことを恐れていました。兵にも、イネスには傷をつけるなと繰り返し命じていた」
顔を上げると、セルジュは真面目な顔をしていた。
「私の聞いた限り、あの方は一度も、貴女を殺せとは命じていません」
それなのに、本人には殺すつもりだと思わせるようなことばかり言う。
私はあの日の食事と毛布を思い出した。全部、見なかったことにはできなかった。
「でも、彼は私を恨んでいると」
「でしょうね。恨みが嘘だったとは思いません」
セルジュは困ったように眉を下げた。
「ただ、恨んでさえいれば済む相手でもなかった。それで貴女にひどいことを言っていいわけではありませんが」
私は黙って頷いた。
怖かった、と口にした時、否定されなかったのがありがたかった。
「一つ、お気をつけいただきたいことが」
セルジュの口調が改まった。
「家令補佐のロダンが、まだ捕まっていません。昨日、町外れの屋敷で私兵の武器と毒薬を押収しましたが、本人は逃げた後でした」
手の先が冷えた。
十年前、父からの命令を私に伝えた男だ。
「屋敷の勝手口から続く古い通路も調べています。怪しい物音がしたら、すぐ見張りを呼んでください」
「分かりました」
セルジュは机に鍵を置いた。
「廊下側の錠は、今朝交換を終えました。内側から掛けておいてください。将軍の書斎へ通じる扉は、避難に使えるよう開けておきます」
私は鍵を受け取った。
自分の手で扉を閉められることが、思った以上に心強かった。
朝食の後、言われたとおりに鍵を掛けた。
書斎へ通じる内扉を確かめ、窓辺へ戻る。
机の上に置いた林檎の皿は、まだ少し温かかった。
今夜、薬を塗りましょうかと聞いてみよう。
その時なら、十年前のことも少しは話せるかもしれない。
そう考えた時、隣の書斎で、かすかな音がした。
棚を壁に擦るような音だった。
けれど、書斎の廊下側の扉が開く音は、一度もしていなかった。




