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あの時、あなたを崖から突き落としたのは私です  作者: 九葉(くずは)


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第5話

 夜半、窓を打つ雨音で目が覚めた。


 十年前も雨だった。

 濡れた髪が頬に張りついて、息をするたび泥の匂いがした。

 あの時の彼の目を思い出しかけて、寝返りを打つ。


 隣で、何かが床へ落ちた。


「っ、くそ」


 ヴォルフラムの声だった。

 内扉の下から、細く灯りが漏れている。


 昼間、戸口に手をついていた姿が頭をよぎった。

 扉の前まで行き、ためらってからノックをする。


「ヴォルフラム様?」


 返事がない。

 代わりに、息を詰める音がした。

 私は扉を少し開けた。


 書斎の寝台の脇で、彼が片膝をついていた。

 床に落ちた椅子が横倒しになっている。

 脱いだシャツが膝に掛かり、右手には小さな軟膏の壺。

 灯りに照らされた背中を見て、私は立ち止まった。


 肩甲骨から腰にかけ、引き攣れた傷がいくつも重なっていた。

 剣で切られたような細い傷だけではない。皮膚が盛り上がり、へこんだ箇所もある。

 いちばん大きな傷は、左肩の下から斜めに走っていた。


「見るな」


 声で我に返った。

 彼はシャツを引き上げようとし、動きを止めた。


「悪趣味だな。自分がつけた傷を見に来たのか」


 私は、床に倒れた椅子を起こした。


「そこへ座ってください」

「出て行け」

「お薬が届かないのでしょう。軍医を呼びますか」


 ヴォルフラムは返事をしなかった。

 唇を噛み、椅子の背に右手をかける。そのまま、ゆっくり腰を下ろした。


「雨の日に痛む。いつものことだ」

「その薬で、楽になりますか」

「軍医に塗れと言われている」


 私は棚の水差しで手を洗い、布で拭いた。

 彼の前へ戻り、掌を出す。

 長い間があってから、軟膏の壺が載せられた。


「強く擦るなよ」

「はい」


 指に少し取り、左肩の傷のそばへ触れた。

 彼が息を詰める。

 手を止めると、小さく首を振られた。


「続けろ」


 薬を薄く塗り広げる。

 昔は私と大して変わらない肩幅だった。その背中を押した感触だけは、この十年で一度も薄れなかった。


「川の岩で?」


 答えを知るのが怖くて、声が小さくなった。


「ああ。岸へ着くまでに何度かぶつかった。左の肩は、それからだ」


 それ以上は聞けなかった。

 生きていればと願っていた。生きてさえいてくれれば、いつか傷も治って、温かな場所で笑えるのだと思いたかった。

 十年経っても、こうして夜中に一人で薬を塗っているなんて。


 視界が滲んだ。

 涙が落ちる前に袖で拭いたが、鼻をすする音は隠せなかった。


「泣いているのか」

「ごめんなさい」


 ヴォルフラムが振り向いた。


「痛かったでしょう」


 それしか言えなかった。

 謝ったところで肩が楽になるわけでもない。それでも、ほかの言葉が出てこない。


「ごめんなさい、ヴォルフ」


 彼の背が強張った。


「その呼び方をするな」


 私は唇を結び、頷いた。

 震える指を見られないように、壺を持ち直す。


「お前が落としたんだぞ」

「分かっています」

「俺を殺そうとしたんじゃなかったのか。だったら、なぜそんな顔をする!」


 言えば、信じてくれるだろうか。

 背中の傷を目にした今、なおさら怖かった。

 助けたのだから恨むなと、あの傷へ言い訳を重ねるようで。


「痛みが引くまで、ここにいさせてください」


 ヴォルフラムの口が開き、何も言わずに閉じた。

 やがて彼は前を向いた。


 雨は降り続いていた。

 指に触れる背中が、少しずつ強張りを解いていく。

 私は薬を塗り終えても、しばらく手を離せなかった。


「イネス」


 名前を呼ばれて顔を上げる。


「今夜は、もう寝ろ」

「でも」

「さっきより、ましになった」


 私は壺に蓋をして、机の端に置いた。

 立ち上がりかけた時、彼が私の袖を掴んだ。

 ほんの指先だけだった。


「さっきの呼び方は」


 彼は私を見なかった。


「嫌だから、やめろと言ったんじゃない」


 袖から指が離れる。

 私は何と返せばいいのか分からず、扉の前でもう一度振り返った。

 彼は背中を向けたまま、机の薬壺を見つめていた。

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