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あの時、あなたを崖から突き落としたのは私です  作者: 九葉(くずは)


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第4話

 翌朝、屋敷から父とシセルの声が消えていた。


 聞こえるのは、廊下を歩く軍靴の音と短い報告だけ。

 朝食の皿が置かれても、途中で取り上げられることはなかった。


「昨日、食事は召し上がれましたか」


 セルジュが空になった皿を見て、穏やかに尋ねた。


「はい。とても美味しかったです」

「将軍にも、そう伝えておきます」


 伝えなくていいと言いかけ、やめた。

 昨日の食事が美味しかったのは、本当のことだ。


「それと、この階の給湯室とテラスは使っていただいて構いません。兵が一人つきますが」

「部屋を出てもいいのですか」

「ええ。ほかの階へ行く時だけ、先にお知らせください」


 父と妹は地下にいる。

 そう聞いても、廊下へ出る時には足がすくんだ。角の向こうでシセルが待っているような気がしたのだ。

 けれど、立っていた兵は私に道を譲り、少し離れてついてきてくれた。


 給湯室の棚には、父が集めた高価な茶葉が並んでいた。

 その脇、使用人たちの湯呑みの下に、小さな麻袋がある。

 昨年の収穫を示す荷札がついていた。


 袋を開けると、甘酸っぱい香りがした。


「野苺」


 この地方でよく飲まれている、葉と実を乾かした安い茶だ。

 父は酸っぱいと顔をしかめ、客には出すなと命じていた。

 でも、十年前の私たちにはご馳走だった。

 庭で摘んだ実を二人で干して、雨の日には離れの小さな炉で煮出した。


 ヴォルフラムは、酸っぱいものが苦手だった。

 平気な顔をして飲んだ後、私がよそを向いた隙に砂糖を足す。見つけて笑うと、私の分にも勝手に入れてしまう。

 そのせいで、私の茶まで甘くなった。


 気づけば小鍋に湯を沸かしていた。

 茶を煮出し、ポットへ移す。カップに注いでから、粗糖を一杯、二杯。

 三杯目を入れたところで手が止まった。


 私には、多すぎる。

 誰に飲ませるつもりだったのだろう。


「何をしている」


 入り口にヴォルフラムが立っていた。

 目の下に薄い隈があり、白いシャツの袖を片方だけ捲っている。

 彼は部屋に漂う匂いを嗅ぎ、カップへ目を落とした。


「お茶を淹れました。使ってもいいと伺ったので」

「誰の分だ」

「私のです」


 自分で飲もうと持ち上げると、彼の目がついてきた。

 飲みにくい。


「あの、お飲みになりますか」

「余っているならな」


 差し出したカップを、彼はすぐに受け取った。

 一口含み、眉を寄せる。


「甘すぎる」

「十年前は、三杯入れていたでしょう」


 思わず返してしまった。

 彼の手が止まり、私も口を閉じた。


「いつの話をしている」

「申し訳ありません」


 灰色の目がカップへ戻る。

 彼は残りをゆっくり飲み、底を一度見てから流しへ置いた。


「謝るほどのことじゃない」


 私は空のカップを見た。

 彼も見ていた。

 なぜか二人とも、すぐにはそこから動けなかった。


「おかわりは」

「要らん」


 返事は早かった。

 けれど、彼は入り口まで行ってから振り返った。


「次は、砂糖を二杯にしろ」


 それだけ言って背を向ける。

 私は返事をする代わりに、口元を手で押さえた。

 次も淹れていいのだろうか。空のカップを洗い、棚の手前へ戻した。


 給湯室を出る直前、彼の左手が戸口に触れた。

 肩が引きつったように止まり、顔がわずかに歪む。


「ヴォルフラム様、どこか痛むのですか」

「何でもない」


 こちらを見ずに、彼は書斎へ戻っていった。

 足音がいつもより遅い。


 残った茶を、自分のカップへ注いだ。

 砂糖は一杯でよかった。

 飲みながら、さっき戸口についた大きな手を思い出す。

 あれほど強い力で私を引き上げた人が、片方の肩を動かすだけで、あんな顔をする。


 窓の外では、朝の晴れ間が薄い雲に覆われ始めていた。

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