第3話
階下の騒ぎは、夜が更けてもやまなかった。
扉を指一本分だけ引くと、見張りの兵がこちらを向いた。
私は小さく首を振った。用事ではないと分かったのか、兵は廊下へ視線を戻す。
その肩越しに、父の声が響いてきた。
「お願いです、将軍閣下にお取次ぎを! 誠意をお伝えしたいのです!」
「シセルからも、ぜひ一言! ヴォルフラム様ぁ!」
父たちはまだ、大広間で兵に囲まれている。
シセルは、閉じ込められても自分の声が男の心を動かすと信じているらしかった。
あの子が甘えると、父はいつも機嫌を直した。私を叩いた直後でも、娘らしい娘はお前だけだと笑った。
ヴォルフラムは父とは違う。
それでも、耳を塞ぎたくなった。
私の知らない十年間に、彼もああいう女を好むようになっていたら。
その想像は、処刑されると思った時よりも、ずっと嫌だった。
隣の書斎の扉が開いた。
「騒々しい。何の用だ」
ヴォルフラムが階段へ向かうと、父がすぐに返事をした。
「閣下! どうか、シセルをご覧ください! この娘には罪などございません!」
「ヴォルフラム様、幼い頃に遊んでいただいたシセルです! あの姉のことで、さぞお心を痛められたでしょう。父も私も、裏切り者を身内に持ったばかりに、十年間苦労いたしましたの!」
私は扉から身を引きかけた。
けれど、足が動かなかった。
「あのような女は、今すぐ八つ裂きになさるのがよろしい!」
父が調子づいて続ける。
「代わりに、このシセルをお側へ! 妾でも、侍女でも構いません。領地の収入も隠し金庫も、すべて差し上げます! 元は同じ一族ではありませんか。叔父の私を、どうかお救いください!」
ドンッ!
重い音に、父の声が途切れた。
階段の下へ目をやると、ヴォルフラムが手すりに手をついていた。その向こうで、父が身を縮めている。
「俺を殺そうとした叔父が、今さら一族を名乗るのか」
「そ、それはイネスが勝手に!」
「俺を追わせた私兵は誰のものだ。父の死後、後見を名乗って俺を預かり、俺が消えた途端に爵位を継いだのは誰だ」
父の口が開いたまま止まった。
ヴォルフラムは一段ずつ階段を下りていった。
「お前の屋敷に入った時点で、金庫も帳簿も軍の管理下だ。それを差し出して、何を買えるつもりでいる」
「で、ですが、シセルなら!」
「娘の命を、取引の道具にするな」
シセルが短く息を吸った。
それでも諦めず、彼の裾へ手を伸ばす。
「私はお姉様と違います! あんな薄汚い手で、閣下のお世話ができるはずが」
「その手を傷だらけにしたのは誰だ」
シセルの手が止まった。
「厨房の者に聞いた。イネスに出した残りものを、誰が取り上げていた?」
「それは、しつけで」
「火のついた燭台を投げることを、しつけと呼ぶのか」
父がシセルの肩を押しのけた。
「私は存じません! 娘同士のことです、私には!」
「お父様が、口答えしたら食べさせるなって言ったんじゃない!」
叫んでから、シセルは自分の口を押さえた。
ヴォルフラムは二人を見下ろしたまま、しばらく動かなかった。
「イネスに何をしたか、一つずつ調べる。十年前のことも、領地の金の使い道もだ。お前たちが娘を売れば済む話ではない」
父がまた床へ額を擦りつけた。
さっきまで娘を八つ裂きにしろと言っていた口から、助けてくれという言葉が繰り返される。
「衛兵。二人を地下牢へ。別々に入れろ。家令や私兵にも個別に取り調べを行え」
「はっ!」
「水と食事は規定どおりに与えろ。病人なら軍医を呼べ。裁判前に死なせるな」
父が顔を上げた。
助かると思ったのだろう。その口元が緩みかけた。
「来週、軍法会議を開く。領民の代表も呼ぶ。自分が何をしたか、全員の前で聞くことになるぞ」
「閣下! それだけは! どうか内々に!」
「嫌よ、地下なんて! お父様、何とかして!」
二人は兵に腕を取られても、互いの服を掴み合っていた。
父がシセルを押しやり、その拍子に真珠の首飾りが切れた。白い粒が石床を跳ねる。
シセルは拾おうとして膝をついたが、その手も兵に引き上げられた。
「私の真珠! 返して! それだけは返しなさいよ!」
叫び声が廊下の奥へ消えた後も、階段の下には真珠が散らばっていた。
私は扉の縁を握った。
父が私の言葉を遮り、シセルが笑う。これまで何度繰り返しても変わらなかった光景が、今夜は違っていた。
私が何も言えなくても、厨房で見ていた人が話してくれた。
彼が、それを聞いていた。
「イネス様」
顔を上げると、眼鏡の青年が書類を抱えて立っていた。
「副官のセルジュです。お騒がせしました。お部屋に不便はありませんか」
「いえ。その、寝具まで替えていただいて」
「当然のことです。必要なものがあれば、見張りを通して私にお知らせください」
私が頷くと、彼は声を落とした。
「将軍に尋ねにくいことも、私でよければ」
何から聞けばいいのか分からず、私は首を横に振った。
セルジュは急かさず、一礼して書斎へ入っていった。
扉を閉め、袖を少しだけ捲る。
あの人が見て、腹を立てた傷。
傷そのものを恥じなくてもいいのだと、その時初めて思えた。




