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あの時、あなたを崖から突き落としたのは私です  作者: 九葉(くずは)


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2/15

第2話

 通された部屋は、拍子抜けするほど広かった。


 厚い絨毯に、天蓋付きの寝台。磨き上げられたマホガニーの机。

 つい先刻まで、父が使っていた主寝室だ。

 雨漏りのする離れの物置とは、窓から入る光の量まで違う。


 扉の錠は兵士が取り外していった。

 廊下には見張りが立ち、隣の書斎へ通じる内扉の向こうからは、荷物を運び込む音がしている。


「処刑前の囚人にしちゃ、贅沢すぎるわね」


 寝台の端に腰を下ろすと、シーツから父の香油の匂いがした。

 思わず立ち上がり、窓辺へ移る。

 物置では毎朝、この部屋の窓を下から見上げていた。中から眺める庭は、見知らぬ家の庭のようだった。


 母が亡くなった後、私を気にかけてくれたのは、伯父の家から預けられてきたヴォルフラムだけだった。

 彼がいなくなってからの服は、古着を継いだものばかり。食事は厨房の余りもの。足りないと訴えれば、働きが悪いくせにと叩かれた。


 それでも、彼はどこかで生きているかもしれなかった。

 私まで諦めてしまえば、本当に死んだことになってしまいそうで、毎晩その無事を祈った。


 バタン、と扉が開いた。


 入ってきたのは従卒ではなく、ヴォルフラム本人だった。

 上着を脱ぎ、袖を捲った軍服姿。その両手には銀の盆が載っている。


「食え」


 机に置かれたのは、白パンと牛肉のシチュー、林檎のコンポートだった。

 湯気の向こうで、彼が腕を組む。


「毒ですか?」

「は?」

「それとも、最後の食事でしょうか」


 こんなものを出される理由が、ほかに思いつかなかった。

 父が急に親切になる時は、いつも何かをさせる前だったから。


 ヴォルフラムの手が机に落ちた。皿が跳ね、私は肩をすくめた。


「誰が毒を入れると言った!」


 彼は私の肩を見て、口を閉じた。

 しばらくして、さっきより低い声がした。


「話が済むまで殺さんと言っただろう」

「では、どうして」

「食事をするのに、いちいち理由が要るのか」


 要る、と答えそうになった。

 けれど彼には分からないだろうし、説明を始めれば、命乞いをしているように聞こえる気がした。

 黙っている私に、彼の苛立ちが戻ってくる。


「怖いなら怖いと言え。嫌なら嫌だと言え。なぜさっきから、何をされても構わんという顔をしている」

「私が泣けば、あなたは満足できますか」


 ヴォルフラムの顔が歪んだ。

 言いすぎた、と思った時には遅かった。


「そういう意味じゃ」


 ぐぅ、と私の腹が鳴った。


 二人とも口を閉じた。

 昨日の朝から、水しか口にしていない。身体の方は、覚悟など知らないらしかった。


 私は両手で腹を押さえた。

 白パンを見ないようにすると、今度はシチューの匂いがする。


「すみません」


 さっきと同じ謝罪なのに、声が情けなくひっくり返った。

 ヴォルフラムは何か言いかけ、それから椅子を引いた。


「座れ。冷める」

「でも」

「俺が見ていると食えんのか?」


 首を振って腰を下ろした。

 彼が盆を近づける。受け取ろうと伸ばした私の袖が捲れた。


 彼の手が止まった。


 手首の内側に残る燭台の火傷。

 父の杖を受け止めた時についた、筋張った腕の古傷。そのすぐ隣には、数日前の痣もある。

 今さら隠すには、近すぎた。


「その傷は何だ」

「転んだだけです」


 口が勝手に、いつもの答えを返した。

 袖を引こうとすると、彼が私の手に触れる。

 今度は手袋を外していた。


「火傷もか」


 答えられなかった。

 無骨な親指が痣の手前で止まり、それ以上は触れてこない。

 昔、棘を抜いてくれた時にも、彼はこんな顔をしていた。自分の指を切った時より、ずっと難しい顔を。


 私が手を引くと、今度は離してくれた。


「食っていろ」


 彼はクローゼットを開け、厚い毛布を出した。

 私の肩へ掛けようとして、腕の傷を見たせいか動きが鈍る。結局、隣の椅子の背に載せた。


「寒ければ使え」


 扉へ向かう彼の背中に、言わなくてもいいことを言ってしまった。


「寝台は、使わなくてもよろしいですか」


 ヴォルフラムが振り返る。


「どういう意味だ」

「父の匂いがするので」


 口に出してから、自分でも驚いた。

 嫌なら嫌だと言えと、ついさっき言われたばかりだった。


 彼は寝台を見た。

 次いで、廊下の兵を呼ぶ。


「寝具を替えろ。全部だ。伯爵の私物も運び出せ」


 何も聞かれなかった。

 贅沢だとも、我慢しろとも言われなかった。


 彼が出て行った後、私は毛布を膝へ引き寄せた。

 皿にはまだ湯気が残っている。

 小さく切ったパンをシチューに浸して口へ運ぶと、喉が詰まった。


 死ぬほど恨んだと、彼は言った。

 その彼が運んできた食事を、私は涙を拭きながら食べていた。


 皿が半分ほど空になった時、階下から父の声が聞こえた。

 次いで、シセルの甲高い声。

 私はスプーンを止め、扉を見た。


 あの二人が黙って処分を待つはずなど、なかったのだ。

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