↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
あの時、あなたを崖から突き落としたのは私です  作者: 九葉(くずは)


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
1/15

第1話 

 大広間の石床は、骨の髄まで冷え切っていた。


 どれだけ膝をついて待っていただろう。スカートの裾を通して冷気が伝わり、もう足先の感覚はない。

 背後では、父であるオルドリック伯爵と、異母妹のシセルが揃って床に額を擦りつけていた。


「ひ、ひぃぃ……! 頼む、助けてくれ! 金ならいくらでも出す、領地も差し出す!」


 私を物置同然の離れに押し込め、日々のパンすら惜しんでいた父が、今は家も領地も投げ出そうとしている。

 その背に隠れようとするシセルの首には、まだ真珠が光っていた。


 ドォン、と重い扉が押し開かれた。

 冷たい風と共に、泥と鉄の匂いが流れ込んでくる。


 隣国の帝国軍が、この伯爵領へ入ったのは今朝のことだ。

 国境の戦に敗れた父の私兵たちは、門を守ることもなく逃げ散った。いま屋敷を取り囲んでいるのは、『黒狼』と恐れられる将軍の兵だった。


 規則正しい軍靴の音が、私の前で止まる。

 視界に入ったのは、泥と乾いた血のこびりついた黒革の長靴。

 私はスカートの上で拳を握った。


「顔を上げろ」


 低く、ざらついた声だった。

 顔を上げた先に、見上げるほど大柄な男が立っている。

 黒髪。左の眉から頬へ走る古い傷。そして、私をまっすぐに見下ろす灰色の目。


 従兄の、ヴォルフラム。

 かつて私が、この手で崖から突き落とした人だ。


 あの日、彼は十四歳で、私は十三歳だった。

 十年を隔てた顔に少年の面影を探すより先に、その目が私を捉えた。

 逃がす気のない目だった。


「ヒッ! ヴォ、ヴォルフラム殿! いや、将軍閣下!」


 父が床を這い、私の背中を指さした。


「私は知らんのだ! 十年前、お前を暗殺しろなどと命じた覚えはない! すべてイネスが仕組んだことだ! お前を憎んで崖から突き落としたのは、その娘だ! どうか、私とシセルだけはお助けを! その女なら、八つ裂きにしようが首を刎ねようが、好きになさって構いません!」


 娘の命を差し出すのに、父は一度も私を見なかった。

 そういう人だと知っている。いまさら驚きはしなかった。


 暗殺を仕組んだのは父だ。

 けれど、逃げ場を失ったヴォルフラムの背中を押し、激流へ落としたのは私だった。

 濁流へ消えていく顔を、忘れた日はない。


「お久しぶりです、ヴォルフラム様」


 膝をついたまま、背筋を伸ばした。


「私の命で償えるのでしたら、どうぞ私の首を刎ねてください」


 声は震えなかった。

 彼が生きている。

 十年間、消息を確かめることもできずに願い続けてきた人が、目の前で息をしている。

 その嬉しさに、恐ろしさが追いつかなかった。


「様、だと?」


 ヴォルフラムの眉が寄った。

 一歩近づかれ、全身が彼の影に覆われる。


「十年前、笑いながら俺を突き落とした女が、ずいぶん殊勝な口を利くようになったな。立て」


 腕を掴まれ、引き上げられた。

 痺れた足がもつれる。倒れる前に支えられたが、そのまま革手袋の指が顎を挟んだ。


「痛っ」


 彼の指が一瞬止まった。

 けれど、離れはしなかった。


「簡単に終わりにできると思うな、イネス」


 近くで見る顔には、私の知らない傷がいくつもあった。

 十年前の私がつけたものは、どれだろう。

 そう思った途端、彼の目を見ていられなくなった。


「俺は死ぬほどお前を恨んだ。顔を思い出すたび、眠れなくなるほどにな」

「はい」

「はい、じゃない。お前には聞きたいことがある」

「私が、あなたを突き落とした。それは間違いありません」

「その先を聞いている!」


 怒声が広間に響き、背後のシセルが短く悲鳴を上げた。

 ヴォルフラムはそちらを見もしなかった。


「あの日、あの崖の上で。お前は、なぜあんなに手を震わせていた?」


 息が止まった。


「俺の腕を掴んだ手が、氷みたいに冷たかった。背中を押されるまで、ずっと震えていた。笑っていたくせに、泣き出しそうな目をしていた。あれは何だ?」


 忘れていてほしかった。

 あの時、顔を歪めることしかできなかった私を。

 それでも彼は、覚えていた。


「答えろ」


 言葉が喉につかえた。

 父のいる前で口を開こうとすると、殴られる直前のように腹が縮む。もう父の兵などいないのに、身体はそれを信じてくれない。

 助けたかったと言えば、許してほしくて嘘をついたと思われるだろうか。

 実際、彼を傷つけたのは私だ。救ったのだと胸を張れるほど、あの川は安全ではなかった。


「申し訳、ありません」


 やっと出たのは、それだけだった。


 ヴォルフラムの頬が強張る。


「謝罪を聞きに来たんじゃない。答えを聞くまで、死ぬことすら許さん。お前は俺の手元に置く」


 彼は顎から手を離すと、兵へ向き直った。


「この女を三階の主寝室へ。隣の書斎を俺の部屋にする。廊下に見張りを二人つけろ。伯爵の使用人は、調べが済むまで近づけるな」

「はっ!」

「寝室の錠も確かめろ。伯爵が合鍵を持っている。古い錠は外し、交換が済むまで兵を扉の前から動かすな」


 兵士に腕を取られ、歩き出す。

 すれ違いざま、父が「閣下! 私どもの処遇は!」と声を上げた。


「そこで待て」


 ヴォルフラムは短く返し、私の方を見た。

 私は目を伏せたまま、階段へ向かった。


 彼が生きていると分かったなら、ほかには何も望まないはずだった。

 けれど、掴まれた顎よりも、最後まで私を離さなかったあの目の方が痛かった。


 通された部屋の扉が閉まる。

 私は入り口で立ち止まり、ようやく誰にも聞こえない声で、その名を呼んだ。


「ヴォルフ」


 昔は、それだけで振り返ってくれたのに。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。