第1話
大広間の石床は、骨の髄まで冷え切っていた。
どれだけ膝をついて待っていただろう。スカートの裾を通して冷気が伝わり、もう足先の感覚はない。
背後では、父であるオルドリック伯爵と、異母妹のシセルが揃って床に額を擦りつけていた。
「ひ、ひぃぃ……! 頼む、助けてくれ! 金ならいくらでも出す、領地も差し出す!」
私を物置同然の離れに押し込め、日々のパンすら惜しんでいた父が、今は家も領地も投げ出そうとしている。
その背に隠れようとするシセルの首には、まだ真珠が光っていた。
ドォン、と重い扉が押し開かれた。
冷たい風と共に、泥と鉄の匂いが流れ込んでくる。
隣国の帝国軍が、この伯爵領へ入ったのは今朝のことだ。
国境の戦に敗れた父の私兵たちは、門を守ることもなく逃げ散った。いま屋敷を取り囲んでいるのは、『黒狼』と恐れられる将軍の兵だった。
規則正しい軍靴の音が、私の前で止まる。
視界に入ったのは、泥と乾いた血のこびりついた黒革の長靴。
私はスカートの上で拳を握った。
「顔を上げろ」
低く、ざらついた声だった。
顔を上げた先に、見上げるほど大柄な男が立っている。
黒髪。左の眉から頬へ走る古い傷。そして、私をまっすぐに見下ろす灰色の目。
従兄の、ヴォルフラム。
かつて私が、この手で崖から突き落とした人だ。
あの日、彼は十四歳で、私は十三歳だった。
十年を隔てた顔に少年の面影を探すより先に、その目が私を捉えた。
逃がす気のない目だった。
「ヒッ! ヴォ、ヴォルフラム殿! いや、将軍閣下!」
父が床を這い、私の背中を指さした。
「私は知らんのだ! 十年前、お前を暗殺しろなどと命じた覚えはない! すべてイネスが仕組んだことだ! お前を憎んで崖から突き落としたのは、その娘だ! どうか、私とシセルだけはお助けを! その女なら、八つ裂きにしようが首を刎ねようが、好きになさって構いません!」
娘の命を差し出すのに、父は一度も私を見なかった。
そういう人だと知っている。いまさら驚きはしなかった。
暗殺を仕組んだのは父だ。
けれど、逃げ場を失ったヴォルフラムの背中を押し、激流へ落としたのは私だった。
濁流へ消えていく顔を、忘れた日はない。
「お久しぶりです、ヴォルフラム様」
膝をついたまま、背筋を伸ばした。
「私の命で償えるのでしたら、どうぞ私の首を刎ねてください」
声は震えなかった。
彼が生きている。
十年間、消息を確かめることもできずに願い続けてきた人が、目の前で息をしている。
その嬉しさに、恐ろしさが追いつかなかった。
「様、だと?」
ヴォルフラムの眉が寄った。
一歩近づかれ、全身が彼の影に覆われる。
「十年前、笑いながら俺を突き落とした女が、ずいぶん殊勝な口を利くようになったな。立て」
腕を掴まれ、引き上げられた。
痺れた足がもつれる。倒れる前に支えられたが、そのまま革手袋の指が顎を挟んだ。
「痛っ」
彼の指が一瞬止まった。
けれど、離れはしなかった。
「簡単に終わりにできると思うな、イネス」
近くで見る顔には、私の知らない傷がいくつもあった。
十年前の私がつけたものは、どれだろう。
そう思った途端、彼の目を見ていられなくなった。
「俺は死ぬほどお前を恨んだ。顔を思い出すたび、眠れなくなるほどにな」
「はい」
「はい、じゃない。お前には聞きたいことがある」
「私が、あなたを突き落とした。それは間違いありません」
「その先を聞いている!」
怒声が広間に響き、背後のシセルが短く悲鳴を上げた。
ヴォルフラムはそちらを見もしなかった。
「あの日、あの崖の上で。お前は、なぜあんなに手を震わせていた?」
息が止まった。
「俺の腕を掴んだ手が、氷みたいに冷たかった。背中を押されるまで、ずっと震えていた。笑っていたくせに、泣き出しそうな目をしていた。あれは何だ?」
忘れていてほしかった。
あの時、顔を歪めることしかできなかった私を。
それでも彼は、覚えていた。
「答えろ」
言葉が喉につかえた。
父のいる前で口を開こうとすると、殴られる直前のように腹が縮む。もう父の兵などいないのに、身体はそれを信じてくれない。
助けたかったと言えば、許してほしくて嘘をついたと思われるだろうか。
実際、彼を傷つけたのは私だ。救ったのだと胸を張れるほど、あの川は安全ではなかった。
「申し訳、ありません」
やっと出たのは、それだけだった。
ヴォルフラムの頬が強張る。
「謝罪を聞きに来たんじゃない。答えを聞くまで、死ぬことすら許さん。お前は俺の手元に置く」
彼は顎から手を離すと、兵へ向き直った。
「この女を三階の主寝室へ。隣の書斎を俺の部屋にする。廊下に見張りを二人つけろ。伯爵の使用人は、調べが済むまで近づけるな」
「はっ!」
「寝室の錠も確かめろ。伯爵が合鍵を持っている。古い錠は外し、交換が済むまで兵を扉の前から動かすな」
兵士に腕を取られ、歩き出す。
すれ違いざま、父が「閣下! 私どもの処遇は!」と声を上げた。
「そこで待て」
ヴォルフラムは短く返し、私の方を見た。
私は目を伏せたまま、階段へ向かった。
彼が生きていると分かったなら、ほかには何も望まないはずだった。
けれど、掴まれた顎よりも、最後まで私を離さなかったあの目の方が痛かった。
通された部屋の扉が閉まる。
私は入り口で立ち止まり、ようやく誰にも聞こえない声で、その名を呼んだ。
「ヴォルフ」
昔は、それだけで振り返ってくれたのに。




