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あの時、あなたを崖から突き落としたのは私です  作者: 九葉(くずは)


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第13話

 軍法会議から三週間が過ぎた。


 領地は停戦条約に従って帝国の統治下に入り、代官が着任した。

 ヴォルフラムも、軍人の身で旧来の爵位を取り戻すことは求めず、引き継ぎに追われている。

 父たちはすでに護送され、屋敷からは最後の私物も運び出された。


 私の傷はようやく落ち着いた。

 重いものは持てないが、短い距離なら一人で歩ける。

 軍医の許可も出て、明日、本隊と共に帝都へ出発することになっていた。


 ノックがした。


「入ってもいいか」

「ええ」


 ヴォルフラムが革の書類袋を持って入ってきた。

 身支度は済んでいるのに、顔はひどく難しかった。


「出発前に、渡しておきたい」


 袋には、身分を証明する書類と銀行の預かり証、それから港町にある家の権利書が入っていた。


「これは?」

「お前の母親の持参金だ。伯爵の財産から区別できた分を、返還させた。足りない分は俺が出した。家は、俺の私財で買ってある」


 私は権利書を見た。

 父が私には何もないと言っていたものが、紙の上では確かに私のものになっていた。


「この金は、お前のものだ。俺に遠慮せず使っていい」


 そこまでは、分かった。

 けれど、次の言葉は分からなかった。


「明日、俺と来る必要はない」


 顔を上げると、彼は私を見ていなかった。


「ここに残るなら代官に頼める。港町へ移るなら、護衛と付き添いを手配する。あちらは冬も暖かい」

「私を置いていくの?」

「そうじゃない」


 すぐに否定したのに、続く言葉が出てこない。

 彼は机の端へ手を置いた。


「俺が勝手に、一緒に来ると思い込んでいた。お前には、ほかの暮らしを選ぶ権利がある」

「それは、ありがとう。でも、あなたはどうしたいの」


 ヴォルフラムの指が強張った。


「俺の希望を聞けば、お前は」

「また、私の代わりに決めるの?」


 彼が顔を上げた。


 私は書類を丁寧に袋へ戻した。

 これは大切なものだ。腹が立ったからといって、投げ捨てるものではない。

 その上で、彼の前へ立った。


「一緒に行きたくないなら、そう言うわ。でも、私はまだ、一度もあなたに行きたいかと聞かれていない」

「イネス」

「私の幸せを考えてくれるなら、私にも話をさせて」


 ヴォルフラムが息を吐いた。

 机から手を離し、私へ向き直る。


「すまない」

「それはもう聞いたわ。次は、あなたの希望」


 彼はすぐには答えなかった。

 私も待った。

 怒鳴らなくていい。格好のいい言葉でなくてもいい。今度こそ、隠さずに言ってほしかった。


「連れて行きたい」


 ようやく、彼が言った。


「朝、起きた時にお前がいて、帰ってきたら顔を見られる所で暮らしたい。港町へ送って、たまに手紙を貰うだけで我慢できる気がしない」


 その声が少し震え、私の胸も熱くなった。


「でも、俺はお前を閉じ込めて、脅した。償いを受け取るために、そばにいなければと思わせたくない」

「償いだから、一緒に行くんじゃないわ」


 私は彼の軍服を、右手で掴んだ。


「好きだから行きたいの」


 ヴォルフラムが動かなくなった。

 ここまで言っても分からないなら、襟を引いて揺さぶってやろうと思った。


「死んだかもしれない人を十年間待ったのよ。やっと会えて、やっと話せて。それなのに、ほかの町へ行けですって? 馬鹿にしないで!」


「馬鹿になど」

「しているわ! 私は、あなたと暮らしたいの!」


 彼の手が、私の手の上へ重なった。

 強く握りたいのを堪えるように、指が少し曲がる。


「本当に、俺でいいのか」

「あなたがいいの」


 彼が目を閉じた。

 次に開いた時には、もう逸らさなかった。


「結婚してくれ、イネス」


 私の手を取り、彼は膝をついた。


「償いだけで一生そばにいたいわけじゃない。お前が好きだ。昔も、今も。これから先も、一緒にいてほしい」


 私は泣きながら笑ってしまった。


「順番が逆よ。先にそれを言ってくれればいいのに」

「返事は」

「ええ。あなたの妻になります」


 ヴォルフラムが立ち上がった。

 腰へ手が触れ、そこで止まる。


「抱いてもいいか」


 私は返事の代わりに、右腕を彼の背へ回した。

 左肩を庇いながら引き寄せられ、頬が胸へ触れる。

 心臓の音が速かった。

 私だけではないことが分かって、また笑ってしまう。


「指輪がない」


 頭の上で、彼が悔しそうに呟いた。


「帝都で、一緒に選びましょう」

「好きなものを」

「ええ。私が選ぶわ。あなたの分も」


 彼の腕に、少し力が籠もった。


「では、明日。一緒に帰ってくれるか」

「もちろん」


 離れ際、机の書類袋へ目を向けた。

 持参金も、家も、受け取っておこう。

 誰にも行き先を決められない私が、自分で彼の隣を選ぶのだから。

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