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あの時、あなたを崖から突き落としたのは私です  作者: 九葉(くずは)


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第10話

「十二人いたわ。林の中に伏せて、あなたが出てくるのを待っていた」


 ヴォルフラムは膝の上で両手を組んだ。


「俺は、追手を振り切ったと思っていた」

「追い込まれたのよ。馬小屋へ通じる道も、西門も塞がれていたでしょう。崖へ続く道だけが、空いていたの」


 十年前の雨の匂いが蘇った。

 父に呼ばれた時、ロダンはすでに弓隊の配置を終えていた。

 追手のことは知らないふりをして、あの小僧を崖の縁まで誘い出せ。お前なら警戒されずに近づける。

 そう言われた。


「私は、あなたに知らせようとした。でも、離れへ戻った時には、もう追われていたの」


 逃がす馬を出すこともできなかった。

 私が崖へ着いた時、ヴォルフラムは肩で息をしていた。剣はなく、右手には折れた木の枝だけを握っていた。


「あなたは私に、屋敷へ戻れと言ったわね」

「巻き込みたくなかった」

「知っているわ。私の腕を掴んで、自分の後ろへ押しやろうとした」


 あの腕を、私は振りほどいた。

 逃げ道を探しているふりをして、林を見た。

 葉の隙間に鏃が見え、ロダンが片手を上げかけていた。


「毒矢だった。父が、掠っただけでも殺せるものを用意しろと命じていたのを、聞いていたから」


 ヴォルフラムが唇を押し結んだ。


「どうして、俺に言わなかった」

「言い終わるのを、待ってくれると思えなかった」


 私は膝の上の手を見た。


「あなたが林を振り返れば、その場で射られる。私を連れて逃げようとしても、間に合わない。だから、川しかなかった」


 崖の下には深い淵があった。

 幼い頃、下流へ魚を見に行っていたから知っていた。

 それでも、雨で増した川へ落ちれば助かるという保証はなかった。


「本当に死んだらどうしようって、怖くて仕方がなかった。あなたの腕を掴んだ時から、手の震えが止まらなかった」


 声が細くなる。

 あの時、笑おうとしたのだった。

 大丈夫、と口を動かしたかった。彼を怯えさせたくなかった。

 けれど、唇が引きつるだけだった。


「ごめんねと、言う暇もなくて」


「それで、背中を」


 頷くと、ヴォルフラムが顔を伏せた。


「落とした後、私は叫んだの。私がやった、もう死んだ、矢を撃つなって」


 私の言葉を信じたから追撃が止まったのではない。

 突き出した岩が邪魔になり、川面の彼はすぐに見えなくなった。

 ロダンは下流へ兵を回したが、その日は水が荒れ、岸へ近づくことさえ難しかった。


「父には、死体を確かめられなくなったと殴られた。勝手に動いたせいで、いつ生きて戻るか分からないと」


 生きているかもしれない。

 父の怒鳴った言葉のうち、私はそこだけを何度も思い返した。


「それから、離れへ閉じ込められたの。仕事の時だけ外へ出されて、誰かに話しかければ叩かれた。手紙を書く紙もなくて」


 ヴォルフラムが私の袖口を見た。


「シセルもか」

「初めは、父の真似だった。私に何かすれば父が喜ぶから。でも、大きくなってからは、私が言い返さないと分かっていてやっていたわ」


 火傷は四年前のものだ。

 茶がぬるいと燭台を投げられ、手首に落ちた。

 ヴォルフラムの視線を受けながら、私は袖を直した。

 見せつけなくても、もう彼は聞いてくれている。


「生きていてくれたら、何もいらないと思っていた。でも、戻ってきたあなたに恨んだと言われた時、本当は悲しかった」


 認めると、涙が落ちた。


「助けたかったって言えば、傷をつけたことまで許せと言っているみたいで。信じてもらえなかったら、もう何も残らないと思って」


 椅子が小さく鳴った。

 ヴォルフラムが床へ膝をつき、私と目の高さを合わせた。


「俺が、言わせなくしたんだな」


 彼の顔は青白かった。


「違うとも言えないうちに、裏切り者と決めつけて。痛がるお前の腕を掴んで、殺すようなことばかり言って」


 彼は掌を見た。

 その手で私の顎を掴んだことを、思い出しているのだろう。


「すまなかった」


 私は首を振りかけ、やめた。

 何もなかったことには、できない。


「痛かったわ」

「ああ」

「怖かった」

「すまない」


 彼の声が詰まった。

 頬に涙が伝い、膝の上へ落ちた。


「俺は、岸に流れ着いたところを漁師に拾われた。しばらく熱で何も分からなくて、目が覚めるたび、お前の顔ばかり思い出した」


 彼は袖で目を拭った。


「なぜあんなことをしたのかと、何度も考えた。恨んでいた方が楽だった。会って確かめるまでは死ねないと思えば、立てたから」


 私も同じだった。

 彼がどこかで生きていると思うことで、朝を迎えられた。

 同じ人を思いながら、違う夜を過ごしていたのだ。


「だからといって、お前を傷つけていい理由にはならない」


 ヴォルフラムは顔を上げた。


「すぐに許せとは言わない。もう脅さない。触れるなと言われたら、触れない」


 彼は寝台の上へ、開いた手を置いた。

 私を掴みに来ない手だった。


 私はその指先へ、右手を重ねた。


「今は、ここにいて」


 彼の肩が揺れた。

 頷いてくれるまで、少し時間がかかった。


「いる」


 返ってきた声は、ひどく掠れていた。


「ここにいる、イネス」


 握り返された手は温かかった。

 痛くない強さだった。

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