第9話 あなたの署名です
再保険を失うとは、どういうことか。
業界の人間なら、誰でも知っている。再保険は「保険の保険」だ。テオリアがこれから引き受ける攻略リスク――新規の探索者、更改する契約、これから起きるかもしれない事故。そのすべてを、これまではどこかの再保険会社が裏で半分支えていた。北辰がその手を引いた。これからのリスクを、テオリアは自分一人で抱えることになる。
コメント欄の誰かが、その意味をいちばん早く言葉にした。
数えてみた人:再保険外れたって、要は今後の事故を全部あそこの自腹で見るってことだろ。あの規模の探索者数で。支払余力が保たんぞこれ
黒鳶・実戦39層:格付け下がるな。下がったら大口の取引先が先に逃げる。順番が見えてる
ぴよ→ぴよ:ごめん全然わかんない。会社が潰れるってこと?
黒鳶・実戦39層:(ぴよ→ぴよへ)潰れはしない。けど、無理して数を回す商売がもうできなくなる。それだけで最大手は最大手じゃなくなる
将来のリスクを自社の資本だけで抱えれば、支払余力が圧迫される。それが削れれば格付けが下がり、格付けが下がれば、大口の取引先と投資家が静かに離れる。引き受けられる攻略の数そのものが、細っていく。テオリアの強みは「大量に募り、大量に送り込む回転率」だった。その回転を支えていた防波堤が、消えた。
これが、一つめの重さだった。会社の「これから」を削る、未来の話だ。
そして、もう一つ別の方角から、別の重さがやってきた。
迷宮管理庁が、噂どおり業界横断の調査に入っていた。そして、テオリアが「自己責任」として処理してきた未補償事故の数の異常さに、行政処分に踏み切った。撤退勧告が現場から出ていたにもかかわらず、未補償で切り捨てられた案件――その遡及補償と、課徴金。過去に払わなかったぶんを、今になって行政が「払え」と命じる。
元探索者のおっさん:去年の第四迷宮の遺族にも、これでやっと金が戻るのか。葬式で線香あげたとき、俺、何も言えなかった。……遅すぎるけどな
元・最大手の中の人:……社内、今めちゃくちゃです。遡及って、過去全部ひっくり返るってことなんで。あの頃「自己責任」で処理した自分の判子も、たぶん、その、含まれてて
ねこむすめ@課金勢:手のひら返し早すぎて草……って言いたいけど、未補償で泣き寝入りした遺族からしたら笑い事じゃないからな。そこは笑うな
名無しの探索者:いや内部の人さっきから自分の保身しか言ってなくて逆にリアル
それと並んで、未補償で身内を失った遺族が、不当不払いとして集団訴訟に動き始めた。行政が過去の不払いを問題だと認めた以上、訴える側の足場は固かった。
二つの重さは、別々の方角からきた。ひとつは過去から――払わなかった事故への、行政と遺族からの請求。もうひとつは未来から――再保険を失って、これからの商売が回らなくなること。北辰が手を引いたから過去が跳ね返ったのではない。過去は過去で、行政と遺族が掘り起こした。未来は未来で、再保険が抜けて細っていく。その二つが、たまたま同じ時期に、同じ会社の上で重なっただけだった。
誰も、テオリアを攻撃しなかった。
御子柴は自社の損得で動いた。歪んだ動機設計を抱えるリスクは引き受けられない。再保険会社として、当たり前の判断だ。迷宮管理庁は管轄の仕事をした。遺族は、奪われたものを取り返そうとしただけだ。投資家は、回らなくなる会社の数字を信じられなくなって、静かに資金を引いた。
それぞれが、それぞれの都合で距離を取った。
それは、透の配信のやり方とまったく同じだった。誰も名指ししない。ただ、正しいものを隣に置くと、間違っているものが自分で沈んでいく。光を当てるのではなく、ただ正しい設計を、横に並べるだけで。
記者が、沢渡にマイクを向けた。沢渡は、最後まで崩れなかった。
「規約上、当社に責はありません」彼はまっすぐカメラを見た。声は震えていない。
「撤退補償条項の不在は、当時の経営判断です。属人的な一個人の手法を、業界標準であるかのように喧伝した側に、問題がある」
「では、再保険を失った原因は」
「私は投資家への説明責任を果たしてきた。ただ、それだけです」
嘘ではなかった。彼の理屈の上では、どこにも嘘はない。三年前、沢渡は確かに合理的な経営判断をした。替えのきく探索者を回転させ、成長率を作り、雇用を生み、株主を満足させた。その判断の一つ一つに、彼のサインが入っている。
そのサインが、いま彼を裁いていた。
裁いたのは群衆ではない。透でもない。沢渡自身が三年前、赤いインクで却下した、たった一つの条項の不在だった。彼は、自分が作らなかったもので詰んでいた。最後まで自分は正しいと信じたまま、その「正しさ」の外側で。
その夜も、透はいつも通り配信をしていた。
会社の崩壊について、彼は一言も触れない。深層で動けなくなった単独探索者に、いつものとおり、撤退ラインを読み上げているだけだった。
「落ち着いて。大丈夫です。この条件なら補償対象です。撤退して、生きて帰ってください。記録は残ります。あなたがここまで来たことは、消えません」
配信の途中で、スマホが鳴った。沢渡だった。
透は画面を一瞥した。それから探索者から目を離さず、着信をそっと切った。切ってから、低く、画面の向こうの探索者にだけ続きを告げる。
「あと八メートル。右の角を曲がれば、開けます。落ち着いて、足元を見て。――まだ、間に合います」
スマホが、また震えた。透はもう、見なかった。
その同じ頃、誰もいなくなったテオリアの本部長室で、沢渡は灰皿の前に座っていた。やめて二年の煙草を、もう一本だけ取り出していた。火はつけなかった。指のあいだで、ただ転がしていた。




