第8話 誰でも使える基準
詩織が持ち込んだ三年分の救護記録は、防水ケースの中でまだ少し湿っていた。彼女がそれを一冊ずつこたつの上に積んでいくあいだ、透は茶も淹れずに、最初の一冊の背表紙を見ていた。日付の手書き。角の取れた、急いで書かれた数字。あの「撤退」の二文字と、同じ筆跡だった。
同じ会社にいながら、二人は一度も顔を合わせたことがなかった。透は机で攻略者の死ぬ確率を計算する査定士、詩織は迷宮の出口で戻ってきた負傷者を手当てし、その傷から「撤退すべきだった」を最初に書きつける救護担当。部署も違えば、どちらが上ということもない。透が詩織を知っていたのは、現場から上がってくる「撤退」の走り書き――その筆跡としてだけだった。
「読み上げる」と詩織が言った。「日付と、迷宮と、現場の判断。霧島さんは、その日に自分なら何を出したか書いて」
「ええ」と、透はうなずいた。
それから二人は、ほとんど喋らなくなった。詩織が記録の一行を読み、透が手元の紙に撤退判定を書き出す。第四迷宮、深層、撤退勧告あり。透のペンが走り、止まり、また走った。ページをめくる音と、ペンが紙を擦る音。深夜のアパートに残るのは、その二つだけだった。
噛み合ったのは、十数件目だった。
詩織が読み上げる現場の勘と、透が書き出す査定の数式。出てくる結論は、同じだった。「ここで止めれば、死なない」。一度だけではない。次も、その次も。二人は別々の場所で、別々の物差しで、ずっと同じ線を引いていた。一度も会わず、連絡も取らずに。
詩織がページをめくる手を止めた。
「気持ち悪いね」少し笑っていた。泣くより笑うほうが楽な、そういう笑い方で。「私の勘と、霧島さんの計算。出どころが全然ちがうのに、答えだけぴったり重なる。……これ、勘でも計算でもないってことでしょ」
「そうですね」
「じゃあ何なの」
「まだ誰も、書いていない基準です」透はペンを置いた。
「再現性がない、と言われました。私のは個人的なパフォーマンス、あなたのは現場の勘だと。違います。再現できる形に、まだ誰も書き起こしていない。それだけのことです」
その晩、二人で一つの文書を作り始めた。
告発状ではない。誰かの名前を書く書類でもない。「撤退・補償の標準基準」。どんな探索者でも、どんな会社でも、無償で使える、撤退ラインと補償条件の設計図。透の頭にある査定の手法を、そのまま写すわけにはいかなかった。前職の誓約が、査定基準の私的利用を禁じている。
だから透は、一から書き直した。
これは難儀な作業だった。同じ結論にたどり着く別の道を、ゼロから引き直す。テオリアの稟議書にあった条文には、一語も触れない。透は何度も書いては消し、消しては書いた。途中で詩織が、現場の記録から「この日の判断はこう書けば誰でも分かる」と言葉を足した。査定士の数式と、救護担当の体感。二つが混ざって、少しずつ、誰のものでもない言葉になっていった。
「これ」詩織が書きかけの一条を指した。「『撤退して生きて帰った記録は、すべて有効なまま残す』。これ、霧島さんが配信で毎晩言ってるやつだ」
「配信は、一人ぶんの口頭です。これは、全員ぶんの活字にしている。それだけの違いです」
空が白む頃、文書はできあがった。透はそれを、自分の配信で公開した。サムネイルもなし、煽りもなし。ただ画面に文書を映して、こう言っただけだった。
「これは誰のものでもありません。使いたい方はどうぞ。改変も転載も自由です。私を切った会社にも、使っていただいて構いません。むしろ、使ってほしい」
言葉は淡白だった。けれど詩織は、その「むしろ」に、透がはっきり一歩前へ出たのを見た。これまで透は、ただ次の探索者を数えてきた。今朝の透は、初めて、業界そのものに一枚を差し出していた。
コメント欄が、いつもと違う沸き方をしている。茶化しが、その朝は少ない。
黒鳶・実戦39層:……これ無償で出すのか。これだけで会社が一個建つぞ。何考えてんだ
数えてみた人:これが本物の「再現性」だわ。属人的って言ったやつ、見てるか? 見てるよな?
ぴよ→ぴよ:壁の人、一回も「ざまぁ」って言わないね。ずっと、生きて帰る話しかしてない
ガチ無課金勢:で結局これ使うと月いくら浮くん? そこ知りたいんだけど
ねこむすめ@課金勢:無償公開で殴るの、いちばんこわいやつだ……
切り抜きBOT_99:【神回】「無能」と切られた男、業界にタダで爆弾を落とす→保存しました
御子柴(北辰再保険):弊社、本名で失礼します。この基準、再保険の標準審査に正式採用を検討します
御子柴が本名でコメントを残したのを、透は黙って見ていた。再保険会社の人間が、実名で一企業の配信に書き込む。それが規定の上でどれだけ際どいことか、透には分かった。御子柴は、自分の足を半分こちらへ踏み出している。
それから数日後。
北辰再保険から、テオリア攻略総研へ、一通の正式通知が届いた。再保険契約の、更改見直し通告。透がそれを知ったのは、テオリア社内の誰かが通知文を撮って流したからだ。画面に、文面が映った。
『貴社約款に「撤退補償条項」が存在しないことは、撤退の経済的動機を奪い、撤退すべき局面で攻略完遂を狙わせる逆インセンティブを生む。これは事故率を構造的に押し上げる歪んだ動機設計であり、当社の引受方針と相容れない』
そして、その通知には、一枚の資料が添付されていた。更改の審査にあたり、北辰は正式に問うていた――「なぜ撤退補償を約款に入れなかったのか、その判断の記録を示せ」と。再保険の引受先には、それを求める権利がある。御子柴に問われて、テオリアが規定どおりに差し出した意思決定の記録。そのうち「入れなかった理由」がはっきり残っていたのは、たった一枚だけだった。
三年前の、テオリア社内の稟議書の写し。「撤退補償条項」。起案者の欄に、霧島透。本部長決裁欄に、赤いインクで「却下」。傍らに「営業の機会損失。再現性なし」。署名、沢渡健吾。日付つき。
その写しが、通告文のすぐ後ろに、淡々と並んでいた。
会社を支えていた「保険の保険」を引き剥がした最初のきっかけは、外からの攻撃ではなかった。誰の告発でもない。三年前、沢渡自身がその一枚に入れた、赤い一筆だった。




