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第7話 再現性のない男

沢渡健吾を無能と呼ぶ者は、業界に一人もいない。


テオリア攻略総研を、創業七年で攻略者数・業界一位に押し上げたのは、紛れもなく沢渡の手腕だった。経営は、ひとつの単純な哲学で貫かれていた。攻略者は替えがきく。回転率が、利益だ。


冷たく聞こえる。だが沢渡の中では、それは合理であって、悪意ではなかった。新しい探索者を大量に募り、迷宮へ送る。事故は免責条項で「自己責任」に切り分ける。そうやって稼いだ金で、また次を雇う。市場は伸び、雇用が生まれ、株主は満足する。誰かが死ぬのは、統計の範囲内のことだった。


彼自身も、現場上がりだ。若い頃、目の前で仲間を一人失っている。だからこそ決めたのだ――一人ひとりの死にいちいち足を止めていたら、業界そのものが回らない。情を切ることが、結局はより多くの人間を食わせる。それが大人の責任だと信じてきた。


その統計を、霧島透という男が、たった一人で書き換えつつあった。


創業以来、投資家に数字を語ってきたのは、いつも沢渡だった。その日の四半期説明会でも、彼は淀みなく資料を読み上げた。成長率のコミット、攻略者数の純増。完璧なプレゼンだった。


質疑の最後に、若いアナリストが一人、手を挙げた。


「最近、御社の免責条項がSNSで問題視されています。撤退に補償がつかない設計が、退く動機を奪って、かえって無理な攻略を後押ししている。要するに、事故が増える設計だ、という指摘です」アナリストは続けた。「もし再保険が手を引けば、御社は今後の事故の損失を、自社の体力だけで抱えることになる。あの攻略者数で、それは――財務に、影響は出ませんか」


理屈は、正確だった。素人の質問ではない。沢渡は、笑顔のまま答えた。


「ああ、あの配信ですか」机の下で、指がペンを一度だけ回した。


「属人的な手法ですよ。一人の元社員が、個人でやっているだけです。あれに再現性はない――会社の誰がやっても、同じ結果にはならない。経営の指標には、なりません。どうぞ、ご安心を」


会場は納得した。アナリストはメモを取り、次の質問に移った。完璧な回答だった。完璧すぎて、沢渡は自分の手のひらが少し湿っているのに気づいた。


その夜。誰もいなくなった本部長室で、沢渡は古いキャビネットを開けていた。


三年分の、却下した稟議の控え。探していたのは一枚だった。「撤退補償条項」。起案者、霧島透。本部長決裁欄に、赤いインクで、自分の字。


見つけて、長いあいだ、それを見ていた。それから引き出しの奥から、もう吸わないはずの煙草を一本取り出して、火をつけた。やめて二年になる煙草だった。


「再現性がない、か」と、誰もいない部屋でつぶやいた。煙が、天井へのぼっていく。「……だったら、なぜ俺は、こいつの真似を、社で正式採用しようとしている」


矛盾は、自分でわかっていた。わかっていて、認めるわけにはいかなかった。認めた瞬間、過去三年、却下し続けた稟議の数だけ、防げたはずの死が、自分の決裁欄に積み上がる。赤いインクで、一つずつ。


煙草を、灰皿の縁でねじ消した。半分も吸っていなかった。火を消したあとも、その吸いさしから、すぐには目を離せなかった。


その頃、監督官庁である迷宮管理庁が、攻略事故の補償実態について業界横断の調査に入る、という噂が流れはじめていた。


その番号しか知らなかったはずの相手から、住所を尋ねる短い連絡が一度だけ入り、そして透のアパートの呼び鈴が、雨の夜に鳴った。


ドアを開けると、蓮見詩織が立っていた。傘もささず、両手に、防水ケースに入った分厚い記録の束を抱えて。前髪から、雫が落ちていた。


「あなたの判定が、ぜんぶ正しかった」息を切らしていた。


「私が現場で書いた救護記録。原本じゃない、自分が担当した分の写し。探索者の名前は、伏せてある。三年分、全部持ってきた。あなたが撤退を勧めて、会社が止めなかった事故。日付も署名も、私の手で、全部書いてある」


詩織は、まっすぐ透を見た。濡れた肩が、廊下の灯りで光っていた。


「ずっと前に、一度だけ、あなたに助けられたことがある」声が、少しだけ揺れた。


「私が現場で『撤退』って書いた紙。誰も読まなかった。会社の誰も。あなたの査定だけが、それを採用してくれた。会ったこともない、査定士のあなただけが。だから私は、折れずにここまで来られた」


雨の音が、ドアの外で続いていた。


「でも、私一人じゃ潰される。これを出した瞬間、現場から消される。あの会社は、それくらい本気だから」彼女は、束を抱え直した。「だから……あなたのところに来た。一番、信じられる人のところに」


透は、傘立てから自分の傘を一本取り、彼女に差し出した。


「入ってください。濡れています」


そして、少し間を置いて、付け加えた。


「数えましょう。二人で」


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