最終話 今夜も、誰も死なせない
テオリア攻略総研は、再編された。
沢渡健吾は、取締役を退任した。会社が彼を社会的に抹殺したわけではない。ただ、彼を必要とする場所が、業界から静かに減っていっただけだった。
退任の挨拶で、彼は最後まで自分の非を口にしなかった。「私は投資家への説明責任を果たした」。その一行を、お守りのように繰り返して、表舞台から消えた。
退任の前夜、本部長室の主は最後にもう一度だけキャビネットを開けた。三年分の、却下した稟議の控え。沢渡は「撤退補償条項」の一枚を抜き出し、しばらく見た。シュレッダーの口の前まで、その一枚を運んだ。だが、入れなかった。彼はそれを元の引き出しの、いちばん奥へ戻した。写しはとうに北辰の手にあった。この原本を裁断したところで、もう消せるものなど何もない。それでも沢渡は、自分が却下したその一枚だけは、捨てなかった。やめて二年の煙草を一本くわえ、結局、火はつけずに灰皿の縁へ置いた。半分も吸わなかった、あの夜の続きのように。彼が本当は何を分かっていたのか――それは、火のつかなかったその一本だけが知っている。
透は、その会社に戻らなかった。戻る理由がなかった。
透と詩織が無償で公開した「撤退・補償の標準基準」は、北辰再保険の審査基準に採用され、やがて迷宮管理庁の指針に組み込まれた。庁の通達には、出典として基準の全文が添付されている。起案者の名前は、どこにも載っていない。透が、載せるなと言ったからだ。属人的だと貶された一人の男の判断は、誰にでも使える、ただの当たり前になった。撤退して生きて帰った者に補償を出さない会社は、もうない。
基準が広まってから、透のところにも、仕事の声がかかるようになった。それでも、米の残りを数えて眠る夜は、もう来なかった。退職祝いに買った安物のマイクだけは、替えなかった。
ある夜。配信の準備をしている透の隣で、詩織がコーヒーを二つ淹れていた。会社が再編されたとき、詩織はそこへは戻らなかった。透と二人であの基準を書き上げた夜から、戻る理由のほうが、もう薄くなっていた。彼女は職を辞して、透の隣にいた。理由を、彼女は多くを語らない。ただ一度だけ、こぼしたことがある。新人の頃、自分が出した最初の「撤退」の二文字を、社で一人だけ拾って査定に通してくれた査定士がいた、と。名前も会ったこともなかった、その人の判定だけが、あの日の自分を間違いにしなかった、と。
「ねえ」詩織がマグカップを置いた。湯気が二筋、ゆっくり立ちのぼる。「次の約款、一緒に作りませんか」
仕事の言葉だった。彼女らしい、まわりくどくない、ただの提案。けれどその声には、提案より少しだけ手前の温度があって、透にもそれは分かった。
透は少し間を置いた。それから、ほんのわずかに――本当に、ほんのわずかに、口の端を動かした。彼が笑うのを、詩織は初めて見た。
「ええ。数えましょう」
配信を立ち上げる。視聴者が、いつものように集まってくる。
ぴよ→ぴよ:今日も来た
神保凛@もう死なない:先生! 今夜もよろしくお願いします!
黒鳶・実戦39層:今日の単独、第十一迷宮に一人入ってるぞ。新人だ
数えてみた人:座標、もう出てる
元探索者のおっさん:先生、今夜も頼みます
通りすがり:美談にしてるけど、未補償で死んだ人の金、遺族にはまだ全部は戻ってないよな。そこは忘れんなよ
ねこむすめ@課金勢:(通りすがりへ)うん。だから誰もここで「めでたしめでたし」って言ってないだろ
画面の隅に、新しい単独探索者の座標がぽつりと灯った。深層へたった一人で潜っていく、誰かの光。まだ名前も知らない。
霧島さんの仕事は、数字に出ない。三年前、フロアの全員の前でそう言い渡された。見えないものは計上されない、と。透はいまも、その物差しを書き換えたわけではない。死ななかった人の数は、相変わらず誰の目にも映らない。見えないけれど、たしかにそこにいる。それでいい、と透は思っている。
マイクの位置を直し、息を一つ吐いて、低く、いつもの一行を読み上げる。
「聞こえますか。――今夜も、誰も死なせない。手は出せませんが、数えることはできます」
雨は、いつのまにか上がっていた。
透の声が、まだ名前も知らない誰かのために、静かに迷宮の底へ降りていく。
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