第5話 事故率という証拠
北辰再保険の御子柴という男から電話が来たのは、その週の半ばだった。
耳慣れないかもしれないが、再保険会社というのは「保険の保険」だ。保険会社が一社では抱えきれないリスクを、さらに裏で引き受ける。攻略保険のように桁の大きいリスクは、必ずどこかの再保険会社が支えている。御子柴は、その値付けを生業にして、久しい男だった。
透は配信に、本名も連絡先も出していない。それでも個人の番号にかけてきた時点で、この男が「声の人」の正体をとうに割り出していることは知れた。攻略のリスクに値段をつける業界は、狭いのだ。
「あなたの配信を、社内で回覧しました」電話越しでも、声は慎重だった。役所の窓口のような、一語ずつ確かめる喋り方をする。
「不躾を承知でうかがいます。撤退判定の、根拠の数式を見せていただけませんか」
「お見せできません」透は即答した。「前職の誓約で、査定基準の私的利用を禁じられています」
「では結果だけで結構です」御子柴は引かない。
「あなたの判定を経由した探索者の生還率と、業界平均の事故率。この二つを、こちらで突き合わせる許可をいただきたい。数字はすべて、公開された配信から拾えます。誓約には、抵触しないはずです」
抵触しない。穴を突くのではなく、穴のない場所を正確に指で押してくる。査定士の目で見ても、その理屈には隙がなかった。
「……御子柴さん。失礼ですが、それは御社の利益になる話ですか」
一拍の間。御子柴は、答えをひとつ呑み込んだようだった。
「正直に申し上げます。引受審査の現場で、テオリア攻略総研の約款を、ここ数年ずっと持て余していました。撤退に補償がつかない設計は、探索者から退く動機を奪う。退いても無補償なら、いっそ無理に攻略を完遂しようとする。だから事故が増える。歪んだ動機設計です。私はそれを、数字で証明する材料がほしい」
会社の損得で動いている。だが、その損得の底に、ずいぶん長く沈んでいる何かがあるのが、声でわかった。そういう声を、透は現場で何度も聞いている。
「どうぞ」短い、それだけの返事。
三日後、一枚の図表が届いた。読み上げはせず、透は手元で、ただ確かめた。
業界の単独攻略の事故率。それに対して、透の判定を経由した群の事故率は、二桁低い。誤差ではなかった。母数はもう二百を超えている。
電話の最後に、御子柴の役人めいた口調が、そこだけ崩れた。
「霧島さん。私はね、十年、攻略者の死に値段をつけてきた人間です。この死は一人いくら、と。値段をつけるたび、こう思っていた。『これは、防げたはずだ』と」
御子柴は、机を指で一度叩いたようだった。受話器の向こうで、小さな音がした。
「独り言でした。誰にも言えない。あなたの数字は、その独り言が独り言じゃなかったことの、証拠です」
その夜から、潮目が変わった。
匿名の現役探索者、元・支援会社の社員。透のもとへ、現場のデータが流れ込みはじめた。誰も死なせない男を、自分の手元の数字で支えたい。申し合わせのない連帯だった。
黒鳶・実戦39層:俺の去年の攻略ログ全部送った。煮るなり焼くなり好きにしてくれ。整理してないからファイル名ぐちゃぐちゃだけど
元・最大手の中の人:(これ言ったら怒られるやつですけど)社の事故処理データ……内部にいた頃の個人メモなんですが、要りますか。いや、要らないなら忘れてください
ぴよ→ぴよ:わたし何も持ってないので、応援だけ置いときます。だめですか
数えてみた人:みんなのデータ突っ込むスプレッドシート作った。壁の人、勝手に使って
ねこむすめ@課金勢:急に現場の生データ集まりだしてて草。なんなんこの流れ
名無しの探索者:で、これ最終的に何になるん? まとめだけ教えて
寄せられたデータを、透は一件ずつ検めた。査定士の癖で、彼は数字を信じない。出所と整合を確かめてからしか使わない。きれいすぎる数字ほど、まず疑う。
その夜、一束のデータの前で、指が止まった。
ある支援会社が「自己責任」として処理した、未補償の事故のリスト。日付、迷宮、探索者の年齢。そして――「撤退勧告の有無」という欄。
多くの行で、勧告は「あり」だった。現場の誰かが、撤退すべきだと判断していた。それでも攻略は続行され、補償はされなかった。
その「あり」の筆跡に、見覚えがあった。
救護担当が現場で走り書きする、角の取れた「撤退」の二文字。急いで書かれて、けれど一度も間違えたことのない、その字に。
送り主は匿名だった。それでも、誰が送ってきたのか、その二文字だけでわかってしまう。透は、カーソルの点滅も、画面の冷たい光も忘れて、しばらくその字を見ていた。




