第4話 補償対象です
一週間で、透のチャンネルの登録者は十一万を超えた。
本人にとっては、数字が増えただけだ。透は相変わらず、誰も死なせないために撤退ラインを読み上げている。凝った機材も買わない。サムネイルも作らない。背景は染みのある安アパートの壁のままで、視聴者からは「壁の人」とも呼ばれ始めていた。
いつの間にか、奇妙な文化ができていた。単独で深層へ潜る探索者が、潜る前に透のチャンネルを開いておくのだ。あの夜の偶然は、もう偶然ではなくなっていた。声が届く保証はない。それでも、開いておけば数えてもらえるかもしれない――そういう、祈りに似た習慣として。
透の配信には、他のどの攻略配信とも違うところが一つあった。彼は「頑張れ」と言わない。「いける」とも「あと少し」とも言わない。口にするのは、たった二種類の言葉だけ。
「補償対象です」
「対象外です」
孤立した探索者の状況を見て、透は淡々と判定する。いまここで撤退すれば補償の条件を満たす。あるいは、もう満たさない。補償が下りれば治療費も装備の弁償も保険が持ち、下りなければ、すべて自腹になる。透の判定は、生きて帰ったあとの生活の話でもあった。
会社も契約も、透には見えない。見ているのは時間だ。攻略保険は法定で、登録された探索者なら、たいていはどこかの約款に守られている。問題は、いま退けば、まともな約款がまだ補償してくれる窓に間に合うのか、もう過ぎたのか――それは、保険会社がどこであっても引ける線だった。退いた者に補償を出さない、どこかの会社の約款を別にすれば。
声には煽情のかけらもなく、天気予報のようだった。そして不思議なことに、その冷たい言葉のほうが、どんな励ましよりも探索者を生かした。
その晩も、一人、深層で動けなくなった探索者がいた。三十代の兼業探索者。何時間も、進むべきか退くべきか迷っている。コメント欄は「進め」と「退け」で割れ、本人はますます動けなくなっていた。誰もが好き勝手に背中を押し、誰一人、責任を取らない。
透は、その男の残りスタミナと退路の魔物の配置を、数秒見た。
「聞こえますか。いま撤退すれば、補償対象です。あなたが今日ここまで来た記録は、全部、有効なまま残ります。三分後には、その条件も消えます。判断は、いま、してください」
男は撤退し、生きて帰った。
地上に出た男は、カメラの前でしばらく黙っていた。それから、ぽつりと言った。
「『補償対象です』って言われると……生きて帰っていい気がするんだよな。『頑張れ』だと、頑張って死ね、って言われてる気がして退けなかった。でもこの人は、ちゃんと、俺の帰る場所の話をしてくれた」
その一言が、また切り抜かれた。
ただ、その夜の透には、いつもと違う一拍があった。配信のもっと早い時間、別の探索者に向かって、彼は「対象外です」と告げていた。すでに補償の条件を割っていた男に。撤退の好機はもう過ぎていて、透にできたのは、せめて被害を最小にする退き方を読み上げることだけだった。その男も帰りはした。けれど「対象外です」と言うときの透の声は、ほんの半秒、いつもより低く沈んだ。守りきれなかった分だけ。誰も気づかないその沈みを、透自身は数えていた。
コメント欄の温度が、目に見えて変わっていった。
攻略クラスタR:いや待って。この人の判定通りに動いたやつ、ここ一週間で一人も死んでない
数えてみた人:この人経由の生還率、ガチで100%。母数37。これ統計的に異常値だぞ
ねこむすめ@課金勢:最初に「死ぬとこ配信」て煽ってごめん。正座してる。……いや正座て自分で言うと寒いな
元探索者のおっさん:俺らが現役のころ、こういう人が現場に一人いれば、何人死なずに済んだか
ぴよ→ぴよ:地味なのにずっと見ちゃう。安心するからかな
たぴおか中毒:いや100%とか盛ってるだろ。母数37て少なすぎ。たまたまだって
「母数が少ない」と書いた男に、別の常連が長い反論をぶら下げ、いつもの言い争いが始まった。透はそれも見ていない。彼が気にしていたのは、生還率の数字ではなく、「対象外です」と言った回数のほうだった。
そして、その夜の終わり際。撤退基準についていつものように淡々と説明した、その直後。本人確認バッジのついた、それなりに名の知れた中堅探索者が、そのハンドルで一行、毛色の違う書き込みを流した。
黒鳶・実戦39層:ずっと気になってたんだけど。この人の撤退基準、どこかの最大手の免責条項とちょうど真逆の設計になってる。あっちは「撤退したら補償しない」。この人は「撤退こそ補償する」。……なんで真逆なんだ?
透の指が、キーボードの上で一瞬だけ止まった。
その会社の名も、その条文も、透は誰よりよく知っていた。テオリアのその免責条項を――いや、正確にはその「逆」、「撤退補償条項」を社内で握りつぶした、あの稟議書。起案者の欄には、三年前の自分の名前が書いてある。真逆なのではない。彼らが捨てたほうを、自分が拾って配信しているだけだ。
透は、その晩、その質問に答えなかった。静かに配信を切り、暗くなった画面をしばらく見ていた。




