第3話 今夜は、誰も死なせない
最初、透の声は誰にも届かなかった。
孤立した探索者は他人の配信など見ていない。透のチャンネルの視聴者はゼロ。つまり透は、空っぽの部屋に向かって撤退ラインを読み上げる男になっていた。世界でいちばん無力な実況だ。
転機は、本当に偶然だった。
封絶層の探索者――のちに神保凛という名だと分かる、奨学金のために、ろくな腕もないまま稼ぎのいい深層の実入りを当てこみ、独りで潜った苦学生――は、最後にもう一度だけ、自分の配信のコメント欄を見た。死ぬ前に、誰かの言葉が見たかった。励ましでもいい。悪口でもいい。ただ、一人で死ぬのが怖い。後ろから来る唸りより、そのことのほうが、ずっと。
そのコメント欄に、一行だけ毛色の違う書き込みが流れていた。
名無しの探索者:(転載)どっかの配信のおっさんがお前に言ってたぞ→「右へ12m。水路の縁に背を。いまなら間に合う」
誰かが、透の言葉を凛のコメント欄に貼ったのだ。死ぬとこ配信を茶化していた、その誰かが。気まぐれで。あるいは本当は、ほんの少しだけ、この子に死んでほしくなくて。
凛は、右へ走った。
脚を引きずり、息を切らし、それでも走る。十二メートル。冷たい石に背中をつける。透の声の、通りに。直後、若い個体が斜め後ろから来た――やはり透の言ったとおりに。そして水路の縁で足を取られ、濁った水へ滑り落ちた。水音。獣の悲鳴。凛が相手にすべき敵は、一体だけになった。
透は画面越しに喋り続けていた。煽らず、急かさず、ただ次の一手だけを口にした。
「いいです、その位置を動かないで。出血は左手で圧迫。武器は突きを捨てて、払いで。三秒ごとに来ます。次の一体が水から上がるまで、四十秒。四十秒あれば退路を作れます」
四十秒。透の口の中で、その秒が一つずつ減っていく。凛の刃が獣の脇腹を払うたび、退路の絵が頭の中で確かになっていった。三十秒。二十秒。一体が水から這い上がる前に、凛は通路の角を曲がっていた。間に合った。透は、心のメモに一を足した。一人。
凛が生きて封絶層を出たとき、透のチャンネルの同時接続は千を超えていた。コメントの転載をたどって、人が流れ込んでいた。
地上へ通じる転移陣の上で、凛は膝をついて泣いた。その様子が、生で流れていた。
「あの……声の人」凛はカメラに向かって、しゃくり上げながら言った。
「名前も知らない、声の人が……『死なせない』って。『間に合う』って。ずっと、ずっと、言ってくれて……っ」
この三十秒の切り抜きが、その夜、爆発した。
仕組みは無責任そのものだった。まず切り抜きBOTが『【感動】謎の声の主、封絶層の少女を救う』という、見もしないうちに付けたタイトルで動画を量産した。まとめサイトが転載し、何も知らない数万人が三十秒だけを消費して「泣いた」と書き、また拡散した。本人たちの意図は、どこにも関係していなかった。感動も、こうして消費されるのだ。
切り抜きから来ました
声の人ってこの人? 地味すぎん? おじさんやん
え、ガチでただ撤退ライン読んでるだけなんだが。BGMもなし
切り抜きBOT_99:【30秒で泣ける】謎の声に救われた少女、号泣→保存しました
ねこむすめ@課金勢:は? さっき「死ぬとこ配信」て煽ってたのお前らだろ
攻略クラスタR:いやこれ査定士の喋り方だわ。撤退判定の出し方がプロ。元・支援会社でしょ絶対
ぴよ→ぴよ:声の人、一回も「頑張れ」って言わないの、逆に信用できる
透は、増えていく数字を見なかった。彼が見ていたのは、別の迷宮でまた一人、孤立しかけている次の単独探索者の座標だった。終わらない。一人助けたら、また一人。それでいい。それが、数えるということだ。
マイクの位置を直す。息を吐く。視聴者が千人だろうと、一人だろうと、ゼロだろうと、やることは同じだ。
「聞こえますか。――今夜は、誰も死なせない。手は出せませんが、数えることはできます」
その一行が、その晩、何千回も書き起こされ、何度も貼られた。流れ込んだ人波が、また人を呼ぶ。透はまだ、それを知らなかった。




