第26話(前編)――「炭の地図、北の渡り」
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登場人物
新大陸皇帝アルバロ・デ・モリーナ〈30〉
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アルバロの側室
アデニケ〈19〉。オヨ国一番の若く美しい王妃。オヨ国北方の脅威を防ぐため、アルバロに差し出された。
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アルバロの側女
タリロ〈29〉。ルヤ川沿いの金の谷を束ねる首長の妻だ。陶器を焼く一族の出で、採り分けと勘定を任されていた。襲撃の日、倉の裏で子を抱えたまま捕えられ、喉に土埃の渇きが残った。
アルバロの側女
ルド〈20〉。サビ川支流の小さな金の谷の首長の妻だ。飾りのように扱われた反面、帳の内側で聞く話が多く、補給や見張り交代の数を指で覚える癖がついた。捕えられた直後、泣き声が途切れた静けさが怖く、声が出ず震えた。
アルバロの側女
チポ〈31〉。北の峠を押さえる首長の妻だ。蜂蜜と薬草に通じ、屋敷では見張りの食と水を回していた。襲撃の瞬間、戸口で子を押し戻し、土間に爪を立てて踏ん張ったが、縄がかかった。
アルバロの側女
ファライ〈42〉。南の峠を押さえる首長の妻だ。成人した息子が2人いる。布と塩の出入りを管理し、家を回してきた。夫が倒れた後、声が枯れるまで泣いた。
アルバロの側女
マサシ〈23〉。下流の渡し場を押さえる首長の妻だ。商人の言葉に囲まれて育ち、スワヒリ語の挨拶とポルトガル語の数詞を少し知る。矢筒の受け渡しを一度だけ手伝ったことが弱みになり、砲声の後は唇を結んで目を伏せた。
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(1525年2月下旬、早朝。首都オヨ=イレ(古オヨ))
1525年2月下旬の早朝、首都オヨ=イレ(古オヨ)はまだ薄暗かった。土壁の回廊に夜の冷えが残り、踏み固められた地面は露でしっとりしていた。炊き火の煙が低く流れ、乾いた木の匂いと、油を温めた匂いが混じった。遠くで鶏が鳴き、荷を積む音が、断続的に聞こえた。
アルバロは低い卓の上に地図を広げ、炭の線で北の道すじをなぞっていた。帆布の袋から出した羅針盤はまだ冷たく、指に金属の感触が残った。彼は通訳を呼び、続いてアデニケを座に招いた。アデニケは布を肩に掛け直し、首の飾りが小さく触れ合う音を立てて席に着いた。肌には香木と油の匂いがあり、眠りの名残がわずかに目元にあったが、姿勢は崩さなかった。
アルバロは通訳に向けて言った。「オヨの北で脅威になるというボルグやヌペは、ハウサの国なのか。私はそれを確かめたい」
通訳はうなずき、言葉を選びながらアデニケに伝えた。発音の違いを整えるために、同じ名を2度繰り返し、最後に「ハウサ」と付け足した。
アデニケは目を伏せたまま、静かに首を振った。アデニケはこう言った。「同じではありません。ボルグとヌペは、私たちの北にいる別の国々です。ハウサはさらに遠く、乾いた土地の市の国々として聞こえてきますが、私たちの畑と森の近くにいるのは、まずボルグとヌペです」
通訳はアルバロの顔を見てから、はっきり言い直した。「ボルグとヌペはハウサではありません。別の勢力です。ハウサはもっと北の、市を持つ国々として語られます」
アルバロは短く息を吐き、指先で地図の北側を叩いた。「では、ボルグは何者だ。ヌペは何者だ。どこから来て、何を求める」
通訳が質問を移すと、アデニケは座布の端を指で押さえた。爪の先に土の粉がつき、彼女はそれを気にして指をこすった。アデニケはこう言った。「ボルグは西寄りにいます。草の広い土地と木立の境にいて、いくつもの小さな王たちがまとまって動きます。道を押さえ、通る者に品と人を出させます。私たちが北へ布を運ぶなら、そこを意識しなければならないのです」
通訳は言葉を補って伝えた。「ボルグは西北の連合のように動き、道と市場を押さえ、通行と取引に代価を求める、と言っています」
アデニケは続けた。アデニケはこう言った。「ヌペは大きな川の国です。舟と川岸の道を知っていて、増水の時期も、浅瀬も、渡し場も押さえます。彼らは人をさらい、若い男を縛って連れて行きます。村が焼かれた話も、何度も聞きました。名を変えて呼ばれることもあります。私たちは彼らをタパとも呼びます」
通訳は「タパ」という音をいったん口の中で転がし、アルバロの耳に通る言い方に直した。「ヌペは川の国で、舟と渡し場に強く、人さらいをします。ヨルバ側ではタパとも呼ばれます」
アルバロは通訳の言葉を聞きながら、庭の方へ目を向けた。外では馬が鼻を鳴らし、飼葉の乾いた匂いが風に乗って入ってきた。アルバロは言った。「なぜオヨは、そこまで押される。兵が弱いのか」
通訳が投げかけると、アデニケの目が一瞬だけ上がった。恥と怒りが混じった光が、すぐに消えた。アデニケはこう言った。「私たちは今、大きな国ではありません。北の者たちは馬を多く持ち、長く戦ってきました。こちらは畑を守る男が多く、遠くへ出て戦う力が足りない。都が豊かに見えるほど、狙われるのです。布、塩、鉄、若い人、何でも取られます」
通訳は淡々と訳したが、最後の「若い人」という部分だけ、声が少し低くなった。
アルバロは卓の縁を指でなぞり、黙って地図を見つめた。煙の匂いが室内に濃くなり、鍋の底を木杓子がこする音が、乾いて響いた。戸の外では馬が蹄を鳴らし、飼葉の粉が風に乗って鼻を刺した。
アルバロは通訳に言った。「私は北を知りたい。話を『いつ』『どこ』『誰』にしてくれ。砲と騎馬を動かす」
通訳が伝えると、アデニケはうなずいた。アデニケはこう言った。「雨の時期は川が太り、舟が主になります。ヌペはその時期に人を攫い、渡し場で荷と人をまとめます。乾いた時期は水が落ちます。浅瀬が増え、舟の利が薄れます」
アデニケは地図の川筋に指を置き、爪先で土の線をなぞって言った。「ここが大きな渡りです。攫った者を必ず通します。護衛の数は大して多くないです。貢ぎ物を集める者の名もあります。家も倉も分かります」
通訳が訳し終えると、アルバロは炭で渡し場を丸く囲み、その横に小さく砲の印を描いた。さらに別の点に、矢印を引いた。
アルバロは言った。「乾いた時期に、この渡りを奪る。舟は砲で沈める。攫いの帰り道で迎え撃つ。集め役の家と倉は焼くのではない。名簿と印章ごと押さえる」
アルバロは炭の先で、地図の西北に線を引いた。
アルバロは続けて言った。「その前にボルグだ。ここが道を押さえる。通り道になる以上、踏み潰す」
アルバロは顔を上げた。「今までオヨを脅し、人を攫った罪を償わせるために砲声を聞かせる。市も倉も潰し、道の主を替える」
アデニケの喉が小さく鳴った。怖れではなく、久しぶりに「北が揺れる」手触りを思い出した顔だった。
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アルバロ軍は、乾いた季節を選んで北へ進んだ。朝は冷え、昼は日差しが刺した。赤土の道は踏まれて粉になり、歩くたびに足首まで白い埃が巻き上がった。馬の汗と革の鞍の匂い、火縄銃の油の匂い、砲車の軋む木の匂いが、行軍の列に重なって流れた。荷車には砲弾と火薬樽が積まれ、車輪の鉄輪が石を噛むたびに乾いた金属音が鳴った。
先頭には斥候が散り、道の両側の草むらを小刻みに確かめた。銃兵は縄で隊列を保ち、火縄を濡らさぬよう布で包んだ。騎兵隊は列の外側を広く回り、時おり馬の鼻息が、砂を吸う音として近くで聞こえた。後ろには大砲50台、小砲500台が続き、砲架を引く馬の背が波のように上下した。砲車が段差で跳ねるたび、鎖と滑車が鳴り、火薬樽がぶつからぬよう兵が腕で押さえた。
途中のボルグは、道を押さえる土地だった。村と市が点のように並び、木立の切れ目に見張りの小屋があった。ボルグの兵は槍と弓が主で、盾は軽く、馬は少なかった。彼らはこれまで、通る者の荷を止め、代価を取ることで力を保ってきた。だが、砲列を見た瞬間に空気が変わった。驚きが走り、太鼓と角笛が一斉に鳴り、女や子の叫びが家々の奥から漏れた。
アルバロは砲を前に出させた。砲口が村の手前の開け地に向くと、兵は耳を塞ぎ、火薬の袋が切られた。導火の火が走り、次の瞬間、地面が一度だけ沈んだように揺れた。爆ぜる音が胸に当たり、白い煙が風下へ厚く流れた。焦げた硝煙が鼻の奥を刺し、舌に苦い粉の味が残った。弾は土塁と柵を砕き、木片が雨のように跳ねた。叫び声が重なり、命令の声がかき消された。
小砲が続けて鳴った。近い距離の音は鋭く、耳の奥がきしんだ。弾が人の列を崩し、盾がはじけ、槍が折れた。火縄銃2000丁は横一線に広がり、合図で一斉に撃った。火花が散り、白い煙が人の背丈を越えて立ち、火薬の匂いが一気に濃くなった。発砲の反動で銃身が跳ね、次の装填の手が、汗と埃で滑った。騎兵1000騎は左右に回り込み、逃げ道を塞いだ。馬の蹄が赤土を叩き、乾いた音が途切れず続いた。
戦いは長引かなかった。砲声が続くほど、槍と弓の隊は散り、隊形が崩れた。ボルグの兵は後ろへ押され、最後は市の入口で潰れた。倒れた者の体が重なり、土が黒く湿った。煙の向こうで泣き声が途切れ、咳が増えた。捕虜は5,000名に達した。縄が次々に回され、手首が縛られ、歩かされるたびに結び目が食い込んだ。水を求める声があちこちから上がり、喉に埃が張り付いて声が割れた。
ボルグの首長は捕えられた。広場に引き出され、周囲は銃兵が固めた。首長は言葉を吐いたが、砲列の前では声が薄かった。処刑は短く終わった。合図が落ち、刃が振り下ろされ、見物のざわめきが一瞬だけ止まった。首長の妻妾たちは屋敷の奥から連れ出され、顔を覆い、足元を見て歩いた。髪飾りが揺れ、鎖の音が小さく鳴った。彼女たちは捕虜として扱われ、兵の列の後ろへ回された。怯えと怒りが混じった目が、煙の匂いの中で濡れていた。
アルバロ軍は足を止めず、北へ進んだ。ボルグを越えたことで、道は開けた。補給の荷が遅れずに流れ、斥候の報告も速くなった。行軍の夜は冷え、火の粉が闇に飛んだ。鍋の湯気に塩の匂いが混じり、干し肉の脂が火に落ちて焦げた。遠くで獣の声がし、見張りの槍先が月の光を薄く返した。
ヌペの側は、まさかオヨがこの規模の援軍を連れてくるとは思っていなかった。川の国は、渡し場と舟で人を攫い、戻り道を固めて力を保ってきた。だが、砲は川辺の集まりを許さない。最初の砲弾が岸の土をえぐり、舟を引き上げていた場所が一息で崩れた。木の破片が飛び、泥水が跳ね、川面に煙が落ちた。水の匂いに硝煙が混じり、湿った風が喉を焼いた。
ヌペの国王と王妃たちは、砲声を聞いて出て来た。儀礼の衣は派手だったが、足元の震えは隠せなかった。砲列が整い、銃兵が静かに並ぶと、空気が凍ったように静まった。王妃たちの飾り布が風で揺れ、その音だけが細く聞こえた。次の一斉射が示すものは、誰の目にも明らかだった。ひれ伏す動きは早かった。膝が土に沈み、額が地に触れた。言葉より先に、降伏が形になった。
降伏しても、アルバロは赦さなかった。攫いと焼き払いの責任を、国王の名に結びつけたからだ。国王と息子たちは引き出され、処刑された。命乞いの声が上がり、すぐに途切れた。王妃たちは全員、捕虜となった。縄が回り、護衛が付いた。泣く者もいれば、歯を食いしばって涙を落とさない者もいた。近くで火薬樽の栓が閉められる音がし、兵が足元の弾を数える声が淡々と続いた。勝った側の手は忙しく、感情を挟まなかった。
夜になると、野営地の匂いが戻った。炊き火の煙、湯に溶ける塩、濡れた土と馬の汗。遠くでは川が鳴り、近くでは鎖が鳴った。捕虜の列が座らされ、警戒の歩哨が周囲を回った。ヌペの王妃たちは互いの肩に触れ合うほど近くに寄せられ、声を潜めた。ボルグで捕えた女たちも同じ範囲に置かれ、目だけで周囲を測った。誰もが、砲声の記憶を耳の奥に残したまま、眠りに落ち切れずにいた。
アルバロは火のそばで地図を広げた。炭の線の上に、ボルグの市とヌペの渡し場に印が増えていた。彼は短く言った。「これで北の喉は掴んだ。次は、攫われた者を戻す」そう言って、乾いた火縄の束を手で確かめた。指先に油がつき、硝煙の匂いが微かに残った。




