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ほくそ笑む大悪党 アルバロ・デ・モリーナ  作者: ひまえび
第七章――「黄金海岸の砦、奪われるポルトガルの旗」

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第20話――「香辛料の港、南へ降りる帆」

挿絵(By みてみん)

挿絵(By みてみん)

挿絵(By みてみん)

挿絵(By みてみん)

挿絵(By みてみん)

挿絵(By みてみん)

挿絵(By みてみん)

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挿絵(By みてみん)

挿絵(By みてみん)


――――――――――――――――――

登場人物

新大陸皇帝アルバロ・デ・モリーナ〈29〉

――――――――――――――――――

アルバロの側室(そくしつ)

クダクワシェ・ムリロ〈36〉。トルワ国王の元正妻。

 王妃らしい誇りと礼節を持ち、へつらわずに筋を通す。根は明るく、冗談と皮肉で場を軽くできる。暮らしの段取りを整えるのが好きで、侍女を褒めて菓子を分けるような面倒見もある。


アルバロの側女(そばめ)。参謀兼公爵

ニャシャ〈24〉

 肌は深く黒く、瞳の黒が濃い。姿勢と歩みが崩れず、言葉が速く正確だ。状況を読むのが早く、地形と人の心を同時に扱う。腕力も俊敏さも備えている。


アルバロの側女(そばめ)

ルテンデ〈35〉。マンウェ川方面の金の谷の首長の元妻。

 ムタパ国本拠の縁戚から嫁いだ政治の婚姻で、婚礼の贈り物に牛と鉄器を受け取っている。元夫の代わりに人質や贈答の段取りを決めることが多く、周辺の首長たちとも顔が利いた。抵抗の連携が始まったときも、矢を集める村と食糧を隠す村の名を知っていたため、捕縛後は黙り込み、唇を噛んだ。


 〔侍女1〕タリロ〈28〉。ルヤ川沿いの金の谷を束ねる首長の妻だ。陶器を焼く一族の出で、採り分けと勘定を任されていた。襲撃の日、倉の裏で子を抱えたまま捕えられ、喉に土埃の渇きが残った。

 〔侍女2〕ルド〈19〉。サビ川支流の小さな金の谷の首長の妻だ。飾りのように扱われた反面、帳の内側で聞く話が多く、補給や見張り交代の数を指で覚える癖がついた。捕えられた直後、泣き声が途切れた静けさが怖く、声が出ず震えた。

 〔侍女3〕チポ〈30〉。北の峠を押さえる首長の妻だ。蜂蜜と薬草に通じ、屋敷では見張りの食と水を回していた。襲撃の瞬間、戸口で子を押し戻し、土間に爪を立てて踏ん張ったが、縄がかかった。

 〔侍女4〕ファライ〈41〉。南の峠を押さえる首長の妻だ。成人した息子が2人いる。布と塩の出入りを管理し、家を回してきた。夫が倒れた後、声が枯れるまで泣いた。

 〔侍女5〕ニャメンダ〈27〉。上流の渡し場を押さえる首長の妻だ。漁と舟の一族の出で、舟の順番と渡しの間合いを作る実務を担っていた。襲撃の日、泥に足を取られて転ぶ女たちを見て叫び、捕縛後は子の名を呼び続けた。

 〔侍女6〕マサシ〈22〉。下流の渡し場を押さえる首長の妻だ。商人の言葉に囲まれて育ち、スワヒリ語の挨拶とポルトガル語の数詞を少し知る。矢筒の受け渡しを一度だけ手伝ったことが弱みになり、砲声の後は唇を結んで目を伏せた。

 〔侍女7〕ムニャンガ〈34〉。金の量と相場を決める仲介の家の妻だ。秤と目方が身に染みつき、取引では相手の手元を黙って見てきた。結託を止めたが聞かれず、捕縛の瞬間は夫の袖を握ったまま指が白くなるまで震えていた。

――――――――――――――――――


 アルバロは、1524年2月28日 午前6時ごろ〈夜明け直後〉にカイロを出発して、アフリカ大陸を時計回りに一周して、ミナ砦へと向かった。


 ◇ ◇ ◇


 1524年2月28日、夜がほどけきらない午前6時ごろ、カイロの空はまだ青みを残していた。礼拝の声が遠くで重なり、ナイルの湿り気が石畳に薄く残っていた。アルバロは外套の襟を整え、随行の兵に合図した。馬の鼻息が白く短く、革具がきしむ。女たちは荷のそばで静かに待ち、侍女が水袋の口を確かめ、布の結び目を締め直していた。


 出立は目立たせない形だった。門を出るころには東の空が明るくなり、砂の匂いに朝の冷えが混じった。兵は軽口を叩き、笑い声が小さく弾んだ。クダクワシェ・ムリロは歩調を崩さず、必要なことだけを短く指示した。水は誰が持つか、食はどこで割るか、女の荷は濡らさないか。声を荒げずに段取りを整えるのが、この女の癖だ。


 昼前、隊列は運河沿いの道を抜け、紅海へ向かう港に着いた。潮の匂いが砂の匂いに勝ち、船の板は熱を先に帯びていた。タールと松脂の臭いが鼻に残り、帆布が風で鳴った。船乗りが裸足で走り、索を肩にかけて怒鳴り合う。アルバロの兵はそれを面白がり、誰かが真似をして、すぐ仲間に小突かれた。


 乗船が始まると、艀が水面を揺らし、荷が次々に移った。水袋、乾いたパン、干し肉、塩、果物、薬草、油の壺。女たちは足場を選びながら甲板へ上がり、侍女は手を貸し合って衣の裾を踏まぬように支えた。ニャシャは周囲を見回し、舷側の死角を潰すように視線を動かした。戦のない航海でも、癖のように警戒が抜けない女だ。


 正午過ぎ、帆が上がった。北東からの風が入り、船はゆっくりと港を離れた。水は青黒く、光が砕けて白く跳ねた。波しぶきが顔に当たり、塩の苦みが唇に残る。兵は帽子を押さえ、何人かは手を伸ばして海水をすくい、暑さに笑った。船が安定すると、誰かが歌い出し、節は揃わないのに、不思議と気分だけは揃った。


 夜、甲板の熱がやわらぐと、女たちは帆柱の影に集まった。木の床に座ると背中に涼しさが来て、遠くの波が絶えず低く鳴った。ルテンデは膝に布を広げ、侍女の髪をゆっくり梳いた。髪に残る油の匂いが甘く、手を動かすたびに櫛の歯が小さく鳴る。ファライがそれを見て、初めは固い顔だったが、やがて肩の力を抜き、薄い笑いを浮かべた。声を出して笑うまでには時間が要る。それでも、笑いの始まりは静かでいい。


 夜伽の話は、隠し立てをしない方が揉めない。クダクワシェ・ムリロが最初にそう決めた。今夜は誰の番か、明日は誰か。順番は紙に書かれ、蝋で留められた。誰かが不満を漏らしそうになると、ニャシャが肩をすくめて言った。「この風だ。船が揺れる夜は短く眠って、明日に備えろ」。言い方があっさりしていて、逆に角が立たなかった。


 アルバロは女たちの輪に長くは留まらない。兵の様子を見て、船頭の報告を聞き、星と風を確かめる。そのうえで、静かな時刻に灯のある区画へ入る。扉が閉まる音は小さく、外の波音にすぐ消える。翌朝、女は髪を結い直し、口元を手で隠して笑う。侍女は何も聞かずに温い水を出し、布を畳む。兵は察して、からかいの言葉を飲み込む。その分だけ、船の空気が軽くなる。


 数日が過ぎると、船の暮らしは一定の形になった。朝は薄い粥と乾いたパン、昼は塩気の強い煮込み、夜は残り物を温める。水は貴重で、女たちは顔を拭く程度に使い、髪は油で整えた。タリロが秤を扱う手つきで乾物を量り、ムニャンガが黙って帳面を見て、余りが出ないようにした。マサシは数を数えるのが早く、船乗りに混じって木箱を渡しながら、覚えたばかりの言葉を口にして笑いを取った。


 紅海の岸は乾き、山が赤く見えるところがある。昼は眩しく、目を細めると涙が出る。甲板の木は熱く、裸足では立てない。夕方になると風が少し冷え、布が肌に張りつく感じが薄れる。夜は星が増え、船の影が海に溶ける。兵は交代で見張りに立ち、女たちは帆布の下で肩を寄せ、眠りの浅い者は小声で昔の話をした。冗談が混じると、笑いが伝染し、笑う自分に驚いたように口を押さえる者もいた。


 マッサワの港が見えたのは、石の岸が白く光る朝だった。海は急に浅くなり、底の色が透ける。錨が落ちると鎖が鳴り、音が腹に響いた。陸からは煙の匂いが流れ、香木のような甘さが混じった。小舟が寄ってきて、果物と山羊、乾いた豆、淡い色の布が並んだ。アルバロは必要な水と食を買い、船体の傷も確かめさせた。支払いは金粒を秤に乗せ、目方を互いに見て決めた。余計な駆け引きはしない。港の男たちが、その手際の良さを見て頷いた。


 停泊の間、女たちは短い陸歩きを許された。砂は熱く、草は少ない。だが、地面の固さが足裏に戻り、身体の揺れが一度止まるだけで、顔つきが変わる。チポが薬草の束を見つけ、匂いを確かめて侍女に分けた。ルドは水桶のそばで立ち尽くし、湧くように出る水の音を聞いて、やっと息を吐いた。クダクワシェ・ムリロはその様子を見て、余計な言葉をかけずに、ただ背に手を置いた。


 夜、船に戻ると皆の声が弾んだ。手に入れた甘い果物を切り分け、汁をこぼして笑う。兵は港で見た話を誇張して語り、女たちはそれを真面目に叱って、すぐ自分も笑う。アルバロは輪の中で杯を受け、口を湿らせる程度に飲んだ。酒気で乱す夜ではない。明るい声が続く夜だ。


 このころから、女たちは互いの体の変化に敏感になった。食の匂いでむかつく者が出て、潮の匂いで気分が沈む者もいた。ムニャンガが数を指で折り、月の巡りを思い出すように目を閉じた。ルテンデは自分の腹を押さえ、驚いたように笑ってから、急に真顔になった。怖いのではない。嬉しさが現実になっていく速さに、心が追いつかない顔だ。クダクワシェ・ムリロは落ち着いて言った。「焦るな。水を飲め。身体の声を先に聞け」。その言葉が船の中の余計な興奮を抑え、喜びだけを残した。


 出帆の日が来ると、マッサワの岸はすぐ遠のいた。船はさらに南へ向かい、風は背中から押すように吹いた。海の色が変わり、空気が湿り、夜の暑さが増す。甲板に立つと、遠くで雷が光る日もあったが、雨は大きく崩れずに通り過ぎた。兵は濡れた帆布を干し、女たちは髪をまとめ、笑いながら手伝った。誰かが転びそうになると、ニャシャがすぐ手を伸ばし、助けたあとで素っ気なく言う。「海に落ちたら、抱き上げる手間が増える」。言い方が乱暴なのに、口元は笑っていた。


 ソマリの岸が近づくころ、波は荒くなり、潮の飛び方が鋭くなった。船はきしみ、夜に目が覚める者もいた。そういう夜ほど、アルバロは女たちのところへ顔を出し、短い言葉で安心させた。「風は読める。明日には落ち着く」。それだけで十分だった。男が余計な飾りを言わず、状況を見ていることが伝わると、人は静かになる。


 南へ進むにつれて、船の暮らしはますます家族じみた。兵は女たちに魚の焼き方を教わり、女たちは兵に索の結びを教わった。笑いは増え、誰かの不機嫌は早くほどける。夜伽の順番は続き、翌朝の湯気の立つ椀が、何も言わずに幸せを示した。孕んだ兆しが強い者が増えると、女たちは互いの腹に手を当て、まだ見えない命に声をかけ、目を潤ませて笑った。誰かが泣きそうになると、クダクワシェ・ムリロが菓子を割って渡し、冗談で場を軽くした。船の中に、喜びの形が少しずつ増えていった。


 やがて、スワヒリの海の匂いが濃くなり、岸から椰子の影が見える日が来た。小舟が遠くを横切り、海鳥が船の上を回った。風はまだ北東から入っていて、帆は白く張り、船は滑るように進んだ。アルバロは舳先に立ち、海面の色と潮目を見てから、背後の気配を確かめた。女たちの笑い声が聞こえる。兵の足音も軽い。


 モンバサの手前で、石造りの建物が遠くに点として見え始めた。港の匂いが微かに混じり、木炭の煙の気配が風に乗った。アルバロは命じた。「錨の用意をしろ。女たちに水を先に回せ」。兵が応え、女たちは互いの肩を叩いて笑った。長い航海の疲れより先に、次の土地への期待が膨らんでいた。


 ◇ ◇ ◇


 モンパサの港は、朝から湿り気を含んだ熱を抱えていた。海は青く見えても、鼻に入るのは塩だけではない。干した魚の匂い、椰子油の甘さ、土を踏んだ人の汗が混じり、荷を運ぶたびに木箱が鈍い音を立てた。アルバロは桟橋の先で立ち止まり、帆柱を見上げた。帆布の縫い目は整っており、索は油で黒く光っていた。


 ニャシャ〈24〉が先に歩き、船底の水量を確かめ、見張りの位置を指で示した。ニャシャは短く言った。「ここから先は海の顔が変わる。南へ行くほど、風は遠慮がない」


 クダクワシェ・ムリロ〈36〉は荷の山の前で手を叩き、侍女たちを集めた。クダクワシェは落ち着いて言った。「水袋は口の紐を二重にする。果物は上に積む。布は塩気を吸うから、油紙で包む」


 タリロ〈28〉は秤を抱え、干し肉の束を量り直した。ムニャンガ〈34〉は黙って石板に刻み、数が合うまで視線を上げなかった。マサシ〈22〉は船乗りの真似をして索を肩に担ぎ、わざと大げさに歩いて見せた。笑いが起き、ファライ〈41〉の口元も一瞬ほどけた。笑う癖を取り戻すのに、ここまで来たのだとアルバロは思った。


 出帆は午前のうちだった。海風が港の熱を押し返し、帆が上がると、船は軽く身をよじった。波しぶきが頬に当たり、唇に塩の苦みが残る。兵たちは歓声を上げ、誰かが手を振った。モンパサの石の家並みが小さくなり、代わりに海の広さが前へ出た。


 その日の昼、甲板は乾き切らず、板の隙間から湿った木の匂いが上がった。ルド〈19〉が手桶で水を汲み、侍女同士で回し飲みした。チポ〈30〉は薬草の袋を開け、舟酔いしやすい者に舌の上へ少しだけ粉を落とした。チポは低い声で言った。「飲み込む前に、息を長く吐く。胸の中の波を静める」


 夜になると、海は黒く落ち着き、星が増えた。波の音が一定になり、人の声がそれに合わせて低くなる。兵たちは交代で見張りに立ち、空いた者は網を直したり、刃物を研いだりして過ごした。女たちは帆柱の影に集まり、椰子の繊維で編んだ敷物に座った。潮に濡れた髪が乾き切らず、首筋にまとわりつく。誰かが手ぬぐいを差し出し、誰かが黙って髪をほどいた。


 クダクワシェが皆の顔を見回し、いつもの調子で言った。「今夜は海が静かだ。眠る前に甘いものを出す。黙っていると、余計なことを思い出す」


 クダクワシェは乾いた菓子を割り、侍女へ先に渡した。タリロが受け取り、礼を言ってから隣へ回した。ニャメンダ〈27〉は欠片を口に入れ、目を細めた。砂糖の甘さが舌に残り、遠い家の台所を一瞬だけ思い出したが、今はそれを押し込めずに済んだ。


 翌日、船はザンジバルに寄せた。海の色が一段明るくなり、岸から緑の匂いが流れてくる。近づくほど、香丁香(クローブ)の強い香りが鼻を刺した。港は小舟が多く、荷は香辛料、布、壺、乾いた果物が目についた。


 アルバロは兵を揃え、女たちも一列にした。全員を連れて上陸するのは目立つが、隠れて生きる必要はない。アルバロが新大陸皇帝として振る舞えば、それが秩序になる。ニャシャが先頭の左右に兵を置き、クダクワシェが女たちの歩幅を整えた。


 市場は熱と音で満ちていた。鉄の鍋が鳴り、鳥が鳴き、売り手が声を張る。土の上に落ちた果汁が発酵して甘酸っぱく匂い、裸足の子どもが走り回った。アルバロが布を手に取ると、売り手の男は目を丸くし、それから急に笑った。男は身振りで値を示し、アルバロは小さな金粒を掌にのせ、秤の針が落ち着くまで待った。ムニャンガがその動きを見て、微かに頷いた。


 ルテンデ〈35〉は布の色を選び、指先で織り目を確かめた。ルテンデは侍女に言った。「丈夫なものを選ぶ。南へ行くと夜が冷える。身体が冷えると、心まで縮む」


 マサシは木の笛を見つけ、試しに吹いて音を外した。兵が腹を抱えて笑い、マサシも笑った。ファライは最初、眉をひそめたが、マサシの真剣さが滑稽で、つい声が漏れた。笑ったあと、ファライは自分の口元を押さえ、照れたように目を逸らした。


 夕方、浜に出ると、潮が引いて浅瀬が広がっていた。砂は温かく、足裏に粒がつく。女たちは短い間だけでもと、裾をからげて波打ち際へ入った。海水がくるぶしを冷やし、熱い身体がすっと軽くなる。ニャメンダが笑って言った。「陸の水と違って、海は尽きない」


 ニャシャが横目で見て、いつもの調子で返した。「尽きないが飲めない。飲んだら腹が壊れる」


 それでも、声は硬くなかった。誰かが水を跳ね、誰かが驚いて飛び、笑いが続いた。アルバロは少し離れてそれを見た。兵の何人かも浜へ降り、女たちの輪の外側で見守りながら、時々わざと負けるように追いかけっこに混じった。


 その夜、船に戻ると、クダクワシェが灯の下で帳面を閉じた。クダクワシェはアルバロに言った。「今夜の順番は崩さない。だが、具合が悪い者は休ませる」


 アルバロは頷いた。「無理はさせない。明日も海は続く」


 夜が更け、波音が近くなるころ、ルテンデが甲板の隅で立ち止まった。ルテンデは自分の腹に手を当て、呼吸を整えた。潮の匂いに一瞬むかつき、すぐ引いた。ルテンデは近くにいたチポに小声で言った。「匂いが強いと、胸が反る。これが、そうなのか」


 チポは顔を覗き込み、ゆっくり頷いた。「身体が変わり始めた。水を飲んで、塩を少し舐めるといい」


 ルテンデは涙ぐむほどではなかったが、唇が震えた。喜びが先に来て、怖さが後ろに残る。だが、今夜は怖さを抱えたままでもいいと思えた。


 翌朝、クダクワシェは女たちを集め、いつもの冗談を薄く混ぜて言った。「嬉しい知らせがあった。大声で言うな。船の上では、喜びも丁寧に扱う」


 ルテンデが一歩出た。ルテンデはアルバロの方を向き、言葉を選んで言った。「私の腹に、あなたの子がいる。まだ確かではないが、身体がそう言っている」


 アルバロはすぐ答えず、ルテンデの手を取り、指先の冷えを確かめた。それから言った。「確かになるまで守る。確かになったあとも守る」


 女たちは一斉に声を上げなかった。代わりに、互いの肩へ手を置き、息を吐き、目を潤ませて笑った。喜びが静かに広がり、甲板の板目にまで染みるようだった。


 船はさらに南へ走り、キルワの沖で短く停まった。岸は珊瑚の石で白く見え、日差しが強い。上陸すると、乾いた石が熱を返し、足の裏がじりじりした。ここでは魚が多く、焼いた皮の匂いが風に乗った。兵たちは網の手伝いをし、女たちは皿を洗い、布を干した。暮らしがそのまま小さな祭りになった。


 海はやがて顔を変えた。南へ下るほど水は冷たくなり、風は鋭くなった。ナタールの手前では波が高く、甲板がしぶきで濡れ続けた。木の床が滑りやすくなり、ニャシャは兵に言った。「笑うのはいい。だが足は笑わない。縄を張れ」


 喜望峰を回る夜は、誰も無理に明るく振る舞わなかった。風が唸り、帆が鳴り、船が軋む。耳の奥まで波の音が入り、眠りが浅くなる。それでも、アルバロは灯のある区画へ女たちを集め、温い飲み物を回した。クダクワシェが布を配り、ファライが年長らしく背をさすった。ルドは震えを止めようと歯を食いしばり、タリロはその手を握った。


 風が落ちた朝、海は嘘のように静かになった。遠くで海鳥が旋回し、空が広い。兵たちは互いの肩を叩き、無事を確かめ合った。マサシが乾いた声で言った。「海の機嫌が直った」


 クダクワシェが笑って返した。「直ったのではない。昨日の分まで、今日は機嫌がいいだけだ」


 西岸へ入ると、景色は乾き、砂の匂いが戻った。クロス岬の沖では岸が低く、空気が粉っぽい。停泊して水を積み、火を焚くと、煙が真っすぐ上がった。女たちは火の近くで手をかざし、久しぶりに身体の芯が温まるのを感じた。ルテンデは腹を撫で、息を長く吐いた。皆がそれを見て、言葉をかけずに頷いた。


 (1524年5月中旬。ルアンダ湾)


 数日後、ルアンダの湾が見えた。空気が再び湿り、土と草の匂いが濃くなった。岸には舟が集まり、太鼓の音が遠くから響いた。上陸すると、足元の土は柔らかく、踏むたびに湿った音がした。果物の山が並び、甘い香りが漂い、油で焼いた肉の匂いが腹を刺激した。


 アルバロは女たち全員を連れて歩いた。兵はその周りで笑い、売り手は驚きながらもすぐ商いの顔になった。タリロは布を肩にかけ、色を合わせて笑った。ニャメンダは貝の飾りを手に取り、光に透かして見た。ムニャンガは相場を見て、必要な物だけを黙って選び、無駄が出ないようにした。


 夕方、宿営に戻ると、クダクワシェが皆の前で言った。「ここまで来た。今日は祝う。だが騒ぎすぎるな。子が宿り始めた者がいる」


 ルテンデだけではなかった。タリロもまた匂いに敏感になり、ルドは胸の張りを訴え、チポは脈の変化を指で確かめていた。誰が先に確かになるかは分からない。だが、順番に命が増えていく予感が、女たちの顔を明るくした。過去を消すのではなく、未来を上書きするように。


 夜、火のそばで兵が歌を始め、女たちは手拍子を合わせた。ニャシャは輪の外で警戒を解かずにいたが、歌の終わりにだけ口元を上げた。アルバロは杯を口に運び、深く飲まなかった。酔いに任せる必要がない夜だった。皆が自分の足で立ち、同じ火を見て、同じ明日へ向かう夜だった。


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