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ほくそ笑む大悪党 アルバロ・デ・モリーナ  作者: ひまえび
第七章――「黄金海岸の砦、奪われるポルトガルの旗」

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第10話(中編)――「砂州の綱、排水溝の穴」

挿絵(By みてみん)

挿絵(By みてみん)

挿絵(By みてみん)

挿絵(By みてみん)

挿絵(By みてみん)

挿絵(By みてみん)

挿絵(By みてみん)

挿絵(By みてみん)

挿絵(By みてみん)

挿絵(By みてみん)


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登場人物

ディエゴ〈30〉(新大陸皇帝アルバロ・デ・モリーナ〈29〉の仮名)

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側女(そばめ)

 1人目 ルジア・ロドリゲス〈26〉

 リスボンの川沿いの町で育った。父は港の小役人で、船荷の数え方と、帳面の付け方を娘に叩き込んだ。読み書きができることが唯一の持ち物で、結婚相手は船の会計係だったが、海外の熱病で死んだ。未亡人として本国へ戻る途中、ソファラ帰りの船に乗せてもらっていたが、襲撃で捕虜になった。戻っても家はなく、親戚は「厄介者」として扱うと分かっている。

 2人目 カタリーナ・デ・アゼヴェード〈32〉

 内陸の小さな貴族家の出だが、家は傾いていた。若いころに「体面のため」の縁組で、海外の砦に関わる文書仕事の男に嫁いだ。夫は家に金を入れるが、妻には関心が薄く、彼女は屋敷で「書類の置き場」のように扱われてきた。砦と教会の往復で、署名、印章、通行証、寄付の名簿といった紙の扱いだけは身につけた。今回の航海も、夫の都合で帰国に同乗させられただけで、帰っても夫の家には居場所がない。

 3人目 マダレーナ・フェレイラ〈38〉

 南部の海辺の町で育ち、若いころから船乗り相手の宿の台所と洗濯場で働いてきた。嫁いだ男は航海の副官だったが、遠征続きで家にいない。彼女は港で暮らしを回し、怪我人の手当、塩漬け肉の管理、真水の配り方まで現場で覚えた。年齢の分だけ、男の虚勢にも、泣き落としにも動かない。今回の船でも、女の客ではなく、船内の食と水の段取りを実際に動かす側にいた。襲撃で夫と縁が切れ、戻っても「敗走の家族」として冷たい目が待つだけだと見ている。

――――――――――――――――――


 (1523年1月下旬。モザンビーク島)


 夜明け前の空は、低い雲が腹を引きずっていた。潮はぬるく、鼻の奥に残るような生臭さがある。濡れた木の匂い、焦げた松脂の匂い、汗の匂いが、甲板の板目に染み込んでいた。寝不足の兵は目をこすり、舌で唇の塩をなめた。海は静かな顔をしているのに、空気だけが重い。


 ディエゴは灯りの届かない甲板の端で、地図を広げた。紙の角に塩が噛んでいて、触ると指先がざらつく。湿気で紙がふにゃりと波打つたびに、島の匂いが混じった風が吹き込んだ。


 ルジアは小さな石を置き、紙が飛ばぬよう押さえた。カタリーナは炭で川筋の曲がりをなぞり、河口の浅瀬に短い線を何本も引いた。そこが砂州で、船が腹を擦る場所だと分かる印だった。


 マダレーナは黙って水樽の栓を叩いた。乾いた音がした樽だけを指差し、濡れた樽は脇へ避けさせた。次に彼女は火薬箱の縄を触り、ゆるい結び目を見つけると容赦なく解かせ、布を二重にかけて縛り直させた。火薬は湿れば固まり、燃えなくなる。火縄銃も小砲も、撃てない鉄くずに変わる。それだけは起こさせない、という顔である。


 ディエゴは皆の顔を見回して言った。

「よく聞け。浅瀬に乗り上げたら船は傾く。傾けば水が入る。水が入れば、真っ先にだめになるのは火薬だ。火薬が使えなくなったら、砦に近づいたところで撃ち返せない。だから火薬を濡らすな。守る順番を間違えるな。人を捨てると言っているんじゃない。勝てる形で助けるために、先に火薬を守れ」


 兵の1人が苦笑して、誰かが小声で言った。

「蚊はその前に血を取りますよ」


 ディエゴは肩をすくめた。

「なら蚊に税を払う前に終わらせる。ソファラの壁に取りつく前に、舟を沈めるな。腹を擦るな。綱の位置は決めておけ」


 昼前、船団は南へ向けて帆を上げた。風は弱く、帆布がだらりと垂れている。日が上がるにつれ、海面は鉛のように鈍く光り、遠い岸は熱で揺れて見えた。喉は乾き、唇に塩が残る。汗はすぐ乾かず、背に貼りついた麻布が気持ち悪い。


 2日目の夕方、空が急に暗くなった。雨粒が大きく、叩かれると木板が痛むように鳴った。波が短く立ち、船が横に揺すられる。濡れた帆は重くなり、滑車が甲高く呻いた。海と空の境目が消え、世界が灰色の布で覆われたようになった。


 そのとき、先頭の小舟が砂州に吸い込まれた。舟底が泥に触れた音は鈍く、次の瞬間、櫂が空を掻いた。潮が引き、舟が動かない。舟が止まると後ろも止まる。狭い水路で詰まれば、雨の中で身動きが取れなくなる。


 敵の砦が視界に入る前に、ここで止まれば終わりだった。砦の見張りに気づかれる。砲を向けられる。火薬が濡れていたら、撃ち返すこともできない。


 ディエゴは歯を見せて笑い、腰まで海に下りた。水はぬるいが、底の泥は冷たく、足が抜けない。泥が脛を引っ張り、靴が脱げそうになる。兵が続き、息が荒くなる。雨が目に入り、まばたきのたびに視界が白く滲んだ。


 ディエゴは舟の舳先を叩き、兵に言った。

「綱だ。綱を渡せ。今ここで引き剥がす。砦の灯りが見える場所で足踏みはしない」


 怒鳴らない声が雨音に混じって通った。綱が投げられ、濡れた麻が掌に食い込む。手の皮が削れ、塩水が染みた。


 全員が綱を引いた。泥が鳴り、舟底がぐぐっと持ち上がる。もう少しで抜けるというところで、綱が一度、手の中を滑った。誰かが呻き声を漏らし、綱がびしりと跳ねた。切れたら終わる。舟が戻り、腹を擦り、火薬箱が揺れて水を吸う。


 ルジアが濡れた髪のまま、甲板から叫んだ。

「火薬箱が揺れています。今の衝撃で縄がずれました。縛り直します。濡れた布は替えます」


 カタリーナは兵の背を叩くように言った。

「縄が緩い。切れたら火薬が終わる。火薬が終わったら、私たちが終わる。手を抜くな」


 舟は最後にもう一度大きく軋んで、泥から抜けた。水が跳ね、誰かが笑いとも咳ともつかぬ声を漏らした。ディエゴは泥の中で息を吐き、顔を上げた。雨の向こうに暗い影がある。河口の曲がりの先に、石の角が覗いていた。サン・カエタノ要塞だった。


 夜、雨は弱まり、代わりに湿った熱が押し寄せた。岸に近い空気は重く、息を吸うと胸の奥がぬるくなる。マングローブの匂いが濃く、腐った葉と泥の匂いが混ざっていた。耳の周りで虫が鳴き、皮膚の上を針が走るように刺した。汗は乾かず、首筋にたまって不快に流れた。


 上陸は静かに始まった。小舟の舷側が泥に触れ、ぬちゃりと音を立てた。足を下ろすと沈む。泥が足首を抱え、引き抜くたびに吸い付く音がした。兵は声を殺し、歯を食いしばって一歩ずつ進んだ。武器も濡れて重い。息が荒くなると、それだけで気づかれそうだった。


 見張り台の灯りが揺れ、ポルトガル語が飛んだ。聞き慣れた調子の怒鳴り声である。次の瞬間、火縄銃の火花が闇を裂いた。火薬の匂いが鼻を刺し、煙が舌に苦い。乾いた破裂音が続き、湿地の空気が震えた。


 砦から小砲が鳴った。腹に響く音だった。鉄が飛び、泥と水をまとめて跳ね上げる。細かい砂が頬に当たり、目が痛む。視界が一瞬で白くなり、次に暗くなった。


 ディエゴは前へ出た。泥の上で足を滑らせ、膝を突いた。立ち上がる瞬間、頭の横で木片が爆ぜた。肩に熱い痛みが走った。火縄銃の弾が袖を裂って擦っていったのだ。皮膚がひりつき、汗がしみた。


 背後の兵が息を呑んだ。

「提督、下がれ。そこで撃たれたら終わる」


 ディエゴは泥を払う暇もなく言った。

「下がっても湿地だ。隠れる木も壁もない。ここで伏せたまま撃たれ続けるより、門に取りつく。門を開ければ勝ち筋ができる。行くぞ」


 門は石の壁に食い込み、木の扉が湿気で膨れていた。内側で鉄の鎖が鳴り、太い声が命令を飛ばす。矢ではなく鉛が飛ぶ戦いだった。火花と煙が、夜の闇をところどころ白く塗った。


 梯子が1本、壁に掛かった。上った兵が途中で止まった。上から熱い液体が落ちてきた。油ではない。煮えた湯だった。蒸気が鼻を刺し、皮膚が焼けたように痛む。兵が声を上げて落ちた。落ちた体が泥に沈み、助ける手が絡み合う。梯子の周りは一瞬で地獄の匂いになった。濡れた布が焼ける匂い、焦げた皮膚の匂い、火薬の匂いが混ざった。


 ここで押し返されたら、湿地に釘付けにされる。砦の中から撃たれ続け、こちらの火薬が尽きたところで終わる。


 ディエゴは壁際の暗がりへ走り、門の脇の排水溝へ身を滑らせた。そこは人1人がやっと潜れる穴で、泥水が膝まであった。息を吸うと腐った水の匂いが喉を焼いた。口の中に苦味が広がり、吐きそうになる。


 中から若い兵の声が震えて聞こえた。

「無理だ、通れない。石が詰まってる」


 ディエゴは声を落として返した。

「通れないなら、通れる形にする。ここで止まったら外が持たない。手を貸せ。短剣で泥を掻け。石の角を探せ」


 兵が短剣で泥を掻き、ディエゴは肩で石を押した。石が動いた瞬間、内側の空気が流れ込んできた。煙と汗と獣脂の匂いが混じる、砦の匂いだった。外の湿地の匂いより乾いていて、火と人の匂いがした。


 穴の向こうは倉の裏だった。木箱が積まれ、縄が乱れている。番兵の背中が見えた。彼は火縄銃を持ち、何かをぶつぶつ言っていた。疲れているのか、肩が落ちている。


 ディエゴは泥まみれのまま立ち上がり、兵に目で合図した。声に出さず、息だけで言う。急ぐな、と。


 だが番兵が振り向いた。驚きで目が開いた。その一瞬が勝負だった。ディエゴ側の兵が飛びつき、口を塞ぎ、腕を背中に回してねじった。番兵は短く呻いたが、叫びにはならなかった。縄で縛ると、番兵の体から汗が噴き、獣脂の匂いが強くなった。


 鎖が落ちる音が乾いて響いた。遠くで誰かが気づいて叫んだ。もう隠れられない。砦の中の足音が増え、火が動く気配がした。


 ディエゴは倉の扉を蹴り開け、内側から門へ走った。石の床は濡れて滑り、足裏が冷たい。廊下に火縄銃の煙が溜まり、息が苦しい。咳をしたら終わる、と喉が言う。だから歯を食いしばり、鼻で浅く息をした。


 門の内側では守備兵が鎖を握り、扉を押さえていた。彼らは外の騒ぎを聞き、内側を固めている。そこへディエゴが飛び込んだ。彼は守備兵の目を見て言った。

「その鎖を握っていれば助かると思うな。今助かりたいなら、剣を捨てろ。働けるなら生かす」


 返事は銃声だった。音が耳を叩き、粉煙が目を塞いだ。至近距離の火花が頬を焦がし、皮膚がひりつく。ディエゴは身を捻り、銃口を払い、壁へ押しつけた。火縄が落ち、じゅっと濡れた石に消えた。


 守備兵が体当たりしてきた。ディエゴは壁に背を打ち、息が詰まった。視界が白くなる。鉄の匂いがした。血の匂いも混じる。口の中に金属の味が広がった。


 その瞬間、外側から大砲が鳴った。


 砦の外で、こちらの小砲が火を噴いたのだ。狙いは門そのものではない。門の上の銃眼と壁の角である。石片が門の内側へ降り、守備兵が反射的に身をすくめた。怖いのは弾より石だ。顔を覆う、その動きが一瞬の穴になる。


 ディエゴはその一瞬を逃さなかった。

「今だ。鎖だ。切れ」


 味方の兵が鎖へ飛びつき、引き切った。木の扉が湿気を含んだ唸り声を上げて開く。外の湿った夜気が流れ込み、潮の匂いが戻った。外の闇に、味方の火が点々と揺れていた。

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