第9話(後編)――「夜明けの接舷、3人の誓い、船尾楼の飯」
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登場人物
ディエゴ〈29〉(新大陸皇帝アルバロ・デ・モリーナ〈28〉の仮名)
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夜明け前、船団は湾を出た。空はまだ暗く、東の端だけが薄い灰色になっている。海面は黒く、波の形が見えにくい。だからこそ、相手は距離を見誤る。ディエゴ軍は灯りを消し、風上へ回り、帆を抑えて音を小さくした。
夜がほどける頃、商船の輪郭がはっきりした。帆布が朝の湿気を吸い、白く見える。甲板の上では人影が動くが、警戒の動きではない。長航海の単調な動きである。そこへ、こちらの船団が静かに近づく。
ディエゴは合図を出し、砲を乱射しない理由を砲手に言い聞かせた。
「まず舷側の上部を叩いて、相手の心を崩す。次に舵に近い場所を叩き、向きを変えにくくする。舵そのものを折るつもりで撃っていい。ただし水線下は狙うな。沈んだら意味がない」
砲声が響き、木片が散り、叫びが上がる。商船は帆を変えて逃げようとするが、向きが遅れる。追う側は軽い。風を食う角度が違う。海の上では、わずかな角度の差が距離になる。
距離が詰まると、ディエゴは叫んだ。
「鉤縄を入れろ。船首から2本、横腹にも入れろ。乗り移る者は先に縄を確かめてから行け。落ちるな。落ちた者を拾う時間は、今日は作らない」
鉤が掛かり、縄が張る。両船が引き寄せられ、接舷の衝撃で甲板が揺れた。飛沫が上がり、塩が口に入る。ディエゴ軍が一斉に乗り移る。槍先が朝の光を拾い、短剣の刃が濡れて光った。
商船側は必死に抵抗したが、甲板上の荷が邪魔をして隊列が崩れる。ディエゴ軍は、相手の足場の悪さを利用し、先頭が盾で押し、左右から槍で腕と脚を止め、倒した者に縄を掛けた。殺し合いにしない。動けなくして縛る。抵抗する者は槍の柄で叩き、立ち上がれなくする。硝煙と汗と血の匂いが混じり、鼻が痛くなる。波の音の中で、人の息づかいが妙に大きく聞こえた。
「やめろ。座れ。手を上げろ。ここで命を捨てても、誰も褒めない」
通訳の声が甲板に響く。武器が落ちる音が続いた。最後まで歯向かった者は船内へ引きずり込まれ、区画ごとに監禁された。錠前が閉まる音が乾いて響く。ここでも殺さない。後で金に変えるためである。
船倉に降りると、空気が重かった。湿った木、乾いた布、油の匂いがこもる。灯りをかざすと、皮袋と木箱がぎっしり積まれている。箱を開けると金粉、金塊、象牙、布地が出た。金粉は布で包み、さらに油紙で巻いてある。濡れれば価値が落ちる。ポルトガル商人の手つきが見えた。
ディエゴは記録係に言い、ここでも理由まで添えた。
「同じやり方で数を数えろ。印を付けて、どの船から取ったかが後で分かるようにする。奪った分は兵の分け前になる。だからこそ、いま誤魔化しが出たら、後で必ず争いになる。争いが出た瞬間に船団は腐る。俺はそれを許さない」
兵は笑いながら働いた。袋を運ぶ肩は痛いが、顔は明るい。手に入るものが分かっているからだ。
捕虜を甲板に並べ、ディエゴはさきほどと同じ条件を、さらに分かりやすく言い換えた。
「いま、ここで決めろ。こちらに仕えて働くか、それとも本国の金で帰るかだ。働くなら、飯と寝場所と役割を渡す。監禁を選ぶなら、暴れない限りは命を守る。身代金が届いたら返す。どちらでも、無駄に苦しめるつもりはない」
通訳が繰り返すと、捕虜の列から何人かが前へ出て、忠誠を誓った。
その中に腕の立つ船大工がいた。彼は船を見回し、壊れている箇所を指で示しながら、落ち着いて言った。
「直せます。ただし、釘と帆布と、少しの時間が必要です。道具があれば、岬を回る前に形にはできます」
ディエゴはうなずき、条件を言葉にした。
「道具は渡す。時間も少し作る。ただし、お前は働け。逃げようとしたら、次は身代金では済まさない」
船大工は首を縦に振り、その場で作業班へ回された。監視は付くが、扱いは雑にしない。働きが良ければ、船団にとって利益になるからだ。
女の捕虜もいた。怯える者、怒りで顔を強ばらせる者、無言で状況を読む者がいる。ディエゴは全員を同じ列に並べ、同じ基準で扱った。忠誠を誓うなら仕事を与える。誓わないなら監禁する。ここで特別扱いをすれば、船団の規律が崩れると分かっている。
ただ、ひときわ落ち着いた女が3人いた。身なりは荒れていたが、目が澄んでいて、言葉が揺れない。通訳を通して、彼女たちは自分から言った。
「私はここに残りたいです。あなたの側で仕えたいです。侍女として働くのではなく、側に置かれる役目を望みます」
周りの兵がざわめきかけたが、ディエゴが手で制した。彼は3人を甲板の端に移し、周囲を下げて、時間をかけて問い直した。
「それは、いま怖くて言っているのか。それとも、よく考えた上での望みなのか。ここで答えたことは、後で軽くは変えられない。無理をしても、誰も得をしない」
3人は首を振り、順に答えた。
「望みです。生き残るためでもありますが、私は自分で選びます」
「私は戻っても居場所がありません。働くなら、強いところで働きたいです」
「私は逃げ回るより、ここで役に立ちたいです」
ディエゴは、受け入れる条件をきちんと言葉にして渡した。
「受け入れるのは3人だけだ。嫌になったら侍女として働け。無理はさせない。その代わり、俺の側に立つなら、勝手な裏切りは許さない。俺の飯と水と寝床は、兵のものと同じ船の上にある。楽しむ日もあるが、荒れる日もある。そこは分かった上で来い」
3人はうなずいた。そこで受け入れが決まった。
残りの女たちは、希望と適性で侍女に回した。厨房、洗濯、看護の補助、帳簿の手伝い。忠誠を誓った者には、同じように飯と寝場所を与えた。見張り役は付けるが、乱暴はさせない。船団の規律を守るためである。
2隻目の商船も、必要な帆と舵を最低限直し、最低人数の水と乾パンを与えて放した。沈めない。身代金の話を本国へ届けさせる。商船が遠ざかるのを見ながら、兵の1人が笑って言った。
「向こうが港へ着くまで、身代金の話が膨らみますね。俺たちの分け前も、きっと膨らみます」
別の兵が鍋をかき回しながら返した。
「膨らむのは話だけにしろ。豆も膨らませろ。腹が減ると眠くなる」
笑い声が続いた。甲板には硝煙の匂いが残り、潮の匂いがそれを薄めていく。捕虜の区画からは小さな声が漏れるが、見張りは淡々としている。勝ち戦の明るさは、気の緩みではなく、仕事が回っていることから生まれていた。
その夜、ディエゴの船の船尾楼に小さな食卓が用意された。大げさな宴ではないが、勝ちを祝うだけの量はある。豆の煮込みは濃く、塩気のある肉が入っている。乾パンは少し炙って硬さを和らげ、果実を薄く切って皿に載せた。酒は強く、口に含むと喉が熱くなった。
側に置くことになった3人の女も、呼ばれて席に座った。彼女たちはまだ緊張を捨て切れていないが、皿を前にすると人は少しだけ人間に戻る。ディエゴは、いきなり馴れ馴れしくはしなかった。その代わり、逃げ道がある言い方を選んだ。
「今日は腹を満たせ。ここで生きるなら、まず食え。味が合わないなら言え。豆の煮方は変えられる。海は変えられないが、鍋は変えられる」
3人のうち1人が、思わず小さく笑った。
「鍋が変えられるなら、助かります。さっきの酒は強すぎます」
ディエゴは肩をすくめ、穏やかに返した。
「強い酒は、海が荒れた日に役に立つ。だが今日は荒れていない。水も用意しろ」
侍女が水差しを置くと、テーブルの空気が少し柔らかくなった。
もう1人が、果実を指して言った。
「セントヘレナの果実ですか」
「そうだ。酸っぱくて、兵が顔をしかめた。だから俺は気に入った」
その言い方に、3人目も笑った。笑うと、緊張の筋がほどける。ディエゴはそれを見て、話を続けた。
「この船では、働きがある者は守る。働きがない者は、居場所が狭くなる。だから、何ができるかを明日から少しずつ教えろ。歌が歌えるなら、それも役に立つ。帳簿が付けられるなら、なおいい。俺は嘘が嫌いだが、黙っていることまで責めない。必要なときに必要なことだけ言えばいい」
女たちはうなずき、豆の皿に匙を入れた。煮汁は温かく、香草の匂いが立つ。舌に塩が残り、酒の熱と混じって、身体の芯がほどけていく。甲板の向こうでは兵たちの笑い声が続き、鍋を叩く音が時々混じった。勝ち戦の夜は、派手さではなく、温い飯と確かな分け前で形になる。
食事が終わる頃、ディエゴは椀を置いて言った。
「明日から北へ向かう。モザンビーク島は到着点ではない。次の戦のための足場だ。俺たちはそこで止まるのではなく、そこで強くなる」
女の1人が、少しだけ顔を上げて言った。
「私は、海が怖いです。でも、戻る場所もありません。だから、怖いままでも働きます」
ディエゴはうなずき、分かりやすく返した。
「怖いのは悪いことではない。怖い者は、勝手なことをしない。勝手なことをしない者は、生き残る。だから、怖いなら怖いと言え。隠して転ぶより、言って足場を作れ」
夜風が船尾楼へ入り、塩の匂いが食事の匂いを薄めた。灯りの油がぱちりと鳴り、遠くで波が砕ける音がした。
デラゴア湾での水と補修はすでに終えている。これで補給と給水と補修は3回で打ち切った。船団は北へ針路を取り、モザンビーク島を目指した。風は安定し、帆はよく張る。夕方、煮豆の匂いが甲板に広がり、兵たちは分け前の話をしながら笑った。ディエゴは船尾で海図を見て、指で次の海の道筋を確かめた。




