第9話(前編)――「蒸れる港、3度の水、岬の待ち伏せ」
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登場人物
ディエゴ〈29〉(新大陸皇帝アルバロ・デ・モリーナ〈28〉の仮名)
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(1522年12月上旬。サントメ島砦)
サントメ島の港は朝から蒸し暑かった。海は青黒く、岸の石積みは夜露をまだ吸っていて、近づくと指先が冷たくなる。船底のタールの匂い、濡れた麻縄の匂い、炊事場の豆の匂いが、風の向きに合わせて入れ替わり、鼻の奥に残った。砦の上では見張りが交代し、鐘の音が短く鳴って、港の空気を引き締めた。
ディエゴ軍の船団は、沖へ出る前の最後の確認に入っていた。甲板では樽が転がらないよう楔が打ち込まれ、帆布が畳まれて縄で縛られ、予備の滑車と鉄具が木箱に収められている。作業の声は途切れず、船大工の槌の音が規則正しく響いた。勝ち続ける船団の朝は、祝宴ではなく準備で始まる。それを全員が分かっている。
真水の樽は甲板に並び、口に布を当てて縄で締め直した。乾パンは湿気を避けて木箱に詰め、塩漬け肉は梁から吊り下げ、火薬樽は水気の少ない区画へ寄せた。予備の帆布と針、太い索具、滑車、鉄のくさびも積み込む。長い航海で足りなくなるのは、水と帆と縄だ。ここで手を抜けば、海の上で泣くことになる。
ディエゴは船の中央に士官と分隊長を集め、わざと声を荒げずに話した。聞く側が耳を寄せる調子にしたほうが、言葉は刺さるからだ。
「これからモザンビーク島へ向かう。目的は、あの島を拠点にして東岸へ手を伸ばすことだ。途中の給水と補修は3回で打ち切る。余計な停泊はしない。停まれば停まるほど、病と油断が増えるからだ」
分隊長の1人が、念のために確かめるように言った。
「給水と補修は、どこで区切りますか。船が傷んだら、増やしたくなる者が出ます」
ディエゴはうなずき、言葉を足した。
「仮に荒天で傷が増えても、基本は変えない。セントヘレナ島で1回、喜望峰近くの湾で2回、東岸の大きな湾で3回だ。そこで直せない傷は、そもそも遠出に向かない。直せる範囲で走り切る」
兵たちは笑ってうなずいた。ディエゴの言い方が、威張りではなく算段だからだ。勝ち続ける集団は、怒鳴るより先に段取りが早い。
それでも、空気が軽すぎれば崩れる。ディエゴは続けて、もっと分かりやすく言った。
「海の上で一番危ないのは、食糧が尽きる瞬間でも、砲撃でもない。水を取るために岸へ近づき、目が甘くなる瞬間だ。だから笑っていいが、目だけは閉じるな。見張りだけは、眠ることを許さない」
この言葉には、冗談を挟む者もいなかった。皆が、そういう負け方を見てきたからだ。
出航の合図が鳴った。錨鎖が滑車を鳴らし、鉄が擦れて腹に響く。帆が上がると、湿った風が布を押し、船はゆっくり港を離れた。岸の家並みが小さくなるにつれて、陸の匂いは薄れ、塩と木の匂いが強くなる。砦の石壁は陽に白く光り、やがて霧の中へ沈んだ。
最初の補給と給水、補修はセントヘレナ島で行った。島影が見えたとき、見張りがはっきりした声で報告し、甲板の空気が少しだけほどけた。上陸班は小舟で入るが、先に武装した先発が浜の左右を押さえ、危険がないことを確かめた。浜の砂は粗く、靴の中にすぐ入り込む。草の匂いは乾いていて、風は思ったより冷たかった。
水場は浅い谷にあった。岩の間から細い水が流れ、樽に落ちる音が一定に続く。兵は汗を拭きながら樽を担いだ。水は冷たく、口に含むと土の味が少ししたが、塩気に慣れた舌には十分うまい。調理係は島の果実を見つけ、数を限って持ち帰った。肉の脂と乾パンだけの航海が続けば、舌も腹も鈍る。酸味は、兵の表情を少しだけ明るくする。
補修は、その場で終える分だけに絞った。帆の縁のほつれを縫い、風に擦れる縄を交換し、滑車の軸に油を差してきしみを消す。船大工は舷側の継ぎ目を見て、緩んだところに詰め物を押し込み、槌で締める。タールを温める鍋から黒い匂いが上がり、煙が目にしみた。
作業が一段落したところで、若い兵が水樽を拭きながら笑いかけた。
「隊長、今の果実は酸っぱすぎますよ。舌が縮みます」
調理係がすぐ返した。
「縮むのは舌だけにしろ。腹が縮んだら困る」
笑いが起きたが、見張りの目は沖を外さない。ディエゴはその様子を見て、言葉を補った。
「その調子でいい。笑いは残せ。ただし、見張りの首は回し続けろ」
島を離れて南へ進むと、海は荒くなった。風は横から叩き、波は盛り上がって船腹を殴る。甲板に飛沫が走り、唇に塩が貼り付く。兵たちは濡れた縄を握り、互いに声を掛け合って帆を絞った。恐怖の叫びではない。どこを押さえ、どこを緩めるかを確かめ合う、仕事の声だった。波が強いほど、人は黙ると思われがちだが、慣れた者ほどよく話す。口を動かして状況を揃えないと、手がばらつくからだ。
2回目の補給と給水、補修は、喜望峰の近く、テーブル湾の入り口に船団を入れて行った。湾内は外海より波が弱く、船を落ち着かせられる。上陸班は小川を探し、樽を満たした。水はやや温く、草の匂いが混じっていた。兵はその場で顔を洗い、手の塩を落とした。指のひび割れが少し楽になると、それだけで働きが変わる。
補修は荒天の後の手当てが中心だった。裂けた帆布は当て布をして縫い、帆柱の金具を締め直し、索具の擦れた箇所には革を巻いて保護する。作業の音が続くあいだも、見張りは沖を睨み続けた。ここでは船を休めるだけではない。待つのである。ソファラから金を積んで帰る商船は、ここを抜けるときに一番重く、動きが鈍い。
ディエゴは海図の上で指を滑らせ、士官たちに分かるように説明した。
「ソファラから金を積んだ船は、喜望峰を回って西へ出る。途中に守ってくれる拠点はないし、急いでいるほど見張りが甘くなる。荷が重いから速くは走れない。だから、ここを抜ける船をこちらが先に見つければ、相手は逃げ切れない」
士官がうなずくと、ディエゴはさらに言った。
「ただし沈めない。沈めたら金も人も海へ落ちる。止めて、奪って、人を取る。忠誠を誓う者には仕事と飯を与える。誓わない者は船内に監禁し、後日、身代金で本国へ返す」
兵の1人が笑って言った。
「重い船は速くありません。こちらは軽いですから、追いつけます」
別の兵が鍋を叩いて冗談を返した。
「追いついたら、まず飯を奪いましょう。腹が空くと働きが落ちますから」
周りが笑った。だが笑いの中にも、目の鋭さが残っていた。勝ち戦は、待ち時間すら無駄にしない。
その夕方、沖に帆が見えた。見張りが息を切らさずに、しかし明確に叫んだ。
「北西へ抜ける船影です。大きいです。船腹が沈んでいます」
ディエゴは双眼鏡を当て、帆の形と船体の厚みを見た。ナウである。荷が重い。帰路の商船だ。
ディエゴは甲板のあちこちへ視線を配り、落ち着いた調子で命令した。
「旗は出すな。風上を取る。砲は1発だけでいい。警告として海に落とす。相手が混乱したら、次で帆柱の付け根を折る。沈めるな。止めろ」
命令が飛ぶと、兵たちは走った。火縄が整えられ、砲口が向きを変え、舵手が風を読む。帆がふくらみ、船団は静かに距離を詰めた。
射程に入ったところで、警告の砲声が海を割った。硝煙が鼻を刺し、耳がじんとする。砲弾は商船の舷側の手前に落ち、水柱を上げた。商船の甲板に人影が走り、慌てて帆を動かすが、重い船は思うように向きを変えない。荷の重さが、逃げ足の遅さとなって表に出る。
ディエゴは声を落として、砲手に言い直した。
「狙いは帆柱の付け根だ。沈めたいわけではない。こちらが欲しいのは船倉だ。だから止めて、乗り移る」
2発目が響き、木が裂ける音が遅れて届いた。商船の帆柱が一部崩れ、帆が垂れ、速度が落ちた。逃げたいが逃げられない形になる。
鉤縄が飛んだ。鉄鉤が手すりに噛み、縄が張る。接舷の衝撃で両船の木がきしむ。ディエゴ軍の先頭が跳び移り、槍と短剣を構えた。商船側も抵抗したが、動きが遅い。甲板は狭く、荷が邪魔をして足が揃わない。ディエゴ軍はそこを見逃さず、前へ出すぎる者を抑え、左右から包んで押し倒し、縄を掛けた。混乱は短時間で終わった。
「武器を捨ててください。座ってください。両手を見せてください」
通訳が叫び、兵が縄を投げた。抵抗する者には槍の柄が入る。骨を折るほどではないが、立ち上がる気を失わせるには十分だった。血の匂いは薄く、汗と煙と濡れた木の匂いが強かった。波の音が近く、甲板がかすかに上下して、捕虜たちの呼吸を乱した。
船倉を開けると、湿った空気がむっと噴き出した。灯りを入れると、木箱が積まれ、その間に皮袋が詰め込まれている。箱の蓋をこじ開けると、金粉を布で包んだ束が出た。手に取ると粉がわずかに指に移り、光が細かく散った。別の箱には小さな金の塊、象牙の切り出し、銅の品、布地が入っていた。香木も少し混じっていて、甘い匂いが鼻の奥に残った。
ディエゴは記録係を呼び、ここでも丁寧に言い含めた。
「今から数を数える。袋には印を付ける。船ごとに分けて、どこから取ったものかが後で分かるようにする。勝手に懐へ入れた者がいたら、その場で腕を折って甲板から突き落とす。分け前は後で必ず渡す。だから、今は余計なことを考えるな」
兵たちは笑いながらも、手は止めない。皮袋の数を読み上げ、縄で束ね、印木で刻む。勝ち戦ほど、手順を崩すと後で揉める。彼らはそれを知っている。
捕虜は甲板に並べられた。男も女も混じっていた。震える者もいれば、歯を食いしばって睨む者もいる。ディエゴは大声を出さず、通訳が誤解しない速度で、言葉を選んで告げた。
「あなた方の命は取らない。だが、こちらに歯向かうなら自由にはしない。忠誠を誓う者には仕事と飯を与える。誓わない者は船内に監禁する。後日、ポルトガル本国から身代金が届いたら、その時点で解放する。これは脅しではなく取り決めだ。こちらは約束を守る」
通訳が同じ内容を繰り返すと、捕虜の列にざわめきが走った。
すぐに数人が手を挙げた。航海の経験がある水夫、帆布の修繕ができる者、計算ができる者がいた。ディエゴは、雑に割り振らず、何をさせるかを言葉にして伝えた。
「君は縄と帆の班に入れ。慣れた者の横で働け。君は水の管理を担当しろ。樽の場所と配り方を覚えろ。君は炊事場へ回す。量を誤ると船が止まるから、勝手なことはするな。君は帳簿係の横につけ。字が読めるなら、それが武器になる」
指名された者は緊張しながらも肩の力を抜いた。生き残る道が、目の前にできたからだ。
誓わない者は区画ごとに分けて船内へ入れた。手は縛るが、口は塞がない。水と乾パンは渡す。看守は2人ずつ交代で付ける。身代金の相手はポルトガルである。捕虜が病で死ねば、金が減る。そこは冷静だった。
鹵獲品の積み替えが終わると、商船は必要最低限の帆と舵を直され、最低人数の水と乾パンを与えられた。沈めない。帰って身代金の話を持ち帰らせるためである。商船が離れていくと、ディエゴ軍の甲板には笑いが戻った。鍋が出て、温い豆と肉の匂いが広がった。誰かが歌を口ずさみ、別の誰かが手拍子で合わせた。勝ち戦の夜は、酒が少し回っただけで、顔つきがやわらぐ。
テーブル湾を離れ、船団は東へ回った。海はまだ荒れたが、風は前より整い、帆が素直にふくらむ。数日後、東海岸の大きな湾が見えた。デラゴア湾である。ここが3回目の給水と補修になる。
湾の内側は潮の流れが複雑で、浅瀬もある。小舟を先に出し、深い道を確かめながら船を入れた。上陸班は川の口を見つけ、水を汲んだ。水は茶色く濁るが、布で濾して煮沸すれば使える。樽を満たす音が続き、汗と泥の匂いが混じった。兵たちはここで一息つき、塩まみれの服をすすぎ、足の傷を洗い、砲の手入れをした。火縄の湿りを乾かし、銃身の錆を落とすと、金属の匂いが指に残った。
補修は喜望峰越えで痛んだ部分の総点検だった。帆柱の根元の割れを確かめ、鉄具を締め直し、縄の摩耗箇所を交換する。船底の応急点検も行い、継ぎ目に詰め物を足して槌で締める。槌の乾いた音が浜へ響き、タールの匂いが風に乗った。これで補給と給水と補修は3回で打ち切りになる。ここから先は、海の上で走り切る。
その夜、見張りが沖を指さして報告した。
「南へ向かう帆です。東岸沿いに下っています。船腹が沈んでいます」
ディエゴはすぐに理解した。ソファラからポルトガルへ向かう船は、南へ下って喜望峰を目指す。今度は行きの船である。まだ金を積んだままの可能性が高い。
ディエゴは甲板に兵を集め、さきほどよりも丁寧に状況を言葉にして揃えた。
「2度目の襲撃になる。こちらは水も補修も済ませたが、向こうはこれから岬を越える。疲れている上に、荷が重い。だから、あちらの見張りは必ず甘くなる。沈めない。止めて奪う。人も取る。忠誠を誓う者は部下にして働かせる。歯向かう者は監禁し、身代金で返す。ここまでのやり方を、同じように繰り返す」
兵の1人が明るい声で返した。
「分かりました。こちらは休めていますから、手はよく動きます」
別の兵が笑って言った。
「今夜は肉を増やしましょう。勝った日の飯は、やっぱりうまいです」
笑いが起こった。勝ち戦の笑いである。




