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ほくそ笑む大悪党 アルバロ・デ・モリーナ  作者: ひまえび
第七章――「黄金海岸の砦、奪われるポルトガルの旗」

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第7話(前編)――「砦を軽くする朝、帆を裂く砲声」

――――――――――――――――――

登場人物

ディエゴ〈29〉(新大陸皇帝アルバロ・デ・モリーナ〈28〉の仮名)

ルイーザ・デ・カルヴァーリョ〈36〉

ディエゴの妻。ミナ砦の統治責任者。ポルトガル商船提督の元妻

エレナ・デ・ビラルバ〈32〉

ディエゴの妻。スペイン商船提督の元妻

――――――――――――――――――


(1522年10月下旬。ミナ砦)


 夜明け前、ミナ砦の石壁はまだ冷たかった。海から上がる湿った風が、砦の角をなめるように入り込み、火の消えかけた松脂の匂いと混ざった。遠くの波は低くうなり、帆柱に残った縄が、時おり軋んだ音を立てた。


 ディエゴは城壁の上に立ち、海の色が黒から藍へ変わっていくのを見ていた。水平線が白み、カモメの声が増えていく。砦の中は静かだが、静けさの底に人の気配が重なっている。寝所の隅で寝返りを打つ兵、倉庫の番の交代を待つ歩哨、そして囲いの中で身を寄せ合う者たち。人が増えれば増えるほど、水と食糧と病気が、ひとつの塊になって迫ってくる。ここに留め置けば、砦が膨れ、守りが削られる。それは戦いではなく、腐り方の問題だった。


 ディエゴは胸の中で決めていた方針を、口に出して形にした。砦の修理と警備を回すだけの労働力を残す。それ以外は、少しずつサントドミンゴへ移す。焦って一度に片づけない。船は天候で遅れるし、港では役人の都合で止まることもある。止まった瞬間に、砦の中の秩序は簡単に崩れる。ならば、崩れない量で動かすしかない。


 朝の点呼が終わるころ、日差しが石床を温め始めた。食堂では乾いたパンが割られ、塩気の強い干し魚が炭火であぶられていた。油が落ちて煙が上がり、魚の匂いが鼻に刺さる。大鍋では豆と香草を煮ていて、湯気の中に土っぽい匂いが混じった。兵たちは騒がず、順に器を受け取り、黙々と食べた。食事の音は、匙が木の椀を叩く軽い音と、喉を鳴らす音だけだ。よく眠り、よく食べる。これが続く限り、隊は折れない。失敗したことのない部隊の強さは、剣の切れ味より、こういう当たり前の積み重ねにあった。


 朝の仕事は修理から始まった。石壁の継ぎ目に詰めた石灰が剥がれ、雨で削られた場所がある。木製の足場に上がれば、足裏に湿り気が残り、手のひらには粉がつく。鎚で釘を打つ音、鋸で板を引く音、樽を転がす音が、砦の中に規則正しく広がった。水汲みは回数と順番を決めた。井戸の周りに人が集まりすぎないようにし、争いが起きないようにする。そういう小さな管理が、砦の空気を軽くする。


 昼前、ディエゴは倉庫の前にルイーザを呼んだ。倉の扉を開けると、樽の木の匂いと、乾いた布の匂いが流れ出た。塩、豆、小麦粉、酒、火薬、釘、油布。どれも欠ければ困るが、余りすぎても守りの邪魔になる。ディエゴは帳面を指で押さえ、顔を上げた。


 ディエゴは言った。「残す人数を先に決める。壁と井戸と倉を守れるだけでいい。余った分は、順に船に乗せてサントドミンゴへ回す」


 ルイーザは帳面をめくり、鉛筆の先で数を追った。彼女の指先は白い粉で少し荒れている。水仕事と帳簿仕事を同じ手でやっている証拠だった。


 ルイーザは言った。「砦の仕事を回すなら、最低でもこれだけは必要です。石壁の補修、井戸の番、倉の見張り、炊事の手伝い。ここを削ると、すぐに揉めます。逆に、ここさえ守れば、囲いの人数が減るほど落ち着きます」


 ディエゴは頷いた。口先の勢いではなく、現場の数字で決める。そう決めた瞬間から、砦は「抱えて耐える場所」ではなく、「動かして整える場所」になる。


 午後、船の準備に入った。浜では小舟が波に上下し、濡れた板が日差しで少しずつ乾いていく。水樽を運ぶ男の肩には赤い筋がつき、汗が塩になって白く固まった。縄を引けば、麻の繊維がきしみ、手のひらにざらつきが残る。樽の胴に刻んだ印を確かめ、荷の順番を決める。先に水、次に食糧、最後に火薬と武具。万が一の火花で全てが終わることを、全員が知っているから、誰もふざけない。


 囲いから出す者たちは、乱暴に引きずり出さなかった。ディエゴは「騒ぎを起こすな」というだけで済ませず、「水を飲ませてから」「歩けない者を無理に立たせるな」「子どもがいるなら離すな」と命じた。情けの話ではない。港までの移動で倒れれば、手が増え、混乱が増える。混乱は怪我と逃亡を呼ぶ。逃亡は銃と刃を呼ぶ。刃は恨みを残す。恨みは砦に戻ってくる。だから最初の一歩から、乱れないようにするしかない。


 出航は翌朝にした。日が落ちる前に船に詰め込み、夜の闇で動かすのは危険だ。暗闇は見張りの目を鈍らせ、足元を奪い、余計な声を生む。ディエゴは「明るい時間に運び、明るい時間に確認する」と決めた。失敗したことのない部隊は、運に頼らず、見える範囲で勝つ。


 夕方、仕事が終わると、砦の中に別の匂いが漂った。煮込みの香草、焼いた肉の脂、酒の甘い匂い。小さな広場に腰を下ろし、兵たちは骨を折って働いた日の疲れを、順に身体から抜いていった。誰かが小さな弦楽器を鳴らし、別の誰かが手拍子で拍を刻む。笑い声は大きくないが、乾いていない。食べて、飲んで、冗談を言って、眠りにつく。それが続く限り、隊は明るい。明るさは油断ではなく、余裕だ。


 夜、ディエゴは寝所に戻った。灯りは小さく、油皿の火が揺れた。外では潮風が壁を叩き、遠くの波が低い音を続けている。彼は服の砂を落とし、肩の凝りをゆっくりほどいた。誰かが寄り添い、疲れた身体を確かめるように手を置いた。言葉は多くなくても、ここには確かな温度があった。


 翌朝、浜は眩しかった。太陽が水面を砕き、白い光が目の奥に刺さる。船は樽の重みで少し沈み、板のきしみ方が変わっていた。見張りが合図を交わし、縄が解かれ、小舟が押し出される。波の冷たさが足首を濡らし、塩が肌に残る。ディエゴは最後に倉の鍵を確かめ、石壁を振り返った。残した労働力が修理と警備を回す。砦は痩せ、守りやすくなる。そこから毎回、少しずつ出す。サントドミンゴへ。確実に。砦の中に「余計な重さ」を溜めないために。


 船が沖へ出ると、砦の音が少し静かになった。囲いの中のざわめきも、昨日より薄い。水汲みの列は短くなり、井戸の周りの苛立ちも減る。ディエゴはその変化を、勝利のように受け取らなかった。ただ、正しく呼吸できるようになっただけだと思った。砦が息をする。兵が息をする。次の便を出すための、当たり前の空気が戻ってくる。


 ディエゴは次の手を急がない。余裕がもう少し積み上がったら、ハバナへも回す。サントドミンゴだけに頼らず、港を分ける。港が分かれれば、止まった時の痛みが減る。痛みが減れば、砦は乱れない。乱れなければ、今日の労働と食事と娯楽と睡眠が守られる。その循環を守ることが、結局は彼の部隊を無敗のまま歩かせる。


 昼の鐘が鳴り、砦の中にまた鍋の匂いが立った。ディエゴは顔を上げ、石壁の白い反射に目を細めた。海は青く、風は熱を運び、遠い水平線の上に、次の船影があるかもしれない。彼はその可能性を、焦りではなく、手応えとして受け止めていた。


 ◇ ◇ ◇


 翌日の昼過ぎ、見張り台の兵が声を張った。「帆だ。西から来る。2枚だ」


 黄金海岸の空は高く、陽は白く照りつけていた。潮風は熱を含み、砦の石壁の隙間に入り込み、湿った塩の匂いを残していく。海のかなたに帆影が出た。白い帆が2枚、風を受けてゆっくり近づいてくる。砦の上から見ると波の上を滑るように見えるが、距離が詰まるにつれて船腹の黒い帯がはっきりした。船腹に残る藻の色、帆布のくたびれ方、甲板の人影の慌ただしさまで目に入った。ポルトガルの船だと、誰の目にも分かった。


 ディエゴは中庭に立ち、目を細めて海を見た。慌てる理由がないのではない。慌てれば、相手に狙いが割れるからだ。敵がミナ砦を奪われたと知っているなら、わざわざ近づいて取引などしない。迂回するのが当然だ。つまり、いま見えている帆影は、迂回しそこねたか、事情があって岸に寄らざるを得ないか、そのどちらかだ。


 兵たちの顔は曇っていない。昨日までの過密が少し解け、井戸の列が短くなり、倉庫の番も落ち着いた。腹が満ちていて、眠れていて、今日の仕事の段取りが頭に入っている兵は、無駄な声を上げない。落ち着きは剣より役に立つ時がある。いまがその時だった。


 ディエゴは言った。「門は閉める。砲は見せるな。見せたら逃げる。あれは迂回して通り過ぎるつもりだ。通り過ぎるなら、通り過ぎる途中で止める」


 大砲は城壁の陰に伏せたまま、火縄銃の持ち場だけを静かに決め直した。矢倉の上の見張りは交代を止めず、いつもの手順で動いた。砦が騒ぐと、海の上の相手が身構える。ディエゴの部隊は、その当たり前を裏切らなかった。


 ルイーザは城壁の陰で帳面を抱え、井戸番と倉番に目を配った。紙の線は細いが、あれで砦の胃袋が決まる。水が何樽、干し魚が何束、豆が何袋。今日の戦いで何人が傷つくか、どれだけ手当てが要るか。彼女は先にそこへ目を向けている。手が速いだけではない。恐れ方が現実的だった。


 エレナは浜へ走った。通訳役の男を呼び寄せ、浜の小舟を確認し、櫂の滑りと縄の状態まで目で追った。浜の砂は熱を持ち、踏むたびに靴底に細かい粒がまとわりつく。海は明るいが、明るい時ほど血が目立つ。彼女の頬は少し強ばっていたが、声はぶれなかった。


 船は砦へ寄って来るのではなく、砦の沖を、岸に沿って横切る形で進んだ。つまり迂回だ。だが、船の動きに焦りがあった。帆が風を受けきれていない。舵が定まらず、船首がふらつく。甲板の上で水桶が慌ただしく運ばれているのが見えた。水が足りない。病人がいる。どちらでもいい。弱っているなら、止めれば取れる。


 ディエゴは城壁の陰に伏せていた大砲の担当に合図した。火縄が短く切り揃えられ、火薬の匂いが薄く漂う。砲身は陽を吸って熱い。手袋越しでもじりじりする。砦の中は静かだが、静けさの中で、金属と火薬の準備音だけが増えた。


 ディエゴは言った。「帆を切る。船体は沈めるな。止まればいい。止まったら浜の小舟で囲む」


 砦の砲は正面から船を壊すためではなく、逃げ足を奪うために使う。そう決めると、兵の動きがさらに揃った。小舟は2隻、浜の陰に回した。櫂の木に油を薄く塗り、きしみを減らす。縄は手に食い込むほど締め直す。鉤縄は、鉄の匂いが濃い。日差しで温まった鉄が、手のひらの汗を吸い、ぬるりとした感触を残す。


 船が砦の射界に入った瞬間、合図の旗は上がらなかった。合図はディエゴの手の動きだけだった。砲手がうなずき、火縄が動く。


 轟音が砦の石壁に跳ね返った。耳の奥が一瞬詰まり、続いて腹の底が揺れた。白い煙が広がり、硫黄と焦げた木の匂いが鼻を刺す。砲弾は水面を跳ね、狙いどおり帆綱の辺りを裂いた。帆布が裂け、白い布が一気にしぼむ。風を失った船は、速度を落とし、波に押されて横揺れした。


 甲板の上で叫び声が上がった。ポルトガル語の罵声が風に混じる。次の砲撃は船体ではなく帆柱の根本を狙った。木が割れ、乾いた破裂音がした。木屑が飛び、甲板の上に雨のように落ちた。悲鳴が増えた。


 ディエゴは浜へ目を向けた。エレナが小舟の縄を解いている。兵が櫂を入れ、船が砂を離れた。水の冷たさが足首を濡らし、塩が皮膚に残る。小舟が波を越えるたび、櫂が水を切る音が乾いて響いた。2隻が左右に分かれ、止まった船へ一気に詰める。


 相手も黙ってはいない。甲板から火縄銃の火花が散り、乾いた銃声が2発、3発と続いた。鉛弾が海面を叩き、水柱が小さく上がる。小舟のへりをかすめ、木片が飛んだ。血の匂いが、すぐに風に乗る。だが、小舟の兵は顔を上げなかった。櫂を止めない。止めたら撃たれる。進めば、相手の銃は撃ちにくくなる。


 ディエゴは城壁の上から声を張った。「近づいたら、頭を下げろ。鉤縄を投げろ。乗り移ったら、舵を押さえろ。荷室へ走るな。まず船を殺せ」


 小舟が船腹に並ぶ。鉤縄が投げられ、鉄の鉤が船縁に噛んだ。縄が張り、腕の筋が浮く。兵が一斉に引き、体を寄せ、木を軋ませながら登る。甲板の上は、汗と海水と焦げの匂いが混じり、息が熱い。足元は滑り、血が混ざればさらに滑る。誰も転ばないように、膝を落として動く。


 最初の刃がぶつかった。剣と剣が鳴る音は硬い。骨に響く。叫び声が近い。目の前の相手は恐怖で目が見開かれ、唇が震えている。ディエゴの兵は怒りではなく作業の顔で進んだ。勝つ形にしてから勝つ。その手順を崩さないから無敗だ。


 ディエゴ自身も甲板へ移った。踏み込むと板が軋み、足裏に振動が伝わる。潮風が汗を冷やし、火薬の煙が喉に貼りつく。彼は舵の方へ回り、舵輪の周りを押さえた。相手が舵を取り返そうとすれば、船は動き出し、追いかける手間が増える。だから、まず舵だ。


 短い押し合いの末、相手の指が舵輪から離れた。誰かが膝を折り、誰かが甲板に伏した。血が板の溝に吸い込まれ、赤が黒く変わっていく。海鳥の声が遠くで響く。風は変わらない。だが、船の上の空気だけが一気に重くなった。


 ディエゴは言った。「武器を捨てろ。生きたいなら、いま捨てろ」

 通訳が怒鳴り、相手の顔が揺れた。抵抗すれば死ぬ。抵抗をやめれば生き残る。その判断が、数息の間に終わった。火縄銃が甲板に落ち、刃物が手から離れた。金属が板に当たる音が、妙に大きく聞こえた。


挿絵(By みてみん)

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