第4話――「井戸の石、2つの鍵束」
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登場人物
ディエゴ〈29〉(新大陸皇帝アルバロ・デ・モリーナ〈28〉の仮名)
ルイーザ・デ・カルヴァーリョ〈36〉
ディエゴの妻。ポルトガル商船提督の元妻
エレナ・デ・ビラルバ〈32〉
ディエゴの妻。スペイン商船提督の元妻
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(1522年9月上旬。サンチャゴ島)
サンチャゴ島の夜は、海鳴りより虫の音がよく通った。砦の石壁は昼の熱をまだ抱えていて、手を当てるとぬるさが指に残った。港の倉の方からは胡椒と油の匂いが漂い、炊事場は火を落としているのに、豆の煮汁の匂いだけが薄く残っていた。
ディエゴは、砦の内側を一巡した。灯が足りているか、見張りが眠そうな目をしていないか、井戸の周りに変な足跡がないかを確かめる。ここは奪って終わりの場所ではない。補給を集め、船を直し、兵と水夫の体を休ませ、次の海へ出るための足場にする場所だ。だからこそ、小さなほころびを放っておけなかった。
司令室へ戻ると、長机に地図と帳面を並べた。帳面には港へ入る小舟の数、井戸の位置、倉の鍵の本数、火薬庫の扉の癖まで書き足していく。剣で取ったものを、紙で固めて手元に残すのが、彼のやり方だった。
そのとき、扉の外で見張りが声をかけた。
「将軍、例の2人が来ました。今なら人目が少ないです」
ディエゴは顔を上げた。
「よし。通してくれ。だが、廊下に無駄な目を集めるな。灯も増やすな。余計な騒ぎは、酒より先に人を酔わせる」
見張りは、思わず笑いそうになって喉を鳴らした。
「はい。酔っ払いは港だけで十分です」
扉が開き、ルイーザとエレナが入ってきた。2人とも疲れは隠せない。それでも姿勢だけは崩していない。恐怖の中でも背筋を伸ばして立つのは、簡単なことではない。ディエゴはそれを見て、まず言葉を柔らかくした。
「座ってくれ。歩き通しで疲れただろう。まず水を飲んでから話そう」
椅子を引き、水を出す。2人が杯に手を伸ばすのを待ってから、ディエゴは本題に入った。
「先に言っておく。俺はこの島で女を増やすつもりはない。女は2人だけにする。これから先も、それは変えない」
ルイーザが眉を上げた。
「言葉だけなら、何とでも言えるわ。私たちに信じろと言うのね」
ディエゴは頷いたが、声は荒くしなかった。
「信じろと言う。だが、言葉だけで終わらせない。今夜、兵と水夫を集めて通達する。お前たちに勝手に近づくな。廊下で声をかけるな。用があるときは、俺か俺が指名した者を通せ。ふざけた手が出たら、その場で縛って俺の前へ引きずって来い。そう言う」
エレナが、杯を置きながら言った。
「あなたが言っても、全員が従うとは限らないでしょう。あなたの目が届かないところで、勝手なことをする者もいるはずよ」
ディエゴは椅子にもたれず、真っ直ぐに答えた。
「その心配はもっともだ。だから俺は、毎朝、点呼の場に顔を出す。船の修理場にも、井戸にも顔を出す。誰が目を泳がせるか、誰が余計な冗談を言うかは、案外すぐに分かる。それに、この島は根拠地だ。根拠地で揉め事を起こす奴は、次の海で真っ先に足を引っ張る。俺は、敵より先に仲間に足を取られるのが一番嫌いだ。だから、揉め事は起きる前に叩く」
ルイーザは、杯を持ったまま視線だけを上げた。
「私たちは、結局、何をさせられるの。倉の掃除? 兵の洗濯? 港の女たちの中に放り込まれるの?」
ディエゴは首を振った。
「どれもさせない。お前たちに頼むのは、俺の食事と身の回りだけだ。倉へ行かせない。荷運びもさせない。兵の洗濯もさせない。港の連中の目の届く場所へ放り出す気もない。居場所は砦の中で決める。部屋も決める。鍵も渡す」
机の端に置いてあった小さな鍵束を2つ、指で寄せた。金属が触れ合って、硬い音がした。
「これが部屋の鍵だ。内側からも掛かる。扉の外には見張りを1人だけ置くが、交代は俺が決める。もし嫌な目を感じたら、遠慮せずに言え。言った瞬間に、その男は俺の目の届く場所へ置く。前線へ回すか、船底の仕事に回すかは、その場で決める」
エレナが息を吐いた。怯えが消えたわけではないが、喉の奥の詰まりが少しほどけたのが分かった。
「……どうして、女を増やさないの。あなたの立場なら、もっと集めた方が楽だと言う男もいるでしょう」
ディエゴは少しだけ笑い、2人を見比べて言った。
「女は2人だけだ。怖くても背筋を折らないお前たちを、俺は気に入った。だから、ここではもう増やさない」
ルイーザは鼻で小さく笑った。
「気に入ったと言うなら、なおさら怖いわ。飽きたら、明日には増やすんじゃないの」
ディエゴは肩をすくめ、しかし目は笑っていた。
「飽きない。女は2人だけだ。もし俺が増やすと言い出したら、そのときは先に俺を殴れ。痛いと目が覚めるし、余計なことも言わなくなる」
エレナが思わず口元を押さえた。笑い声は小さいが、確かに笑った。ディエゴは、その笑いを逃さずに続けた。
「それから、もう1つだけ言っておく。お前たち2人が『それでいい』と言うなら、妾として迎える。嫌なら今のままでいい。返事は急がせない。明日でもいいし、1か月後でもいい。だが、女を増やさない方針は変えない。迎えるなら2人だけだ。中途半端に増やして、誰も安心できない形にしたくない」
エレナが目を伏せ、指先を握った。
「妾になったら、私たちは戻れないわ。港へ逃げても、どこへ行っても追われる」
ディエゴは頷き、声を落として言った。
「戻れない。だからこそ、俺が戻れない場所を作らない。妾と言うが、結局は家の女だ。俺の側に置く以上、投げ出さない。嫌なら今ここで断っていいが、受けるなら俺は2人を守る」
ルイーザは目を細めた。
「きれいごとね。私たちを物みたいに扱う男も多い」
ディエゴは首を振り、言い切った。
「物なら壊れたら捨てればいい。だが人はそうはいかない。俺は面倒を増やしたくないし、お前たちに泣いてほしくもない。だから、約束は簡単にする。女は2人だけだ。ここではもう増やさない」
エレナは顔を上げ、ルイーザを見た。ルイーザも一度だけ頷いた。
エレナが言った。
「分かった。私たちは妾として受ける。逃げ道がないのなら、せめて正面から決めたい」
ルイーザは口を尖らせたまま、しかし目は逸らさなかった。
「私も受ける。だけど、あなたが約束を破ったら、そのときは遠慮なく殴るわ。さっき自分で言ったでしょう」
ディエゴは笑い、両手を軽く上げた。
「分かった。殴られないように守る。いや、殴られても守る。どっちにしても守る。だから今夜は、まず水を飲んで休め。明日から忙しくなる」
エレナが小さく息を吐き、肩の力が抜けた。ルイーザも鼻で笑い、悔しそうに口元を押さえた。
部屋の空気はそこで決まった。話は長引かず、代わりに約束だけが残った。
◇ ◇ ◇
その夜、ディエゴは砦の中庭に兵と水夫を集めた。灯は必要最低限にし、誰の顔も見える距離で並ばせた。影が濃すぎると、余計な気分が育つ。ここは根拠地だ。根拠地の空気は、なるべく乾かしておきたかった。
ディエゴは壇の代わりに樽の上へ片足を乗せ、集まった面々を見回した。声は張らないが、言葉ははっきり届く調子で話し始めた。
「先に知らせる。今夜から、ルイーザとエレナは俺の妻だ。砦の中でも港でも、2人に勝手に近づくな。廊下で声をかけるな。用があるなら、俺を通せ。相談も苦情も、俺の耳に入れろ」
兵の列が、わずかにざわついた。水夫の何人かは目を丸くし、別の何人かは口元を押さえた。ディエゴは、それを見て小さく笑った。
「驚くのは分かる。だが、これは気まぐれじゃない。女は2人だけだ。増やさない。だから妻として扱う。ここで余計な揉め事を作らないためでもあるし、俺が決めたことでもある」
兵の中に、にやけそうな顔があったので、ディエゴは目を細めた。
ディエゴは目を細め、笑いかけた顔を一人ずつ見た。
「笑うな。手が早いのは帆と索具だけで十分だ。提督の妻に手を出したら、その場で縛る。言い訳は聞かない。翌朝、全員の前で吊るす。俺の船団に、そういう手癖の悪い男は要らない」
水夫の列から、乾いた息が漏れた。冗談が消え、空気が締まった。
ディエゴは続けた。
「妻に勝手に声をかけるな。用があるなら俺を通せ。根拠地を荒らす奴は、敵より先に俺が片づける」
「分かったな。吊られたくなければ、働け。働けば腹が減る。腹が減れば飯がうまい。俺は飯がうまい船が好きだ」
水夫の列から、乾いた息が漏れた。さっきまでの軽口は引っ込み、代わりに帽子のつばを押さえる手が増えた。誰もふざけていい話ではないと理解したのだ。
年かさの水夫が1歩前に出て、帽子を胸に当てた。
「提督、承知しました。手も口も出しません。近づく奴がいたら、その場で縛って連れて来ます。こちらで隠し立てもしません」
別の兵が、慎重に声を出した。
「提督、挨拶はどうすればいいですか。港で顔を合わせたとき、黙って通り過ぎるのも失礼かと思いまして」
ディエゴは頷いた。
「挨拶は遠くからでいい。帽子を取って、頭を下げろ。それで十分だ。声はかけるな。道を塞ぐな。見世物みたいに囲むな。用があるなら、俺か、俺が指名した者を通せ」
さっきの兵が、口の端を上げた。
「分かりました。俺らは帆と樽だけ見て働きます」
小さな笑いが、列のあちこちでこぼれた。けれど、誰も羽目を外さない。笑いが戻っても、境界は越えない。そこが肝心だった。
ディエゴは手を軽く振った。
「そうだ。帆に恋して、樽に尽くせ。だが樽は転がすな。中身が怒る。中身が怒ると、今度は俺が怒る」
笑いがもう一段だけ広がり、すぐに収まった。
ディエゴは、最後を言い切った。
「冗談はここまでだ。守れ。守れないなら、俺の船から降りろ。ここは海より狭い。狭い場所で揉める奴は、海でも揉める。俺は揉め事より、帆が張る音の方が好きだ」
集会が終わると、兵と水夫は明るい顔で散っていった。規律が通るのは、怒鳴るからではない。筋が見えて、約束が一つに固まっているからだ。
◇ ◇ ◇
翌朝、港の空気は少し軽くなった。戦い直後のざらつきが、仕事の匂いに変わり始める。倉の前では樽が動き、帆布が広げられ、松脂の匂いが風に乗った。鍋の縁が杓子に当たり、乾いた音が続く。海の上で弱っていた手が、陸の作業で戻っていく。
砦の通路を、ルイーザとエレナが並んで歩いた。昨日までの視線とは違う。兵たちは道の端に寄り、帽子を取る者もいれば、腰を折って頭を下げる者もいた。誰も近づきすぎない。誰も声をかけすぎない。昨夜の通達が、もう形になっていた。
エレナは、戸口の陰で小さく息を吐いた。
「……本当に、空気が変わったわね」
ルイーザは肩をすくめたが、声は柔らかかった。
「変えたのは彼よ。言ったことを、すぐやる男みたいだわ」
2人は司令室の隣の部屋へ入り、ディエゴの上着と帯剣を整え、朝の水と薄い粥を用意した。派手なことはしない。ただ、決まった手順で静かに動く。それだけで、砦の中の無駄な摩擦は減る。
ディエゴが入ってくると、ルイーザは帯の結び目を確かめ、エレナは水差しを手に取った。2人の動きは落ち着いていた。昨日までの怯えが消えたわけではないが、居場所が決まったことで、手先の震えが止まっていた。
ディエゴは椅子に腰を下ろし、2人を見上げた。
「昨夜は眠れたか」
エレナが頷いた。
「少しだけ。でも、少し眠れただけで、体はだいぶ楽になるわ」
ルイーザは口を尖らせたまま言った。
「眠れたのは、あなたが言ったからじゃない。兵が、ちゃんと距離を取ったからよ」
ディエゴは笑って、杯を受け取った。
「それでいい。俺の言葉より、俺の船団の手足が信用できる方が、よほど強い」
◇ ◇ ◇
サンチャゴ島の司令室で、ディエゴは次の標的を決めた。
ディエゴは地図の西アフリカ沿岸に指を置いた。黄金海岸の中央、海に突き出した岬の印である。
ディエゴはこう言った。「ミナ〈黄金海岸の大きい砦〉の大きい砦を狙う。そこにしばらく陣取る」
参謀役の男は頷き、言った。「最大の砦を取れば、後がやりやすいです」
ディエゴは頷いた。「ここを取れば、海の口が開く。港の鎖も、倉の鍵も、砲座も、帳面も、全部こちらの手に落ちる。逃げ場のない砦ほど、落とせば縛れる。縛れば、回せる」
男は一度息を吐き、声を立てて笑った。「分かりました。腹をくくるなら、ここですね」
ディエゴは机の上の帳面を開き、買い付けの品を書き足した。布、棒鉄、銅板、真鍮線、鏡、鈴、針、刃物、鍋、ガラス玉。同じものを同じ量で出せる品は、交易を続ける力になる。砦を取った後も、港に来る者の目は値踏みをやめない。
最後に、ディエゴは兵に命じた。
ディエゴはこう言った。「上陸隊は2つに分ける。正面は砲座を黙らせ、門前の動きを止める。回り込みは鍵束と帳面を取る。倉を燃やすな。井戸を壊すな。砦の中を焦がしたら、こちらの寝床がなくなる。逃がして面倒が増えるなら、その場で終わらせろ」
兵たちは頷き、散っていった。
◇ ◇ ◇
出帆の前、ディエゴは妻たちの部屋へ寄った。扉は叩いてから開けた。昨夜の宣言が本気なら、作法もすぐに形にしなければならない。
ルイーザは帆布の端を整えていた。エレナは水差しを拭き、器を並べていた。2人の手際は早い。砦の中の空気が乱れないように、必要なものを必要な場所に置いていく。その整え方には落ち着きがあった。
ディエゴは、軽い調子で言った。
「2人とも、手際がいい。砦の空気まで整う」
ルイーザは布の端を押さえたまま、視線だけを上げた。
「ずいぶん素直な褒め言葉ね」
ディエゴは笑って頷いた。
「素直に言った。お前たちは俺の妻だ。ここでは安心して動け」
エレナが、少しだけ笑った。
「昨夜、兵たちが私たちに道を譲ったわ。怖い目は、ひとつもなかった」
ディエゴは一度だけ頷いた。
「なら良かった。俺は海へ出る。だが、ここを荒らさせない。誰かが約束を破ったら、名前を言え。俺が聞く」
ルイーザは、真っ直ぐにディエゴを見た。
「分かった。私たちも、妻としてあなたの顔を潰さない。だからあなたも、妻たちとの約束を破らないで」
ディエゴは笑い、帯剣を整えた。
「破らない。俺は砦も船も守るが、約束も守る。お前たちの立場は崩さない」
2人は頷いた。部屋の中に、変な緊張は残らなかった。居場所が決まり、呼び名が決まった。それだけで、不安は薄くなる。
ディエゴは港へ出た。帆が張られ、索具が鳴り、船が生き物のように動き始める。次はアフリカだ。狙うのは黄金海岸のミナの大きい砦である。港と倉と砲座と帳面をまとめて押さえ、そこにしばらく陣取って、船団の出入りを自分の手で整える。
そして背中には、2人の妻がいる。数を増やさないと決めた以上、守る相手ははっきりしている。船団の男たちも、それを理解して動き始めていた。




