第3話――「火縄の煙、サンティアゴ島の夜明け」
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登場人物
ディエゴ〈29〉(新大陸皇帝アルバロ・デ・モリーナ〈28〉の仮名)
ルイーザ・デ・カルヴァーリョ〈36〉
ポルトガル商船提督の妻
エレナ・デ・ビラルバ〈32〉
スペイン商船提督の妻
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テスラ島を出てから、船の上ではすでに何度も夜が明け、何度も日が沈んだ。帆布は塩を吸って重くなり、索具の縄は手の脂と松脂で黒ずみ、甲板の板目には乾いた血の筋が薄く残っていた。7月中旬に出た船団は、湿った熱を連れてくる海域へ入っていき、風の匂いまで変わっていた。
日中は太陽が容赦なく照りつけ、木の甲板がじりじりと焼けた。裸足で歩けば足裏が熱を覚え、革靴でも蒸れて皮膚がふやける。夜になると今度は湿気が戻り、寝具が乾かず、汗の匂いが布に染みた。水桶の水はぬるく、樽の口を開ければ木の匂いの奥に、腐りかけた水の匂いが混じった。
こういう時ほど、士気は目に見えない形で落ちる。鍋の音が弱くなり、歌が減り、誰も余計な口をきかなくなる。腹が減っているわけでもないのに、顔が曇る。ディエゴはそれを放っておかなかった。だから朝も昼も甲板へ出て、働く手が止まりそうな時間に、わざと声をかけた。
「暑いのは分かる。ただ、暑さに負けた顔をしていると、隣の奴も同じ顔になる。そうなる前に俺が声を出す。水と塩の配り方も、今のうちに決めておくからな。不満があるなら、喧嘩に変わる前に言っておけ」
若い水夫が汗を拭きながら、苦笑いで返した。
「将軍、喧嘩に変わる前に、蚊に食われて死にそうです」
ディエゴは笑い、肩をすくめた。
「蚊に負けるな。蚊は小さいが、数だけは誇り高いからな。だから今夜は火を絶やすな。煙を残して寝ろ。それでも眠りが浅いなら、交代の手を増やして見張りの順番を軽くする」
それを聞いた別の水夫が、わざとらしくため息をついた。
「将軍は話が長いです」
ディエゴは指を立てて、笑いながら言い返した。
「長いのは俺も嫌いだが、黙って腐るよりはましだ。俺は生きて港に着きたいし、お前らも生きて酒を飲みたいだろう。だったら今は、口も手も止めるな」
笑い声が戻ると、鍋の周りの空気がほどけ、誰かが短い歌を始めた。歌が出れば、手が止まりにくい。ディエゴは、その小さな変化を確かめるように、甲板の端まで歩いていった。
◇ ◇ ◇
人質の女は2人だけだ。ルイーザ・デ・カルヴァーリョ〈36〉はポルトガル商船提督の妻で、エレナ・デ・ビラルバ〈32〉はスペイン商船提督の妻だった。2人は旗艦の船室の奥に置かれ、護衛はつくが距離を詰めさせない。見張りの目も必要以上に向けさせない。彼女たちにさせるのは、ディエゴの食事の世話と身の回りの世話だけで、甲板掃除も洗濯も樽運びもさせない。ディエゴはそれを船団全体に通達し、破れば容赦しないと決めていた。
夕方、嵐が近づく気配が出た日、ディエゴは船室の扉を軽く叩き、中へ声をかけた。外は生ぬるい風が回り、帆柱が低く唸っている。
「今夜は揺れが強くなる。吐き気が出るなら遠慮せず言ってくれ。水と布は先に回す。それに、怖いなら灯りを消さなくていい。眠れない夜は誰にでもある」
ルイーザが落ち着いた声で答えた。
「敵なのに、ずいぶん丁寧なのね」
ディエゴは笑って返した。
「乱暴に言ったら、誰だって意地になるだろう。意地になったら手が動かないし、手が動かなかったら船が遅れる。結局、困るのは俺たちだ。だから俺は、まず言い方で損をしないようにしているんだ」
エレナは黙って聞いていたが、視線だけは逃げずに上げた。
「この先、私たちはどうなるの」
ディエゴは扉の外の通路に腰を下ろし、声の調子を少し落として答えた。
「サンティアゴ島へ行く。そこで根拠地を取る。島では人手が増えるし、女の手伝いも増えるだろう。だが、君たちに雑用を押しつけるつもりはない。君たちは、俺の食事と身の回りだけだ。そこは変えない」
ルイーザは小さく頷き、エレナは息を吐いた。安心したとは言わないが、言葉が筋を通していることは感じ取ったようだった。船が大きく揺れ始めると、甲板の上で縄が鳴り、男たちの声が忙しく重なった。その音が、これから先の危険を静かに知らせていた。
◇ ◇ ◇
35日目の朝、見張りが海鳥の群れを見つけた。黒い点が水平線の上を横切り、風には潮の匂い以外のものが混じった。乾いた土と草の匂いだ。さらに、焚き火の煙の匂いが微かに届いた。
ディエゴは舷側に手を置き、潮風をひと息吸ってから、周囲に聞こえる声で言った。
「陸が近い。つまり、ここから先は気を抜くな。見える島はご褒美じゃない。次の危険の看板だ」
兵も水夫も目を上げた。疲れた目の奥に、久しぶりの強い光が戻った。ただし、その光は油断にもなる。ディエゴはそこを締めるため、言葉を足しながら具体的に話した。
「上陸した瞬間が一番危ない。相手は数で勝てないなら、壁と砲と火で勝とうとする。だから俺たちは、門へ突っ込む前に砲座を黙らせる。それに、指揮官を残すと最後まで粘られて死人が増える。俺はそれが嫌だ。勝つなら、早く終わらせる」
年かさの兵が低い声で言った。
「向こうはポルトガルの拠点です。逃げ道もあるでしょう」
ディエゴは頷いた。
「ある。だから塞ぐ。湾の口を押さえる船を残す。小舟は2手に分ける。片方は正面で撃ち合って相手の頭を下げさせる。もう片方は岩陰から回り込んで、柵の中へ入る。俺は回り込みに乗る。指揮官のところへ最短で行くためだ」
誰かが笑い混じりに言った。
「将軍は危ない方が好きですね」
ディエゴは笑い返した。
「危ない方に行かないと、お前らが危ない。俺が前に出れば、みんなの目が揃う。目が揃えば、弾も刃も無駄にならない。余計な死人も出ない」
◇ ◇ ◇
カーボベルデ諸島〈サンティアゴ島〉の港は、黒い岩と赤茶の土の間に石造りの建物が寄り集まっていた。教会の塔が1本、空を切り、低い砲台が湾を向いている。柵と倉が並び、港の奥には小舟が数艘つながれていた。潮の匂いの下に、家畜と人の汗の匂いが薄く混じっていた。
ディエゴは日が落ちるまで沖合で様子を見た。風向き、潮の流れ、見張りの交代時刻、灯りの数、砲座の向き。相手が眠る時間と、相手が目を凝らす時間を切り分けたうえで、夜明け前の薄闇を選んだ。
小舟が海面を滑ると、櫂の音が水に吸われる。近づくほど陸の匂いが濃くなる。草の青い匂い、煙の匂い、それに人の気配の匂いだ。砂は湿って冷たく、踏むと靴底が沈んだ。
最初に気づいたのは犬だった。吠え声が走り、次に人の声が上がった。砲台の上で火が動き、火縄銃の火蓋が切られる音が乾いて響いた。
バン、と黒い煙が膨らみ、弾が砂を跳ねた。続けて2発、3発。石壁の上からも撃ってくる。守る側は慌てていない。砂浜で足を止めさせ、砲台へ近づかせないつもりだった。
ディエゴは腹の底から声を出した。
「いいか、伏せろ。顔を上げるな。まず煙を見ろ。煙が切れたら次が来る。だから、その前に動け。走るんじゃない。低く、短く、前へ出ろ」
正面の小舟隊が浜へ押し出し、火縄銃で撃ち返した。狙いは、当てて倒すことよりも、相手の頭を下げさせることだった。煙が石壁の上へ張りつき、敵の銃口が鈍る。敵も撃ち返してくるので、砂が跳ね、頬に細かな粒が当たる。口の中がじゃりっとし、火薬の苦さが舌の奥に残った。
その間に、ディエゴの隊は岩陰へ回った。波が岩を叩く音が大きく、足音を隠してくれる。潮が弾け、濡れた岩の匂いが鼻を刺す。彼は先頭に立ち、剣を抜いた。刃が塩気のある風を切り、金属の匂いが一瞬濃くなった。
柵の裏側に回り込むと、港の見張りが2人いた。片方が気づきかけたが、ディエゴが間合いに入る方が早かった。彼は迷いなく踏み込み、相手の腕を叩き落としてから、喉元へ刃を滑らせた。血が温かく飛び、鉄の匂いが鼻の奥へ刺さる。
もう1人が叫ぼうとしたので、ディエゴは声を殺して言った。
「叫ぶな。叫べば仲間が集まって、ここが地獄になる。黙っていれば、苦しませないで終わらせる」
見張りが躊躇した瞬間、後続の兵が口を塞ぎ、短刀で急所を取った。乱戦の前に音を潰す。それだけで守る側は何が起きているのか分からなくなる。
柵の中へ入ると、敵があちこちで動いていた。火縄銃を構える者、槍を持つ者、倉へ走る者。守備隊は訓練されている。だからこそ、指揮官が健在なら立て直される。ディエゴは立ち止まらず、動きの中心を探した。
教会の脇の広場で、ひときわ派手な上衣の男が叫んでいた。周囲がその声に合わせて動き、火縄の点火役が走り回っている。港の司令官だった。
ディエゴは兵に手で合図した。
「撃つな。俺が入る。お前らは壁の上と窓を押さえろ。それから、火縄銃で援護しろ。ただし、俺の背中へ撃つな。俺が倒れたら、ここは長引く」
兵が頷き、火縄銃を構えた。煙が薄いときに撃てば狙いが立つ。撃つ者は息を止め、引き金を絞る。
ディエゴは一気に広場へ出た。司令官が剣を抜き、周囲の兵が槍を向ける。槍は壁になる。正面から突っ込めば串刺しだ。ディエゴは半歩ずらし、槍の穂先を外して横へ滑った。槍の柄を手で叩き落とし、次の瞬間に司令官の剣と刃を合わせた。
金属が噛み合い、耳の奥が痛くなるような音がした。司令官は死にものぐるいだった。負ければ処刑されると分かっているから、引かない。剣を重ね、押し込み、体ごとぶつけてくる。ディエゴは足を崩さず、刃の角度を変えて受け流し、相手の力を空へ逃がした。汗が目に入り、塩が刺す。だが瞬きを増やせば、その瞬間に刃が入る。
「いい剣だ。だが、お前の部下は足元を見ていない」
ディエゴがそう言うと、司令官が一瞬だけ視線を散らした。その瞬間、援護の火縄銃が鳴った。弾は司令官そのものを狙わず、司令官の脇にいた槍兵の足元の石畳を叩いた。石片が跳ね、槍兵がよろめく。槍の壁が崩れる。
ディエゴはその隙を逃さなかった。司令官の剣の内側へ入って、手首を刃で打ち、剣を落とさせる。司令官が素手で掴みかかってきたので、ディエゴは肩で押し返し、間合いの中で短く刃を入れた。腹へ、確実に。司令官の息が詰まり、身体が崩れて膝が石畳を打った。
血が広がり、土と塩と鉄の匂いが混じった。ディエゴは司令官の襟を掴み、声を張った。
「指揮官はここだ。まだ撃ちたい奴は撃て。だが、その弾は自分の倉に穴を開けるだけだ。倉が燃えたら、明日から腹を空かせるのはお前らだぞ」
敵の動きが止まった。声が途切れると、人は急に自分の手の震えに気づく。火縄銃の煙が風で流れ、夜明けの白さが広場を薄く染めた。抵抗は散発したが、組織だった反撃はここで終わった。
◇ ◇ ◇
門を開けさせ、武器を集め、砲座を押さえた。倉の鍵束を机に並べると、金属が触れ合う音が硬く響いた。倉を開ければ乾いた木箱の匂いと麻袋の匂いが押し寄せ、胡椒や油の匂いが鼻を刺した。袋の銀貨は重く、持ち上げた腕がすぐに張る。戦利金は箱に分け、帳面と一緒に押さえた。帳面が残れば、次の取引先も季節も分かる。
夕方、旗艦へ戻ると、船室には湯気と香草の匂いが溜まっていた。ルイーザが湯を温め、エレナが布を用意している。外の港は静まり、遠くで犬が吠える声だけが残った。
ディエゴは鎧の紐をほどきながら言った。
「港は取った。危ない時間は越えた。だが、ここから先が長い。俺たちは根拠地を作る。つまり、戦うだけでは足りない」
エレナが不安げに聞いた。
「私たちは、ここで何をさせられるの」
ディエゴは椅子に腰を下ろし、目を見て答えた。
「君たちは変わらない。俺の食事と身の回りだけだ。甲板の雑用も、倉の整理も、港の仕事もさせない。もし誰かが余計なことを言ったら、すぐ俺に言え。俺が止める」
ルイーザが静かに言った。
「この島では、あなたの周りの女の手が増えるのでしょうね」
ディエゴは頷き、言葉を途切れさせずに続けた。
「増えるだろう。だが、君たちを急に混ぜて放り出したりはしない。役目と居場所を先に決めて、それから顔を合わせる時間を作る。急がせると揉めるし、揉めれば、怖い思いをするのは女たちだ」
エレナはまだ緊張していたが、言葉が具体的なので黙って頷いた。ディエゴは笑って付け足した。
「怖い顔をしていると、余計に怖いことが寄ってくる。だから今夜は湯を飲んで、少しでも寝ろ。明日からは、港の空気が一気に変わる」
こうしてサンティアゴ島は、ただ奪った場所ではなく、船団の次の出発点になっていく。ディエゴは剣で勝ち、そのうえで言葉を尽くして人を動かし、根拠地を形にしていった。




