第2話(後編)――「月の海、鎖の金属音」
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登場人物
ディエゴ〈29〉(新大陸皇帝アルバロ・デ・モリーナ〈28〉の仮名)
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航海に入って18日目の夜、空は晴れて月が薄く、海面が黒いガラスのように光った。遠くの帆は見えにくい。だが音は消えない。水を切る船首の微かな擦れ、帆布が風を舐める低い鳴り、そして鎖が触れる金属音だ。スペインの商船が近い。夜気は冷たく、潮の匂いが鼻の奥に刺さる。
敵は灯を隠し、舷側に火縄銃を並べている。火が見えた瞬間、弾が飛ぶ。暗い海の上で、音だけが先に来る。破裂音が遅れて腹に当たり、鉛が空気を裂く音が耳元で鳴る。弾は当たれば死ぬ。今まで当たらなかっただけだと、ディエゴはいつも思っている。
「灯は出すな。声も抑えろ。近づいたら一気に渡る。提督を探すまで上を押さえろ」
味方の火縄銃は撃ち始めの1列だけが短く鳴った。夜の湿気が煙を抱え、白い膜が視界にかかる。敵の甲板の影が伏せる。そこへ小艇が出た。波に揺れ、櫂が水を噛む音が近い。ディエゴは小艇の先に立ち、濡れた板の冷たさを足裏で感じたまま、敵船の舷側へ跳んだ。
着地した甲板は滑った。砂と塩が板の上に残っている。槍の先が月光を拾い、白い線になる。ディエゴは身を折り、剣の腹で槍をずらし、そのまま柄の手元へ踏み込んだ。相手の指が開き、槍が板に落ちた。落ちる音が夜に妙に響く。
火縄銃の赤が小さく揺れ、銃口がこちらへ寄る。ディエゴは前へ出た。撃たせる前に距離を潰す。銃は近いと邪魔になる。相手は慌てて銃を捨て、短剣に持ち替えた。短剣は速いが短い。ディエゴの剣は、手首と喉の間を支配する長さがある。剣先が胸元に触れた瞬間、相手の足が止まった。止まった男から順に倒れる。
船尾へ向かう通路には酒樽と箱が積まれ、狭くなっていた。割れた樽から甘いワインの匂いが漏れ、木と酒の匂いが混ざってむっとする。そこへ弾が飛んだ。耳のすぐ後ろを掠め、熱が一瞬だけ皮膚を撫でた。音が遅れて追いかけ、胸が一拍だけ強く打った。
ディエゴは息を吐き、背後に言った。
「今のは上手い。だが次は俺を外せ。撃つなら、提督の足元を止めろ」
援護が入った。弾が入口の板を叩き、木片が散る。敵が一瞬、身を縮めた。その瞬間にディエゴが入る。狭い室内は香草と革と汗の匂いが混じり、呼吸が重くなる。奥の男は胸当ての飾りが派手で、声だけが強い。提督だ。
提督は剣を抜いた。手首の動きが速い。経験がある。剣と剣が当たり、金属音が耳を刺す。刃が擦れ、火花が散る。暗い室内で、その火花だけが瞬いた。提督が踏み込んだ。胸を狙う線だ。ディエゴは半歩引き、刃を外へ流し、そのまま提督の剣の根元を叩いた。柄が跳ね、剣が床へ落ちた。提督の目が、そこで初めて現実の色になった。
ディエゴは一度だけ言った。
「終わりだ」
剣が走った。深く語る必要がない。提督は崩れ、室内の空気が一段軽くなる。外ではまだ叫び声があるが、芯が折れた戦いは続かない。
甲板へ出ると、敵は武器を捨て始めていた。水夫は縛る。指揮をした者だけを選ぶ。幹部将校は並べられ、裁きは同じように下された。夜の潮風が血の匂いを遠くへ運び、海の匂いが戻ってくる。
船室の扉を開けると、紙とインクの匂いがした。提督の妻、エレナ・デ・ビラルバ〈32〉が椅子の背から身を起こし、目だけでディエゴを測った。若いが、怯えで壊れる目ではない。
ディエゴは水を置き、パンを置き、最後に言葉を置いた。
「人質として預かる。だが乱暴は許さない。手を出した者は俺が罰する」
エレナは杯に触れ、わずかに指を緩めた。
「あなたは私に何をさせるの」
「食事の支度と身の回りだ。それ以上は要らない。余計なことをさせれば、兵の心が荒れる」
エレナは目を逸らさずに言った。
「荒れた兵は、あなたの命も奪う?」
「奪う。だから荒れさせない」
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翌朝、書記が旗艦の長机に帳面を広げ、奪った2隻と積荷を列記した。沈めずに取ったのは、積荷と人を海に捨てないためだった。1隻目はポルトガル商船『サン・ヴィセンテ号』(積載約260トン)で、拿捕時の乗員は水夫74名、護衛兵28名だった。指揮に当たった幹部将校9名だけを処刑し、残り93名は縛って生かした。操帆に必要な水夫45名は船に残し、監視分隊16名と要所を押さえる熟練者26名を乗り込ませ、奪った船をそのまま走らせた。残り48名は捕虜として旗艦へ移し、区画を切って座らせ、日課で点呼した。船倉から回収したのは黒人奴隷146名(男94、女39、子13)、象牙14本、金粉52リブラ、胡椒70袋、獣皮260枚、乾燥肉80樽、酒樽60だった。戦利品は金貨3,200枚、銀貨41,000枚、宝石箱2、銀器一式で、袋と箱に分けて封をした。人質は提督の妻ルイーザ・デ・カルヴァーリョ〈36〉1名に限った。
2隻目はスペイン商船『サンタ・ルシア号』(積載約230トン)で、乗員は水夫69名、護衛兵22名だった。幹部将校8名を処刑し、残り83名は捕虜とした。操帆のため水夫39名を船に残し、監視分隊14名と交代要員の熟練者24名を乗せて運航させ、残り44名は旗艦で拘束した。船倉からは黒人奴隷98名〈男63、女25、子10〉、砂糖310樽、糖蜜120樽、カカオ豆24袋、銅板35枚、鋳物鍋40口、ガラス玉の箱18、短刀と小刀120を回収した。戦利品は金貨2,100枚、銀貨29,000枚、戦利金の袋6、銀十字架1だった。人質は提督の妻エレナ・デ・ビラルバ〈32〉1名に限った。
こうして拿捕船は2隻、黒人奴隷は計244名、人質は計2名、捕虜にした水夫と護衛兵は計176名となった。沈めて口を塞ぐより、縛って数を管理し、規律で押さえるほうが安全だと、ディエゴは分かっていた。
◇ ◇ ◇
2人の人質は旗艦の生活の中に置かれた。ただし、見世物にはしない。朝は炊事場で湯気が立ち、豆の匂いと塩の匂いが混じる。鍋の縁が木杓子に当たって乾いた音を立て、焼いた肉の脂が甘く香る。ルイーザは包丁を持つ手が慣れていて、切り口を揃える。エレナは布巾をきっちり畳み、皿を並べる間隔まで整える。どちらも顔には疲れがあるが、雑にはならない。
ディエゴは食卓で明るく振る舞った。兵の前で杯を上げ、軽い口調で言った。
「今日の煮込みは当たりだ。海の上で腹が温まるだけで勝ちが増える。料理人に礼を言え」
兵たちは笑って「はい」と返し、椀を空にする。人質の2人にも同じ皿が出る。水は同じ樽から注がれる。飢えさせて従わせるやり方は取らない。ディエゴの隊では、卑しさが一番早く隊を壊す。
夜、甲板で潮風が強まると、遠くで帆が鳴り、船体が軋む。ルイーザは灯の下で糸を通し、エレナは薬箱の布を畳む。ディエゴが通ると、2人は目を上げる。怯えだけではない。危険な男を、目の前で測ろうとする目だ。
「私たちは、どこへ連れて行かれるの」
エレナが問うと、ディエゴは立ち止まって答えた。
「カーボベルデ諸島〈サンティアゴ島〉だ。35日だ。そこまでは誰も触れない。私が決めた」
2人は言い返さなかった。返しても船は止まらないと分かっている。だが、黙って折れる女でもない。灯の揺れの中で、既婚の女が持つ強さだけが静かに残った。
船団は南へ進む。潮が温くなり、空気の匂いが変わり始める。タールの重さに、遠い陸の乾いた匂いが混じる。カーボベルデはまだ見えない。だが船の中では、次の補給と次の戦いの形が、すでに固まりつつあった。




